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水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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神通峡をたずねて  片掛かいわい25

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話17

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その十二)
 

 「いつも健康でありたい」、これは古今東西、老若男女をとわず、生をこの世にうけているものの誰もが願う最大のものである。

 今では医療施設も次第に充実し健康保険も実施されて、交通機関も発達している。すぐそこに医療機関がなくても自動車はどこにもあり、急を要する場合は飛行機やヘリコプターなどによって、めざす医療機関へしかも短時間で到着することが出来る。それにひきかえ大正時代から昭和のはじめ頃にかけては、健康保険はなく病気の場合医療費は莫大なのもになった。その為、入院を必要と思われる人でも山村などでは、経費以外の理由もあるがなかなか入院出来なかった。

 完全看護とは程遠いその頃では、無理をしてまで遠路の病院へ入院しても、その付添いに家族の誰かを必要とする。付添い人の宿泊所や生活費のことまで考えると、一般の家ではそれらが叶えられることは非常に少なく、子供の多い家では不可能に近かった。私が危篤に陥ったときも家にいた。それは金銭的なこともあろうが富山市まで出て入院できない理由が沢山あったからである。家での両親や祖母の寝食を忘れるほどの看護には、全く頭が下るばかりだが、最後は私自身の体力がものをいったのだと後で医師から話された。私のこの体験を他人のそれと比較するのは筋違いかもしれないし、あんな元気で丈夫なと言われた人が死亡されたことも知っている。私の知人や友人のうちでも戦死は別として多く亡くなっているが、それらの人々の多くは体力に欠陥があり、早く死亡していることに気がつく。体力という言葉は具体的でないとお叱りを受けることを覚悟で、「いつも健康でありたい」と次に「体力をつける」ことを、ここで特に書き加えたい。
 
 病気ではその当時最も多かったのが結核性疾患だったと聞いている。そのほか肋膜炎(胸膜炎)、腹膜炎もかなりの数であったらしい。ただ、私も子供だったので村での病気の種類やその実態の本当の事は詳らかでないので、大人から聞いた事などを書くことにしよう。今最も恐れられている癌も昔からあって、特に胃癌については何度も聞いたことがある。胃以外の癌もあったのだろうが、その頃の医療技術では発見まで至らず。他の病名のまま多くの人が死んでいったと思われる。次に成人病では脳出血、脳溢血、高血圧、胃腸病などが多かったようだ。脳出血、脳溢血は聞いたのを書いたので、それが本当の病名であったかどうかわからない。その頃と今を比べて最も違うことは、一才未満の赤ちゃんの死亡率で、今とはケタ違いに多かったので平均寿命にまで影響したほどである。

 片掛は山村だったが幸いお医者さんがいてくれたので(村で基本給を出していた)その点有難かった。それでも手術を要する病人や急に入院させる必要のあるときなどは、戸板にのせて十二㎞も人手に頼って歩いて笹津まで運び、そこからやっと汽車に乗せ富山市の病院に入院させたのだから、病人も家の人達も大変だった。これも高山線の開通によってそのような心配や苦労がなくなったことは、高山線という文明の使者が、村人に与えてくれた最も大きな恩恵であったといえよう。

 結核性疾患は不治の病として最も恐れられ、家の者にも伝染するというので嫌われていた。特にその療養期間が長かったので病人も家の者も経済的、精神的の負担となやみが大きかった。ときには十年間も入院加療していて、そのあと死亡した為相当裕福だったと言われた家でもすっかり金を使い、残った者は途方に暮れたという話を幾例も知っている。

 家々には売薬の袋が置いてあり、置薬が一応揃っていたので風邪ひきや下痢などの場合はその売薬を服用し、間に合わせていた。子供達はいつもカスリ傷などをしていたので、今の子供のようにすぐ消毒薬を塗るということはしなかった。それでも化膿するようなことなく、すぐに治っていった。

 誰かが死亡すると、早速近親者や近隣の者が集まり葬儀の準備をはじめる。富山市まで行って買い求めるものもあるので、それぞれ手分して作業することになっていた。納棺はその家によって違うが、私の家では家の者がやっていて、棺は立て棺で蓋が取り外しできるように作られていた。近所のご婦人達が手伝いに来て食事の準備や後片付けなどを受持っていた。村では昔からのシキタリで大勢食事をする場合、その材料を持ち寄ることになっていて家人がその為の心配をすることはなかった。勿論、香典は村の家全部が持ってきていた(ユイという制度の様な習慣で保険の小規模なものと思えば間違いない)。

 葬式当日はその宗派によって若干異なる。家の仏壇の前で読経などが済むと、次はお寺へ行き所定の順序に従って葬儀が行なわれている。こうして棺は近親者四名で肩に担ぎ、家からお寺へ、お寺から火葬場へ運ばれる。火葬場といっても立派な設備があるわけがなく、屋根もないその場所というのは飛騨街道(旧道)から三百m程入ったところで、地蔵様が並んでいらっしゃる。そこに大きな石が数個集められ、その上に木炭三俵程と、太い薪五束ぐらいを丁寧に並べ棺をその上に置く。棺のまわりと上には藁を積み重ね、これでよいと確かめた後血族の者が火をつける。
 
 火つけを終ると近親者は家へ帰るが、火葬場の番をする人が二名来てくれて朝までいてくれるので安心である。明朝家族などが骨がめを持って骨拾いに行く。「朝(あした)に紅顔の美少年も夕(ゆうべ)には白骨に…」これはお経の一節であるが、白骨を見た瞬間、生あるものは必ず死すの言葉を思い浮かべ、人間のはかなさをしみじみ感じたものである。

 家々の墓は洞山麓の一か所に集められて、各家の石塔や墓が立ち並んでいる。毎年お盆近くになると墓掃除をしに行くことになっていて、墓のまわりを丁寧に掃除し玉石を並べかえる。雑草もきれいに抜き取って、お盆の日に死者の霊が戻ってきても、すぐわかるようにしておく。お盆には好物を供え、水をかけ、花を立て、線香、ローソクを立ててお参りする。

 とかく一人前になった人達は、一人で大きくなったような気になりやすい。このお盆の日に祖先あっての自分であることを、あらためて頭の芯から反省したい。そして、祖先に対する思い出を死者との心の対話の為に、現世に生きている私はできる限り今後も墓参りをしたい。

                         (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧) 文山秀三著




神通峡をたずねて  片掛かいわい24

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話16

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その十一)

 
 農機具(といっても機械的なものはあまりなかったが)のうち、木で作られたもの及び鎌やトグワ、クワ、ミツグワなどの木で作られている柄(エ)に焼印を押していた。墨や塗粉などで家の名を書いていてもすぐに消えてしまうので、消えることのない焼印は最もよい方法だった。鍛冶屋(カンジヤと言っていた)に頼んで鉄製のものを作ってもらい、焼いて印を押したものである。焼印は農機具だけでなく、下駄や足駄などにも押していた。
 
