水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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西笹津の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに  西笹津の史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4 馬道谷

 大沢野と細入の境に馬道谷がある。ここは三千万年前の火山活動によってできた岩石が出土する。宝石になる黄色い黄玉、緑の碧玉、赤い赤玉石が含まれている。
「神通峡ふるさと歩行会」

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P5 こうもり滝 

 火山噴火によってできた集塊岩により滝ができている。滝つぼ付近に昔、行者が使った岩穴にこうもりが住んでいるので、こうもり滝の名がついている。滝への道は今はなく、幻の滝になりつつある。
「神通峡ふるさと歩行会」

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P6 集落下水道排水処理場

 馬道谷の南に西笹津・岩稲集落の排水処理をするためにここに排水処理場の建設が平成八年(一九九六)から始まり、平成十年(一九九八)に、永年の地区住民の念願であった下水道処理施設が完成した。
「細入村史」

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P7 舟着き場跡と運送店跡

 笹津橋横のポケットパークのすぐ東に旧道があり、その先の石の階段を下りていくと舟着き場がある。昔は、橋がなかったので富山からの荷物は神通川を舟で運ばれた。 
 この旧道の脇に運送業の草分けとして舟坂家があり、笹津舟着き場で荷物を降ろし、人足や荷馬車で、米・塩・魚・鉱物が飛騨に運ばれた。
 舟坂家は、明治二十四年(一八九一)に片掛の平口・林、笹津の金田らと運送代理店を開き、運送によって細入村が繁盛した。運送業の記念碑は、猪谷の宮口も含めて、楡原の旧役場跡広場に現在建っている。
「神通峡ふるさと歩行会」参照

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P8 馬頭観音 
 
 笹津橋脇のポケットパークの道路側片隅にコンクリートで作られた祠堂があり、中に「馬頭観音」の石仏が祀られている。三方に顔があり、額に馬頭面が刻まれた典型的な馬頭観音である。
 馬頭観音は「西国三十三所観音」の一つであるが、石仏として単体で祭られる場合は作馬(耕作馬)や馬車馬の供養として祭られる。現代では、交通安全を祈願し、旅の安全を祈る「道祖神」のような役割をしている。
 この馬頭観音石仏は、前にこの場所に家があったN家が、昭和初期、作馬の事故や家族の病気などの災難を避けるために建立したものだそうだ。
「平井一雄  町かど・道ばたの文化財」

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P9 笹津橋 

初代笹津橋

 明治十七年(一八八四)、初代県令国重正文は飛騨街道の整備事業に着手し、一間(二メートル弱)しかなかった道路幅を三間(約五・四メートル)に広げ、富山から飛騨へ南下する最初の難所である神通川の急流には「笹津橋」を架橋したが川幅約五十間、水勢激烈の難所ゆえに材料の準備、架設工事等に年月を費やし、ようやく明治十九年(一八八六)十二月初代木造橋の完成を見ることとなった。しかし、この橋は一年有余にして破損して使用不能となってしまうのである。

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二代目笹津橋

 明治二十五年(一八九二)十二月二代目笹津橋(木造吊橋)が誕生することになる。これは佐藤助九郎が自費を投じ、地元民の公益を図ったもので、これによって急速に越中と飛騨の文化交流をみるに至った。延長五十五間(九九・九メートル)、幅員三間三尺余り(六・〇五メートル)、有料(賃取り橋)の吊橋であった。その後、日増しに激増する物資の運搬と人々の往来により、明治末期には、また老朽し使用に耐えぬ状態となった。

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三代目笹津橋

 大正元年(一九一二)県費により三代目の架橋が行われた。延長八五・〇メートル、幅員六・〇メートルの鉄製の吊橋である。この橋は老朽により、昭和六年に橋體引上げ、敷板張替等の大改修が行われたが、昭和十年(一九三五)頃にはトラックの通行も重量制限をしなければならなくなった。

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四代目笹津橋

 現在の橋は四代目で、三代目の笹津橋より約四十メートル上流に建造されることになったが、時はすでに日中戦争に入っており、軍事優先の時代の中で、新しい笹津橋も、陸軍部隊が進軍する際、戦車の通過が可能なように設計されたといわれている。メラン式鉄骨鉄筋コンクリートによる上路式固定アーチ橋として昭和十六年(一九四一)七月に竣工した新橋は、富山から細入村庵谷までの道路輸送基盤を格段に好転させ、地域の産業・文化の発展に貢献した。その後五十年余年間人々の暮らしと生業を支え続け、現在は主に、歩行者・自転車用の橋としてその役目を変え、神通峡県定公園の湖面に今も美しい姿を映し出している。
平成十二年(二〇〇〇)に文化庁より登録有形文化財に指定された。
 「ポケットパークの案内板」より

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P13 新笹津橋  
 
 車の重量が増加したことと、旧の橋は細入側で直角になっており、事故が多発していた。この直角のカーブを緩めるために、昭和五十六年(一九八一)に長さ一二五メートルの五代目新笹津橋が完成した。総工費は七億五千万円、施工は三菱重工業であった。
「細入村史」

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P14 石の道標と題目塔

 金田家の横に石碑がある。これが古い道の道標で、「右 八尾道」「左たか山道」と書いてある。また、石碑には「南無妙法蓮華経三界萬霊」と題目が刻まれ、法華経の題目塔である。文化二年(一八〇五)に村の講中が建立したもので、「三界」とは俗界(過去)・色界(現在)・無色(未来)のことをいう。
細入村には法華宗が多いので題目塔を建て、村の端に魔除け・病気から村を守る法華の境界を表している。
「神通峡ふるさと歩行会」

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P15 番神様
 
 法華宗の三十番神で、ひと月三十日にわたり三十人の神様が宗徒を守護することで崇拝している。
 「細入村史」

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P16 消防屯所と公民館

 笹津は風のよく吹く地区で昔から火事や防火対策に力を入れてきた。明治十七年(一八八四)にドイツ製の腕力ポンプを導入し、大正十二年(一九二三)に細入村では初のガソリンポンプを導入した。そして屯所も完成した。大正十四年(一九二五)には纏を購入し、火の見櫓もできた。昭和の戦時にはポンプ車や櫓の鉄骨を供出した。戦後昭和二十五年(一九五〇)にガソリンポンプや火の見櫓ができ、昭和四十六年(一九七一)に消火栓を完備し、昭和五十年(一九七五)に積載車付きポンプが導入された。集落センターは昭和五十八年に地区再編農業構造改善事業により建設された。            
「細入村史」

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P17 五輪塔・板石塔婆の集積地

 地鎮岩と呼ばれる巨大な岩のある辺りに五輪塔や板石塔婆などの集積地がある。高山線敷設の時に出土したものである。
 密教でいう宇宙構成の要素で五輪とは、下には方形の地輪、その上に球形の水輪、その上に三角屋根形の火輪、その上に半球形の風輪、一番上が宝珠形の空輪の五段の組合せの石塔である。鎌倉期から室町時代に作られ、水輪にボン字が彫られている。
「神通峡ふるさと歩行会」参照

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P18  森坂家の庭にある馬頭観音 

 森坂家の庭に一体の小さな馬頭観音が祀ってある。以前ここに住んでいた人が建てた馬頭観音である。その人が飼っていた馬が、火災で焼け死んだのを弔うために建てたのだという。

