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水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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笠寺観音かいわいの歴史探訪  その33   柴山藤蔵の常夜灯

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その33   柴山藤蔵の常夜灯   笠寺観音境内

笠寺観音の境内には、たくさんの石碑や灯籠などがたくさんある。一つ一つ見て廻れば日が暮れることだろう。
仁王門右手前に大きな常夜灯がある。石碑に刻まれた名前を見ると、「清洲 柴山藤蔵」とある。門をくぐった左手にも「清洲 柴山藤蔵」と刻まれた常夜灯がある。
調べてみると、この二基の常夜灯は、江戸末期、文久三年(1863)、嘉永六年(1853)に寄贈されたものであると寺史にあった。柴山藤蔵なる人物は、清洲の酒蔵の商人であった。

柴山藤蔵
寛政4(1792)年、愛知県清洲(現清須市)に生まれ、明治8(1875)年83歳にて没する。 子供を早く亡くした先代藤蔵の元、婿養子として入籍、柴山家五代目藤蔵を襲名。質屋・油屋を生業とし、その後米屋・酒造業を興した(米屋・酒造業は五代目以降に起業された)。現清洲桜醸造株式会社社長は九代目(平成26年現在)に当たる。 奉納寄進物には「キヨス柴山藤蔵・柴山屋藤藏」など用い主に灯籠を寄進。それは個人記銘の物も多いが大型の物は町衆との共同奉献も多くその数千基目指したと言い、その奉納寄進物は遠く宮城県塩釜、富山県初め香川県琴平など広範囲に及び(西春日井郡誌)、現在近隣を中心に56基程が確認されている。

清洲桜醸造は、「鬼ごろし」という清酒が有名である。

笠寺観音かいわいの歴史探訪 その32   見晴台遺跡  

見晴台遺跡

その32  見晴台遺跡  南区見晴町 笠寺公園内

笠寺台地の東縁(標高10〜15メートル)に位置している。最古で約2万年前の旧石器時代の石器が出土しているほか、縄文時代の物とされる土器片なども出土しているが、1940年(昭和16年)に銅鐸を模した「銅鐸形土製品」と呼ばれる土器片が出土したことからその名を知られるようになった。これは1937年(昭和12年)に名古屋市西区の西志賀貝塚に次いで日本で2例目として学会に報告された。隣接する桜田貝塚では1917年(大正6年)から翌年にかけて弥生時代の魚形土器が見つかっていたため、当時からこの地域の遺跡については考古学者の注目を集めていたという[1]。

笠寺観音かいわいの歴史探訪   その31   七所神社 

七所神社


その31 七所神社  南区笠寺町天満

この神社は本城中学校編集の東、名鉄本線の線路を隔てた台地にあります。
日本武尊、須佐之男尊、宇賀御魂尊、天穂日尊、天忍穂耳尊と宮簀媛命、乎止与尊の七柱の天つ神、 国つ神を合祀しているので「七所神社」と呼ばれています。前記五柱は神話にある高天原から国土に降臨した神の系統を引く天つ神、後の宮簀媛命と乎止与尊はこの地方の神としての国つ神といわれています。
市内にはこの種の神社は岩塚にもありますが、ここの七所神社は天慶三年(941)平将門降伏祈願のため熱田の宮、 七所の神を勧請したと伝えられております。明治初年、政府が神社の格付けをしたときに村社より一段上の郷社になりました。社宝には伝徳永義詮寄進の弓掛、同じく御田祭の絵巻がありましたが、昭和二十年の戦災で消失してしまいました。なお、境内から鎌倉期の山茶碗と第二次大戦の高射砲の弾の破片を採取しています。
(出典:池田陸介著「南区の歴史探訪編集」より)