 そのころ車屋という鍛冶屋とも区別のつかないような修理屋があった。車屋といっても車を引張る車夫ではなく、主に修理するもので一部木工もやるという一寸変った職業であった。荷車、馬車などでは全て車は鉄の輪がはまっていた(人力車だけはタイヤだった)ので、すり減った鉄の輪を取り替えるのが主な仕事で、そのときに木工の修理もするのが普通だった。荷車にも馬車にもタイヤが使われるようになったのは昭和に入ってからで、それも徐々に普及して行った。鉄の輪がはまった車輪は相当永い間使われていた。その鉄の輪の入った馬車に乗り砂利道を行くと、まるで空気の抜けたタイヤの自転車で走っているよりもひどいもので、その振動は腸捻転をおこすのではないかと心配するほどだった。
 
 当時、村を次から次へと商売していたものの内、修理業としてゴム靴の修理屋、コウモリ傘直し、イカケ屋などがあった。小学校へゴム靴を履いて行ったもので、そのゴム靴が破れたり穴があいたりする。そこへゴムを貼り付けるものでゴム糊やヤスリなどを使って修理をしていた。コウモリ直しは、特に中心部の手の入らないような狭い部分にも器用に指や工具を差込んで修理していたのを覚えている。
 
 イカケ屋というのは金属製食器や鍋や釜などを修理するもので、一番沢山道具類を持ち運んでやっていた。フイゴで風を送って温度を上げ金属を溶かし、あらかじめ粘土で形を作っておいたすき間へ溶けた金属を流し込むのが面白かった。物珍しいのでイカケ屋さんの仕事の邪魔にならないようにアグラをかいたりシャガンだりして眺めたものである。特に金属(その金属が何であったかまでは聞いていない)が溶けて液状になり、それを流し込むときの一瞬は心臓が止るほど緊張して見つめたものである。
 
 いくら山村といってもたまに物売りが来た。覚えているものでは金魚売や鯉の子売り、十銭均一の店などがあった。金魚売りはその売り声が澄んでいてのんびりしていたので何回聞いてもよいものだと思った。山村では鯉を水田へ放流して、ある程度大きくしてから自宅の池へ入れることが行なわれていたので、田植が終るとそのころを待ちかねたように鯉の子を売りに来たものである。
 
 十銭均一(何でも一品十銭)の店と書いたが、商店が移動してくるのではなく、荷車に日用品類を積んだりブラ下げたりして売りに来た。今でいえばさしずめ二百円か三百円均一の店のようなものであると思えばよい。そんな安物ばかりでも、来る度にそれまで見たことのない日用品が見られるのも楽しみだった。
 
 子供の頃二、三年に一度映画を見た。映画といっても興業ではなく仏教の布教に使われたもので、親鸞上人一代記などでは「吉崎の嫁おどし」の中に出てくる鬼婆々はすごかった。恐ろしい鬼の面は子供達を恐怖におののかせたものである。

 富山から猪谷まで高山線が一部開通してから、一年に数回映画が来るようになった。駅が猪谷にあったので次第に猪谷は人家も増えて行き、映画の会場も猪谷だった(所謂映画館ではなく他の催物の会場にもなった)。映画は時代物でチャンバラが多く、伊井容峰主演など若い人には忘れられてしまった人のものがよく来た。水谷八重子が子役で出演していた昔のことで、たまに現代物の恋愛映画が来ても、今のようなキスシーンは無く、ヌードなどはもってのほかだった。愛し合っている二人が手を握りしめる場面が精一杯の表現として許されていたらしい。それでも若い人達はその場面を食い入るように見つめ、ため息をつき手に汗を握っていたのである。
 
 弁士が得意の声をはりあげての説明がついて、静かな音楽が流れるなど、トーキーとはまた違った味があったものだ。その頃は映画観賞といえるものでなく、片掛から四㎞を歩いて行くので、食べ物飲み物などを持参した上での映画見物で、会場はゴザが敷いてあって男達はその上にアグラをかいて座っていたし、女の人達は座布団を持ち込み行儀良くお座りしての映画見物であった。

 それらとは別に飛騨街道沿いに浪曲師や浄瑠璃語りなどが街道の途中私の家に泊り、家賃稼ぎに部屋と部屋の仕切りになっている戸やフスマを外し、村人達を集めて「公演」をしていた。

                        (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著



神通峡をたずねて  片掛かいわい23

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話15

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その十)
 

 その頃の度量衡は尺貫法(しゃくかんほう)が主だった。メートル式のものは学校や機械的寸法などで行なわれていただけで、一般には尺貫法が使われていた。
 
 尺貫法では長さの基準に里(リ)、町(チョウ)、間(ケン)、丈(ジョウ)、尺(シャク)、寸(スン)、分(ブ)、厘(リン)などと呼ばれた。厘・分・寸・尺・丈までは十進法で、一寸は十分、一尺は十寸、一丈は十尺などである。メートルとの比では三尺三寸が一mに当る。一間(ケン)は六尺、一町(チョウ)は六十間(ケン)、一里は三十六町(チョウ)に決められていた。(昔中国で使われていた「里」は、ここに掲げた一里ではない)以上の長さの基本となるものはカネジャクというもので殆どに使われていたが、裁縫などには別にクジラジャクというものがあってそのことだけに使われていた。一間(ケン)即ち六尺は「五尺の身体」と言われた日本人の身長にあわせ、建築物の一方の基準として使われ今も使われている。戸や障子、フスマ(カラカミと言っていた)などは五尺八寸にきまっていたと聞いていて、今でもその寸法のものが大部分である。メートルとの比で一間は一m八十㎝ということになっている。足袋(たび)の文数(モンスウ)は江戸時代に一文銭の直径を一文といい、その長さの何倍が何文(もん)と呼ばれるようになったと聞いている。
 
 広さは平方寸、平方尺などと呼んでいたが、別に一寸四方とか三尺四方などとも使いわけられていた。家屋などの場合、一間(ケン)四方のことを一坪(ツボ)と呼び、土地の中でも山林や田畠などの場合は一歩(ブ)と言っていた。田や畠などの広さの場合、町(チョウ)、反(タン、段とも書く)、畝(セ)がそれぞれの基準として呼ばれていた。ただ、面積の場合の町(チョウ)と長さの場合の町(チョウ)が紛らわしいので、面積の場合町歩(チョウブ)と歩(ブ)を付けて区別して呼んでいた。一畝(セ)は三十歩、一反は十畝、一町歩は十反と決められていた。土地でも屋敷や工場敷地のように田畠でも山林でもないところでは、相当広くても何万坪又は何千坪などと呼ばれていた。単位を坪で表す場合には何町歩とか反の単位を使わず、広い所でもその数字に坪を付けるだけの表し方をしていた。
 
 家の中では、畳の長さが六尺、幅が三尺(実際にはシキイなどの幅が差引かれるので、これよりも小さい)を一畳(ジョウ)といい、一坪に二畳敷かれることになる。二間(ケン)に一間(ケン)半の部屋は畳六枚敷けるので六畳間(ジョウマ)といわれ、その様な言い方で二間四方の部屋は八畳間、一間半四方の部屋を四畳半と呼んで現在も通用している。また農道や農業用水路はいくら狭いものでも、正式には三尺に決められていたようだ。
 