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P19 日露戦争戦没者慰霊碑

 明治三十七年(一九〇四)二月、日露戦争が勃発した。日清戦争の時に比べて個人からの出征者も多く、村内には日露戦争戦勝記念碑が、庵谷、片掛、猪谷の三か所に建てられ、さらに個々人の戦没慰霊碑も三基建てられている。
 西笹津の慰霊碑は、旅順攻撃戦で戦没した立道仁之助の銘が刻まれている。立道仁之助の追悼式のための弔辞の草案が本芳文書に残されている。
「細入村史」

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P20 県定公園「神通峡」

 昭和四十二年(一九六七)に県の指定を受け、県定公園になった。笹津から県境まで十五キロのV字谷の峡谷をいう。
 特徴としては、
一、地質変化に富んでいる。特に国の天然記念物の断層、背斜,向斜の構造が他にない。
二、ダム湖水と発電所が多い。
三、交通の便がよく観光地である。
 など、風光明媚な四季をいろどる景色は格別である。
 「神通峡ふるさと歩行会」

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P21 漁獲禁止区域
 昔からアユ、サケ、マスの名産地で幕府へ恒例上納品だったので、大正元年(一九一二)、宮内省の指定になり、昭和二十三年(一九四八)廃止まで魚を献上してきた。ここを御漁場として橋から三六〇メートル、下流一〇八〇メートルが漁獲禁止区域で繁殖や保護区域だった。
「神通峡ふるさと歩行会」

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P22 南の題目塔と馬頭観音

 西笹津の南の法界様である。中央に「南無妙法蓮華経法界萬霊」長久山四九世朗(花押) 右に一天四海皆妙法、 左に天下泰平国土安穏とある。魔除け・病気から村を守る題目塔で法華宗の多い集落であることがわかる。
 題目塔の左下脇に小さな馬頭観音が祀られている。小さくて見逃しそうだが、必見の価値あり。国道をひっきりなしに走る車の交通安全を祈願しているようである。
「神通峡ふるさと歩行会」参照

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P23 笹津食品加工場跡
 
笹津婦人部が食品加工グループ「ささづ会」を昭和五十九年(一九八四)に結成し、減塩味噌、神峡漬けなどの漬物、黒米や粟などの加工品など、おいしくて健康によい食品を作っていたところである。平成六年(一九九四)に細入村の特産品加工場ができイベントなどで販売していた。平成二十六年(二〇一四)会員の高齢のため、「ささづ会」は解散し、特産品加工場は閉鎖された。  
(注:現在、建物はあるが、食品加工施設ではない)      
「細入村史」参照

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P24 八幡宮

 今から約一七〇年前の文政年間にできた八幡宮である。祭神は応神天皇・ヒメ大神・神功皇后である。皇后は武勇にすぐれ朝鮮征伐に男のように鎧に身をかため奮闘し降伏させた。その時お腹に応神天皇がいたので、強くたくましい武勇の神として八幡宮の祭神になった。境内に、五明殿(火神)と大山祇神(山神様)が安置されている。
「神通峡ふるさと歩行会」

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P25 五明殿と山神様

 平成三年(一九九一)四月に笹津八幡宮境内の山神様「大山祇神」、五明殿「五大明王像」を風雪から守るために、保護建屋を新築した。
山神様の祭りは毎年九月三日で、御酒とお餅を供える。この日だけは山仕事を休むようにと、昔からいわれている。
また、五明殿火祭りは毎年三月十日で、明治二十四年(一八九一)三月十日の笹津で大火があった日を、火祭りの日としている。五大明王は仏法の守護神であるため、数珠を持ってお参りする。明治・大正期には火祭りにも獅子舞をした。五大明王は中央に不動、東方に隆三世、南に軍茶利、西方に大威徳、北方に金剛夜叉の明王が祀ってある。
「細入村史」

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P26 大光明地尊(石仏)

 国道の横の大きな岩の上に石仏があり、無垢地蔵で宝珠と経を持っている。
 「細入村史」

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P27 昭和天皇お手植え杉

 昭和二十二年(一九四七)十一月一日、昭和天皇が楡原の戦災者や引揚者の寮に行幸され、笹津の古坂の山に全国で初めての植林をされた場所である。お手植えの木は立山杉三本で、国道にも高山線にも近い所で実施された。今では大きく育っている。
「細入村史」

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P28 新嘗祭献穀粟斎圃跡

宮中の恒例行事に新嘗祭がある。収穫祭にあたるもので、十一月二十三日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する儀式である。 
平成十五年(二〇〇三)の新嘗祭に新粟を献上する「献穀」の大任を、西笹津森坂家の畑が預かり、その年の秋に収穫された粟が宮中に献上された。
平成二十二年(二〇一〇)にそれを記念して石碑が建てられた。

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P29 林道岩稲笹津線

 平成四年(一九九二)に完成した。この事業は民有林における林道事業として実施されたもので、この林道は、笹津地区と岩稲地区とを結ぶ連絡道になっている。また、国道四十一号線と県道砺波細入線を結ぶバイパスとしても意義がある。林野の有効利用のため、開設が望まれていた林道で、昭和六十二年(一九八七)より工事が始まり、六年の歳月をかけて完成したものである。
「細入村史」

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P30 林道須原御鷹山線

 平成九年(一九九七)九月に、総事業費四億九七七万円をかけた林道須原御鷹山線が完成した。これにより、笹津山の頂上まで作業道が通じるようになり、笹津山字土屋野平の十一・三五ヘクタールの林野の有効活用管理ができるようになった。
「細入村史」

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 西笹津の紹介
 
笹津の津は、舟着き場であり、笹(篠竹)が多くあったとか、水の音がざわめくこととかいわれる。西にあるから西笹津、東側にあるから東笹津の名がある。
奈良時代には「篠津」と書き、利波(砺波)から舟で篠津の舟着き場に来たという古い記録が残っている。
永禄八年(一五六五)の記録に東笹津と結ぶ舟渡しがあり、役銭を徴収していたことが知られる。
寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡でも石高一二二石・銀納とあり、定小物成銀は山役銀一七匁三分・蝋役銀壱匁九分五厘・漆役銀六匁八分三厘・舟役銀五匁・鮎川役銀二匁六分五厘・鱒役銀二匁・牛役銀十六匁六分五厘の記録がある。
慶応四年(一八六八)の家数二十八戸人数一三三人であった。また、舟着き場には口銭場が設けられ、富山方面から飛騨高山方面に送られる産物(干物魚類・塩魚類・金物類・合薬類・八百屋物類・呉服物類・唐津物類・仏具類・糸・木綿など)を、この笹津で牛の背に荷物を載せて運送した。細入村の往来では牛や人足として大きな賃稼ぎになった。明治期に入り、飛騨街道の改修が進み、荷馬車輸送の時代になっていった。
笹津では神通川が西に流れ、ほぼ平行に国道四十一号線と高山線が走る。民家は両線の間にかたまり、耕地は一部にあり、県道が八尾方面に分かれている。

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笹津地区の戸数は昭和六十年(一九八五)には三十三戸で人口は百三十二名であったが、平成十六年(二〇〇四)四月には戸数三十戸、人口九十一名と、ともに減少している。
平成十七年(二〇〇五)市町村合併後、集落名が「笹津」から「西笹津」となり、今日に至る。  
  

