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アラン・ブースが歩いた奥美濃を歩く 4

第4日目  高鷲村 

 チャレンジ四日目。朝四時起床。洗面を終え、五時三十分出発。「蛭ヶ野まで行けば、ドライブインもたくさんあるから、朝食がとれるよ」と前の晩聞いたので、水だけを補給した。宿から出発してまもなく、歩道はなくなり、白い路側帯だけになった。その幅は三十センチ、大きなダンプが来たら、ちょっと不安になる幅である。こんな道をまず歩いている人間はいない。行く手に最初のトンネルが見えてきた。路側帯の幅は相変らず三十センチ。とても歩けない。止めようかと思ったが、よく見ると自転車が通ったわだちが残っている。歩けないこともないと確信し歩いて行った。後ろからトラックがやって来て。追い抜いて行った。心臓が止まるほど怖かった。やっとのことでトンネルを通過した。腕を見たら、腕時計のねじの跡に血が滲んでいた。

 「この上り道はまだ続くのだろうか」と、とても不安な気持ちで歩いて行く。坂をかなり上った所で道が二股に分かれていた。新しい道を付ける工事のようだ。この先通行禁止の立て札があるが、車の通らない新しく作っている道の方を歩くことにした。どうやらバイパス道路のようだ。その道は、広くて、歩道もしっかり付いている。どんどん上って行くと、遠くからラジオ体操の音楽が聞こえてくる。どうやら次の町がすぐ近くにあるようだ。

 道はとううと行き止まりになったが、そこは大日岳スキー場がある西洞という町だった。ラジオ体操の音楽は小学校から聞こえて来るようだった。再び国道に出ると、子どもたちがぞろぞろ道を歩いてくる。ラジオ体操からの帰りのようだ。道には、辛うじて白線が見えるが、幅は十センチもない。子どもたちはほとんど車道を歩いている。時々ダンプが走って行くが、子どもたちは全く気にしていないように見える。今、この町は、事故の不安から、バイパスを作っているのだろうが、今までにもっとやるべきことがあったのではないだろうか。せめて、人が歩く歩道を確保することが、なぜできなかったのだろうか。全く不思議な光景である。

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 とうとう今回の街道歩きを終了する時が来た。この大日岳スキー場入り口から蛭ヶ野に向かう所で、私は一歩も前へ進むことができなくなってしまった。道に路側帯はあるが、歩道は一センチもなくなってしまったからだ。地図で見ると、この先、道は急カーブの連続である。ダンプがひっきりなしに通過して行くこの道を、歩き続ける勇気も冒険心も今の私には不足しているようだ。さらに先には、もっと危険なトンネルが幾つもあるという。アラン・ブースは、ここから先も歩き続け、白川郷まで行き着いた。改めて、彼の目標に対する強い信念とそれをやり遂げた不屈の精神力を認識した。

 大日岳スキー場口からバスに乗り、北濃駅で長良川鉄道に乗り換え岐路に着いた。アラン・ブースの本に出会い、彼と同じように白川郷に行ってみたいと思った旅は、やり遂げることができなかったが、リュックに結ばれた光るたすきを見ながら、この旅で出会った人たちのことを思い出していた。そして、アラン・ブースの最終目的地白川郷へも行ってみようと思った。(完)

アラン・ブースが歩いた奥美濃を歩く 3

第3日目  郡上八幡から高鷲村

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 チャレンジ三日目。起床は午前五時。洗面を終わり、午前六時お寺を出発。天気は快晴で、今日も暑い一日になりそうである。朝早い郡上八幡の町を歩く。宗祇水には観光客が早くも訪れている。吉田川は朝日を反射して眩しく光っていた。吉田川沿いの遊歩道を歩いて行くと、川原にテントがたくさん張られている。釣り人たちのテントのようだ。川には鮎を釣る人がたくさん竿を伸ばしている。昨日は水が多くて、長良川には一人の釣り人も見ることができなかったのに、今日は本当にたくさんの釣り人がいる。町外れのコンビニでおにぎりとお茶を買い、長良川に架かる大きな橋の上で川を眺めながら食べた。

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 交通量の多い国道を避け、県道六十一号線を歩いて行く。県道は長良川の右岸に沿って延びていて、美しい川の流れを見ながら気持ちよく歩いて行ける。それにしてもたくさんの釣り人が竿を伸ばしている。釣り人の姿はほとんど一緒で、ゴムの防水服をしっかり着こみ、帽子をかぶって、水の中に入っている。足元には鮎を入れる籠があり、腰には網を差している。服装だけでもかなりお金がつぎ込まれているようだ。しかし、鮎を釣り上げるところはなかなか見ることができない。鮎を釣るのは相当難しいようだ。

 大和町に入って、川幅が狭まり、景色が一層美しくなる。鮎つりに出かける車が多くなってきた。岐阜についで尾張小牧のナンバープレートが多い。高速道路の開通により、愛知県から短時間で来られるようになったからだろう。川の中を覗くと小さな魚に交じって大きな魚の姿が見える。形からすると鯉のようだ。この川にはサツキマスも上ってきているという。とにかく美しい川だ。

 午前九時、大きな橋のたもとの釣具店で休憩する。おじいさんが一人で店番をしている。「コーヒーをもらえますか」というと店の中から冷えた缶コーヒーを持ってきてくれた。店先には「おとり鮎あり」と紙が貼ってある。おとり鮎は一匹五百円とのこと。「最近、鮎が釣れなくなった」とおじいさんは言った。「これだけ釣り客がいれば釣れなくてもしかたがないのでは」と言うと、「今、川に泳いでいる鮎には三種類いるんだよ。一番多いのが養殖鮎、次に多いのが放流鮎。一番少ないのが天然鮎。友釣りでおとり鮎を入れても、養殖もんや放流もんはおとり鮎と一緒に仲良く泳いでいて、なかなか針に引っかからないんだよ。自分の縄張りをしっかり作る天然鮎は少ないし、一日頑張っても五・六匹釣れればいい方だよ」とおじいさんは教えてくれた。休憩している間にも、お客さんが次々とやって来て、飲み物やおとり鮎などを買って行った。お店は繁盛しているようだった。

