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水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

団塊世代の親父のブログです。
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神通峡をたずねて  猪谷かいわい26

猪谷に残る民話・伝説 その11

狐に騙された

 この辺りでは、昔から狐が変身したり、人を化かしたりする時は、後足で立ち上がり、木の葉を一枚頭に乗せて、前足で祈るような仕草をするそうです。

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 ある晩、夏の頃、隣村にたくさんの用事がたまっていた一人の男が、朝早くから出掛け、仕事を終えた頃には、すでに辺りは薄暗くなっていました。
 疲れ休めにと一杯ひっかけて、山道を家へと急いでいると、遠くにほのかな明かりが見えます。「こんな処に家があったかな?」と思いながらも、急いだ上に、背には重荷を背負い、酔いもまわって来て、非常に疲れを覚えたので、その一軒の家の戸をたたき、しばしの休息を願い出ました。

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 囲炉裏には、赤々と火が燃えており、うら若き一人の娘が出て来て、「ちょうど、風呂を沸かしております。疲れなおしに、一風呂浴びていかれてはいかがですか」と言ってくれますので、「これはありがたい。では、さっそく・・・」と、手ぬぐいをひっつかんで、好意に甘えることにしました。
 さて、田舎の百姓たちは、毎日、朝早くから晩遅くまで、野良仕事に精を出しています。その日も、朝早く、一人の百姓が、畑へと山道を上って来ますと、風向きのせいか、何だか、肥の臭いがプンプンします。

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 「はて、俺より早く仕事に出ている奴がいるのかな・・・」と、立ち上がって周囲を見てみると、前方の道路そばの肥の溜桶の中で、一人の男が、まるで風呂にでも入っているかのように、気持ちよさそうに、肥の付いた手ぬぐいで、顔をふいたり、頭から肥をかぶったりしています。
 いやはやなんの、その臭い、臭くないったら・・・。
 百姓は、唖然として、しばらく見ていましたが、やがて、糞尿まみれの男を、溜桶から引きずり出し、小川の水を打ち付けて、ようやく正気に返らせました。
 背負ってきた荷は、近くにありましたが、嫁さんから頼まれた乾魚や油揚げなどはなくなっていました。
 男は、百姓から借りた半てんを身にまとい、軽くなった荷を背負って、すごすごと家へ帰っていったそうです。
             (加藤あやさんのお話)「村の今昔」細入歴史調査同好会編 より


お知らせ
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このブログで紹介した「猪谷かいわい」の手作り文庫本が完成しました。
道の駅「細入」「ほそいり遊々企画」で販売しています。1冊400円です。


道の駅細入「飛越ふれあい物産センター林林」
〒939-2186 富山市片掛3-5 TEL076-484-1815

ほそいり遊々企画
   〒939-2184 富山市楡原380-33 TEL076-485-9103

     

神通峡をたずねて 猪谷かいわい25

猪谷に残る民話・伝説 その10

黒いオバケ 

 子供が、一人で暗い夜道を歩いていると、「負ばりょか、抱かりょか、ザク、ザク、ザク」「負ばりょか、抱かりょか、ザク、ザク、ザク」と言いながら、真っ黒で、目ばかりが大きいオバケが、たくさん、体に取り付いて来るんです。

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 しかし、明るい所へ来ると、不思議なことに、いつの間にか、いなくなっているんですよ。
             (加藤あやさんのお話) 「村の今昔」細入歴史調査同好会編 より

神通峡をたずねて 猪谷かいわい24

猪谷に残る民話・伝説 その9


狐の嫁入り その二 
 
 田口のばあちゃんが、前庭で孫と一緒に十五夜のお団子を作りながら、何気なく川向かいを見ると、東猪谷から舟渡にかけて、提灯の灯が長々と点滅していました。

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 「ウアー狐の嫁入りだ。見て御覧。ほれ、あれが狐の嫁入りだよ・・・」
ばあちゃんが、せっせとお団子を作りながら、狐の嫁入りを見ている間に、お団子の数が、だんだん少なくなって行くのを、そばの孫は、不思議そうに見ていました。
                  (加藤あやさんのお話)「村の今昔」細入歴史調査同好会編 より