笹津
 
細入谷の北の玄関
八尾道に富山道が川を渡って合流し
笹津橋によってますます賑わう
荷物問屋に馬車宿が開かれ
細入運送業の草分けとなる
滝の水は山田を潤し
天皇お手植えの杉は風雪に耐える
乏しい耕地も
らっきょうは新しい力となる
「細入村史」

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江戸時代の頃の西笹津

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[ 2016/09/09 04:53 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)

岩稲の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに  岩稲の史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4  神通川第二ダム

 北陸電力が電源開発を昭和二七年(一九五二)から計画し、二九年(一九五四)に完成した。第二ダムは高さ三七・三メートル、長さ三一七メートルで、右岸には四万キロワットの発電所がある。工費七億円、延べ七〇万七〇〇〇人が働いた。初めて見る大型建設機械と轟音の元でダムは完成した。ダム湖に水没する集落は、川の淵から高山線沿いに移転し、新しい家並みができた。また、ダム広場や公衆トイレもでき、第二ダム周辺は、神通峡の観光休憩所になった。     
「細入村史」

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P5 北の題目塔  
 
 以前は、川の淵にあった題目塔であるが、電源開発のため現在地に引き上げられた。寛政八年(一七九六)に造られたもので、法華経の「南無妙法蓮華経」が石の表面に彫られ、魔除けや病気・災難から村を守っている。この岩稲は全戸数が法華宗で、楡原と同様に堅法華であり、集落の出入り口に題目塔を建てている。              
「細入村史」

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P6 旧飛騨街道道標

 昔の街道は神通川に沿ってついていた。丁度ダムの底の辺りに舟着場や宮内庁指定の簗場があり、鮎を獲っていた。舟が往来したので、「道標」があった。「右とやま道・左やつお道」とあり、ダム建設によって水没するため、今の藤沢宅の庭に保管されている。                          
「細入村史」

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P7 田中家宅地内にある五輪塔

 細入にある五輪塔は、一四世紀か一五世紀に建てられたものがほとんどであるが、田中家にある四基の五輪塔の中の一基は、一六世紀に入って建てられた珍しいものである。川石を用いた地輪は別石であり、上の四輪を一石で造っているのも珍しい。ダムに水没した旧街道脇にあったもので、水没する時にここに移された。               
「細入村史」

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P8 岩稲小学校跡

 公民館の西側に、明治二五年(一八九二)に楡原尋常小学校の分校ができ、明治二七年(一八九四)に岩稲尋常小学校として独立した。明治三四年(一九〇一)にまた分校になり、大正十二年(一九一二)楡原尋常小学校に統合した。             「細入村史」

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岩稲小は征清軍記念碑の後ろにある建物

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P9 岩稲公民館

 青年クラブが、北陸電力から助成を受けて、二階建ての公民館を建設した。できてから五〇年もたったので、平成十四年(二〇〇二)外壁を修理した。
「細入村史」

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P10 征清軍記念碑

 明治二七年(一八九四)に起こった日清戦争は朝鮮半島を巡る日本と清国の戦いであった。富山県出身の兵士は第三師団歩兵第七連隊第一大隊に属し、同二七年(一八九四)九月八日宇品港を出発し、十二月から戦闘に参加して同二八年(一八九五)七月十四日金沢に帰還した。この碑は、日清戦争を記念して建てられたものである。明治二七年(一八九四)の銘がある。
「細入村史」

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P11 高山本線(飛越線)

 昭和四年(一九二九)に岩稲トンネルの工事が始まり、飛越線のトンネルの土砂で岩稲側を盛土した。飛越線が、昭和五年(一九三〇)に猪谷まで完成し、その後、昭和九年(一九三四)に、富山~岐阜間が完成して高山本線になった。
「細入村史」

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P12 旧飛騨街道跡

 ブリ街道ともいわれた道は、漕艇場の北西から旧永井家の前の旧県道を通り、富田家の前へ上り、石垣に沿って一メートル幅の旧道が見られる。
本芳家の前にはその道標が立てられている。ここからお宮の後ろの山に上がり、楡原に続いていた。笹津から飛騨へ牛荷として米・魚・塩・薬、一方、飛騨からは木材・板・漆・蝋などを乗せて牛方が引いた。
「細入村史」

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P13 本芳家の文化財

 年貢割符状が文化財として保管されている。承応四年(一六五五)に、各村一斉に「年貢割符状」が出され、これを「村御印」と言っている。
 岩稲の例では、草高八四石八斗五升五合で免(税率)は、五割一厘であったので、四二石五斗一升二合三勺余を年貢として納入したことが分かる。また、村高のうち七〇石八升五合が、村勘左衛門ら五人の知行地で、十四石七斗七升が台所入地であった。
 この年貢のほかに、夫銀が定納百石につき一四〇匁宛であったことから、五九匁五分一厘余、口米が石に八升宛であったから、三四石四斗余を納入したことが分かる。             
「細入村史」

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P14 富山県漕艇場

 平成五年(一九九三)に完成した。春から秋にかけて、若者のオールを漕ぐ掛け声が、神通峡に響いている。平成六年(一九九四)八月に、高校総体が開かれた。千メートルコース六レーンで、熱戦が繰り広げられ、地元の八尾高校が活躍し、舵手付フォア、ダブルスカル、シングルスカルなどで、見事優勝した。
 平成十二年(二〇〇〇)の国体は九月九日から十二日までの四日間であった。最終日が雨により増水したため、決勝レースは中止されたが、富山県の優勝は素晴らしかった。その後、細入村は、レガッタ大会を体育の日に行うようになり、老いも若きもボート競技に参加し、この漕艇場に花を飾った。現在もレガッタ競技が開催されている。
「細入村史」

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富山県立八尾高等学校漕艇部二十年史「拓く」より


P16 岩稲地区沿革記念碑
 
 県漕艇場施設の完成にあわせて細入村に記念碑設置の要望をしてから八年後、平成十一年(一九九九)十一月三日に岩稲地区沿革の記念碑が完成し、当時の集落最高齢者有須義信さんの手によって除幕式が行われた。
 岩稲の名の由来の「岩の上に土を敷いて水田とした」というとおり、水田の造成は大変苦労なことであった。しかし、昭和四年から高山線の工事や昭和二十九年(一九五四)の電源開発によるダムの建設があり、これらによって多くの水田を失った。
 そんな中、昭和六十一年(一九八六)に田圃整備によって比較的大規模な水田を作り、機械化してきた矢先に、県漕艇場と岩稲温泉の建設に遭遇した。細入村の発展のため、岩稲集落の人々は大切な水田耕地を失ってまで協力してきたことを碑文にのせ、先祖への感謝の念を表した。記念碑は楽今日館駐車場入口に建っている。
「細入村史」

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P18 墓地にある題目塔

 岩稲集落の墓地が楽今日館前の広場の横にある。この中に「法界」を刻む題目塔が一基建っている。文政七年(一八二四)に建てられたとあり、本来は南口のものであったのかも知れない。
「題目」とは法華宗などにおいて用いられる「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の文句のことである。題目塔は、法華宗門徒が村の平和と無事を祈って街道筋に盛んに建てたものの一つと言い伝えられている。碑面にはひげ文字で「南無妙法蓮華経」と書かれている。
「細入村史」参照