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 午前十一時過ぎ、白鳥町に入る。県道六十一号線のバイパス工事で新設中の大きな橋を渡る。頭上を見上げると工事中の大きな橋げたが白鳥町の方向に延びている。新たな高速道路を建設しているのだろう。

 十二時少し前に白鳥の町中に入る。県道も国道百五十六号線に吸収され、交通量がとても多い。トラックやバスも頻繁に走っている。これからはこの国道を歩いて行くことになるのだ。大きな中華料理店に入り、ランチとビールを注文する。なかなかボリュウムがあって美味しかった。

 十二時三十分出発。国道なのに歩道が時々なくなり、白い路側線の内側を歩かなければならなくなる。道路は町と町を結ぶものだが、今この道を歩く人はいない。ほとんどの人が車に乗って移動している。車に乗れない子どもは、バスかスクールバスに乗って移動している。この道は、昔あった旧道がそのまま拡張され、国道になったようだ。拡張された当時は車も少なく、歩道を付ける必要がなかったのだろうが、車が増え、道が危険になり、歩道を付けなければと思った時には、町に住む子どもの数が少なくなり、経済的な理由から歩道が付けられないでいるのだろう。自転車で走る中学生や高校生もいると思うのだが、危険な道を安全な道に代えようという発想は行政サイドにはないようだ。

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 午後一時三十分、長良川鉄道の終点北濃駅に到着。駅前は公園になっていて、店屋もあるが、終点駅に駅員はいない。昔は列車に乗る人で賑わっていたのだろうが、乗り物が車になり、寂れる一方のようだ。この駅もやがて廃止されてしまうのではないだろうか。駅の中に貼ってある古びたポスターからそれを感じた。

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 午後二時北濃駅を出発。長良川は川幅が狭くなり、かなり上流まで来たことが分かる。今日はどこまで歩いて行けるのだろうか。地図で調べるとこの先で高鷲村に入る。高鷲村総合案内所という表示もあるので、まずはそこまで行くことにした。危険を感じながら道を歩いて行く。しばらく歩くと、道がカーブし、険しくなってきた。左側が崖になり、路側帯の幅もかなり狭まり、大きなダンプが通過すると風圧を感じる。こんな道はもう歩きたくないと思いながら、歩いて行くと町並みが見えてきた。鮎走という地名が見える。長良川を渡ると、川の水か透き通っていて魚がたくさん泳いでいるのが見えた。「鮎走」とは鮎がたくさんいることから付いた地名なのだろう。自然豊かな村なのだ。

 午後三時、高鷲村総合案内所の表示のある建物に到着。宿屋を紹介してもらおうと思っていたのだか、今日は日曜で扉が閉まっていた。仕方なく、道を進んで行くと、前方に民宿の看板が出ていた。レストランを兼ねた店である。さっそく中に入って「宿はありますか」と聞くと、「残念ですが、今日は満室です」と冷たい返事が返ってきた。困ったなあという顔をしていると、たまたま居合わせた老人客が「どこか泊まるとこないか。迎えの喫茶店もたしか民宿やっとったな。電話したる」と、携帯電話を出して、電話をしてくれた。その親切な老人の紹介で今日の宿は無事確保された。老人は元学校の先生で、現在は村の教育委員会の仕事をしているとのことだった。自分の考えをずばり主張する人でもあった。私が歩き旅をしていることにも興味を持ってくれ、この先、白川郷まで歩くつもりでいるというと、「頑張れば明日夕方には着けるよ」と激励してくれた。

 紹介された民宿には数人の泊り客がいた。皆、この辺りの高速道路建設に関係する人だった。いつもは一杯だが、今日は帰っているので空きがあるという。

 午後六時、食堂でみんなそろっての食事になった。宿のおかみさんがいろいろ世話をしてくれる。ビールを飲みながら、私の街道歩きの旅を聞いてくれる。「この辺りの長良川も以前と比べるとかなり水が汚れてきている。川の底に泥が溜まるようになった。以前は砂ばかりで泥はなかった」という。こんなに水がきれいだと感心していたのに、地域に住む人の目はごまかせないようだ。

 これから先、白川郷まで歩いて行くという話には、「ちょっと危険な所があるから、気を付けないといけないよ」と注意される。急カーブが続くし、特に庄川村に入ってから続くトンネルは、危険だという。「自家用車に乗っていても、暗くて狭くて、向こうからダンプが来たらとても怖いよ」と真顔で話してくれた。この国道は、春の桜が咲く頃に、名古屋から富山までを走り抜けるマラソン大会が開かれている。そのことを話題にすると「町の人や自衛隊まで出て、警備体制もしっかりして、走って行くんだよ」と教えてくれた。そして、「安全のためにこれをどうぞ」と、光るたすきを一本進呈してくれた。寝る前にもらったたすきをしっかりリュックに縛り付け、明日はどこまで歩けのだろうかと不安な気持ちを擁きながら、床についた。

アラン・ブースが歩いた奥美濃を歩く2-2

第2日目 湯之洞温泉から郡上八幡 その2 

 ここから郡上八幡までは、まだ、二十キロ近くある。今までかなりゆっくりしたペースでしか歩いて来なかったから、相当ペースを上げなければいけないと覚悟した。

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 子宝の湯からしばらく行った所で長良川を望める場所に出た。大きな岩が幾つもあり、水が激しく渦巻いて流れているのが見える。遠くを見ると、何かボートらしきものが幾つもこちらに向かって流れてくるようだ。川下りを楽しんでいるのだろうか。その一団がだんだん近づいて来た。五・六人が乗りこんだ大きなゴムボートが八隻いる。スリルがあってなかなか面白そうである。大きな岩をカーブした所が難所のようである。岩にぶつかりながらも上手に下って行く。三番目のボートが何と岩に衝突し転覆してしまった。乗っていた人たちは、川の中に投げ出され、流されて行く。「わっ大変だ」と思ったのはどうやら私だけだったようで、流されている人も、周りのボートに乗っている人も落ち着いている。どうやらわざと転覆させて、スリルを楽しんでいるようだ。流されていく人たちは、みな周りのボートから投げられたロープに捉まって引き上げられて行く。転覆したボートも引き起こされ、何事もなかったかのように再び川の流れに乗って下って行った。