創建に到る由来に、平将門が深く関係している。平将門の乱が起き、乱を鎮圧するために全国の神社仏閣で平定祈願が行われた。それは熱田神宮でも行われ、御神輿をこの地の鳥居山(現在の丹八山)に移して祈願祭が斉行された。鎮圧後、鳥居山に社を造り笠寺地域の氏神として、熱田大宮、八剣宮、日割宮、高倉宮、大福田宮、氷上宮、源田夫宮の神々の御分霊を祀ったのが始まり。その約100年後、現在の地に移されたという。
丹八山は現在は御旅所として、神事の際には行列をなして御神輿を渡すそうだ。
明治42年に新町にあった新宮社(天王社)を合祀、旧6月10日に天王祭、旧6月末日に茅ノ輪くぐりなどを斎行している。
(ブログ あらいのじかん~神社と朱印、ときどき猫と自転車~)

笠寺観音かいわいの歴史探訪 その30   戸部の蛙(とべのかえる)

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その30   戸部の蛙(とべのかえる)

戸部の蛙とは、郷土玩具の一種。愛知県名古屋市で生産される。
土を材料とし、手捻りによって作られる。一匹の蛙の背中の上にもう一匹の蛙が乗ったものや、蛙が相撲を組んでいるものなど、種類は多彩で30種類近くにも及ぶ。
かつて戸部城という城があったが、この城の城主は暴虐であり、行列の目の前を横切る人を無差別に斬り捨てた。そのため、巷間には「山崎越えたら戸部戸部」という揶揄の言葉が飛び交った。戸部城近隣の一帯には蛙が多く棲息しており、斬り捨てられた首が跳ぶのと蛙が跳ぶのを掛けた言葉遊びであった。この言葉遊びが、戸部の蛙の由来になったという。
戸部の蛙―Wikipedia

笠寺と「戸部の蛙」
笠寺観音の節分は、例年にぎわい、露店が並ぶ。この中に郷土玩具として売り出されるものに「戸部の蛙」がある。
戸部の蛙は、昔、戸部城主、戸部新左衛門にまつわる伝説もあるが、文化文政の頃、笠寺の瓦職人が瓦粘土で手なぐさみで作ったことに始まると言われている。
手作りの陶蛙で大小あり(3センチ~6センチ)、あまがえる、しまがえる、がまがえる、とのさまがえる、かぶり相撲、子負びなど数種がある。
素焼きの極めて質素なものであったが、現在は釉(うわぐすり)のかかったものとなっている。
平成三年 名古屋市
笠寺西門バス停前のモニュメント

笠寺観音かいわいの歴史探訪   その29  戸部新左衛門の碑

戸部シンザエモン

その29  戸部新左衛門の碑   南区戸部町三丁目

戸部城は一名「松本城」とも呼ばれ、付近の字名を「松本」と呼んでいた。明治七年(1874)戸部氏の子孫、戸部新吾氏が戸部城跡へ碑を建て、戸部新左衛門の霊を祀った。  
城跡は東海道から西へ約三百メートルのところにあり、古記録に「東西一五間(約三十メートル)、南北九十九間(約百八十メートル)」とある。また、城跡の東に「新池」と呼ばれる溜池があり、濠遺跡といわれている。
 城跡の西、南は十数メートルもある崖で、碑は竹薮に囲まれていたと伝えられている。昭和四年の耕地整理のため城跡、溜池はならされて、戸部新左衛門の碑は現在地へ移された。城主戸部新左衛門は織田信長の計略にかかり、今川義元により三州吉田(豊橋)で首をはねられた戦国時代の武将である。
「南区の歴史探訪」

笠寺観音かいわいの歴史探訪  その28  観音塚(粕畠貝塚)

観音塚

その28 観音塚(粕畠貝塚)  南区粕畠町三丁目

 ここを「元観音」という。エノキの大樹がある。
笠覆寺の縁起によれば、天平年間、呼続の浜に浮木が漂着したのを、禅光上人という沙門が、霊夢によりその浮木をもって十一面観世音を刻み、一宇を建立し、小松寺と称した。その後荒廃したが、延長八年(930)笠覆寺が建立せられて尊像もそこに移されたのである。ここが笠寺観音の発祥の地である。享保元年(1716)加藤又兵衛勝貞がこの地に碑を建て土地を寄進した。