神通峡をたずねて 猪谷かいわい 23

猪谷に残る民話・伝説 その8

狐の嫁入り その一

 「狐に騙されて、暗い夜道を歩き回された」という話を、子供の頃よく耳にしましたが、これは、四~五年前の話です。
 孫娘が朝、「今日は帰りが遅くなります」と言って出掛けたので、そろそろ終列車(二十三時)が着く頃と、表に出て、猪谷橋の方向に目をやりますと、蛇場見の辺りに、チラチラと灯りが見えるではありませんか。
 「こんな真夜中に、しかもあの様な高い処で、一体何をしているんだろうか」などと思いながら、しばらく見ていましたが、灯りはなかなか消えません。
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「狐が人を騙す時は、その人の近くに、狐がいるんだよ・・・」と聞いていましたので、何だか薄気味悪くなって、急いで家に入りました。今でも、「狐の嫁入り」なんてあるのでしょうか。
              (森川津や子さんのお話)「村の今昔」細入歴史調査同好会編 より


神通峡をたずねて 猪谷かいわい 22

猪谷に残る民話・伝説 その7

カワウソと提灯 

道路工事で、地形も昔とかなり異なっていますが、国道三六〇号線を宮口三郎さん宅から蟹寺方面へ百m程行った処に、山側に大きく湾曲した場所、「タノンド」が在ります。
当時、「タノンド」の道路下には、小川が流れ、川側は、一間余の石垣で、その下は急な斜面となり、樹木、雑木が鬱蒼としていて薄暗く、道からは、神通川の川面は全く見えませんでした。

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 広辞苑によれば、「カワウソは、イタチ科の哺乳類で、水かきが在って、泳ぎに適し、魚等を捕食す。人語を真似て人を騙し、水に引き込む」とあります。
 但し、「タノンドのカワウソ」は、蝋燭を好み、提灯を付けて行くと、灯りを消してしまうという、一風変わった習性がありました。
 従って、夕方、「タノンド」を通る時には、誰しもが、提灯に火を付けず、特に、夜番の子供達は気味悪がって、「タノンド」より先には行かず、「タノンド」前で折り返して、拍子木とチリン、チリンを、次の当番(隣り)に託し、早々に家に帰ったそうです。    
(森下宗義さんのお話) 「村の今昔」細入歴史調査同好会編 より

神通峡をたずねて 猪谷かいわい 21

猪谷に残る民話・伝説 その6

天狗さまの爪 

 むかし、川向かいの小糸に、たいへん力の強い、大きな男が住んでいました。この男は、力強いのがじまんで、ずいぶんわがままでした。自分のきらいなことは、役人の言うことでも守りませんでした。また、自分の言うことを聞かない者は、ひどい目にあわせて歩きました。
役人たちは、これを聞いて、「困ったやつだ、どうにかしてつかまえてやろう」と思って、大ぜいで、棒や縄を持って、男の家をかこみました。
そーっとのぞいて見ると、男は、グウグウ大きないびきでねていました。「これはよいところだ」と飛びこんで、みんなで男の上から押さえつけました。

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目をさました男は、役人をはねのけて起き上がりましたが、棒や縄を持っているのを見て、「たいへんだ」と、アマへ上がって、ひさしからヒラリと飛びおり、今度は、高いがけから、神通川へザブンと飛びこみました。

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 役人たちが、ワイワイ見ている内に、こちらの岸に泳ぎ着いて、今の赤岩の上から、ぼくたちの村へにげ込みました。その頃、ぼくたちの猪谷には、家が三軒しかなかったので、ドンドン、山へ登りました。そして、深い山の中の岩のかげに屋根を作って、かくれていました。そうして、ユリの根や山いもをほって来て、食べていました。

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 ある晩、ねている小屋の屋根を、バサバサする者がいるので、また、「役人か」と、飛び出ると、鼻の高い赤い顔をした大きな者が、男の首をつかみました。ビックリした男は、つかんだ手をふり放して、「お前は誰だ」と、どなりつけました。「俺か、俺は、この山の天狗だ」と言ったので、男は、「これが天狗さまか」と、思いました。よく見ると、頭には長い白い毛を生やし、赤い着物を着て、手には曲がった爪を生やしていました。
天狗さまは、男に、「お前は、なかなか強い男だということだが、これからは、仲よしになってやろう」と言いました。男は、カラカラと笑って、しりをたたいてみせました。天狗さまは、この男のきかぬ気に、たいへん感心して、けらいになるように、いろいろすすめました。そして、男はとうとう天狗さまのけらいになって、山の中に住みました。

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何年もたってからのある日のこと、男は、村がこいしくなったので、天狗さまに、「山を下りたい」と言いましたら、天狗さまは、毛の生えた大きな爪を一つくれました。それから、男は村へ帰って、よい百姓になりました。
     (猪谷尋常小学校一年生の作文教材)   「村の今昔」細入歴史調査同好会編 よりの再話 