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 福野駅手前で長良川に架かる橋を渡り、対岸の上田から県道六十一号線を歩く。こちらの方が車の量が少なく、長良川のすぐ横に道路があり、景色もよい。おばあさんが二人腰を下ろして話をしている。「景色がいいですね」と挨拶する。「川下りのカヌーやボートがたくさん通りますね」と話しかけると、「あのボートのほとんどは、相生から出てるんだよ。バスでお客を運んで行ってそこからスタートしている。あの人たちは村のためには何もいいことがないよ。お金を落として行くわけでもないし、この通りごみを一杯落としていくだけだよ」と川原に捨ててある空き缶やプラスチックのごみを指差して怒っていた。

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 県道六十一号線は途中崖崩れで車の通行は禁止されていたが、歩くには支障がないようなのでそのまま歩いて行った。道が険しくなり、所々に右側の崖から崩れてきた石ころが落ちている。直撃を受ければ、車でも危ないかもしれないと思った。崖を見上げながら道を急いだ。相生を通過する時に、カヌーの川下りを宣伝する大きな看板と、建物が目に付いた。ここから先ほど見たボートは下って行ったのだろう。

 時刻は五時。観光ヤナの横を過ぎると対岸に郡上八幡の町並みが見えてきた。アラン・ブースも今日私が歩いた道を、通ってきたことが紀行文に書かれていた。そして、彼は、この郡上八幡で江戸時代のセットのような町並みを見つけたとある。私も彼と同じような発見が出来るのではないかと期待しながら、長良川に架かる稲成橋を渡り、五時二十分、郡上八幡駅に到着した。

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 まずは、宿泊場所を見つけなくてはならない。駅前の観光案内所に行くが、「自分で電話して探してください」とつれない返事である。タクシーが停まっているので、運転手に相談すると親切に教えてくれる。「今晩は土曜日で、郡上踊りも始まっているから、宿は空いていないかもしれないが、とにかく電話して見なさい」と何軒かの宿を紹介してくれた。紹介してくれた所はすべて断られた。どうしたらよいか再度相談すると、「ひょとしたらユースホステルなら空いているかもしれないよ」というので電話すると、「いいですよ」という返事をもらった。旅先で、ユースホステルに泊まるのは初めての体験である。きょうはいろいろハプニングがある。

 さっそく、タクシーでユースホステルに向かう。そこは何と洞泉寺というお寺だった。お寺とユ―スホステルという不思議な関係がおもしろい。ベルを押すと奥さんが出てきた。「部屋は二階です。食事は出していません。風呂もありませんので、このすぐ近くにある天徳湯という銭湯を使ってください。これは、その入浴券です。」と紙切れを渡された。ユースホステルというと、きまりがいろいろあって、夜のミーティングもあって大変だと思っていたのが、宿泊名簿もなく、実にあっさりしている。認識を変えなくてはいけないなあと思った。しかし、銭湯の風呂とはびっくり仰天である。

 着替えを済ませ、夜の郡上八幡の町へ出掛けた。まずは、銭湯である。入浴料は大人、三百八十円と入口に紙が貼ってある。私は入浴券で中に入る。さっそく裸になって、中に入ったが、石鹸もシャンプーも持ってきていないことに気がついた。旅館での入浴では、石鹸もシャンプーも風呂場に置いてある。何も考えずに風呂に入ってしまったことを後悔したが、時すでに遅し。シャワーを浴び風呂に入ってそそくさと退散した。きっと周りの人は「変な奴だなあ」と思ったのではないだろうか。

 食事は、銭湯のすぐ近くにある飲み屋でとることにした。中に入ると、客は一人しかいなかった。ビールとつまみを注文した。つまみにはゴリが出てきた。歩いた後のビールの味は格別だった。あっという間に一本がなくなり、もう一本注文する。天然鮎が食べたかったが、カウンターに並んでいたのは、養殖の鮎だったのであきらめた。親子丼を注文し、腹もふくれたので店を出た。この店も味はイマイチ。安くて美味い店を見つけるのは難しい。

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 橋を渡った所に、全国名水百選に選ばれている宗祇水があった。夜というのに観光客が続々押し寄せて満員である。水を飲むのに行列ができている。郡上踊りの曲が聞こえてくるので、そちらへ歩いて行った。郡上踊りは新橋の横の広場で踊られていた。大きな踊りの輪が幾重にもでき、たくさんの人が楽しそうに踊っている。見たところ千人はいそうである。そろいの浴衣を着て上手に踊っているグループや見よう見真似で踊っている人など様々である。聞くところによると地元の人は舞台に上がっている人だけで、周りで踊っている人はほとんどが観光客だそうだ。郡上踊りもいろいろ曲があり、曲が変わると全く踊る方向が反対になった。「今晩は十一時までです」と放送が入る。

一時間ほど、踊りを見物した後、夜の郡上の町を散策した。賑やかなのは、踊りが踊られている左京町辺りと古い町並みとみやげ物店が並ぶ本町辺りであった。遠くにある郡上八幡城がライトアップされて明るく光っていた。

 歩きつかれたので、もう少しビールを飲んでから帰ることにした。みどり屋とのれんがかかった飲み屋に入った。年配のおばさんがカウンターの中で、一人の客を相手に話をしていた。ビールを注文する。「なかなかいい町ですね」と話しかけると、一人の客も乗ってきて、話が盛り上がって行った。「郡上踊りも、川崎ばかりで、私ら地元のもんは川崎は踊りたくないから踊りの輪に入らんのや」と少し怒った口調で女主人は言った。私が歩いて旅をしている話にも興味を持ってくれたようである。「明日は白鳥町まで歩いて行く」と言うといろいろ道を教えてくれた。そこへ年配の五・六人のグループが入ってきた。この店のなじみ客のようだ。その中の一人が私の歩き旅に感心したのか、ビールを一本差し入れてくれた。後で知ったのだが、その人はこの郡上八幡の助役をしているという。今日は朝からいろいろハプニングがあり、楽しい一日になった。明日もいろんな出会いがあることを期待して、お寺へ帰った。