 重さは、匁(モンメ)貫(カン)が主な単位で、匁の十分の一を分(フン)と呼んだ。一貫は千匁でその間に別な呼び方をする単位はなかった。また貫の上にも別称の単位はなく、十貫、千貫など、いくら重くても貫をつけていた。ちなみに四貫は十五㎏で、米一俵正味六十㎏は十六貫である。この重さの単位匁(モンメ)も百匁以上になると百モンメと言わず、百目(ヒャクメ)又は二百五十目、五百目などと呼ばれていた。この様に「貫」と寸法の「尺」が最も重要で多く使われたことから、基準のようになり「尺貫法」と言われたのであろう。
 
 容積は、勺(シャク又はセキ)、合(ゴウ)、升(ショウ)、斗(ト)、石(コク)などに分けられ、それぞれ十進歩法で上の呼称になる。つまり十合で一升、十升で一斗、十斗で一石になる。それぞれ一合枡(マス)、一升枡、一斗枡などがあって、液体ばかりでなく穀物なども枡で計っていた。米や麦、豆類も枡で計っていたが、米一俵(正味)四斗であっても十六貫と重さで言うのが普通であった。

 メートル法では、その基準となるものがはっきりしているし、原器も造られ保管されている。尺貫法ではその基準となるものが何であるかは、残念ながら詳らかにきいていない(わが国なりにそれに相応しい原器は造られていたと思うが)。一間(ケン)即ち六尺は人間の身長から考えられ、畳一枚は寝ている間の寝返りなどを考慮しても、普通なら幅三尺でよいといわれるので判るけれども、その元になる一尺はどうして定められたものかよく判らない。重さの一貫、又は一匁も何を基準としたものか判らない。とは言っても永い年月使われていたのだから、それなりの理由があったに違いない。ただ、尺貫法でも十進法が多く使われていて、洋の東西を問わず数の根源は両手の指十本から始まっていることを示していのが面白い。
 
 交通機関のなかった昔、人の移動や旅は全て歩いて目的地へ行ったものである。歩くのに強かった昔の人でも歩くのに疲れを覚え、小休止したくなるのが一里(リ)ぐらいであったというから、一里という単位を作った意義も達せられたように思う。

 履物では下駄(ゲタ)や足駄(アシタ)が主だったので、靴の様に種々の寸歩のものがなく、せいぜい四種類ぐらいの別け方で子供から大人まで間に合っていた。着物にしても、洋服の様に特に子供では成長が早いので一年か二年で着れなくなるということがなく、肩や腰に縫い上げ(ヌイアゲ)をして着るということがどこの家でも行なわれていた。身体が大きくなれば縫い上げを縮めるなどして身体に合せ、相当長い年月着れるように考えられていた。また呉服太物の一反(タン)は成人一人分の着物が作られる布のことで、長さが十m強、幅が約三十四㎝のものだった。別に布地二反で一匹(又は疋とも書く)というような呼び方もあった。

                       (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著





神通峡をたずねて  片掛かいわい22

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話14

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その九)
 

 結婚式は、今と大きく変っていたとは言えないが、公民館などで行われることはなく必ず自分の家で行われていた。式が近づくと畳の表替えやらフスマの張替え、障子を張替えたり、すすで汚れた柱を磨いたり。梁を拭いたりして家の中は見違えるほど一新したものである。式の順序はその家によって若干の差があったと聞いているが、今と比べて特記するほどの変りようはなかったらしい。ただ、酒宴だけが延々と続いて(その頃の人達は酒の強い人が多かった)いたといわれ、泊りがけで結婚式にくる人も多かったという。
 
 新婚旅行はそのころあまり行われていなかったようで、新婚旅行のみやげ話など聞いたことはない。とにかく「家」が中心で、家柄というものが重視されていた時代だから、新郎新婦のことよりも「家」が先ず考えられた。結婚式はなるべく農閑期に行うことが多かった。之は農作業の忙しい時よりもゆっくりした心で式を挙げる方が都合がよいということで、一般農民は晩秋から冬、春先に挙式が多かった。この結婚式の時のごちそうばかりは富山市から本職の料理人を頼み、材料も豊富に運ばれ盛大であった。

 今は出産といえば産院で行われるのが常識であるが、その頃の初産は実家で出産し、第二子以後は大抵自分の家で産婆さん(助産婦というようになったのは後のこと)の手助けで行われるのが普通だった。妊婦は出産二日、三日前まで畠仕事などをしていたと聞いていたし、産後も仕事に出るのが早かった。それでいて、七人も八人もの子供を生み育てたのだから全く驚くほかはない。特に元気のよい妊婦が、山仕事に行っていて山の中で産気づき、生んだ後帰りに谷川の水でよく洗ってから、赤ん坊を抱いて家へ帰ったという話も聞いた。
 
 産所は納戸(なんど)という部屋で、明治の頃までうす暗い部屋が多かったそうだが、次第に改善され窓などもつけて明るくなって行った。赤ちゃんはすべてと言っていいほど母乳によって育てられ、育児用のミルクはあったものの高価だったので、どうしても母乳が出ない人だけで金のある家が育児に使っていたものである。母乳は育児に一番良いと思われていたし、人工乳ではいろいろ面倒なことがあったので、一般の家では母親の乳の出が悪かった場合、他家の母乳を飲ませてもたっていた(モライチチと呼んでいた)。少しでも余計にその上良質な乳が出るように、自宅で米の粉を作り団子にして味噌汁の中へ入れたり、麦粉を練って小さくちぎり味噌汁の中へ入れたり、聞いてきた良いと思われることを試み実行した。この様に母乳の出を良くする為に母親のみならず、家中の者が協力し食べるものや副食について不平を言うものはいなかった。

img9111.jpg 「細入村史」 
 
 その頃、私の村では乳児であっても家に置いて、母親が田畠や山の仕事に行くことは常識だった。赤ん坊を布団に寝かせておくか「ツブラ」の中へ入れておくかはその家によって違っていたようだ。それぞれ特徴があったのだろう。「ツブラ」は藁で編んだ直径五十㎝、高さ三十五㎝ぐらいの、おわんの様な形をした中へ、赤ん坊の身体のまわりを布切れなどで保温し、倒れないようにアグラをかいたような体位で入れるものである。首がすわらない内は布団に寝かせるので、生れたすぐからツブラに入れるのではない。今では昔語りになってしまったツブラだが、私もそのツブラで育った一人である。
 