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P19 神通峡岩稲温泉「楽今日館」

 昭和六二年(一九八七)、細入村が援助して岩稲で温泉の堀削を行い、七〇〇メートルまでボーリングをした結果三五度の弱アルカリ性温泉が湧き出した。平成六年(一九九四)から、総工事費十二億一七〇〇万円をかけて温泉施設の建設が始まり、平成八年(一九九六)四月二三日に、神通峡岩稲温泉「楽今日館」として開業した。その後、平成十一年(一九九九)に宿泊棟が建設され盛況である。
 「楽今日館」という名前は、細入の名産に「ラッキョウ」があり、「今日一日楽しんでもらう湯」ということを重ねて、名付けられた。湧き出るお湯は、お肌がツルツルになるところから、女性には見逃せない「美人の湯」といわれ、ゆったりとした大浴場と露天風呂からの四季折々の神通峡の景観が味わえるということで人気がある。
「細入村史」参照

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P20 岩稲地区八十刈で出土した有史以前の埋没巨木
 
 平成四年(一九九二)五月十二日、富山県漕艇場の敷地造成工事中、岩稲地内の八十刈の現場から、四本の巨木が出土した。
栃の木  直径  五五㎝  現存全長 二・九m 推定樹齢 二〇〇年
栃の木  直径  八四㎝  現存全長 四・五m 推定樹齢 三〇〇年
栃の木  直径  八八㎝  現存全長 六・六m 推定樹齢 七〇〇年
桂の木  直径 一〇〇㎝  現存全長 五・六m 推定樹齢 三〇〇年

 桂の木は、現在「楽今日館」のロビーに配置してあるテーブルに加工され使用されている。推定年齢七百年の栃の木は、根の方を二つ輪切りにして、細入公民館に保存されている。             
「細入村史」

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P22 岩稲八幡宮

 祭神は応神天皇・比咩大神・神功皇后である。文政年間(一八一八~二九)にダムで水没した対岸に舟渡しする八十刈にあったお宮を現在地に合祀した。
 鳥居は両部鳥居といって、柱に低い控え柱を入れてある。鳥居の横には、昭和二七年(一九五二)からダム工事が始まり、昭和二九年(一九五四)に、第二ダムによって集落がほとんど水没し、移転した経過や北電との契約を記した記念碑がある。ここには伝統の神迎いと神送りの子供行事がある。一〇月三一日には神を出雲大社に送るため境内に杉の小枝を集めて火をつけ、煙をもくもくと上げ、煙の様子で神が乗られたといい、十一月三十日には火をたいて神をお迎えする。
 また、境内には、「大ケヤキ」があり、村の巨木の文化財にして保護し子孫に伝えたいものである。
 平成に入り、八幡社の建物の所々に老朽化による不具合が見つかり、平成五年(一九九三)頃からは建物の傾きさえも感じられるようになり、平成十五年(二〇〇三)増改築を行った。
「細入村史」

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P24 岩稲八幡宮内の五輪塔

 岩稲八幡宮の神域に五輪塔がある。元もとの組み合わせではなく、元位置を離れて、この場に集められ、組み合わせられたものだが、けっこう眺められる。各部分はいずれも十四世紀前半に遡る製作と推定され、細入村では最古の石塔である。
 五輪塔とは、平安時代の末期ごろから作られはじめた石塔で、五輪といわれる五つの部分から成り立っている。一番下に方形の地輪、その上に球形の水輪、その上に三角形(実際は屋根形)の火輪、そして火輪の上に半球形の風輪と団形(実際は宝珠形)の空輪を積み上げた立体的な石塔である。
 密教でいう宇宙構成の要素、地・水・火・風・空の五大を図形化して、それぞれ方・円・三角・三日月・団とし、さらにそれを立体化した形といわれる。               
「細入村史」

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P25 南の法界様(題目塔)
 
 「南無妙法蓮華経」右に発起人「本田長三郎」施主人「吉田万太郎」左に明治四四年(一九一一)四月十五日とあり、昔は山本家の前の「飛騨街道」にあったものが移転したものだ。 題目塔は法華宗の村の出入り口にあり、魔除けや災害から守った「法界様」である。 
「細入村史」

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P26 神通川第二ダム建設についての記念碑

 第二ダムの建設にあたっては、細入村側では、岩稲集落の二十六戸のうち十六戸と公民館の移転が必要であった。昭和二十七年四月の北陸電力からの要請を受けて、岩稲集落では半年近い間に数十回の会合を重ね、その大要を受け入れることに決したが、その経緯は、岩稲八幡宮境内に建てられた石碑に、詳しく刻まれて残されている。
 従来の岩稲集落は、家並と神通川の間に相当の水田を有していた。ダムの湛水が完了すると、移転した新しい家並の背後に湖面がせまり、それまでとは全く違う景観が出現した。            
「細入村史」

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P27 新岩稲橋
 
 岩稲と楡原を結ぶ旧岩稲橋は、昭和四十一年(一九六六)十一月に完成した。二十年余り経過した橋は幅が狭い上、西側は急崖に接し、崩壊の危険もあった。連続降水量一二〇ミリメートルで交通止めとなり、国道四十一号線の弱点の一つであった。
 平成二年(一九九〇)の新庵谷トンネルの開通によって、国道四十一号線の交通量が増加し、旧岩稲橋の橋桁が危なくなったので、平成三年(一九九一)、新たに新岩稲橋を建設した。橋の中央の親柱は、村政百周年記念のシンボルマーク「飛翔する鷹」をモチーフとしている。新しい橋には歩道もでき、ボート競技も見られるようになった。西には昔の飛騨街道の一部が見られる。      「細入村史」

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P28 楽今日館源泉
 
 昔から神通川に沿った狭い段丘上の村であり、棚田が多くあった。また噴火した岩が多く、温泉の出る可能性があった。昭和六二年(一九八七)に温泉堀削のボーリングが行われ、七〇〇メートルの所で三五度の湯が湧き出た。弱アルカリ性の源泉がここにある。現在は、楽今日館に湯を送っている。                                
「細入村史」

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P29 岩陰石仏群

岩陰自体は先史時代のものであろうが、そこへ五輪塔などを置くのは、霊地として崇拝する信仰意識だろう。この地は、法華信仰以前の真言宗法雲寺時代の墓標、五輪塔、板碑などが、法雲寺の法華宗への改宗により、廃棄や集積になり、その一部が屋敷神や地鎮様として祀られているようだ。                               
「北陸石仏の会 平井一雄氏談」

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P30 夫婦岩

 岩稲集落から笹津山への中腹に二つ並んだ大きな岩がある。これが夫婦岩で、その昔、富山湾に入る船の目印になったと云われている。岩稲集落の人たちはこの岩の周りの木を刈り、この岩がいつも見えるようにしていたという話が伝わっている。 楽今日館の玄関を出た辺りから、向かいの山を見上げると鉄塔の間に見ることができる。
「細入村史」