アラン・ブースが歩いた奥美濃を歩く2-1

第2日目 湯之洞温泉から郡上八幡 その1

 それから半月ほど過ぎ、第2回目のチャレンジがやって来た。今回は、休暇を含めて五日間をこの旅のために用意した。「白川郷まで歩ききって、アラン・ブースと同じように合掌造りの建物を眺めて見よう」ということを目標にした。

 まずは前回歩くことを終了した湯之洞温泉まで行くため、美濃太田駅から長良川鉄道に乗車した。学校が夏休みに入っているのと、土曜日が重なり、列車の中は家族連れが何組も乗車していて、満席だった。こういう時は、車両を増結して二両にしてはどうかと思うのだが、ワンマンカーなので簡単には増結できないようだ。関駅でさらに乗客が増え、車内は超満員の状態になった。「美濃駅でトロッコ列車に乗り換えるからしばらくの辛抱だよ」と、家族連れの会話が聞こえてくる。車内が満員なのはそのためなのかと納得した。ゆかたを着た女性客も七・八人いる。郡上八幡へ踊りに出掛けるのだろうか。緑の山中を列車は走り、やがて美濃駅に到着した。トロッコ列車に乗り換える客が降りて、車内は少しゆったりできる雰囲気になった。列車は出発し、左手に長良川が見えてきた。乗客の多くも窓から川の景色を眺めている。水の色がコバルトブルーで美しい。前回夕日が美しかった堤防沿いを通過し、湯之洞温泉口駅に到着した。

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 天気は快晴。まずは国道を歩き、途中から長良川左岸にある旧道に入る予定である。駅の近くにあるコンビニで昼食のおにぎりを買い、歩き出した。前を見るとリュックを背負った男性が歩いている。湯之洞温泉口で私と一緒に下車した人のようだ。私がコンビニで買い物をしている間に抜かされてしまったようだ。歩くペースは私の方が速く、しばらく行ったところで追い着いた。そのまま追い抜くのも失礼なので、「どこへ行くのですか」と声を掛けた。「温泉に入ろうかとぶらっとやって来たのですが、どうも温泉は駅から遠そうなので、行くあてもなく歩いているのです。」と、中年男性からは、思いがけない返事が返ってきた。「私は今から郡上八幡まで行く予定なのですが、しばらく一緒に歩きますか」と、誘うと、「じゃあしばらく付き合わせてください」と快い返事が返ってきた。今までいろいろ道を歩いて来たが、知らない人と一緒に歩く経験は今回が初めてである。今日はいろいろハプニングがありそうだ。

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 「今日は、親戚から名鉄電車の家族切符をもらい、それを使って名鉄電車の終点までやって来たのです。長良川鉄道にも初めて乗りました。私は便器を作るTOTOでコンピュータ相手に仕事をしています。」と、いろいろ話してくれる。旧道に入ってからは、左側に長良川を見ながら歩いて行く。車もほとんど通らなくて、なかなか気分よく歩いて行ける道である。「日頃は車ばかり乗っていますが、こういう美しい景色を見ながらのんびり歩くのもなかなかいいもんですね」と、私の街道を歩く話に共感してくれた。

 歩き始めて二時間近くが経ち、そろそろ昼ご飯の時間である。男性は昼食の用意を持っていない。私のおにぎりを上げるわけにもいかないので、どこかで店屋か食堂を見つけなくてはならなくなった。地図で調べると今歩いているのは、河和という所のようだ。小さな村だが、どこかに店屋はありそうだ。しばらく行ったところに民家があり、中を覗くとおばあさんがいる。「この近くに食堂はありませんか」と尋ねると、「ここから十軒ほど向こうに喫茶店がある。そこは、食事もできるから」と親切に教えてくれた。

 教えてもらった喫茶店は、そこから五分ほど行った所にあった。なかなか感じのよい店である。ランチを注文する。コーヒーが付いて八百円。いろいろおかずもあっておいしい。店のマスターにどこから歩いて来たのか聞かれる。「湯之洞温泉から来た」と答えると、店にいた客も含めて、「この近くに村が運営している温泉があるから、ぜひ入っていくといいよ」と紹介された。道連れになった男性に、「温泉に入ろうと思って出掛けてきたのだから、ぜひ入ったら」と勧めると、その気になったようだ。温泉はこの先の、大屋駅の近くにある。

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 美並村村営の温泉は、つい最近作られたようで、粗末な囲いの建物であった。入り口には「子宝の湯」と看板が掛っていた。車もたくさん停まっていて、大勢の人がやって来ているようだ。入浴料が無料なのにはびっくりした。ここで、三時間近く一緒に歩いた男性とビールで乾杯した。美味しいビールだった。彼とはここで別れた。

アラン・ブースが歩いた奥美濃を歩く1-3

第1日目 美濃太田から湯之洞温泉まで その3

 急遽予定を変更して、湯之洞温泉に向けて歩き始めた。美濃の古い町並みの残る通りでは、この日夏祭りをしていた。赤い提灯が家々の軒先に吊り下げられ、通りには屋台も並んでいた。アラン・ブースはこの美濃市である造り酒屋を訪ねている。きっとこの古い町並みの中にその酒屋はあるのかも知れない。

 古い道は町の外れで国道一五六線と合流した。国道一五六号線の交通量は多いが、立派な歩道が付いていて、歩き易い。美しい水が流れる大きな川が見えてきた。長良川である。これから先、ずっとこの長良川に沿って道を上って行くことになる。

 夕暮れが迫っている。もう一時間もすれば、素晴らしい夕焼けが見られるのではないかと気持ちが高ぶってくる。食堂の客に湯之洞温泉まで歩くように勧められたことを感謝したい気持ちになった。川原に下りて、写真を何枚も撮る。遠くに霞む墨絵のような山々の姿と川原の白い石と水の美しさがみごとに調和して本当に美しかった。