神通峡をたずねて 猪谷かいわい20

猪谷に残る民話・伝説 その5

七人衆の墓 

 今から四百二十年前、永禄年間の頃、武田信玄と上杉謙信の争いがここ、細入谷にも広がり、飛越の武士たちが戦ったそうです。
 七、八年前まで、猪谷の国道線、池内さんの近くに小さなお墓が七つならんでいました。しかし、国道拡張のため、どこか(お寺へ)に移されたそうですが、不明です。

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 これは戦国の頃、落武者が手きずをうけ、ここまで逃れてきましたが、とうとう七人ともここ猪谷で死んでしまったので、この墓がたてられたのだと言い伝えられています。何という武士かわかりませんが、「白屋筑前守秋貞」と、これにしたがう武士ではないかと言われています。
         (猪谷小学校長 丸山 博) 「官報ほそいり 昭和四八年九月五日号」より 

神通峡をたずねて 猪谷かいわい 19

猪谷に残る民話・伝説 その4

飛騨の武将 塩屋秋貞の墓

 天正十一年、塩屋秋貞は、上杉軍の越中城生城主、斉藤信利に攻め入りました。戦いは攻勢でしたが、上杉景勝の援軍が到着して劣勢となり、飛騨に退却する途中、西猪谷砂場で、鉄砲に撃たれました。瀕死の重傷になった秋貞は、戸板に乗せられて運ばれて行きましたが、猪谷の塔婆坂で息を引き取りました。 
 今も、猪谷の旧飛騨街道近くの山の中に、塩屋秋貞のお墓が残っています。    
image3177.jpg  「細入村史」より
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神通峡をたずねて 猪谷かいわい 18

猪谷に残る民話・伝説 その3

白屋秋貞(塩屋秋貞)の話 
 
 都では、桶狭間に勝利を得た信長が、義昭将軍を擁して天下に号令しようとしていた頃である。
 幾月かの間は、雪の下に閉じ込められていた飛越国境の山々にも、日の光が暖かくなると共に、一日一日と少しずつ緑色が加わっていく様に見える。神通川の川淵の断崖の上を、細く長く通っている道も、雪が解け始めると、それにつれて、つるつると滑りやすいぬかるみになる。その細長いぬかるみの道を、飛騨から越中へ、白屋秋貞の越中経略の軍勢が、毎年のように、川に沿って攻め入って来たのである。

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 この年、元亀二年も、一千の軍勢を率いて、西笹津の対岸にある猿倉城を根拠にして、城生城を攻略しようとしたのである。多年、彼は、飛騨の山地から肥沃な越中の平野を望んで、機を見て越中全土を攻略しようとしていた。

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 この城生城攻撃では、川の崖を前に控え、後ろは山続きの堅城も、背後からの攻撃に、城兵が地の利を占められて危うく見えた頃、上杉謙信の援兵によって、秋貞攻撃軍は遂に退却を余儀なくされた。秋貞は、この後、謙信に従うようになった。
 翌年、元亀三年、両岸の山々の紅葉と映発する様な美しい物の具をつけた鎧武者の幾一千騎かが、旗指物を風になびかせながら、神通川の上流へ上流へと上って行く。