 私に七才年下の妹がいる。夕方はどこの家でも夕食の支度などで母親は忙しい。かまってもらえないので妹は泣き出す。うるさいのとお客さんにも迷惑だというので、私は小学校の一年生頃から妹の子守りを言いつけられた。一時間程外へ出ておれといわれ、おんぶして外へ出るものの、日が暮れてくるし子守唄を唄ってやっても泣き止まない。お腹が空いているのだろうが家へ帰るわけにいかない。はじめのうち妹は家の前へ来ても自分の家ということを覚えていなかったが、だんだん知恵がついてくるとチャンとわが家を知っていて、家の前へ来ると泣き止む。泣き止んだと思う間もなく反対の方へ家から遠ざかるとまた泣き出す。泣き出したいのは子守りをしている私の方だった。帯がくい込んで肩が痛くなり妹をゆすり上げながら、ようやく一時間経つとヤレヤレと家へ帰る。妹は、それまで泣き叫んだことがウソのようにニコニコ顔になり、母に抱かれ乳房にシャブリつく。
 
 ようやく子守りから解放されたが、しばらく肩の痛みが続いているようで、身体全体がどうもおかしいと思われるほどだった。このような子守りは、今日やれば明日はやらなくてもよいというものではない。年令のわりに頑丈だったのでいつでも言いつけられた。それにしても肩が痛くなるとは、一年生くらいでいくら元気だといわれた私でも、体力の限界があり身体はまだ子供だったのである。
 
 このように兄弟のいる家では、年上の者が妹や弟の子守りをすることが一般に行なわれていたが、兄弟の少ない者や金持ちの家では子守りの女の子(ベーヤと呼んでいた)を置いて、専門に幼い子供を見てもらっていた。私は小さい頃から妹の子守りをしてオシッコをひっかけられたり、ときにはオムツを取替えたりなどしてきたが、そういう私も、兄達にこのようなお世話になったのだろうか。

                     (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著



神通峡をたずねて  片掛かいわい21

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話13

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その八)
 

 そのころ住家の特徴は屋根が板屋根(又は板葺き)のものが多かったことと、柱が太かったことを覚えている。板屋根というのは木の板で屋根を葺いていたもので、腐りにくい栗の木の厚さ五㎜位の板を並べ、その上に板が風に吹き飛ばされないように石を並べておく。この板屋根はその後次第に瓦葺に替えられて行ったが、飛騨の方へ行くと今でもよく見かける屋根である。腐りにくいといっても、数年のうちには腐り始め、割れるなどのことがあって、それらを補給しながら、毎年のように屋根板の葺き替えをしたものである。私は子供のときから屋根へ上り、父や兄の葺き替えの手伝いをしながら、どういう状態になれば雨が漏るようになるかを覚えていった。

img9102.jpg  「細入村史」

 柱の太かったのは、屋根に石をのせるという前提もあるが、積雪量が多くその重量に堪える為と考えられる。片掛ではカヤで葺いた屋根の家は一戸もなかった。之は明治の大火のとき火の粉が飛んで相当離れた所にある家でも類焼したという苦い経験があったので、それ以後に建てられたものではカヤ葺の家はなくなったと聞いている。

 都市の一般住宅に比べて山村の住家は広い。これは、住家は単に「食うところに寝るところ」だけではなく、蚕(かいこ)も飼うし藁仕事もする。納屋(又は農作業をする為と農具の置場のための専用建物)のない家では家の中で脱穀やモミスリなどもしなければならない。そのほか結婚式、葬式、法事、報恩講(ホンコサマとも言って、法事は三年とか七年とかの周忌によって行われるが、報恩講は毎年一度農閑期に法要を行い、祖先の冥福を願ったもので法事と重なる年は法事の中へ含ませた)なども自宅で営まなければならない。その度毎に親類縁者が多く集まってくる。そのほかにも、お祭りやお盆などに、仏事とは違った人達が実家へ集まるのが習慣になっていた。産児制限ということがなかったその頃では、子供の数が多く、それら子供の為の部屋を確保する必要もある。このようなもろもろのことがあって、大抵の家は大きく広く作られていたと思われるが、一方、家柄によって家の中での作業にあまり関係なく広く作られていたものもあった。

img9105.jpg 「細入村史」

 家の庇(ヒサシ)は一般に長く出ていた。片掛のような積雪地では庇に積る雪のことを思うと不合理なようにも考えられるが、別な角度からいろいろ眺めた場合その理由が他にあることに気がつく。日本の家は元来木で建てられ、光を入れる為に(昔はガラスがなかったので)障子戸が家の外側にめぐらされている場合が多い。おまけに、フスマは紙が使用されていたので、風雨の場合でも雨が障子戸に直接かからないように考えられたものであろう。また、ネダ(家屋の基礎にしてある石の上に横になっている角材)を雨水の浸入による腐蝕から護る為にも庇を長くする必要があったものと考えられる。これらのほか、その長い庇を利用しての使い方もあって、農作物やその他のものを一時的に保管する置場としても、雨のかからない庇の下が活用されていた。昭和になってから、一般の家でも硝子を使うことが広がっていったけれども、それまで硝子のある家といえば商店の表戸か学校ぐらいのものであった。

img9101.jpg 「細入村史」

 この住家に板張りの広いオエ(と呼んでいた)があって、そのオエにイロリが四角く切られていた。「オエ」はどの様な意味かどんな言葉が変化した後に呼ばれるようになったのかは詳ではないが、オエには大抵の家で一部にゴザが敷いてあった。このゴザというのは、表は畳表を使ってあるが畳の三分の一程の厚みで、都会などではみられない特殊なものだった。そしてイロリのまわりにもこのゴザが敷かれていた。オエが広いのでお祭りの獅子舞などもこのオエで行われていて、少しも狭いと感じなかったほどである。
 
img9104.jpg  「細入村史」

 土間は読んで字の如く赤土などを叩いて押し固めたものだった。セメントが出回るようになって、次第にコンクリートに替えられて行ったが、それまではこのような土間がコンクリートの様に使われていた。ところが、どういう訳かこの土間を「ニワ」と呼んでいた。私達が普通に使っている庭という言葉は家の外であるのに、「ニワ」は家の中であったのも面白い。家の周囲にはいろいろな木が植えてあったり、草花なども植えてあってどこも「庭」だった。

img9103.jpg 「細入村史」

 多くの家には下家(げや)があって縁側などに使われていた。このようなところを「ガーギ」と呼んでいたが、これは造作からいっても上越地方の「ガンギ」と全然違うものである。イロリは四角いが、その四角い中にも位(くらい)があって横座(よこざ・正面で一番よいところ)とか下座(しもざ)などの名がついていて、家の主人は横座に座ることになっていた。子供の頃、うっかり横座でアグラをかいていて見つかり、叱られたことがあった。

 一般に信心が厚かった片掛では仏壇に大金をかけることを惜しまない風潮があったようで、私の家でも仏壇だけは立派だった。法事や報恩講が近づくと、学校から帰るとすぐに仏具などを磨いたもので、見違える程ビカピカにしたものである。仏壇を安置してある部屋を仏間というが、私の家では八畳間でよい部屋を仏間に当てていた。私に信仰心があったかどうかを別にして、子供の頃から仏壇の前で手をあわせ、「ナムアミダブツ」を唱えたあとで朝ご飯を食べるように習慣づけられていた。