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 長良川の美しい風景を見ながら、湯之洞温泉に向かって歩いて行く。さわやかな風も吹いて、疲れが吹き飛んで行くようだ。山々が川に迫ってきて、辺りは渓谷になっていく。夕日が沈むところは、すぐ近くに山があって見ることが出来なかったが、空が赤く染まっていく景色は美しかった。川幅が更に狭まり、水の流れは勢いを増し、水の流れる音が大きくなってきた。大きな淵になっているところに一艘の川舟が浮かんでいる。昔どこかで見た絵に似た風景が広がっていた。

 午後七時過ぎ、薄暗くなった湯之洞温泉に到着した。旅館は、川を渡った向い側にあるようだ。橋の所にある店で電話を借り、旅館に問い合わせた。「泊まれますか」と聞くと、「何人ですか。」と人数を聞かれ、「一人ですが」と答えると、「残念ですが」と断られてしまった。もう一軒にも電話したがここも同じように断られた。土曜日の夜ということがいけなかったのか、一人旅がいけなかったのか、泊まる場所は確保できなかった。湯之洞温泉まで足を延ばしたことが、失敗だったが、最初のチャレンジは湯之洞温泉まで歩いたという結果をもって終了することにした。アラン・ブースは、私が今晩断られた湯之洞温泉にある湯本館で厚いもてなしを受けたと記述している。皮肉な結果であったが、その当時と比べると、この温泉は繁盛しているのだろう。

 すっかり暗くなった湯之洞温泉口駅の待合室で美濃太田行の列車を待つ。駅の蛍光灯が待合室を明るく照らしている。時刻表を見ると、美濃太田行の列車は発車したばかりで、次の列車は八時三七分までなかった。待合室のベンチに一人の高校生が腰掛けていた。「こんばんは」と挨拶をして、話し掛けると「今日、高校野球の練習試合があって、自分たちのチームが勝った」と嬉しそうに話してくれた。彼はまだ二年生なのでレギュラーではないが、応援でがんばっているという話だった。しばらくして彼は迎えに来た家族の車で帰って行った。だれもいない田舎の駅の待合室に、たった一人で、列車を待つ気分はあまりよくなかったが、次回はこの湯之洞温泉からスタートして、アラン・ブースの歩いた白川郷を目指そうと思った。

 

アラン・ブースが歩いた奥美濃を歩く 1-2

第1日目 美濃太田から湯之洞温泉まで その2

 午後二時過ぎ、関駅前に向かう道で、赤い色をした名鉄電車に出会った。軽便鉄道という狭い線路を走るように作られた電車で、マッチ箱のようにかわいい。関市と岐阜市とを結んでいる。機会があればぜひ乗ってみたい電車である。

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 関駅の長良川鉄道のプラットホームでしばらく休憩を取る。休憩中にカラフルな長良川鉄道のディーゼル列車が美濃太田に向かって発車して行った。

 時刻はまだ午後二時半。まだ歩けそうなので、これから美濃市まで、行くことにした。関駅前から美濃市までは約七キロ。一時間半くらいで歩けそうだ。

 関駅から少し行った所で、思わぬ発見をした。電車の線路をおばあさんが歩いているのだ。危なくないのかなと思い、おばあさんに尋ねると、「四月一日に関市と美濃市を結んでいた名鉄電車が廃線になってしまい、線路がまだ撤去されないで残っているのですよ。」と教えてくれる。これから美濃市までは廃線路を歩いて行けるそうだ。

 廃線路を歩くのは初めての体験なので気持ちがウキウキする。廃線路は枕木も所々あって多少歩きにくいけれど、交通量の激しい県道に比べたら安全な道である。所々に駅跡もそのまま残っていて、今はバスの停留所として利用されていた。「九月二十日を期限に線路の撤去作業が終了する」と立て看板には説明があった。撤去作業の後、この廃線路はどうなるのだろうか。歩道やサイクリング道路に利用できたら最高だろうなと思った。

 旧真光寺駅を過ぎた辺りで、周りに田んぼが広がり始め、見晴らしがよくなり、遠くの緑の山も望めるようになった。線路脇には透き通った用水も流れ、とても気持ちよく歩けるようになった。

 しかし、それもつかの間、美濃市に入ってからは、廃線路の撤去作業が急ピッチで進んでいて、とうとう撤去作業中のために廃線路を歩くことができなくなってしまった。しかたなく廃線路を歩くことを断念し、交通量の多い国道一五六線を歩く。午後四時半、美濃駅前に到着した。美濃太田から美濃市までのおよそ十七キロを歩き終わった。

 明日はここから歩き始める予定にして、今日はここで晩御飯を食べて、美濃市内の旅館に泊まる予定にした。

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 「鮎あり」のちらしが戸に貼ってある駅前の食堂に入る。「鮎を焼いてください」と注文すると、「あいにく、今日は鮎がないのです」と、つれない返事が返ってきた。仕方なく、鮎はあきらめ、漬物とイカを注文する。ビールを飲みながら、美濃の町について店の人にいろいろ質問する。古い町並みが残り、長良川沿いには大きな旅館もあるとのことだった。店にいた客が、美濃太田から歩いて来たと聞いてびっくりしていた。「どうせ泊まるならこの先の湯之洞温泉で泊まってはどうか」とその客に勧められる。湯之洞温泉はここから六キロぐらいの所にある。まだ時刻は五時過ぎなので、今から歩けば七時には到着できそうである。

アラン・ブースが歩いた奥美濃を歩く  1-1

プロローグ 

 今、私の手元に一冊の本がある。イギリス人作家、アラン・ブースが書いた「飛騨白川郷へ」という徒歩旅行の思い出を綴った紀行文である。今年の二月、鶴舞の古本屋で見つけたものだ。

 読んで見ると、今から十年前、デザイン博が名古屋で開かれた年に、そのデザイン博会場から白川郷までを歩き通した時の紀行文であった。さらに衝撃的だったのは、それを書いたアラン・ブースは、一九九三年、四十六才という若さで、癌のためにこの世を去っていた。この本は彼の最後の作品だった。彼が歩いた名古屋から白川郷までを私も歩いてみたいと、その時から思うようになった。

