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水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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神通峡をたずねて  片掛かいわい35

片掛に残る伝説・民話 その4

幻の瀧(片掛・庵谷


 祖母は、いろりで小豆を煮ながら、この地にまつわる昔話をしてくれた。

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 昔、昔の、その昔、神通川という名も、立山という呼び名もなく、片掛という地名などついていなかった遠い昔のことである。

 片掛一帯に大きな湖があって、長さ南北七里(二十八キロメートル)もあった。もちろん、湖の名も、湖水から落下していたという、高さ三百メートルにもおよぶ大きな滝のことも、今では知る人もなく、この話を伝えるのも、私が最後になるかもしれない。

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 原住民と呼ぶか、先住民と呼ぶかは、その道の専門家にまかせるとして、とにかく、わずかだが、人はすんでいた。山があって湖があり、せまいとはいえ、平地に近い傾斜地もあり、よい飲み水もあったし、洞穴までもあったのだ。無理に農耕しなくても、わずかな人数なら、生きていくのに、大きな心配をせずにすんだのである。

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 峠の雪もすっかり消え、若葉が山々をおおい、その緑の中に、山つつじの花がちらほら見える、うららかな春のある日のことである。このあたりでは見かけない、年の頃なら十七、八といった娘がただ一人、下流の方から神通川沿いに、上流の方へ歩いて行った。いつまでに、どこまでたどりつくというあてもなく、話し合う友だちもいないその娘は、ただ黙々と歩き続けていた。
 
 庵谷(片掛の北隣村)までたどり着いた時、はじめは気のせいかと思っていた音が、歩くにしたがって、しだいに大きくなり、ついには、轟々と鳴り響く音だけが、耳に入るようになった。それが、滝の音であることを知らない娘は、その音にひかれ、ひとりでに足が滝の方に向い、遠回りするように進んで行った。

 しかし、道などあるわけはなく、庵谷峠の山は、行く手に立ちはだかるような形でさえぎり、山は、さらに,けわしさを増していた。さすがの娘も、しだいに疲れを覚えてきたが、適当な休憩場所はなく、おまけに、山あいの太陽は西に傾いて行った。
 
進むにつれて、音は大きく聞こえてくるが、すかして見ても、伸び上がって見ても、木の葉がじゃまになって何も見えなかった。

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 「もっと近くへ行って見よう!」娘は、歩きながら、大きく息をして背のびをしたその時・・・「見えた! 見えた!」 大きな滝が見えたのだ。娘は、これまでに、このように水量が多くて、こんなに高い滝を見たことがなかった。娘は、滝のあまりの見事さに、疲れも何もかも忘れて、ただただ、眺めるばかりであった。

 その頃、飛騨の山々の雪解け水が集まった神通川は、いつもより水量が多く、滝の音は木々の枝をゆすり、滝つぼから湧きあがる水煙は、あたり一面に立ちこめていた。
 
 その時である。滝に気を取られていた娘は、足をすべらせ、そのショックで木の枝から手を離してしまい、崖をすべり落ちたのだ。しかし、幸いにも、転落する途中で、身体が木の幹にひっかかり、一命だけは、とりとめたのだが、打ちどころが悪かったのか、虫の息になってしまった。

 こんな所を通る人もいないその頃のことである。このまま放置しておけば、当然、その夜のうちに、若い命は、消えたにちがいない。滝は、そんなことを知らないかのように、前と同じ音を立て、同じ響きで落ちていた。
 
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 しばらくして、一ぴきの猿が、その娘に近づいてきた。猿は、娘の様子をじっと見ていたが、娘は、全然動かない。それで、猿はさらに近づき、おそるおそる娘に触れてみると、娘は、ぐったりしているけれども、まだ体温はあるし、呼吸もしていることを知った。やがて、その猿は、仲間に知らせるために、その場から離れて行った。
 
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 しばらくして、子猿も含めて二十ぴきほどの仲間が集まり、何か相談している様子だったが、「とにかく、娘を助けよう」と、話が決まったようである。

 ところが、助けようにも、そこでは水煙にぬれてしまう。どうしても峠の頂上付近まで、運び上げなければならないことは、猿たちにも分かっていたようだ。しかし、日が暮れかかるけわしい山の中では、全員の力を集めても、運び上げる作業は、そう簡単なものではなかった。娘の身体を持ち上げる者、押し上げる者、引き上げる者など、いろいろ試しているうちに、猿たちの力が合わさり始めた。そして、やっとのこと、猿たちの協力は、実を結び、日が暮れる頃には、ついに頂上まで、運び上げることに成功したのだった。