 家にはそれぞれ家紋があったようで、子供の私には片掛にどれ程の種類があって、どの家はどの紋であったかということは残念ながら覚えていない。ただ、紋付きに羽織、袴が正装と言われていたので、紋付きには必ずその家の紋がついていた。

(飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著


神通峡をたずねて  片掛かいわい20

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話12

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その七)
 

 山村だから都市のような上水道はない。しかし、片掛では洞山の麓の岩の間から湧き出る水は、他所ではなかなか見当らないといわれるよい水で自慢の一つだった。湧き出る所に不動尊がまつってあり、元のところから土管で引き、各家へはパイプを引いて上水道として使っていたが、一年中殆ど水温、水量ともに変化しなかった。その上、大雨が降っても濁るということがなく、本当に水にだけは恵まれていた。旅人や都市から来た人達が、何といううまい水だといいながらヒシャクで何杯も飲んでいたものである。
 
 そのころの一般の農家ではどんな副食物を食べていたか詳らかではないが、私の家は小さいとはいえ旅人宿をしていたので、一般の農家に比べて少しは良かったといえるのではなかろうか。之は副食ではないが、家の者が飲むお茶は番茶で、そのホウジ茶は自分の家で作っていた。このほかにお客さん用に上等と普通のお茶を絶やしたことはなかったし、お酒も良いものと普通のもの(そのころは何級酒という等級はなかった)をいつでも揃えていた。また流通がよくなかったので魚などの缶詰も相当数保管されていて、急な宿泊者があってもまごつかないようにしていたものである。
 
 今のように、お金さえ払えば何でも入手できるという時代ではなかったし、生かさず殺さずの江戸幕府の政策が明治まで残り、村人達は粗食に堪えるように日頃から訓練されていた。そして季節毎に合った種類の少ない材料を、形をかえたり味付けに新味をもたせたりなど、いろいろ工夫して食べることを考えていた。また、豆腐は昔からあったものだがその料理の仕方などは今に比べて多く、上手に食べていたように思う。食用油は主に菜種油を使い、豆腐の油あげのほか揚げ物にもよく使われていた。脂肪分としてはこのほかに胡麻がよく料理に使われていた。調味料の大半は味噌で、味噌はどこの家でも自作の大豆を煮て糀(こうじ)だけは買って作り、一年中味噌汁の絶え間はなかった。私の家でも、大人の身長よりも高い(深い)味噌樽が何本も土蔵に貯えられ、三年後にならないと食べはじめなかったほど年数をかけていた。そのころでも酢や醤油はあって調味料として使われていたほか、トウガラシ(ナンバといっていた)は香辛料として一般に用いられていた。

img9091.jpg   「細入村史」

 冷凍食品というものがなかったので、海の魚といえば塩魚(シオモノといっていた)や干物が多かった。たまに鮮魚を売りに来た。ザルに雪か氷を敷きつめた上に魚を並べ天秤棒で担いで売りに来たものである。その魚も相当時間が経っているので鮮度はかなり落ちていたが、山村の人達はそれでも「やっぱり生魚(なまざかな)はうまい」といって食べていた。本当に海でとれた鮮魚がよく出回るようになったのは、その後高山線が猪谷まで開通してからで、それまでは特別のことがなければ生き生きした海の魚を見ることはできなかった。

 肉類は、禅宗や浄土宗、浄土真宗などの門徒であったことも原因で、牛肉や豚肉をあまり食べなかったようだ。勿論肉を売る店もなかったのだからやむを得ないが、後に高山線の建設工事が始まり、他県から多くの土方(どかた・土木作業に従事する人々)が入り込むようになり食べていたので、村人達も次第に食べるようになった。乳製品としては育児用のミルクがあったぐらいで他に乳製品らしいものは覚えていない。しかし、牛や豚をあまり食べなかった反面、熊、兎、キジ等地元やその付近でとれるものの肉をときどき食べることができたし、海の鮮魚が少なくても神通川で川魚がとれた。

 今は全国どこへ行っても季節にかまわず茄子やトマト、白菜、キャベツなどが売られていて、どの野菜がいつの季節のものか分らない人が多いと聞いている。その頃でも、大根やニンジン、ゴボーなどは作られていたが、片掛では昭和になってようやく茄子が作られるようになり、トマトや白菜が植えられるようになった。それ以前の軟い菜といえば杓子菜(しゃくしな)ぐらいだったので、白菜を作るようになって軟らかくてうまいし、その上貯蔵がきくということで喜ばれたものである。トマトは何か臭いがあるというので、みんなに浸透するのに少し年月がかかったようだ。

 南瓜(ナンカンといっていた)は副食としても、おやつにしてもうまいしその上保存がきいた。ジャガイモ(センダイモといっていた)やサツマイモも保存食物であるが、サツマイモは寒さに弱いのでその格納場所は特に注意をはらい、イロリに近い床下にモミガラなどを入れその中へ保管していた。一方、一般に山菜といわれる物の中では保存用として貯えられたものにゼンマイがあった。片掛ではワラビをあまり干さないが、ゼンマイはどこの家でも干して野菜の少ない冬場に食べるように貯蔵されていた。山菜はほかにも多くの物を取りに行ったが、ゼンマイ以外の物は干してもうまくないし貯蔵もきかないものが大部分で、やっぱり山菜はとったときに食べるのが一番うまいようだ。

                        (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著




神通峡をたずねて  片掛かいわい19

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話11

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その六)
 

 そのころ片掛では主食は米だった。当然のことを書くようだが、すぐ南の飛騨では一般に主食として行き渡ったのは、その後の戦時中米が誰にでも配給されるようになってからである。戦争で食糧難といわれた中で米が常食として食べられるようになったことは、飛騨に住む人達にとってこの上ない喜びだった。このように「主食は米だった」のはよい方で「米ではなかった」人もいたのである。

 その米であるが、当時は肉体労働が多かったせいで、今に比べて多量の米を食べていた。何しろ貧しい副食物ではカロリーが少ないので、どうしても米に頼らざるを得なかった。俗に「一升飯を食べる」という言葉があったほどで、仕事をよくやったかわりに米も沢山食べていた。私の家では家族は十人で、ほかに父母に死なれたイトコが一人加わっているという大家族で、僅かの宿泊者(それも毎日ではない)があったにせよ、十日間で一俵(六十㎏)の米を食べていた。水田は少しあったが、買わなければならない米の代金を工面するのが大変だったようだ。自作の大豆は味噌作りに殆ど使われたようだが、少しでも米を倹約する為に小豆、エンドウ、ウズラマメ、粟、麦などを主に東野(ひがしの)や下山(しもやま)の畠で作っていた。
 
 学校へは二年生のときから、毎日のように弁当を持って行った。風呂敷に包んだ弁当は登下校の途中遊んだりするのに都合のよいように、腰にしばりつけていったもので、まさに腰弁当だった。はじめは、竹や柳で編んだ行李の弁当だったが、後にアルミの弁当箱が出はじめたので、それからはアルミのものを使っていた。弁当のおかずは野菜や山菜の煮付けたもののほか、梅干や漬物などで魚といえば干物ぐらいのものだった。とにかく、塩鮭塩鱒(ショビキと言っていた)の切り身などは上等の部類だったのだから情けない。
 