 
第1日目 美濃太田から湯之洞温泉まで その1

 最初のチャレンジの日がやって来た。名古屋から美濃太田までは、今までに二回ほど歩いていたので、美濃太田から先を歩いてみることにした。一泊二日の計画で、今日は、美濃市の辺りまで歩ければよしと目標を決め、午前十時、美濃太田駅前を出発した。

 天気は快晴。真夏の暑い日差しが照りつける国道二四八号線は、車は激しく行き交っているが、歩道があり比較的歩きやすい道だった。この国道のすぐ横を長良川鉄道が走っている。時折、ボディーがカラフルに塗られた列車が走って行くのが見える。アラン・ブースは鵜沼から日本ラインの舟が下る木曽川沿いを通り、坂祝町で国道十九号線と分かれ、関へ通じる道を歩いて行ったようだ。「右 坂祝」という道標が見える。坂祝から歩いて来たアラン・ブースはここで、この国道に合流したのだろうか。 

 時刻はそろそろ十二時。どこかで昼食をとらなくてはと、店を探しながら歩いて行く。店がたくさんある所では、「今日は、中華にしようか、和食にしようか」などといろいろ考えられて、結構楽しいものである。しかし、店が一軒もない所では、「どこかにコンビにでもいいからないかなあ」ととても心細い気持ちで歩いているのである。今、歩いている道は、関の近くなので、所々に食堂やレストランがある。今日の場合は「中華にしようか、和食にしようか」である。

 大きな看板がみえる。「そば、うどん」と書いてあり、駐車場には車もたくさん並んでいる。迷わずにそこに入ればよかったのに、なぜか私は、「満員はやめよう」と、その店に入るのを躊躇し、すぐ隣にあった大きな中華料理店の方に入ることにした。入る時に「うぬー、駐車場に車がほとんど止まっていないぞ」と不思議には思ったのだが、ドアの豪華さにひかれて中に入ってしまった。昼時というのにだだっ広い店の中には、客が一人もいなかった。

 「しまった。たいへんな店に入ったぞ」と、気づいた時には、暇そうに座敷に座っていたおばあさんが、「注文は何にしましょう」と水の入ったコップとお絞りを持って、私の所にやって来た。もう引き返すことはできない。覚悟は決めたが、「ちょっと待って」と、店内を見まわした。壁にいろいろお品書きが貼ってある。いろいろメニューはありそうだが、この店で一番安い五百円のラーメンを注文した。よく見ると、店のテーブルの下に冬に使う石油ストーブがそのままの状態で置いてある。流行らない店であることを確信した。

 冷たい水を飲んでしまい、お代わりをと思って、カウンターを見ると、水の出るクーラーが置いてある。コップを持ってそこへ行こうとすると、おばあさんが、「それは故障しています」と、別のところからポットを持ってやって来て、冷たい水をついでくれた。何から何まで最悪の状態である。

 いよいよラーメンが出来あがった。どこにでもありそうなラーメンに見えたが、一口食べて、びっくり。スープは砂糖でも入っているのかと思えるほど甘くてとても飲めるものではなかった。最悪のラーメンをとにかく口に入れて、早々の体でその店から退散した。私がいた昼時の二十分間にこの店へやって来た客は一人としていなかった。やはり、国道沿いでも、この店の味をこの辺りの人はよく知っているようだ。

 再び、単調な国道を歩き、一時過ぎ関刃物会館に到着。中に入ってしばらく休憩をとる。クーラーがよくきいている。陳列ケースには関名産の刃物が並び、品物にはほとんど値札が付いている。みごとな飾りの付いたナイフには、一万五千円の値札が付いていた。会館の前は広い駐車場になっていて、関へ観光でやって来た人たちがここでみやげを買っていくのだろう。

「青春18きっぷ」で桜の名所を巡る旅 その4

天童市舞鶴公園の桜 

 天童市は将棋の町だ。将棋の歴史は古く、江戸時代に下級武士の手内職として始まったものだという。全国の将棋の駒の95%を生産しているという。雨の米沢から普通列車に乗り、天童へ向った。午後4時過ぎ、天童駅に到着した。駅の観光案内所で、天童温泉街にある「ホテルビュー黒田」を紹介してもらった。1泊朝食付きで7000円。割安な宿だった。

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 雨の駅前通りを歩いて行く。将棋の町らしく下水の蓋には将棋の駒が描かれている。駅前から10分ほど歩くと温泉街が見えて来た。天童温泉の歴史は明治時代に始まるという。大きなホテルや旅館が並んでいる。時刻が早いのか、ホテルや旅館の駐車場はガランとしている。深刻な不況の波が押し寄せているのかも知れない。
 
 ホテル黒田は大きな建物だった。フロントで鍵をもらい部屋へ行く。落ち着いた感じの部屋だった。ホテルの温泉は5時から入浴できるということだ。時間になったので風呂場へ行った。誰もいない広い風呂にのんびり浸かった。きりっとした感じの温泉だった。
 
 夕食は、ホテルのレストランで食べた。刺身や天ぷらなどが出て来たが、特にここだから食べられるという料理はなかった。飲み直しに夜の町へ出掛けた。そこは鄙びた温泉街ではなく、歓楽街だった。辻々に客引きが立ち、「遊んでいかないか」としつこく声を掛けられた。安い居酒屋はないのだろうか。店の前に値段表が貼ってあるおでん屋を見つけて中へ入る。カウンターだけの小さな店で、先客が1人いた。ビールとおでんを注文した。「天童温泉は鄙びた温泉だとばかり思っていた」という話をした。「客引きがあちこちにいて、地域では問題になっているのです。特に最近は不景気で、お客さんも少なくなり、いっそう客引きが強引になっているようです」」とお上さんが話してくれた。「天童へ来たのだから、舞鶴公園を見て行くといいよ。そこからの眺めは最高だよ」と飲んでいた親父さんに言われた。帰りに、お土産店を覗いた。いろいろな将棋の駒が並んでいた。どれもいい値段が付いていた。
 
 10日、午前6時起床。早朝の温泉に入る。すっきりした気分になって、食堂へ行く。和定食が出て来た。もちろん納豆も付いている。朝食を終わり、食後のコーヒーも飲み、部屋へ戻る。荷物を整理し、午前8時ホテルを出発し、天童市の桜の名所「舞鶴公園」へ向った。昨夜華やかだった飲屋街はシャツターが下り、ひっそりとしていた。登校途中の高校生の集団に出会う。道路を自転車で飛ばして行く。事故が起こらないのが不思議だ。