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 山の上とはいえ、そこには、少し平らで、風当たりの弱い場所があり、猿たちは、娘をそこまで運んだ。しかし、悪いことに、先ほどより、娘の体温がだんだん下がっていることに、猿たちは気がついた。それで、気温が低下してゆく中、一団の猿たちは、娘の体温を温め、別団の猿たちは、食べものの木の芽などを取りに散ったのだった。それから三十分もたった頃だろうか、娘は、かすかに目を開いた。あたりは、すっかり暗くなっているし、まだ、疲れていたので、娘は、再びねむってしまった。しかし、幸いにも、その夜は雨が降らなかったのだった。

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 朝になって、娘は、目を覚ました。実に、すがすがしい朝だった。娘は起き上がってあたりを見まわした。娘は、自分をいろいろ介抱してくれたのは、人間ではなく猿たちであることが分かったが、人の言葉が通じない猿に、何を言ったらよいのか、お礼の言い方に困っていた。 猿たちは、元気をとり戻した娘を見て、喜んでいる様子で、「キャッ キャッ」と、あたりを走りまわっていた。娘は、猿が集めてきた木の芽などを、少し食べてみた。何の木の芽か分からないが、猿が持って来たのだから毒ではないようだ。少し食べても、身体に異常がないので、娘は安心して食べた。

 木の葉の間から見下すと、そこに、大きな湖があることに、娘は気がついた。よくよく見ると、湖面が、春の陽光を反射して、キラキラ輝いている。そして、その中に、水鳥が浮かんだり、飛びまわったりしていた。瞳をこらすと、湖面は、はるかに続き、果ては山の影にかくれて、どこまでが湖か分からないまま、もやに包まれていた。

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 娘は、これからのことを考えた。山の上では、水にも困るし、雨露もしのげない。どうしても、雨や風に耐えられる所で、水の出る場所を探したい。娘は、そう思いたったらじっとしておられず、少しずつ、南側へ下り、西の方へ歩き出した。猿たちも一緒について歩いたり、木の枝から枝へとび移ったり、一部の猿たちは、食べ物探しにも出かけた。歩くといっても、もちろん道があるわけではない。歩き始めてから、どれほどの時間がたっただろうか。疲れたし、おなかもすいたので、岩の上に腰を下ろし、休憩することにした。

 しばらく、ひと休みをして、娘は、また歩きだそうと立ち上がり、あたりを見まわすと、岩肌の向こうに何か黒く見える所を見つけた。「何だろう」と近づきよくよく見ると、それは洞穴だった。「これは天の助け」とばかり、娘は、太陽に両手をあわせて拝んだ。そして、その洞穴に入って行った。

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 穴の広さは、八畳敷ぐらいで、十分な広さがある。とりあえず、娘は、その洞穴で寝起きすることにした。猿たちは、友だちになってくれ、食べ物も運んでくれるのだ。しかも、眼下が、広々とした湖畔である。娘は、当分の間、ここでゆっくりすることに決めた。

 季節は、まだ暖かかったので、着るものは心配なかった。娘は、冬に備えて、藤づるを叩いて、繊維らしいものをたくわえ始めた。この村には(村というほどのものではないが)わずかの「人」が、別の洞穴に住んでいるようだったが、どちらも近よろうとはしなかった。娘は猿たちを友として暮らしているうちに、弓を作ったが、使うこともなかった。それは、木の芽や食べられる草のほか、幸いにも湖の浅いところに貝が多かったので、貝をとって食べていたからだ。
 いつもの年なら、梅雨時期には雨の降る日が多いのに、その年は、梅雨の季節になっても雨は少なく、周囲の山々は濃い緑におおわれて、やがて夏が来た。

 蝉のなき声が耳に痛いほど聞こえる湖畔である。娘は、毎日のように湖水で汗を流した。洞穴は涼しく、夜はしのぎ易く、虫の音楽もすばらしかった。山では、猿も狐も狸もイタチもテンも、仲よく、暮らしていた。また、熊も人も他のけものたちも、動物たちを襲うようなことはなかった。湖の水は、深い所まで澄んでいて、貝や魚などもよく見えるほどきれいで、空はぬけるような青さだった。

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 ある日のこと、入道雲がしだいに鉛色となり、その動きも激しくなって、気温が急に下がり、風が吹きはじめたのだ。突然の天変異変に驚いた猿たちは、空を見上げてただ泣くばかりである。しかも、猿たちの動きは、今までに見たことのないものだった。娘は、いやな予感がしたが、見守るばかりだった。と、その時、大粒の雨が降り出した。