 冬、教室の暖房はストーブではなく、大きな四角い火鉢に炭火を入れていた。弁当のおかずに干いわし(その頃は鰯が沢山とれたので干(ひ)いわしは一番安上りでおいしかった)を持って行き、昼食時間になると火鉢の炭火をひろげ、焼いて食べたものだ。大勢で干いわしを焼いたときなど、休憩時間がすぎてもまだいわしの臭いが教室に立ちこめていたことがよくあった。教室の暖房も高山線が富山―猪谷間部分開通によって石炭が運ばれてくるようになり、石炭ストーブを使うように変って行った。

img9081.jpg  「細入村史」
 
 私の家に馬がいた。この馬を飼っている主な目的は、春になって農繁期に入ろうとするころ富山市付近の大きな農家へ耕作用に貸し出すことにあった。一か月半程耕した代償は金銭ではなく玄米が秋に支払われることになっていたが、毎日の重労働に馬体も痩せこけて家に帰ってくる姿は痛々しかった。馬が大農家での仕事を終え、わが家まで歩いてくるのだが、家の前まで来るとなつかしいのか一声高くヒヒーンと鳴くのが常で家中の者が出迎えたものである。勿論、馬を飼っていれば堆肥ができることになり、それを肥料にしていたことも大きい。だた、子供のときから馬と遊んだ私にとって、馬は玄米をもらうことや堆肥製造の為ばかりではなかった。
 
 米代を倹約する為に雑穀類は当然だが、ジャガイモやサツマイモなどを米と一緒に入れ混ぜご飯(米の中へ米以外のものを一緒に炊き込むものを混ぜご飯といっていた)をしたものである。そういう反面、餅米をふかす赤飯(子供達はアカママといっていた)はお祭り、お盆、彼岸の中日(ちゅうにち)などに食べたし、何かおめでたい事があるときにも赤飯をふかしてくれた。そのほかお正月以外でも餅を食べた。餅は餅米だけをついたものとは限らない。私の家では毎年餅粟(粟の一種類)を作ってそれと餅草のやわらかいものを混ぜて臼でつき、粟の草餅をつくっていた。粟餅を一部で軽蔑する向きもあるが、特に草餅にした場合風味があって私はよく食べたし美味しかった。

img9082.jpg  「細入村史」

 お正月のお餅は、私の家では約四斗(六十㎏)宛毎年ついていた。二升セイロでふかした餅米を二十臼つくのだが、わが家の杵は他家のものに比べて重い杵だったので餅つきも大変だった。おまけに二升セイロだから普通以上の体力でないと、連続的に幾臼も餅をつくことはできず、私も餅つきをしてみたが(十二才の時から)、見ているよりもはるかにつらかったことを今でも覚えている。
 
 私の家では、ご飯は普通イロリで自在カギにつるした鍋で炊いていた。別に煉瓦作りのカマドがあって、大量のご飯を炊くときとか、餅米を蒸すような場合に使っていた。鍋の場合とカマドのときとは容物も違うので、フタが違うし炊き方も違っていて、簡単なようで火の番をやらされてみていろいろ心を使うべきことを覚えたものである。水加減は、米だけのときでも古米と新米とでは違うし、混ぜ物の質と量とによっても変ってくる。また、混ぜご飯のときに少量の食塩を入れるのが普通だが、その塩加減もむずかしいもののひとつだった。

                               (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著



神通峡をたずねて  片掛かいわい18

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話10

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その五)
 

 この地でとれる甘味品には吊し柿のあることは前に書いたが、このほかに蜜蜂による蜂蜜があった。これは今でも多くの土地で行われ、蜂蜜はどこにでも売っているので、詳しいことは省略するとして、甘味料ではないが重要蛋白源であった地蜂(じばち)がいた。この地蜂のサナギをアメダキのようにすると、これが実にうまかった。
 
 地蜂は字のように地中でなるべくやわらかい土質を選んで、入口は小さな穴だが中は大きく(直径六十㎝ほど)球形に掘りその中に巣を作る。巣は次第に大きくなり三十~四十㎝ぐらいの直径の笠(笠のような形をしていたので笠と呼んでいた)が三つも四つも重なるように作られる。村人達はいつ頃巣が大きくなりサナギが食べ頃かを知っていて、地蜂をとる準備にとりかかる。昼間その入口に近付くと刺されて危ないので、仕事はどうしても日が暮れてからになった。あたりが暗くなり全ての親蜂が巣に戻った頃あいを見さだめ、導火線(ダイナマイト導火用のもの)に一端に火をつけ、すばやく火を穴の中へ押し込んで入口をふさぐ。穴の中では導火線は猛烈な煙とくさい瓦斯を出し、蜂達は一時的に全身麻酔をかけられたようになり、飛ぶ元気も刺すほどの力もなくなってしまう。その間に巣を掘り起こし丁寧に大きな風呂敷に包んで家へ持ち帰るのであるが、少しの手違いで麻酔がよく効かないときには大変で、巣を掘り起こしにかかったら怒った蜂は集中的に襲いかかり、頭、顔、手足といわずいたるところ刺されて酷い目に会う。そういう痛い目に会うことを半分覚悟しながら、夜の地蜂攻撃は楽しみだった。

  片掛には小さな谷や川が多く、それらの谷川のどこへ行っても沢蟹が沢山いた。私達は単にカニと言っていたが、谷川の石と石との僅かなすきまによく見かけたもので、捕ろうと思えば十匹や二十匹はすぐ捕られることができた。この蟹を煮えたぎる醤油汁の中へ、生きているのをそのまま入れて食べたことがあり、味も一寸変っていて美味しかった。
 
 薪(ホエ)や割木(バイタ)などを燃料にしていた時代だったので「川木拾い」が行われていた。大雨が降って洪水になると、上流の谷川に落ちたり倒れたりしていた枯木などが濁流と共に流れてくる。この木のことを「川木(かわぎ)」といって良い燃料だったので、洪水があると「川木」を拾い上げようと雨の中でも村人達はミノを着けて笠をかぶりマキ(川の曲がる所などで渦巻きになっていて、流れてきたものが岩などの近くへ寄ってくる所)へ集まってくる。まず最も多く拾い上げられそうな場所へ陣取るのだが、昔から川木拾いに行って反対に川木に引きずり込まれ、命をなくした人も多いといわれるほど危険が伴う作業である。私は子供の時から父について行って川木拾いの経験をしたもので、危ない反面また男らしい作業でもあった。拾い上げた木などはその付近の安全な場所を選んで、積んで乾かすようにするのだが、沢山拾い上げた家では半年分以上の燃料を確保したというから馬鹿にならない。一般の家ではイロリで薪を燃やしていたので、現在に比べてはるかに多くの燃料を必要としていたその頃、特に山林をあまり持っていない家にとって、「川木」は貴重なものであった。
 