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P31 岩稲八幡社境内の大欅の話

 楡原上行寺が現在地に移転して、新しい山門を造るために、お宮の大欅が使われた。木が太すぎて、高ばなの道からは運ぶことができない。小物坂の山上へ引き上げねば運べない。(現在の国道四十一号線の上方百メートル以上の所)檀中総がかりで大きな綱を数本掛けて、木やり音頭に笛太鼓の囃子に合わせて、にぎやかに引き上げた。
 楡原へ向った下りの所では、シラ木といって、丸太を並べて、その上へ引き上げて運ばれた。大欅は柱を始め、その他の工作材料に使われて、今日でも少しも狂わぬ立派な山門ができあがった。      
「細入村史」

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岩稲地名の由来

笹津の南に、平地に恵まれない岩稲がある。古来、幅の狭い段丘に沿う列状の村であった。「岩の上にまで土を敷いて水田とした」ことに村の名称が由来するとの説があるように、先人は、水田の造成に大変な労苦を注いだと思われる。
 江戸期の俯瞰図を見ると、集落の背後は、幅広い谷状の地形になっており、ここにみごとなモザイク状の棚田がつくられている。当時、お宮は川辺にあり、その下に簗場が作られている。また、その下流に、渡場があり、牛ケ増との間を往来していた。夫婦岩は富山湾の航標にされたとのことである。
 割山との境界付近には「風よけ」といわれる防風林があり、多くの集落と同じく、南風の被害を防ぐためのものである。
「細入村史」

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江戸時代の頃の岩稲

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[ 2016/09/08 11:05 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)

割山の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに  割山の史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4 割山森林公園「天湖森」
 
 平成八年(一九九六)から土田池付近は開発が始まり、「緑のふるさと健康ふれあいの里づくり事業」で森林公園が完成した。割山森林公園「天湖森」といい、星空の天ときれいな湖と緑いっぱいの森からとり、「遊びと楽しみ」を「天こ盛り」にしてもらう意味である。
 「総面積十四ヘクタール、オートキャンプサイト、フリーキャンプサイトや設備の整ったコテージ、バリアフリー対応のロッグハウス、炊事棟、バーベキュー棟などが設置され、自然を満喫しながらアウトドアライフをエンジョイできる。
 また、園内中央に位置する土田池では、野ガモや野鳥のバードウオッチングが楽しめるほか、ニジマス、コイ、フナ釣りもでき、水辺植物園には、ミズバショウ、ハナショウブなど、可憐な季節の花々が心を癒してくれる。
 スポーツ好きの方には、十八ホールのパークゴルフ場、テニスコート、フットサルコート、フィールドアスレチックがあり、夜は天体観測棟で、満点の星空を観察できる。天湖森は、どなたにも気軽に楽しんでいただける、スポーツと大自然のレジャー施設である」「天湖森の案内パンフレット」参照

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P7 楡原割山道路

 平成十五年(二〇〇三)十月に開通したこの道路は、楡原地内の国道四十一号線を起点に割山地内までを結んでいる。今まで「天湖森」への道路として使われていた道は幅員が狭く、見通しも悪かった。その上JR高山線の下を通る所は、大型車両が通行できないなど、早急な改善が求められていた。この道路は、国土交通省が整備を進める地域高規格道路富山高山連絡道路のインターチェンジとの連絡道路として位置づけされ、その重要度が増したものである。道路の完成によって、オートキャンプ場やパークゴルフを持ち、天体観測などもできる割山森林公園「天湖森」への利便性が大いに図られている。    「細入村史」

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P8 定床岩洞窟  
 
 割山のお宮から二百メートル東北東に、先住民が住んでいたという洞窟がある。高さ十一メートル、幅十七メートルの屏風岩に、入口は高さ四十センチ、幅三十センチの穴である。
 この中に明かりをつけて入ると、水滴が落ちコウモリが飛び出る。十二メートル入ると石畳の部屋があり、真っ暗だが涼しい風がある。中から縄文時代の人頭骨が発見されたり、入口には古墳時代に緑石のグリーンタフで勾玉や管玉などの玉造りが行われていた跡があったという。今はここへ通じる道は荒れていて行くことができない。幻の洞窟になりつつある。
「越中山河覚書Ⅰ」参照

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P9 八幡宮

 八幡宮の祭神は、応神天皇・比咩大神・神功皇后で、天保十四年(一八四三)の銘がある。狛犬も凝灰岩で造られていたが、長年の風雪等で浸食が激しく、倒壊の危険があったため今は撤去され、隣り三十番神の祠に納められている。
 三十番神の祠には、法華宗では三十日の一日ずつ一人の神が守護することで三十の神が祀ってある。
 また、村の出入口に「題目塔」があり、現在「南無妙法蓮華経」碑は駐車場にある。                             「細入村史」

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 八幡宮に白い噴火した石がある。割山は噴火した火山灰の「凝灰岩」を切り出して(割って)いた。家の土台にしたり、かまどにしたりして活用されていた。お宮の土台の敷石がそうである。古い小学校の土台にも使ってあった。「焼け倉」に石切り場があったそうだ。   
「神通峡ふるさと歩行会」

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P12 割山林道の上水道のパイプ
 
 楡原の上水道のパイプをこの割山から御鷹山へ続く林道に敷設してある。林道の「吊り手岩」においしい水が多く出ているので、この水を利用するためにこの林道が造られた。
「神通峡ふるさと歩行会」

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P13 吊り手岩付近の水源地

 吊り手岩は、林道を少し下がった所にある。ここは昔、この水で水田を作り、稲を収穫していたことがあり、この土地を村で買い水源の保護をした。こんな高い所で水が出るのは、大昔に噴火した火山灰が粘土層になって地下水を貯めているからなのである。桐谷側に「殿様清水」が出るのもそうである。
「細入村史」

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P14 御鷹山林道

 御鷹山は、その昔、富山藩の前田の殿さまが鷹狩りに来た山であることから名前がついたといわれている。
 この林道は楡原から御鷹山を越えて、八尾町の桐谷に通じている重要な道である。昔、中尾谷沿いに旧道があり、山田を通って御鷹山を越え桐谷を往来したそうだ。楡原の山といえば「御鷹山」というように楡原小学校の校歌にも歌われていた。
「神通峡ふるさと歩行会」

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P15 大乗悟山城跡
 
 大乗悟山には登山道がなかったが、富山山岳会や楡原の方々の奉仕活動で山道を切り開いた。山の高さは五九〇メートルで、笹津山(五三八メートル)より高く、御鷹山(六七五メートル)より低い山であるが、中世の戦国時代に畠山義則が楡原館と楡原山城とともに飛騨街道を守った大切な城があった。山には切り掘の跡が残っている。展望のきく山なので狼煙を上げて付近に知らせたのだろう。ここから笹津山へ行くことができる。
「神通峡ふるさと歩行会」

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割山の紹介 
 
  今から二五〇〇万年前に岩稲集塊岩の噴火によって当時海岸線だった岩稲を中心に大噴火活動があり、この地層を「岩稲塁層」といって、西に桐谷、松瀬、大長谷、下梨、刀利、金沢兼六園、福井の東尋坊と続いている。
 割山集落は、元禄年間に岩稲から枝分かれをし、山を「割り」開いたところからついた名だといわれている。
 当時の軒数は二〇戸余りだった。森林を育て、清水を水田に利用し、土田の堤も造って溜め池にしていたが、江戸中期に楡原にこの「土田堤」を譲り、焼け倉の山と交換したといわれている。