 はじめ弱かった風もしだいに強くなり、雨はますますはげしくなって、湖水を隔てた向うの山が見えなくなった。そのうち、谷という谷、川という川のすべてが鉄砲水となって、濁流が音をたててあふれるほどになって来た。青く「静」そのものに見えた湖面も、流れ込む川のあたりから褐色に変わって行き、ついに濁流が渦巻くようになってきた。

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 強い風とはげしい雨のために、あちこちの枝になっていた木の実が振落とされて、すぐに濁流にのみこまれて流れて行った。

 これを見た猿たちは、泣き叫んでいる。それは、悲鳴にも似たもので、直接、生命にかかわる重大事ということを知っているのか、空を見上げたり、木の実を眺めたりして、悲しみと驚きを顔にあらわしていた。

 風は、やがて弱くなったものの、雨は、なかなか止まなかった。濁流は、大きな木を根こそぎ抜きとって流していき、山から押し出された土砂は、小さな谷を埋めてしまった。次から次へと流れてくる大木が、湖で渦を巻いている。その木の枝に、小さな動物がしがみついているのが見える。しまいには、山津波が起き、直径数十メートルもの岩までも流され転がり、この世の終わりかと思えるほどの、すごさになった。

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 このはげしい雨は、連続三昼夜も小止みなく降り続き、まったく小降りになるような気配は見られなかった。これ以上、雨が続いたら、この猿たちは、他のけものたちといっしょに、食べるものもなく、全滅してしまうかも知れない。娘は、そのことが心配で、心配で、胸がいっぱいになった。
 三日目の夜、娘は、「何とかして、けものたちを救うことはできないものか」と、一晩中考えてみたが、とうとう、結論が出ないうちに、夜が明け始めた。

 そして、四日目の朝が来た。空を見上げてみても、雨はやみそうになく、湖の水位は、前日よりも、また高くなっていた。

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 ついに、娘は決心した。
 洞穴を出た娘は、はげしい雨をついて、頭からずぶぬれになりながら、湖へ向かってゆっくり歩き出した。そして、湖畔へ着いた娘は、麻のような繊維で織った腰巻き(スカートのようなもの)を脱ぎすて、真っ裸になり、天に向かって、一心に祈り始めた。長い髪は顔や首にまといつき、ふり乱したその髪からは、雨のしずくが滴り落ちている。娘の白い肌からは、ぞっとするほどの恐ろしさが、ただよっていた。

 祈りが終わり、娘は、ゆっくりあたりを見まわすと、静かに、濁流渦巻く湖へ、一歩一歩入って行った。はげしい雨が降り続く中、可愛そうに、白い肌は、濁流のために、たちまち汚されてしまった。そして、渦巻く水に、吸い込まれそうな娘のうしろ姿は、あわれであった。

 娘は、しだいに深みに入って行く。ついには、渦巻く濁流のために、娘の頭や顔が、見えかくれするほどなってしまった。乙女の生命もこれでおしまいかと思われたその時、娘がニッコリと笑った。
そして、次の瞬間、濁流の上にスクッと立っていた。よく見ると、何と、娘は、下半身がうろこでおおわれ、大きな尾びれが、はっきり見える、人魚になっていたのだ。

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 人魚は、しばらく、波間から見えかくれしていたが、突然、水面の上に、その下半身と尾を高く垂直に上にあげた。しかし、それもつかの間、人魚は、猿たちの泣き叫ぶ声も聞かないまま、濁流の中に吸いこまれ、再び浮上することはなかった。

 と、不思議や不思議。それまで降っていた雨はピタリと止み、風もなくなった。そして淡い太陽の光までも見えるようになった。不思議なことに、天候だけでなく、滝の音が、前に比べて、非常に大きくなったのである。どうやら、滝に異変が起こったようである。

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 大雨による洪水で、滝の音が大きくなることは分かるが、雨が止んで、三日たっても四日たっても、滝の大きな音はかわらなかった。やがて、湖の水位が下がり、大雨が降る以前の、水位になったが、滝の大きな音は、あいかわらずそのままだった。さらに、湖の水位が、どんどん下がっていく。どうやら、今まで、滝口であった所の破壊が始まったようだ。そして、いったん破壊が始まった滝口は、とどまることをしらなかった。