 トラックもなく高山線も開通していなかったその頃では、飛騨特産といわれる木材も輸送の問題が悩みの種だった。

img9071.jpg 「細入村史」
 
 馬車があって輸送に当っていたものの、長尺物ではそれを輸送するのに他に良い手段がなく、陸上での輸送は不可能視されていた。そこで考えられたのは神通川とその支流の流れを利用し、筏(いかだ)を組まずに丸木のまま富山市まで流すことであった。今のように大きなダムがなかったので、流された木材は全てに焼印をし、延々六十㎞に及ぶ距離を流れと共に北上し、遂に富山市で陸揚げされることになる。
 
img9072.jpg「細入村史」
 
 この木流し(一般にキナガシと呼んでいた)は農繁期をさけ特に冬に多く行われたのは伐採時期と農閑期を合理的に組合せたもので、神通川冬の風物詩でもあった。しかし、流された木材はそのまま無事に富山まで到着することはなく、殆どのものは岩の上に押上げられたり、浅瀬へ入り込んで止ったままになっている。これを本流の方へ押し出し、自然に流れて行くように鳶職はだしの丸太乗りなどで作業する人達がいて、木材と共に移動していた。これらの人達の殆どは東砺波郡方面の山村の人々で、私の家でも毎年のように一グループ十数人が宿泊していた。宿泊期間はそう永くはなかったが、夕飯の前はきまったように酒を飲み(砺波方面の人達は一般に酒が強かった)みんなで麦屋節を唄い、後はぐっすり眠って、翌朝はまた木を流しに川へ下りて行ったことをよく覚えている。
 
image9074.jpg 「神岡町史」

 このようなことが繰り返されて、流しはじめてから最終到着まで一か月以上もかかってようやく陸揚げされたのである。

                               (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著

神通峡をたずねて  片掛かいわい17

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話9

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その四) 
 

 髪は、男の子はみんな坊主刈りで、女の子は三つ編みのおさげにしたり、うしろで束ねたりしていて櫛(くし)をさしていた。今の様な短い髪もウェーブも覚えていない。勿論、男の長髪などは一人もいなかった。その頃、もし長髪の男がいたらそれこそ大変で、気でも狂っているのだろうと皆から言われたに違いない。男の子のいる家ではたいていバリカンがあって、自分の家でバリカンを使って坊主刈りにしていた。ところが、バリカンはいつも手入れが行き届いていてよく切れるとは限らない。切れ味の悪いバリカンで刈られるほど辛い事はないもので、バリカンの刃の間に毛がはさまれそのままバリカンを移動させるので毛を引っぱり、とても痛かった。途中でやめるわけにいかず、その痛さをがまんして涙を流しながら頭を刈ってもらったものである。
 
 母は忙しかったので、私はよく妹の髪をすいてやったりおさげに編んでやったりした。今は頭髪もカラーが増えているようだが、その頃のご婦人達はみんな黒髪の束髪だったようで、一時的に耳かくしなどが流行したが大勢は束髪だった。その頃でも天然ウェーブの人がたまに見受けたが、むしろ伸ばそうと苦労したということを聞いている。今のようにウェーブをかけ、カラー染めにするなどはもってのほかと考えられていた。櫛は必ず髪に付けていたし、娘さん達はカンザシも挿していた。
 
 ご婦人でも年間を通してお化粧する人は稀で、一般の家では年に四・五回ぐらいではなかったかと思う。お化粧といっても今のように種類が多くなく、白粉(おしろい)とベニが主なものだったと聞いている。私の家のすぐ近くに一年中欠かさず白粉を付けている人がいて(村ではこの人だけだったと思う)、肌が黒いのでそれをかくす為に付けているのだということだった。とにかく、私は一度も白粉を付けていない顔を見たことはなかったので、その真偽の程は分らない。
 
 子供の坊主刈りは当然として、大人でも髪を伸ばしている者は、青年とか壮年と言われる人達で、それ以上の年輩になると殆ど坊主刈りにしていた。
 
 村には神社やお寺があり、遷宮や遷仏(ごせんぐう、ごせんぶつと言っていた)が行なわれることがある。どういうご利益があるからかは忘れたが、まだ小学校へ上っていない子供達が稚児(おちごさんと言っていた)行列に参加する。勿論参加を申込み、申込金も納めてのことであるが、金色に輝く冠をかぶせてもらい特別な衣裳を着せてもらって稚児の仲間へ入れてもらう。これは男も女もまじり三才ぐらいの幼い者もいるので、行列の中に親が一緒に歩くということも見受けられた。好天気の日はよいとしても、雨降りの中での稚児行列は大変で、仕立てたばかりの着物も履物もぬれたり泥をはね上げて汚れたりするので、行列が終った後の母親たちは大変だったようだ。
 
 山村だから小鳥が多い。鶯(うぐいす)は家の近くへあまり寄って来ないが、春から初夏にかけて、澄みきった鳴き声が辺りの静けさを破ってときどき聞えてくる。人家の近くへ来るのはセキレイや雀などで、セキレイは人家に巣を作ることはあまりないが、雀はどこにでも、特に屋根瓦の間の狭いところにでも巣を作りヒナを育てていた。雀は米や雑穀を食べるということで農民からきらわれ、その巣を子供達が竹竿や鉄線で引きずり落していた。どこの家にも巣を作っていたのは、益鳥で保護鳥にもなっていたツバメで、家の外でも中にでもかまわず巣を作っていた。家の中に巣を作った場合ツバメが出入する為に、戸は必ず二十㎝程開けておかなければならないので、風の強い日などには戸の開閉に苦労したことを覚えている。卵がかえり、ヒナが次第に成長するに応じて親鳥は青虫などのエサをくわえて運びこみ、必ず順番どおりに与えていた。私達はときどき虫を捕えてきて、竹竿などの先端に刺してヒナの近くへ持って行ったことがある。ヒナ達は親鳥からもらうときと同じように、自分の頭よりも大きい程の口ばしを広げてその虫を受取り食べて(呑み込んでいたのかもしれない)いた。家の中で一番困るのは、ヒナが次第に大きくなり糞を巣の外へ排出することである。人が通らないところならまだよいが、私の家のように泊り客がある場合、お客さんに迷惑をかけないかと気を使ったものである。
 
 春から夏にかけてカン高い鳴き声をはりあげ、さえずり続けるのはヒバリである。ヒバリは麦畑の中で麦の株の間によく巣を作る。ところが、空から下りてくる場合、巣の近くへ下りなくて、敵の目をあざむく為に二十m以上離れたところへ一旦降下し、そこから地上を歩いて巣へ行く賢い鳥だった。東野(ひがしの)などでヒバリの巣を発見し卵が巣の中にあったりすると、卵からヒナがかえるのを楽しみに待つ。しばらくして行ってみると麦の土寄(つちよせ)がしてあって、巣は土の下になっている。農夫は気がつかなかったのだろう。大急ぎで手で土をはらい除けてみると、まだ毛も生えていない生まれたばかりのヒヨコが折り重なるようにして死んでいた。可愛そうに、子供でも可愛そうなことぐらいは知っていて、石を拾って来てお墓をつくってやり、小さな手を合せて念仏をとなえて家へ帰ったことが幾度もあった。
 