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 背後に中世の山城「大乗悟城」がある。大乗悟山城の辺りは、清浄な土地とされ、昭和三十年前後にも、日聖光という修験者が訪れ、山中にこもって修行の傍ら村人に医薬を施し、生け花・文芸なども教えていたという。 この割山集落は、今は住む人がいなくなったが、細入地域の森林公園「天湖森」として活気を取り戻している。
「神通峡ふるさと歩行会」

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江戸時代の頃の割山

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[ 2016/09/07 06:02 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)

楡原の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに  楡原の史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4 集落北の題目塔
 
 楡原法華圏には石仏は皆無であるが、その代わりに題目塔がある。扁平な川石や割石の正面に宗祖日蓮の筆法による題目、いわゆる髭題目を刻んだものである。村人は「ホーケサマ」「ホーカイサマ」と呼んでいる。集落の南北の入り口にあってこれより法華圏であることの榜示と村の安泰を守る立石と考えられる。
 集落北の題目塔は、かつては楡原の北限にあったものと見られるが、現在は村界近くの岩稲トンネル横の国道西側崖上に建っている。
 天和三年(一六八三)の銘があり細入地域では猪谷西禅寺前の地蔵石仏二体に次ぐ古い在銘石造物である。高さ四六センチ、一辺五二センチの大きな切石を台石とし、高さ一〇九センチ、横四〇センチ、厚さ三二センチの立石は川石を若干加工したものである。上方に破風状の頭部を残し、これより下方を削って塔身面とする。額部の中央にある月輪状のくぼみの中に凡字が刻まれていたのかも知れないが風化していて読めない。塔身面の最下に法華を大きく線刻する。中央に大きな題目と「十界萬霊」を刻み、その向かって右側に「天和三年七月十六日」左側に「施主千部講中」と刻まれている。
 明治一七年(一八八四)の道路改修以前に三〇〇メートルほど南にあったものを現在地に移したと伝えられている。
 楡原では毎年二月一六日の火祭りの日に外から村に災いを持ってくるのを防ぐため道切りとして、楡原集落の自治会長が札付き締め縄を塔に巻いている。                        
「細入村史」

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P6 畠山重忠の石標   

 楡原村を南北に縦走する国道四一号線の西側に鎌倉時代の武将、畠山重忠公碑がある。明治二十七年(一八九四)に建立されたもので、これより三〇〇メートルほど西に、「館」というところがあり、そこに重忠公の眠る墳墓があるので、この石碑は、道行く人々に対しての顕彰碑というべきものであろう。毎年七月の第三日曜日の重忠祭りには幟旗を立て人々の注目を集めている。村人がいかに重忠公を慕い尊敬してきたかの表れである。
「細入村史」

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P7 営農ライスセンターと耕心碑

水田圃場整備が昭和五三年(一九七八)から進み、団体営圃場整備事業(団圃)と農村基盤総合整備事業(ミニ)の指定を受け、四四・三 haの整備により、大きな三haの田ができた。トラクター、田植え機、コンバイン、乾燥機、脱穀、籾摺り、袋詰めの処理が素早くでき、省力化が進んだ。また細入村特産のラッキョウの生産組合もでき出荷している。
農村公園に「耕心碑」がある。圃場整備事業が完成したので会長の水上富雄氏が書いた「耕心」の碑で、先祖が耕した田畑を若い人も心を込めて後々までも耕して頂きたいと、感謝と希望を込めた意味である。
「神通峡ふるさと歩行会 しおり」

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P8 楡原館跡
 
 この高台は「舘」といわれ、戦国期の永禄十二年(一五六九)に能登守護の畠山義則が楡原一帯を治める居館があった場所である。いざ戦乱となると背後の大乗悟城、南側の楡原山城にたて篭もった。
「畠山重忠の墓説明板」

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P9 畠山重忠の墳墓

 楡原地区の西段丘上、八幡宮のやや北側に畠山重忠の墓がある。墓石研究家の話では、一四~一五世紀頃のものであるという。
 基檀は台形の積石からなり、上端は南北三メートル東西二・五メートルで、その上に扁平な六〇センチほどの石が並べられている。その基盤となった石の上に小石塔や凡字のある板石塔婆・五輪塔・宝篋印塔などがならんでいる。重忠の墓であるという真偽は明らかではないが、楡原地区の江尻彦通氏所蔵の文書に、元禄九年七月一一日付け「恐れ乍ら口上書にて御尋ねにつき差上げ申候」によると、郡奉行に対し重忠の墓は、遠く真言宗であった頃からこの村では重忠の菩提所であると伝え聞き供養している旨を報告している。
 位牌は「大心院殿蓮空神祇」とあり、天保八年(一八三七)から今日に至っても上行寺住職を導師として手厚く供養している。
 近年「重忠踊り」をイベントに、盛大に行事を伝承している。                                
「細入村史」

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P10 楡原八幡宮(通称裏お宮)
 
 楡原八幡宮の祭神は応神天皇・神功皇后・比咩大神である。創建は定かではないが、鎌倉時代初期畠山重忠が楡原に隠棲したとき、鎌倉武士の崇敬が厚かった鶴岡八幡宮の分霊を仰ぎ、この地に祀ったことがはじまりと伝えられている。
 その後、永禄一二年(一五六九)能登の「畠山義則」が楡原館と割山の大乗悟山城の城主であった折に、社殿を壮厳にしたが、畠山氏の滅亡と共に本社も衰えたと伝えられる。なお、婦負郡の延喜式内社七座に次ぐ神社で、いわゆる楡原保一四か村の総社であったともいわれている。この宮にハルニレの木があり、楡原の由来にもなっている。
「細入村史」

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P12 楡原中学校
 
 細入地域にある唯一の中学校である。学校の沿革史は次のようである。

昭和二二年(一九四七)組合立楡原中学校として開校。
昭和四二年(一九六七)猪谷中と統合合併、楡原中学校として開校。
昭和五六年(一九八一)新校舎・体育館が落成。
昭和六〇年(一九八五)漕艇部新設発足。
昭和六三年(一九八八)漕艇部全国大会女子総合優勝。
平成四年(一九九二)生徒指導推進モデル校区指定。
平成四年(一九九二)県教委より優良学校表彰(奉仕活動)。
平成一七年(二〇〇五)市町村合併により富山市立楡原中学校となる。
平成二二年(二〇一〇)神通碧小との併設校として新たにスタートした。
「富山市ホームページ」

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P13 神通碧小学校
 
 旧細入村では明治から幾多の通学域の変遷を重ねてきた。児童数が減り猪谷小学校で複式学級となったため、平成一五年(二〇〇三)四月楡原小学校と猪谷小学校の統合により新しく神通碧小学校となった。
 しかし、古い校舎のため、耐震校舎建設が課題となり、楡原中学校敷地内に新校舎の建設が決まった。
 平成二二年(二〇一〇)三月、新校舎が完成し、四月から小中併設校という新たなスタイルでの教育がスタートした。
 「細入村史」参照

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P14 行幸記念碑
 
 昭和天皇が昭和二二年(一九四七)一一月一日に楡原寮に行幸されたことを記念して建てられた碑である。戦後高田アルミ工場の寮に戦地からの引揚者や戦災者を四七世帯受け入れていた。  
 午前一〇時二四分にお召列車がお着きになり陛下は手に帽子をお持ちになり「お大事にね」「大変だったね。明るい気持ちで元気にくらしてください」とお言葉を繰り返し御慰問された。
「細入村史」