 湖の水位はさらに低くなり、やがて、湖底が陸上にあらわれ始めた。何と、それまで湖の中央で、深いと思われていた所が、予想に反して、砂の台地であったり、岸に運ばれた粘土が、へばりついていたりしていた。人々は、湖底の神秘というものを、思いしらされることになった。そして、幾十年の後、神通川は、滝のない川になってしまったのである。

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 片掛のこの地に、巨大な滝があったことなど、誰もが信じることができなくなり、いつの頃からか分からないが、「幻の瀧」と呼ばれるようになった。 

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 語り終えた祖母は、小豆の煮え具合を見てくれと、小皿に入れてくれた。(完)



文山秀三さんの話 祖母の思い出   
 
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 私には、弟や妹がいて、母が二人の面倒をみていたので、当然のように私は祖母の手に育てられ、いろいろの伝説や物語などを聞く機会に恵まれた。とは言っても、祖母は、平仮名とカタカナを全部知っているだけで、漢字は、画数の少ない字しか知らなかった。しかし、数については、驚くほどの速さで計算していたのを、子供心に不思議に思ったことを覚えている。

 その祖母から、ずいぶん、日本古来の話や、おとぎ話などを聞いたが、何度聞いても、正確に話してくれるのにびっくりした。伝説の中に真実が入り、事実の間におとぎ話が入ってくるなど、その話しぶりは見事だった。まだ、幼かった私には、どこまでが伝説で、どこからが真実であるのか判断力がなく、かえって興味深く聞いたものである。

 まだ、テレビはもちろん、ラジオもなかったその頃、子供にとっては、いつも家にいて話をしてくれた祖母は、国語の、歴史の、道徳や伝説・おとぎ話などの この上ないよい先生だったのである。

 「大昔、わが国に文字がなかった頃、『語り部』がいて、一般民衆に物語や政治のことなどを、言葉を通して知らせた」と聞いていたが、祖母が、時間のたつのも忘れて話してくれる姿は、「語り部」の再来かと錯覚するほどだった。

                        (飛騨街道「片掛の宿」昔語り 『まぼろしの瀧』)   文山秀三著 



神通峡をたずねて  片掛かいわい34

片掛に残る伝説・民話 その3

片掛銀山発見の逸話
 

 今をさかのぼる三百八十年ほど前の天正(一六世紀末)のころ、この片掛の村へ、とつぜん、くっきょうな野武士姿の主従数人が、峠を越えてやって来て、宿を求めた。 翌朝、宿を出たこの男衆は、洞谷の口でザルや長おけで、谷川の土砂をかき回しながら、すくい上げ、何事かを語りあっていた。

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 不思議に思った村の衆は、はなれた場所から、おそるおそるながめていると、この大男たちは大声で、「あった、あった。出た、出た。」とさけんだ。
 
 その後、しばらくして、宿へ帰った男衆は、宿の主人に「すぐ村の衆を集めてくれ。用件は見てからだ。」と、息をはずんで、こん願した。

 主人は、半信半疑で、村中に伝えたところ、あまりに急なことではあったが、そうとう陽が昇ってから、集まって来た。

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 親方様のいかめしい大男は、「お前たちに、いいことを教えてやるから、よく聞け。この山に金・銀が、いっぱい出る。これは、今朝とってきたその実物だ。すぐ帰って、家にある銭をみんな持って来い。村中で十貫文ほど集まったら、われわれにあずけることだ。われわれは、その銭で山をほり、あとで、そのあずかった銭を、何層倍にでもして返してやる。実は、われらは、おそれおおくも家康公の命でここへ来たのだ。ここには、金・銀が山ほどねむっているのだ。しんぱいご無用。すぐ家へ帰って持って来るのだ。」と、谷で見つけた金・銀のかたまりらしいものを見せて語った。

 これを聞いた村人たちは、くめんして銭をあずけたところ、親方とともの者は、すぐ飛騨へ向かったが、うち二人はしばらく村に残って、毎日、山見を続けた。

 飛騨の茂住で、また、片掛と同じやり方で、かね山を見つけ、大きな山師となった。これが、後の茂住宗貞(もずみそうてい)であった。

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 その後、まぎれもなく銀がほり出され、寛文(一六七〇年)のころは、下町かいわいに三百戸の家が建ちならび、かまどのけむりが、たえなかった。
 
 【昭和二五年の正月、桑山清輝氏が猪谷中学校の社会科歴史教材を収集の際、水戸豊之助氏(当時七六歳)が、片掛銀山発見について語った内容】   
                                          伝説出典「細入村史」