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 謙信は、幕営に出迎えのためと道案内を兼ねて、飛騨から面会に来た白屋秋貞を招いて、低く雲の漂った山の谷あいを指さしたり、川の上の獣か何かが、うずくまっている様な赤黒い岩に激しくぶち当たっては流れて行く紺青の水の色の方を振り向いたりして、傍の秋貞に、戦陣にある大将とも思われないくらいに、のびのびと話しかけた。
 彼、謙信がのびのびとした態度でいるのは、戦いの前途を楽観しているというよりは、こんな危ない山道、細い崖道を通って進む戦時行軍中の間にも、彼の心情の底に潜んでいる自然愛好の心持の表れだと言えばよいのであろう。
 道はいよいよ細く、雲はいよいよ低くなって、騎馬の部隊は、困難を感じ出したので、一同は馬を下り、兵糧その他は、この地方に多い牛に負わせて、雨露とも雲ともつかぬ漠々とした中を、絶壁のふちを、猪谷から加賀沢へ、更に、小豆沢へと、幾人かの馬を神通川の川底に犠牲にして、飛騨の白河城に入城した。
 秋貞は、その頃、北越の名将と言うよりは、今もうじきに、信長と一戦を交えて、天下を統一しようとその意気に燃えていた謙信の先陣として、飛騨へ入国し、その余威を受けて付近の平定に従った。この時が、一代の得意の時代であったことと思われる。
 その後、幾年かは過ぎて、天正六年の春を迎えた。謙信は、京都にいる信長と雌雄を決しようとし、領内の武士にふれを出して、六万の軍勢を集め、戦備を整えて、三月十五日をその出発の日と決めたが、その二日前に、病で春日城に没した。そのために、信長は、「謙信亡き後の上杉、取るに足らず」と思ってか、佐々成政に越中を攻めさせた。
 秋貞は、謙信の死後、自己の身の安全からか成政に従った。成政は、越中平定に従うとは言うものの、新川三郡には、謙信の子の景勝という武将がいて、魚津城を本拠にして、成政との間に攻防が繰り返された。秋貞は、猿倉城を拠点にして、佐々のために謙信方に備えた。
 天正九年二月、信長は諸州の騎馬を集めて、天子の御覧に入れようと計った。成政もその儀式に参列のために京都に上った。

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 この虚をついて、魚津城にいた景勝の武将河田豊前は、ひしひしと猿倉城に攻め寄せていた。周囲わずかに一里にも足らぬ小城を幾千の軍勢が潅木を伝わり、葉陰に隠れて、城の上まで押し寄せて、一気に攻落してしまった。
 秋貞は、暗闇にまぎれて、二人の子と城を逃れ、敵の気を抜いて、向こう岸に舟を出して渡った。闇を利用して、逃れるだけ逃れねばならない。ほうき星のように気味の悪い赤い火を噴いては、「ダーン、ダーン」と、山にこだまする鉄砲の響きを、敵のあげる勝どきを後に聞いて、道の分からぬ草薮の間などを、木の切り株につますきながら、川上に向かって逃れて行った。
 もう何里を走ったか分からなかった。その内、東の山の雲がいやにはっきりすると思っていると、だんだん夜が白んで来て、川風が、辺りに少し積もった雪をまともに吹きつけたので、思わず後ろを向いた。とたんに、向こう岸の林の陰から、耳をつんざくような銃声が上がって、すぐ下の堤に二つ三つの砂塵をパッパッと上げた。

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 「事急なり」と思った秋貞父子は、雪を掻き蹴って、傍の木陰に身を寄せた。と、又、魂を奪うようなすさまじい銃声が二、三発響き、秋貞の体を打ち倒した。

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 秋貞は、以前は、謙信を案内して、この土地を揚々として飛騨に入り、今度は、敗戦の憂き目をみて、ここに戦死した。こうした因果な最期について、わが身の上に対しての悔恨の心持で、眼を閉じたのだろうか。「自分が佐々方に味方したのは、上杉公に味方した時と同じ表れで、一日も早く信長公の手によって天下が平定され、尊王の精神によって、上皇様に対し奉り、下万民のため善政を望んだからだ。ここで戦死しても、何ら悔いることはない」と案じて死についただろうか。
 ともあれ、こうして、わが郷土の土地に戦死した秋貞の一生は、戦国時代にありながら悲惨な武士の最期の一つであった。
(猪谷尋常小学校 高等科生徒の作文教材)
                             「村の今昔」 細入歴史調査同好会編 より  


神通峡をたずねて  猪谷かいわい 17

猪谷に残る民話・伝説 その2

大垣宗左衛門の墓
 

 飯村家の裏に小さな五輪塔がある。これは、美濃の国大垣より対岸の小糸集落へ移り住んだ大垣宗左衛門の墓と言われている。

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 宗左衛門は、当時の藩主への上納米の負担に苦しんでいた百姓のため、大罪と知りながら、単身加賀藩の藩主へ直訴し、身を挺しての訴えに感動した藩主が、上納米を軽くし、また銀納を許されたのであるが、新川代官が直訴という罪を犯した宗左衛門を召し取るため、役人を遣わした。それを予期していた宗左衛門はうまく逃げ、神通川を渡り、役人が手を出せない富山藩である西猪谷へ着いたのである
 そうして、宗左衛門は、猪谷の森家に身を寄せ、猪谷のために尽くしたといわれている。
森家には宗左衛門が所持していたという「天狗の爪(サメの歯?)」なるものがあったが、昭和十六年の大火によって消失したという。 
                                     「細入村史」
プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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