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P15 住吉家 丹後の局の墓
 
 楡原集落のほぼ中央で国道四一号線沿い東側に源頼朝子孫といわれている住吉家がある。これは伝説であるが、源頼朝の妾の丹後の局が本妻政子より先に子供を身ごもり、これを知った政子はその子が男の子であれば頼朝の嫡男になることを恐れ、畠山重忠に密かに亡き者にするように命じた。
 しかし畠山重忠は丹後の局を不憫に思い鎌倉から去るように伝えた。丹後の局は身分を隠し落ち延びていく途中、摂津の住吉神社の境内で、人の情けにより男の子を出産した。局はやがてその子を伴い永い年月を旅するうちに、恩ある畠山重忠が鎌倉を追放され越中の楡原に侘び住まいをしていることを耳にする。
 そこで丹後の局は重忠公に会って恩返しをしたいと一路越中に向かい、楡原にたどりついた時には、すでに重忠はこの世の人ではなかった。
 悲歎にくれた局は、楡原の地に留まり、重忠公の菩提を弔うため、髪を剃り尼となった。頼朝の血を引く子供を小治郎朝重と名づけ(幼名吉寿丸)子孫を永くこの楡原に留めることにして果てた。時に承元三年(一二〇九)五月三日であった。住吉家の初祖清光尊尼は丹後の局のことである。小治郎朝重は豊後の姫をめとり二代目を相続し、その後綿々として相継ぎ現在の当主は三八代目に当たるという。住吉家の姓は丹後の局が大坂の住吉神社の境内で出産したことにちなみ名づけられたと伝えられている。
「細入村史」

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P17 住吉遠山翁碑
   
 江戸時代末期から明治初年にかけては、細入の多くの村に寺子屋が開かれていたようである。住吉家は当地方の旧家であって、代々寺子屋を開き多くの子弟を教え、地方教化の中心であった。殊に、孫蔵は八尾町宮腰甚四郎に四書・習字を学び、号を遠山といい、楡原小学校創設の大功労者であった。           
「細入村史」

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P18 和みの家
 
 旧岩井家の家屋を保存した建物。明治三九年(一九〇六)建築で、火災に対処するため土蔵造、吾妻型になっている。概観等を保存し、内部は会議や行事などの取組みができるように改装した。
「細入村史」参照

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P18 五輪塔群集積地

 中世頃、真言宗だった法雲院が法華宗に改宗し、芦生に移り、ここに法華宗の上行寺が進出した。そのため、いらなくなった五輪塔をここに集積した。 中崎幸一の宅地に塔の部分を四〇個体と板石塔婆一三基などを組み合わせて「五輪塔」にしたものが一〇基集積してある。一五世紀頃に造られたものが多く梵字「バン」が見られる。法華宗の改宗にまつわる往時が偲ばれる。
「細入村史」参照

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P19 集落中央の題目塔

 国道の信号の西にある法界様で、二メートルの石積みの上に「南無妙法蓮華経」とあり、右横に「維時 大正五年(一九一六)丙辰一〇月一〇日建立 不怠山二七世本境院日勧」 左に広宣流布後伍百歳」とあり、昔ここが上行寺の参道口であり、村の災害や病気からまもっている。ここは門前町として栄え下寺がこの辺りに五坊あった。
 戦時中と戦後もしばらくここに「火の見櫓」があった。          
「神通峡ふるさと歩行会 しおり」

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P20 江尻家文書

 江尻家は楡原の土豪で代々彦右衛門・彦十郎と名乗り肝煎を勤めてきた。現在の当主は一四代目を数える。
 江尻文書は肝煎役に伴う支配・土地・租税・農林関係の文書記録が多く大変重要なものも多い。特に神通峡沿岸の稼牛が飛騨に塩を運び、帰路飛騨より板、美濃茶など越中富山・小杉・高岡・東岩瀬また加州金沢に運んだが途中、藩主から許可を得て名持つ運搬の馬をつなぐ設備のある富山宿・高岡宿の馬借(賃金を取って馬を貸す業者)から抜荷(江戸時代の密貿易)であることで、上前口銭を要求され争論がおきた過程を記録した「飛州交易牛方と富山宿との争論一件」元文元年(一七三六)六月一五日があり、富山藩と飛州との交易記録の一つとして貴重であるといわれる。
「細入村史」

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P22 旧北部保育所跡
 
 旧保育所のある土地は、天文元年(一五三二)に法雲院を追い出し、芦生の上行寺をここに移して建てた寺跡である。この辺りに上行寺の下寺が五坊もあった。寺は、火事を恐れ、安政三年(一八五六)今の寺山に移転した。ここに細入村の戸長役場が置かれていたが、明治二二年(一八八九)の村制度により庵谷に役場を造り、住吉家や上行寺、竹内家で寺子屋授業をしていた小学校をこの戸長役場の建物に移した。楡原小学校は昭和四五年(一九七〇)に下夕地区と統合し観光橋の縁に移転し、ここは昭和四六年(一九七一)から北部保育所になった。
「細入村史」 「神通峡ふるさと歩行会 しおり」

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P23 北陸電気工業
 
 この楡原に、昭和一四年(一九三九)東洋アルミ工業が、安い労働力を求めて進出し、一部建設されたが、電力統制で建設を中止した。
 昭和一六年(一九四一)に高田アルミ工業がここを買収し、昭和一七年(一九四二)に工場が完成した。海上飛行機のフローと、翼のフラッグを生産し、終戦まで続いた。従業員二五〇名、徴用工一〇〇〇名、女子挺身隊・動員学徒四〇〇名、合計一六五〇名も働いていた。
 戦後、興国人絹パルプ工場、昭和三三年(一九五八)からは北陸電気工業がきた。そして細入村の労働力を吸収し、昭和三四年(一九五九)には四〇〇名、昭和三五年(一九六〇)には六〇〇名になった。製品の炭素抵抗器が皮膜抵抗器に押され、昭和四九年(一九七四)に閉鎖、昭和六三年(一九八八)にセラミックの材料研究所、その後は可変抵抗器などを生産している。平成二六年(二〇一五)に太陽光パネルが設置された。  
「神通峡ふるさと歩行会 しおり」参照

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P24 八幡社(通称表お宮)

 上行寺の釈迦堂も兼ねたお宮ですでに文化三年(一八〇六)村絵図に記載されている。
 岩本組が土砂採石のため、昭和六〇年(一九八五)一〇月改築したが、近年国道四一号バイパスの高規格道路建設工事により再び 造営し、平成一六年(二〇〇四)秋に落慶法要をした。  
「細入村史」