神通峡をたずねて  片掛かいわい33

片掛に残る伝説・民話 その2

大蛇の話


 洞山の北側に「入道」という地名があり、村人全体の共有地であると聞いている。村から遠く、山奥だったので明治になって払い下げることになったが、誰も私有地にほしいという希望者はいなかった。当時の(村での役職などはわからないが)藤井氏の先見の明によって村全体の財産とすることを条件に申請し、払い下げを受けた。 
 
 この入道の樹木はその後順調に成長し、今では非常に大きな村の財産になっている。入道にいては前に触れたが、この入道に大蛇が住みついていた(今もいるかどうか判らないので過去形にした)。体長三m、胴の直径十cm以上という片掛では一寸見られない大きさだった。この大蛇は神の使者、または入道の守り神として、村人達は殺さないことにしていたし、大蛇も村人に危害を加えるようなことはなかった。

 この大蛇の話は、遥かな昔の物語を書いているのではない。入道の村有林へは毎年下刈り(雑草やつる草などがあまり茂らないように刈り取る)に村の人達が一日がかりで出掛けて行っていた。私の兄も毎年の様に入道へ行っていて、この大蛇を見ていた。

 この大蛇は蛙は勿論、野ねずみやウサギなどを食べているということで、家へ帰った兄は、「今年も大蛇は元気だった」と話をしていたのを想い出す。

                      (飛騨街道「片掛の宿」昔語り 『まぼろしの瀧』)    文山秀三著





神通峡をたずねて  片掛かいわい32

片掛に残る伝説・民話 その1

洞山頂上近くの一本杉
 

 私の家の丁度正面上方で洞山の頂上近くに大きな杉の木があった。

 私達は一本杉と呼んでいたが、一本だけスクッと立っていたのではなく、幹は一つだが、数本に分かれていた。山の傾斜した頂上近くでは、杉の木はあまり成長しないのが普通である。ところが、この一本の杉は、自然に生え、何十回の雷にやられて、途中で折れたり裂けたりしながらも、不死身のように枯死することもなく、零下数十度の寒気にも耐え、豪雪にも吹雪にもよく耐えて、数百年生き続けてきた。
 
 私は子供の頃から、朝、家を出て必ずこの一本杉を眺めることにしていた。後に、私が大人になっていく過程で、または軍隊での猛烈な訓練など、大きな困難や試練に遭遇しても、これらを突破して進むことができた理由の一つが、この一本杉を見てきた無言の訓えかも知れない。    

                        (飛騨街道「片掛の宿」昔語り『まぼろしの瀧』)  文山秀三著



神通峡をたずねて  片掛かいわい31

伝えたいお話あれこれ   お祭りの話2

らっきょう祭り
 

 片掛の東野台地は砂の層でできている。砂地の上には黒土があり、らっきょうが注目され、盛んに栽培されるようになった。やがて、らっきょうは、細入地域の特産品となり、片掛の東野台地を中心にして、昭和五十八年(一九八三)から、らっきょう祭りが開かれるようになった。
 
 平成元年(一九八九)村政100周年の記念事業として大々的ならっきょう祭りが開催され、来場者が五千人を超えた。

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 平成二年(一九九〇)の第八回からは「飛越ふれあい市」を併せて開催するようになり、岐阜県宮川町、神岡町、河合村からも参加が定着し、平成十五年の二十一回まで、参加者は、毎年一万五千人~二万人を数えた。多くの催し物や人気タレント、歌手を招いて楽しい一日を過ごすというイベントになった。

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 しかし、有名な行事として定着する一方で、らっきょう栽培者の高齢化やらっきょうの病害などで、らっきょうの生産が需要に追いつかなくなった。やむなく平成十六年からは,祭りが縮小され、らっきょうの体験掘りを限定人数で行う状況になっている。

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                                         「細入村史」



神通峡をたずねて  片掛かいわい30

伝えたいお話あれこれ   お祭りの話1

片掛の春祭り      文山 秀三
 

 片掛の春祭りは四月十五日、十六日の二日間で、十五日を本祭り、十六日を裏祭りと呼んでいた。(祭りのことを子供の頃マッツリと言っていた)お神輿はないが獅子舞があり、踊りがあって、祭りは秋祭りもあったが、春祭りだけに獅子舞があったので特に印象が深い。