粕畠貝塚
観音塚がある辺りは、粕畠貝塚と呼ばれている。粕畠貝塚は、愛知県ではよく知られた縄文時代早期末(約七千年前)の貝塚である。昭和十年、十一年の調査によれば、貝層の厚さは二十~五十センチでハイガイを主体として、イノシシ、シカの骨角、石匙、石鏃等の石器、底のとがった粕畠式と呼ばれる土器が出土した。十年ほど前は粕畠貝塚の北、高台にかけて弥生式土器、古墳時代の土師式土器がわずかな畑地、空き地で見られた。

「南区の歴史探訪」「笠寺観音と玉照姫」

笠寺観音かいわいの歴史探訪   その27  太鼓橋

太鼓橋

その27  太鼓橋    笠寺観音境内

笠寺観音放生池に石橋が架かっている。通称「太鼓橋」と呼ばれている。この石橋が架かる前は木の橋だったという。寺史によると、文化三年(1806)雉本小右ェ門常佑寄進建造とある。
石橋を渡ると所々で橋の石が動くところがあり、修理が必要なのではないかと感じる時がある。築造から二百年、歴史を感じさせる石橋である。

笠寺観音かいわいの歴史探訪  その26  おもかる地蔵(抱き地蔵)

おもかる地蔵


その26  おもかる地蔵(抱き地蔵)    笠寺観音境内

本堂と大師堂を結ぶ通路の南側に小さなお地蔵さんがたくさん並んでいる所がある。この小さなお地蔵さんは「おもかる地蔵」という。寺史を見てもいつ頃からあるのか書き記してないので分からないが、お参りに来た人がこの小さなお地蔵さんを抱きかかえている姿を目にすることがある。
寺の案内には、「ちいさなお地蔵様たちです。お願いごとを心に思いながら、身をかがめて、そっとお地蔵様を抱き上げてお参りします。
続けてお参りするうちに、願いによって腕に感じる重みの違いが感じ取れるはずです。
仕事や受験、恋愛に限らず、色々な事をお尋ねしながら、静かに抱き上げましょう」とある。

笠寺観音かいわいの歴史探訪    その25   六地蔵

六地蔵 

その25   六地蔵    笠寺観音境内

笠寺観音西門を入ってすぐ右側のお堂に六地蔵堂がある。お堂の中に、六角形の石柱が一本あり、六つの面にお地蔵さんが六つ彫られている。これが笠寺観音の六地蔵である。一石六地蔵とよばれ、珍しい形の六地蔵である。笠寺観音のか寺史によれば、明和七年(1770)建立、善光寺九度参詣とある。


六地蔵とは
地蔵菩薩の六分身をいう。生前の行為の善悪のいかんによって,人は死後に,地獄,畜生,餓鬼,修羅,人,天という六道の境涯を輪廻,転生するといわれるが,そのそれぞれに,衆生救済のために配される檀陀,宝印,宝珠,持地,除蓋障,日光の六地蔵をいう。

「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」

笠寺観音かいわいの歴史探訪   その24   馬頭観音

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その24   馬頭観音    笠寺観音境内

境内の多宝塔南側に石碑や石仏が多数並んでいるが、その中に頭の上に馬の耳のようなものがついている石仏がある。これが馬頭観音である。いつ頃のものかはっきりしないが、旧街道沿いに面していることら、街道を行き来した馬への弔いのために建てられたものだろうか。
  

馬頭観音とは
馬頭観音(ばとうかんのん / めづかんのん)、梵名ハヤグリーヴァ (हयग्रीव [hayagriiva])は、仏教における信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、いわゆる「六観音」の一尊にも数えられている。柔和相と憤怒相の二つの相をもち、日本では柔和相の姿はあまり知られておらず作例も少ない。そのため、観音としては珍しい忿怒の姿をとるとも言われ、通例として憤怒相の姿に対しても観音と呼ぶことが多いが、密教では、憤怒相の姿を区別して馬頭明王とも呼び、『大妙金剛経』(大正蔵:№965)[1]に説かれる「八大明王」の一尊にも数える。

馬頭観音の石仏・石碑について
近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強くなっていった。特に、このような例は中馬街道などで見られる。なお、「馬頭観世音」の文字だけ彫られた石碑は、多くが愛馬への供養として祀られたものである。

馬頭観音―Wikipedia

プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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