 鳥のことを書いたついでに少し大きいものにも触れることにする。鳴き声で一番低音なのは山鳩で泣きかたも悪く、相当遠くからも聞えるので人気がなかった。鳶(とび)はその体に似合わないよい声でピーヒョロと鳴き、翼を広げたまま長時間上空で円を画いているのが魅力だった。その鳶と烏(からす)がときどき空中戦をやる。烏は体が鳶に比べて小さいので、二羽か三羽で鳶一羽に対するのだが、どちらかが死ぬというほどの激しいものでなくいつの間にかどこかへ分れて行ってしまう。
 
 秋が深くなって、稲を掛けてあったハサの木や竹だけが見られる頃になると、高い山は全て雪で真白になり渡り鳥がやって来る。雁(がん)の飛来する数は割合少なかったが鴨(かも)がよくやって来た。湖や沼のない片掛辺りでは、神通川の流れのよどんだところへ下りて翼を休め、水に浮んでいるのをよく見かけたものである。また、幾千幾万とも知れない小鳥の大群が馬道(うまみち)坂を越え庵谷峠を越えて行く様は壮観であった。この小鳥の大群も来なくなると片掛でも、雪は山頂付近から次第に麓へ下りて来て、いよいよ冬はかけ足でやって来る。そして雉(きじ)や山鳥の季節になるのである。

                        (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著

神通峡をたずねて  片掛かいわい16

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話8

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三


くらし(その三) 
 
 村人のうち芝居好きな者同志が集まって片掛で芝居をやっていた。歌舞伎をまねたものだが、だしものは忠臣蔵、太閤記、義経千本桜、伊達騒動など多くの芝居が演じられていた。近郷近在から多くの人達が見に来たもので、独立して建てられていた芝居小屋も満員の盛況だったようだ。

img9051.jpg  写真集「細入百年の歩み」

 芝居見物の人達は飲み物やらお寿司などを持参して、飲みながら食べながらの楽しい芝居見物だった。一方、演じる村人の方は毎日一か月以上もけいこをつみ、衣裳も立派だったし顔のつくりもよくできていたので、田舎歌舞伎とは思えない出来栄えだと言われていた。芝居の中での見せ場、別れの場面などでは、すすり泣く声が聞えたほどで、素人役者も大したものだと感心させられた。
 
 山村といっても片掛は飛騨街道沿いだったので、猿まわしや、支那人(中国人)の親子で演じる棒使い、街頭手品師など所謂(いわゆる)旅芸人と言われる人達がときどきやって来て珍しかった。子供達は遊びを中止して旅芸人のまわりに集まり、目を輝かせながら見事な所作を見つめていたものである。子供達は家へ走って僅かのお金をもらい、芸人の差出すお金受けに入れるのだが、それも一銭か二銭ぐらいだった。
 
 テレビは勿論、ラジオもなかったその頃の文明の先端で、音の出るものといったら蓄音機であったろう。山村の家にいながら一流芸能人の声が聞けるのだから、文明の進歩に驚いたのは無理もない。しかし、蓄音機があったといっても高値だったので、村には四台か五台で他の家の者はその家へ聞きにいったものである。今のような歌謡曲というものがまだなかったその頃では、唄といえば童謡か民謡が多かった。まあ、流行歌といえるものでは船頭小唄ぐらいで、その他では浪曲のレコードが一般に好まれていた。浪曲では何といっても米若の佐渡情話が一番人気があって、次に虎造や綾太郎がこれにつづき三羽烏といわれていた。
 
 レコードで(円板状のものだけでテープはなかった)歌舞伎のセリフだけというものもあったが、今のステレオなどと違って、ハンドルを手で回して中のゼンマイを巻いてから、おもむろにターンテーブルを回すというものだった。はじめホーン(ラッパともいわれていた)をつけたものもあったが、次第に改良されてホーンがつかなくなっていった。レコードの片面三分間が終ったらお茶を飲み、またその裏面をかけるというやり方で、のんびりと聞いたものである。
 
 子供達は学用品を買う為のお金以外は、お金らしいものは持っていなかった。たぶん財布(又は銭入れ)を持っている者は殆どいないほどで、お祭りなどのほか私もお菓子を買いたいと思うことはあまりなかった。季節によって違ってくるが家へ帰れば春には草餅や甘酒、夏になれば桑苺(くわいちご)、じゃがいもの煮たのやら南瓜などが待っていた。あいにくそれらの食べものがない日でも、家のまわりにはとうもろこし(とうきびと言っていた)やきゅうりなどがあって、食べることにはこと欠かなかった。秋ともなればさつまいもがおいしくなる季節で、家の近くに植えてある木へ登って、柿やいちじくをすきなほどほしいだけ取ることができる。それでも足りなければ山へ行って栗を拾い、アケビ(アキビと言っていた)や山葡萄などを取りに行った。
 
 冬になると吊し柿やかき餅(コリモチと言っていた)などがあって、一年を通しておやつにはあまり不自由を感じたことはなかった。この様によく食べることができたので、なまじ僅かなお金で少しのお菓子を買おうと思わなかったのかも知れない。発育盛りの子供達にとって質は勿論必要には違いないが、量の方がはるかに魅力があったのである。
 
 山村では、たいていのものは自給自足できるように見えるが、塩と砂糖は買っていたし、魚のうち海でとれるものは買っていた。とにかく、食べもの飲みものの種類が今に比べてはるかに少なかった。食べるものに対して好ききらいはなく何でも食べた。また、果物類ではリンゴや密柑などはすべて買っていた。
 
 冬は、もぎたての甘い果物というわけにはいかないので、秋に皮をむいた渋柿で吊し柿を作っていた。秋も晩くなって色づいた渋柿を昼間のうちにもいできて、大きな入れ物に何倍も家へ運び、夜皮むきをして縄で吊す。ところがこの皮むきが大変な仕事で、イロリの近くに陣取り包丁で皮むきをする。自分のすきなだけの数をやればよいというのではなく、ずっと子供の頃から一晩に二百個ぐらいの皮をむいたものである。一口に二百個というが皮むき機械もなかったその頃、子供にとっては相当な仕事だった。おかげで手の指が渋で黒くなり、洗っても洗ってもとれないので閉口したものだが、いよいよ吊った柿が日数の経過と共に次第にやわらかくなり、甘味が増していくのが楽しみだった。吊った柿は、その後の様子を見に行くのは当然ながら、そのついでに味をみるのも別な楽しみだった。
 
 流通状態が今と比べて問題にならない程悪かったその頃では、バナナを見ることも珍しかったし、パイナップルなどは殆ど見かけたことはなかった。バナナはたまに食べたことがあったけれども、果物類はなんといっても、その土地の果物で、よく熟したもぎたてのものを食べるのが一番うまい。

                        (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著


プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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