 まだ北陸の雪が消えてしまわないころから村の若者のうち適任者を選び、また小学児童の女の子の中から踊子三人にお願いして人選を終わる。

 三月半ば頃、前に触れた大渕寺の団子まきが終わると、村のほぼ中央にある青年会館(青年クラブと呼んでいた)で獅子舞と踊りのけいこに入り、若い者は続々青年クラブへ集まってくる。私の家はクラブの近くにあったので、夜になると、けいこの笛や太鼓の音が家の中まで聞こえてくる。これらの音は、寒かった冬のカーテンを引き払って、雪解けや春の花とは違った意味で、本当の春がすぐそこまで近づいたことを知らせてくれた。

 青年クラブでは先輩たちが来て、全く初めから基本動作から手を取り足を取って若者たちに教え込むのだが、それは極めて厳しいものだった。一ヶ月間近く、毎夜遅くまでの猛けいこは、教えられる者も教える者も、まだ春浅いというのに汗だくになって続けられるのである。

 村人も子供たちも笛や太鼓の音にさそわれ、祭りの日まで待ちきれずに、けいこ途中でも、獅子舞や踊りのけいこをクラブへ見に行った。特にお祭りが近づくと大先輩といわれる人たちがけいこの成果を見にやって来て、話し声もわからぬ程、笛や太鼓にも熱が入り、若者たちも最後の仕上げに頑張っていた。
 
 そして、本祭りの前夜(ヨイマツリ)総仕上げのけいこが本番そのままに演じられ、永かったけいこはこれで終わる。 付近の村々にはそれぞれ獅子舞や踊りがあったが、そのいずれも伝統があって違っていたのは面白い。ただ、どこの村でも伝統を厳しく守り続けていたことは事実で、伝統を守り続けるということはいかに大変なことかよくわかった。

 いよいよ祭りの当日がやって来て、子供たちは晴れ着を着せてもらい、新しい下駄を買ってもらってはき初めをする。 子供たちは笛や太鼓に心をはずませながら、ひとまず青年クラブの前庭に集まってくる。この日だけは、いつもと違って、みんな晴れ晴れした顔をしている。女の子の中には薄化粧してもらい、見違えるほどの者もいた。

img9192.jpg 「細入村史」
 
 獅子が会館を出で鎮守の社へ向かう間、おそろしいお面をかぶった露払いが、獅子の前を歩き、男の子たちは幟を持ったり祭りの旗をかついだりして、獅子と一緒に神社までついて行く。獅子の幕など昨年と同じものなのに、祭りの朝には全く当たらしいもののように見えるのも不思議である。

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「片掛の獅子舞 昭和25年4月15日撮影 片掛自治会所有」
 
 神社(八坂社)では春祭りとしての種々の神事がとどこおりなく行われた後、奉納獅子舞は厳粛のうちにもめでたく行われる。村人みんなが見守る中、若者たちは練習に練習積んだ伝統の精華を十分に発揮して行事(奉納獅子舞)は終わる。そして、若者たちはオハライを受け、みんなから祝福される。こうして若者にとっては最も緊張した奉納獅子舞を終わると、後は獅子が村の家々を回り、祭りは盛り上がって行く。
 
 子供たちの中には誰に教えられたということでもなく笛を覚えていて、村人の休憩中には補欠のような形で笛を吹くようになっていた。獅子が行く主な家々ではごちそうを出してくれるので、それを食べることができることもあって、子供たちは獅子について行った。

 その年にけいこをつけてもらった若者でも、疲れるので一日中連続に獅子舞はできない。頃合いをみて先輩の村人たちが交替で舞うのも興味がある。同じように見える動作にもその人その人によって少しずつ動作が違うからである。どの家の獅子舞も同じように見えるはずなのに、何回見ても何十回見ても見あきないのが故郷の獅子舞である。だからこそ、子供たちは雪も解けきらぬ頃からお祭りを待ちに待っているのである。

 獅子舞が行われた家では悪魔を追い払っていただいたお礼に酒肴を出し、花を打つ。花を打つというのはお金を包んで青年会へ出すもので、そのとき口上が述べられる。
 
 「東西東西」といい拍子木を打つと笛も太鼓も止み、しばらく静かになる。このときに「御酒肴サワヤマ(沢山)…又は一列車など…ならびに金子一包・右は○○様より青年会一同(又は若者一同など)へ下さる。またまた返り花が咲きまして金子一包右は○○様より子連中へ下さる。いずれの花も青年(踊子を含め)身にとりまして恐縮至極に存じ奉ります」。口上は、文句はきまっているわけではないが、大体このような口調でゆっくり抑揚をつけて読み上げる。
 