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 舞鶴公園は舞鶴山の山頂にある。桜並木の続く緩やかな坂道をゆっくりと上って行った。朝日に桜の花弁がキラキラ光っていて美しい。山頂へ近づくに連れて桜の花弁が少なくなってきた。山の上と下では気温にだいぶ差があるようで、山頂の公園の桜はやっと花を開き始めたところだった。舞鶴公園には人間将棋を行なうスペースが作ってあった。今年は4月20日に開かれるという。その準備で、市の職員さんたちが掃除をしていた。「ここで人間将棋をやるのですか」と掃除をしているおじいさんに声を掛けた。「そうです。侍の衣装を身に付けて、指示に従って動きます。周りには幟が立ち、面白いですよ」とおじいさんは、仕事の手を休めて、私に説明してくれた。「今年は桜が早いから、本番には桜は散ってしまっているでしょうね」とおじいさんは少し残念そうな表情だった。「桜の花を追い掛けて旅をしています。今日は秋田まで行こうかと思っているのです」と話すと、「それなら角館の桜はいいよ。ぜひ見ていかれるといい。私も仕事を辞めたらそんな旅をしてみようと思っているよ」とおじいさんはにこにこ笑っていた。舞鶴公園の展望台からは天童市の全景を見ることができた。霞がかかっていて、蔵王連山や朝日連峰の山並みは見ることが出来なかったのが残念だった。

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 公園の坂道を下り、天童駅へ向った。20分ほどで駅に到着した。昨日は気が付かなかったが、この駅ビルには、天童将棋資料館が併設されていた。見学しようと入口へ行ったが、残念ながら今日は休館日だった。列車の時間まで駅ビルの中をぶらぶらした。土産物売場には、いろいろな将棋が並んでいた。本格的な将棋の駒から、大きな王将、縁起物の左馬の置物、駒のこけしなど、さすがに将棋の町だと思った。

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 「新庄行」普通列車が間もなく到着する。「青春18きっぷ」の使用期間は今日が最終日。駅員に最後の検印を捺してもらい、ホームへと向った。向いのホームから東北新幹線「つばさ号」が、福島へ向けて発車して行くところだった。新幹線が在来線を走っていると聞いていたが、その光景を目の当たりしておかしな感じがした。この線路は奥羽本線。しかも単線なのだ。これは新幹線ではなく特急列車ではないのか…?
 
 10時19分発「新庄行」に乗車した。桜の花を追って気ままな旅はまだまだ続く…。

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 新庄に着いて驚いた。天童からそれほど離れていないのに、桜の開花はまだ1週間くらい先だという。さらに秋田へ向って列車に乗り続けた。北へ向えば向うほど、桜の蕾は固くなるばかりだった。「角館の桜はいいよ」とおじいさんに教えてもらったのに、桜の花は見られそうにもない。桜前線は確かに北へ向って進んでいたが、列車は桜の花を追い越してしまったようだ。(完)

「青春18きっぷ」で桜の名所を巡る旅 その3

米沢市米沢城の桜 
 
 「青春18きっぷ」の使用期間は4月10日まで。今日は4月8日。手元にまっさらの「青春18きっぷ」がある。富山城へ行った後、購入した切符なのだが、風邪を引いてしまい、しばらく旅へ出掛けられなかったのだ。何とか体調もよくなり、駆け足の旅へ出た。

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                   桜が満開の楡原駅


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 高山本線、北陸本線、信越本線、羽越本線と普通列車を乗り継ぎ、羽越本線村上駅に午後6時過ぎに到着。その夜は駅前のビジネスホテルで1泊し、9日早朝の列車に乗った。坂町駅から米坂線に乗り替え、雪が残る峠を越えて午前10時に米沢駅に到着した。
 
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 空はどんより曇り、今にも降り出しそうな感じである。米沢の町は歩いて周るには少し広すぎるので、駅前で自転車を借りることにした。最近の観光地には、ほとんどの所にレンタサイクル店があるのは嬉しい。「ここはぜひ見て行かれるといいですね」と店の親父さんが幾つか見学場所を教えてくれた。レンタサイクル店に荷物を預け、出発した。

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 最初に行ったのは「米沢織物歴史資料館」である。1階が売店で2階が資料館になっていた。米沢織の歴史は古く、上杉鷹山が藩主の時に始まったと説明がある。230年の伝統がある。生糸を紡ぐところから始まり、機織機を使って織物を織る所などがよく分かるように展示してある。江戸時代の頃の着物なども飾られている。質素な感じの紬織だが、気品が感じられる。1階には米沢織の商品が並んでいた。紅花や草木で染めた着物はなかなかのものだ。飲み屋の親父さんが着たら似合いそうな作業着には8万円という値札が付いていた。 

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 次に米沢城址へ行った。城址は上杉神社となり、上杉謙信が奉ってあった。上杉謙信が治めていたのは越後である。ここは東北地方。ここに上杉謙信の墓があるのが不思議だった。パンフレットを調べてみてその謎が解けた。「上杉謙信の養子景勝は豊臣秀吉の五大老の一人として活躍した。1498年会津藩120万の領主になったが、関が原の戦いで石田三成に加勢したため、徳川家康から30万石に減封されて米沢藩に移された。上杉の城下町としての米沢の歴史はここに始まった」と書いてあった。何度も国替えをした歴史があり、その度、謙信の墓も移動したということなのだ。米沢城址の桜はまだやっと花を開き始めた所だった。お堀の両側に植えられた桜が満開になったらすばらしい景色だろうなあと思った。境内には屋台も並んでいたが、桜祭りにはまだ早く、店は閉まっていた。東北の春はこれからのようだ。

