伝えたいお話あれこれ 大正時代の頃のお話8
大正から昭和にかけての片掛のくらし 文山秀三くらし(その三) 村人のうち芝居好きな者同志が集まって片掛で芝居をやっていた。歌舞伎をまねたものだが、だしものは忠臣蔵、太閤記、義経千本桜、伊達騒動など多くの芝居が演じられていた。近郷近在から多くの人達が見に来たもので、独立して建てられていた芝居小屋も満員の盛況だったようだ。

写真集「細入百年の歩み」
芝居見物の人達は飲み物やらお寿司などを持参して、飲みながら食べながらの楽しい芝居見物だった。一方、演じる村人の方は毎日一か月以上もけいこをつみ、衣裳も立派だったし顔のつくりもよくできていたので、田舎歌舞伎とは思えない出来栄えだと言われていた。芝居の中での見せ場、別れの場面などでは、すすり泣く声が聞えたほどで、素人役者も大したものだと感心させられた。
山村といっても片掛は飛騨街道沿いだったので、猿まわしや、支那人(中国人)の親子で演じる棒使い、街頭手品師など所謂(いわゆる)旅芸人と言われる人達がときどきやって来て珍しかった。子供達は遊びを中止して旅芸人のまわりに集まり、目を輝かせながら見事な所作を見つめていたものである。子供達は家へ走って僅かのお金をもらい、芸人の差出すお金受けに入れるのだが、それも一銭か二銭ぐらいだった。
テレビは勿論、ラジオもなかったその頃の文明の先端で、音の出るものといったら蓄音機であったろう。山村の家にいながら一流芸能人の声が聞けるのだから、文明の進歩に驚いたのは無理もない。しかし、蓄音機があったといっても高値だったので、村には四台か五台で他の家の者はその家へ聞きにいったものである。今のような歌謡曲というものがまだなかったその頃では、唄といえば童謡か民謡が多かった。まあ、流行歌といえるものでは船頭小唄ぐらいで、その他では浪曲のレコードが一般に好まれていた。浪曲では何といっても米若の佐渡情話が一番人気があって、次に虎造や綾太郎がこれにつづき三羽烏といわれていた。
レコードで(円板状のものだけでテープはなかった)歌舞伎のセリフだけというものもあったが、今のステレオなどと違って、ハンドルを手で回して中のゼンマイを巻いてから、おもむろにターンテーブルを回すというものだった。はじめホーン(ラッパともいわれていた)をつけたものもあったが、次第に改良されてホーンがつかなくなっていった。レコードの片面三分間が終ったらお茶を飲み、またその裏面をかけるというやり方で、のんびりと聞いたものである。
子供達は学用品を買う為のお金以外は、お金らしいものは持っていなかった。たぶん財布(又は銭入れ)を持っている者は殆どいないほどで、お祭りなどのほか私もお菓子を買いたいと思うことはあまりなかった。季節によって違ってくるが家へ帰れば春には草餅や甘酒、夏になれば桑苺(くわいちご)、じゃがいもの煮たのやら南瓜などが待っていた。あいにくそれらの食べものがない日でも、家のまわりにはとうもろこし(とうきびと言っていた)やきゅうりなどがあって、食べることにはこと欠かなかった。秋ともなればさつまいもがおいしくなる季節で、家の近くに植えてある木へ登って、柿やいちじくをすきなほどほしいだけ取ることができる。それでも足りなければ山へ行って栗を拾い、アケビ(アキビと言っていた)や山葡萄などを取りに行った。
冬になると吊し柿やかき餅(コリモチと言っていた)などがあって、一年を通しておやつにはあまり不自由を感じたことはなかった。この様によく食べることができたので、なまじ僅かなお金で少しのお菓子を買おうと思わなかったのかも知れない。発育盛りの子供達にとって質は勿論必要には違いないが、量の方がはるかに魅力があったのである。
山村では、たいていのものは自給自足できるように見えるが、塩と砂糖は買っていたし、魚のうち海でとれるものは買っていた。とにかく、食べもの飲みものの種類が今に比べてはるかに少なかった。食べるものに対して好ききらいはなく何でも食べた。また、果物類ではリンゴや密柑などはすべて買っていた。
冬は、もぎたての甘い果物というわけにはいかないので、秋に皮をむいた渋柿で吊し柿を作っていた。秋も晩くなって色づいた渋柿を昼間のうちにもいできて、大きな入れ物に何倍も家へ運び、夜皮むきをして縄で吊す。ところがこの皮むきが大変な仕事で、イロリの近くに陣取り包丁で皮むきをする。自分のすきなだけの数をやればよいというのではなく、ずっと子供の頃から一晩に二百個ぐらいの皮をむいたものである。一口に二百個というが皮むき機械もなかったその頃、子供にとっては相当な仕事だった。おかげで手の指が渋で黒くなり、洗っても洗ってもとれないので閉口したものだが、いよいよ吊った柿が日数の経過と共に次第にやわらかくなり、甘味が増していくのが楽しみだった。吊った柿は、その後の様子を見に行くのは当然ながら、そのついでに味をみるのも別な楽しみだった。
流通状態が今と比べて問題にならない程悪かったその頃では、バナナを見ることも珍しかったし、パイナップルなどは殆ど見かけたことはなかった。バナナはたまに食べたことがあったけれども、果物類はなんといっても、その土地の果物で、よく熟したもぎたてのものを食べるのが一番うまい。
(飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著