 ふだんは小遣いがもらえない子供たちも、祭りの日だけはお小遣いをもらって思い思いの買物をし、にこにこ顔でお祭り気分に浸る。母や祖母はごちそう作りに忙しい。家の者のほか親戚の人が来るし、獅子舞や笛太鼓の若者たちのほか踊子へのもてなしがあるからで、料理上手の母と祖母は腕によりをかけて料理を作ってくれたものである。私たち子供は料理の手伝いができないので、お祭り前に大掃除をしたり、すみずみまで掃いたり拭いたりして念を入れ、障子の張り替えなどもすませてお祭りを迎える。
 
 農家では、前年の秋から、これもあれもとお祭りや法事のために、収穫したものの中で良いものを貯蔵しておく。このように、お祭りの準備は半年前から行われているといってよかろう。この頃の草餅は美味しい。餅草の若芽を摘んで草餅にするのだが、これがまたうまい。その香りと舌ざわりは格別であった。

                           (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著



神通峡をたずねて  片掛かいわい29

伝えたいお話あれこれ   神通川にダムができた頃のお話4

第一ダム湖に観光船が浮かんでいた

 
 峡谷であった神通峡に湖水が出現し、それまでと全く違った景観は、美しい新緑や紅葉とあいまって、細入村に新しい観光資源をもたらすことになった。

img9181.jpg  「細入村史」
 
 猪谷の島田恒次郎は、小型船舶の運転免許をとり、猪谷を基点とする遊覧船「猪島丸」を就航させた。島田はボートも多数買い入れ、貸ボート業も営んだ。
 
img9182.jpg  「細入村史」
 
 片掛の平口は、神通川第一ダムの湖水が最も雄大に見える左岸のダムの少し上流に、遊覧船・貸ボートを営むことに加えて三階建ての料理店を開いた。平口の遊覧船は「三虎丸」と呼ばれ、猪谷の「猪島丸」と湖水上の観光業を競った。

img9183.jpg  「細入村史」
  
 当時の県内の観光地は、黒部峡谷や庄川峡が知られていたぐらいで、富山方面からの日帰りの手頃なハイキングの場所として、神通峡はにわかに脚光を浴びることとなった。日曜日ともなると高山線の猪谷駅には多数のグループが降り、猪谷から片掛にかけての思い思いの場所で時を過ごすようになった。猪谷で汽車を降り、すぐに猪谷の貸ボートに向かう人が多かったが、神峡橋をわたって対岸の自動車の通らない道をダムサイトまで歩き、ハイキングを楽しむカップルも多く見られた。また、富山から猪谷行のバスに乗り、庵谷峠の難所を越えて片掛へ直接やってくる人たちもかなりいた。
 
 これらの船舶・ボートを中心とする神通峡の観光は約10年にわたって栄えたが、その後、観光が広域化する中で、次第に衰退していった。 
                                                   「細入村史」




神通峡をたずねて  片掛かいわい28

伝えたいお話あれこれ   神通川にダムができた頃のお話3

神通川第一発電所突貫工事のエピソード
 

 コンクリート打ちが始まった冬場は、寒暖計が氷点下四度にも下がり、荒れくれ男たちは寒さに震え上がる。現場では「このままではコンクリートが凍ってしまう」と悲鳴に近い声が飛び、作業員はコンクリートにむしろをかぶせ、水蒸気で氷を解かすなど、さながら戦場を思わせる日が続いた。
 
 作業員の一番の難業はダムと発電所をさえぎるようにそびえ立った庵谷峠。片掛にあった合宿所から発電所へ行く作業員はどうしてもこの峠を越えていなかければならない。自動車など会社に一、二台しかない〝歩け歩け〟の時代だから大変。二時間もかかる峠越えを強いられる。着いたときは汗びっしょりで、ひざがわなわなしてしばらくは仕事にも就けない疲労ぶり。そこで考え出されたのが、同峠下を貫く国鉄高山線のトンネル利用。「二時間かって峠を越すより汽車のトンネル(約千メートル)をくぐっていった方が早いぞ。時刻表で通貨時間を調べておけばあぶなくないだろう」。衆議一決、作業員らはトンネルのくぐり抜けを始めた。ところが、時刻表を入念に調べて歩き始めたのに富山方向から猛煙を立てた汽車が来るではないか。
 