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 上杉神社の隣りにある松岬神社へ行く。大きな銅像が建っていて、「上杉鷹山公」と表示がある。「第9代米沢藩主である。莫大な借金を抱えて困窮していた米沢藩の大改革を行ない、産業を興し、財政を立て直し、現在の米沢の基礎を作り上げた名君であった」と説明がある。今年は、「上杉鷹山生誕250年祭」が行なわれているとのことだ。「なせばなる なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」という言葉が碑に刻んである。今は格言に成っているが、これは鷹山が詠んだ歌だと説明があった。

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 その後、上杉家廟所へ行った。杉林の中に上杉家歴代藩主の廟が並んでいた。中央に謙信の廟があり、鷹山の廟は端の方にあった。鷹山の廟は、倹約して質素な造りだという説明があった。

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 雨が降り出したので、見学を止め駅へ戻ることにした。途中、「東光の酒蔵」という酒造資料館を見つけ、中へ入った。大きな造り酒屋で、江戸時代の建物を復元して資料館にしたという説明がある。土蔵は東北一の広さがあるということだ。大きな亀や樽が並び、酒作りの様子がよく分かった。試飲コーナーもあり、香りがよい酒を味わった。辛口でいい香りがした。奥の展示室は「上杉鷹山」を特設していた。直筆の書が飾ってあった。
 
 ますます雨が強くなり、しっかり濡れてレンタサイクル店へ到着した。「夕方まで大丈夫だと思っていましたが、残念でしたね」と親父さんは気の毒そうな顔をしてくれた。自転車を返し、駅前の食堂で昼食にした。米沢といえばもちろん「米沢牛」。メニューを見るといろいろ並んでいる。ステーキ、ビーフシチュー、ビーフカレー、牛肉ラーメン…。その中から牛丼を注文した。しばらくして熱々のご飯に薄くスライスした牛肉の載った牛丼が出て来た。冷えた体が芯から温まりそうな牛丼だった。
 
 列車の発車まで時間がある。駅前の書店に入った。「上杉鷹山コーナー」が特設してある。今回、私は「米沢」という言葉の響きに誘われて、ふらりと米沢へ桜を見にやって来たのだが、米沢の町は「上杉鷹山」を前面に出して盛り上がっていた。「上杉鷹山」という名前に出会い、少し調べてみたくなった。並んでいた本の中から「上杉鷹山」という本を見つけさっそく買い込んだ。これから行く「天童」までの列車の中は、移動図書館になりそうだ。
 
 本には、次のように書かれていた。「上杉鷹山(治憲)は高鍋藩(宮崎)から上杉藩に養子に来て17才で藩主になった。当時の藩財政は借金で破産寸前に追いこまれていたという。鷹山は、積極的な殖産興業政策を実施した。田畑の開墾、桑、楮(こうぞ)、漆などの栽培、養蚕、製糸、織物、製塩、製陶などの新産業の開発に力を入れ、自ら先頭に立って奨励した。また、藩士に対しては質素倹約を自ら実践して示し、武術の奨励とともに、藩の学問所を再興し儒学教育に力を入れた。そして、上杉藩の藩財政を立て直し、天明の大飢饉にも領内からは一人の餓死者も出さなかったという逸話が伝わっている。『伝国の辞』は有名で、『藩主とは、民のための政をするもの』と明言し、その言葉どおり実行した…・」

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 旅を終えてからも、何冊か上杉鷹山について書いた本を読んだ。その中でも竜門冬二著「小説上杉鷹山」はよかった。いろいろ本を読んでみて上杉鷹山が、米沢において、いかに大きな功績を残した人物だったかがよく分かった。現在の日本は、莫大な借金を抱え、深刻な不況に陥り、しかもあきれるばかりの政治腐敗を抱えている。上杉鷹山ならどう改革をすすめるのだろうか。彼ならきっと、まずは「情報公開」「倹約」「みんなの知恵を集める」と答えるのではないだろうか。上杉鷹山は、今の時代に通じる歴史上の人物の一人ではないだろうかと思った。今回は駆け足の旅だったが、今度は、ゆっくり米沢の町を見学してみたい。
 

「青春18きっぷ」で桜の名所を巡る旅 その2

富山城と松川べりの桜
 
 「富山駅から歩いて15分ほどの所ですよ」と道行く人に教えてもらい、駅前通りを富山城へ向かった。通りには、「全国チンドンコンクール開催」というポスターがあちらこちらに貼ってある。全国各地からチンドン屋を家業にしている人たちが集まるイベントが、毎年桜の咲くこの時期に開かれているのだという。
 
 富山は織田信長の家来佐々成正がしばらく治めていた。佐々成正が失脚した後、前田藩が治めるようになり、「富山藩10万石」の城下町として発展した町である。今年の富山は「利家とまつ」の放映で、やがて話題を集めそうな所だ。

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 富山城が見えて来た。今、ある富山城の天守閣は戦後に建築されたもので、歴史の浅い城だが、くすんだ感じの白壁とお堀の桜の花が調和してなかなかの景色をつくっていた。

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 しかし、何と言っても、富山一番の花見所は富山城のすぐ近くにある松川べりだ。松川は、用水路のような川である。しかし、以前はここに神通川の本流が流れていたというのだから驚く。明治時代に洪水を防ぐための治水工事が行なわれ、神通川の本流は町外れを流れるようになった。それで、松川と名前を変えて現在に至っているのだという。江戸時代からこの土手には桜が植えられていたそうだが、富山大空襲で燃えてしまい、戦後、再び桜を植え、桜の名所になったという話だ。松川は、屋形船が浮かぶ優雅な川で、桜の咲く松川べりを歩くことが富山の代表的な風景として紹介されている。

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 この日も、満開の桜の木の下を、観光客をのせた屋形船が浮んでいた。菅笠を被り、青い法被を着た船頭さんが、竿を巧に扱って船を進めて行った。川辺りからその風景を眺めるのは、なかなかいいものだった。川辺りの道には物売りの屋台がたくさん並び、家族連れで賑わっていた。小さな女の子と母親が歩いている横を通り過ぎた。「お母さん、買ってよ」と女の子がおねだりしている。「どうするのかな」と見ていたら、母親は知らん顔をして、女の子の手を強く引っ張って歩いて行った。昔、何処かで見たことのある風景だった。

プロフィール

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、細入郵便局・楡原郵便局・「天湖森」・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介しました。

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