 「壁にからだをくっつけろ!」だれかが叫ぶとみな一斉にからだを壁に密着させた。ゴオーとの音とものすごい煙、あたりは真っ暗。顔・背中には油汗がにじむ。間一髪のところを真っ黒な煙を上げて蒸気機関車が走り過ぎて行く。時刻表にない列車、臨時列車の通過だったのだ。「最初のうち汽車が通ると怖くてね。トンネルの外に出るとまた大変、からだ中が真っ黒。慣れてくると汽車の恐怖もなくなってきた。トンネルを通るようになってからは二時間の峠が二十分でこえられるようになりました。現在だったらあぶなくてとてもできないですが、当時は〝ダムをつくりたい〟の一心で、今思えばぞっとすることもやれたんでしょぅね」当時ダム建設に携わった内田好人北電富山支店土木計画担当課長や土木課氷見省三さんは振り返る。
 
                        昭和五十一年五月十六日付   北陸中日新聞 「川は生きている」



神通峡をたずねて  片掛かいわい27

伝えたいお話あれこれ   神通川にダムができた頃のお話2

片掛と庵谷の賑わい


 第一発電所関係の工事が昭和二十七年の夏ごろから本格化し、片掛と庵谷には工事関連施設のみならず、商店やサービス業が一時的に多数立地し、相当の賑わいをみせた。

 片掛には北陸電力の建設所(工事事務所)や合宿所ができ、大工事の本部がおかれた。魚店・とうふ店・飲食店・パチンコ店などが新たに軒を並べ、巡査部長派出所も置かれた。
 
 四半世紀前までは街道の重要な宿場町として賑わいをみせていた片掛の人々にとっては、工事のさ中の雑然とした雰囲気ではあったが、昔を偲ばせる賑わいであった。
 
 庵谷にも発電所建設工事のために作業員の合宿所がいくつか建てられ、人口がふくれ上がった。魚店・菓子雑貨店・理髪店・飲食店・パチンコ店などが林立し、やはりここにも、巡査部長派出所が設けられた。
 
 かって明治年間の庵谷発電所工事の際は、作業員が民家に宿泊したものであったが、今回はそのようなことはなかった。作業員のためには多数の飯場が用意された。

 なお第二ダムの工事現場となった岩稲にも、飲食店とたばこ店が一軒ずつ店開きしている。
                                           「細入村史」



神通峡をたずねて  片掛かいわい26

伝えたいお話あれこれ   神通川にダムができた頃のお話1

神通川にダムができて         松下 政男


 遠く飛騨の山脈を源として一路北へ流れる高原川、これが猪谷で宮川と合流して神通川となる。はるか太古の昔から流域に居住する多くの人々はこの川の恩恵を享けて生活を営んで来た。
 
img9161.jpg 「細入村史」
  
 この滔々と流れる聖なる川も時代の変遷に伴い水の利用も変革し、文明の灯をともす為庵谷第一発電所の建設が明治四十一年に始まり同四十四年竣工した。取入口は、旧国境橋付近で沈床式であった。
 
img9162.jpg  「細入村史」

 大正三年八月大水害があり各地で被害が続出した。この第一発電所の導水路も各所で決壊や山崩れで相当期間休止したのを契機に大正五年、同第二発電所の建設に着手し、八年六月完成した。(出力九千五百KW)この第二発電所の取入口は吉野と対岸の片掛地内に川倉式による自然溢水堤が設けられて取水した。

 今まで、この急流の大きな河川をせき止める事など夢想もしなかったものが現実となり、その驚きと共に川の様相も一変した。古くから飛騨の山々に産する杉・檜等を富山方面へ運搬する唯一の方法として、川に丸太を流し木流し人夫がその上を渡り歩き巧みに丸太を操って川下りをしていたが、この堤の実現で一度川から引き揚げ再び下流へ流すという作業となり大変だった事と思われた。

 この作業は高山線の開通又トラック等の普及から昭和の初期でその姿を消した。更に魚類にとってもこの人口障害物に阻まれ容易に上がることが出来ず付近に滞留するようになる。特に鮎の時期になれば大群をなして上がってくるので川一面が魚で真っ黒になり、浅瀬にまで押寄せるので手づかみ或いは笠、帽子等でも容易に獲ることが出来た。川べりでその様を見るだけでも壮観だった。但し、ここは禁漁区で法的には捕獲はできなかった。又上流へ魚をのぼらせるため岐阜県から監視員が常駐して見張っていた。なお、これより下流一里は良好な魚場で吉野、片掛地区には多くの漁師がいて、鱒、鮎、鮭等を獲って生計をたてていた。

img9163.jpg   「細入村史」

 昭和二十九年、現在の神一ダムの完成により川倉はその使命を十分果たし永遠にその姿を再び見せる事もなく静かに湖底に眠っている。往時を偲び、感無量である。
                           「郷土研究大沢野町 ふるさと下夕南部」 野菊の会編


プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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