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P25 不怠山上行寺と三帰明王
 
 応永一六年八月(一四〇三)当国新川郡芦生村に法華宗の僧がやって来て一宇を建立し不怠山上行寺と号し、それ以来一二〇年間同所にあって教化の拡張をはかり、信徒も次第に増大の一途を辿った。
 その頃対岸の楡原村に源頼朝麾下の畠山重忠の菩提寺として元久二年(一二〇五)に建立された真言宗の法雲寺があったが、上行寺第四世日成の代に法雲寺を教化し法華宗に改宗させ、上行寺は芦生から楡原村に進出発展を計ることとなった。
 その後上行寺は更に教勢を他村に及ぼし、江戸期には現在の旧北部保育所内に位置し、五つの塔頭を有し、壇信徒は楡原・岩稲・割山・庵谷・笹津・須原・坂本・芦生に分布し二五〇戸に及んだ。中でも寺の膝元の楡原・岩稲・割山は他宗を交えないことを信条としている。いわゆる「楡原堅法華」の土地柄である。
 江戸時代末、近隣の大火を恐れ山腹を切り開き、村の中央地から現在地へ一五年の歳月をかけて移転を行った。現在の山門は、この時、明治元年(一八六八)に完成した。

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 三帰明王 

 畠山重忠が犀の角で自ら彫ったと伝えられる「三帰明王像」が寺の宝として今に伝わっている。この「三帰明王」は、毎年八月二十日過ぎに行われる盆施餓鬼法要の折に開帳されている。
「細入村史」

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P28 ほそいり保育所

 平成二一年(二〇〇九)一二月、それまであった細入北部保育所と南部保育所が統合され、耐震構造の新しい建物での保育が始まった。神通碧小学校や地域社会と連携を密に協力しながら、地域の子育て支援、育成に努めている。
「富山市ホームページ」参照

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P29 観光橋

 楡原と大沢野下夕地区を結ぶ重要な橋で、昭和四九年(一九七四)に小・中学校の統合の条件で完成したものである。
 現在の橋は三代目で少し上流にあったものが下流に移り、吊橋から鉄筋コンクリートのトラス型で全長一一六メートル、幅七・五メートル両端に七五センチの歩道がつき総工費二億五〇〇〇万円かかった。春夏秋冬周囲の山々のうつろいと神通湖の清碧に虹を添えたような橋である。
「細入村史」

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P30 旧布尻橋橋脚
 
 昭和三〇(一九五五)年に架けられた旧布尻橋の橋脚である。昭和四九年(一九七四)、下夕地区との交通の便をよくするために観光橋が新しく架橋され、その役目を終えた。
「細入村史」

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P31 旧役場跡と忠霊塔
 
 細入村役場は庵谷から昭和一一年(一九三六)一一月二四日にこの地に移り、昭和四七年(一九七二)までここにあった。今はゲートボール場「ひまわり公園」になる。
 北側に昭和一五年(一九四〇)(皇紀二六〇〇年記念事業)に計画し、日清戦争以来の戦没者を祀り、昭和一六年(一九四一)九月に完成した。日清戦役(一名)、日露戦役(十名)、満州事変(二名)、支那事変(二九名)、大東亜戦争(六二名)の計一〇四名の御芳名あり。
「神通峡ふるさと歩行会 しおり」

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P32 運送同業組合の碑
 
 大正一二年(一九二三)に猪谷の宮口久太郎によって同業組合を結成し関西電力の蟹寺発電所工事によって運送業が盛んになり、馬車引き八八頭からなっていた。
 この記念碑は庵谷に大正一四年(一九二五)に建設されたものを移転してきたものである。
「神通峡 ふるさと探訪」

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P33 藤井家東郷園

 藤井季雄宅にある駅前の「東郷園」は日露戦争に武勲をたてた「東郷平八郎」元帥と文通をしたり、懇意にしていた間がらで私財をかけて造られた。主なものに「敵艦見ゆの記念碑」「東郷元帥の顕彰碑」「八咫の鏡」「天手力男命の石像」。また秋楡の木がある。
「細入村史」

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P34 楡原駅

 飛越線が昭和二年(一九二七)に計画され、昭和五年(一九三〇)一一月、笹津~猪谷間が開通した。その時に楡原駅が誕生。その後、高山線が昭和九年(一九三四)一〇月開通し、日本海と太平洋を結ぶ重要な路線になった。
 国鉄が民営化し、JR楡原駅がペンション風建物に変わった。やがて、車社会の流れと共に、楡原駅は無人駅になった。
 平成元年(一九八九)一〇月、細入村施行百周年記念に「ふれあい広場」が完成した。
 「細入村史」

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P35 細入中核型地区センター
 
 鉄筋三階建て庁舎が昭和四七年(一九七二)に完成。工費約一億円。高齢者総合福祉センターが平成一三年(二〇〇一)八月に完成。工費約五億八〇〇〇万円。保健センターと併設して保健福祉の拠点として整備された。
 平成一七年(二〇〇五)四月細入村は富山市と合併し、この建物は細入総合行政センターになった。平成二八年(二〇一六)四月富山市の行政見直しにより細入中核型地区センターと名称を変えた。                       「細入村史」参照

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P36 布尻楡原大橋

 新しくなった国道四一号線楡原~庵谷区間は、旧道で問題となっていた雨量規制や積雪期の渋滞を解消し、より安全に通行できるようにするために整備された。
 神通川左岸を通るルートは、急勾配となる山間部だけ、田園が広がる右岸へと移り、これに伴い布尻楡原大橋が建設された。
 長さ三四一メートル、幅一〇・七メートル。平成二二年(二〇一〇)一一月、国道四一号楡原~庵谷区間(延長三キロ)の一部として開通した。同区間は、富山市と高山市を結ぶ国の地域高規格道路「富山高山連絡道路」(同八〇キロ)の最初の開通区間でもある。橋は景観に配慮し、一般的なアーチ橋に比べ、アーチ部分と橋桁の間の部材が少ないシンプルな形状。各部材の板厚をアップさせ、十分な強度を保っている。           
「北日本新聞」

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P37 雨乞の滝

 石黒谷が神通川に入る近くに雨乞の滝がある。戦前まで祈祷が行われていた。八月に上行寺本堂に「雨乞竜王画」を掲げ、滝の所では鰐口を持って読経後、紐を付けて滝壺に投げると、滝壺の竜が鰐口の金気を嫌って怒り狂いだし、天に昇り雨を降らせるという。  
「神通峡ふるさと歩行会 しおり」

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P38 シーテック細入

 平成一五年(二〇〇三)に設立されたシイタケ栽培の工場。徹底した品質管理と農薬を一切使わない栽培方法で、ハウス内は、自然の環境に近づけるために雨を降らせたり風を吹かせたり、温度も一定に保たれている。収穫は朝夜二回。一番いいタイミングを見極めて、慎重に摘み取っている。山あいの細入でつくられるしいたけは、品質・栄養ともにトップクラスを誇っている。  「シーテックホームページ」

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P39 集落南の題目塔
 
 楡原は「法華宗」の堅い集団で村境には厄除け、災難から守るために国道と大平道の別れ口に集落南の題目塔がある。嘉永元年に建てられたもので「南無妙法蓮華経」「三界万霊」と記してあり、毎年二月一六日の火祭りの日に上行寺からのお礼を掲げる。
「細入村史」

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P39 天然記念物「楡原の衝上断層」
 
 昭和一六年(一九四一)一〇月三日に国の天然記念物の指定を受けた「横山・楡原衝上断層」は岐阜県神岡町横山に至るまで見られる。最もよく観察できるところは楡原の松ケ谷と僧ケ谷間である。
 約一億二千万年前に堆積した手取層の猪谷互層といわれる約一メートル余りの砂岩と約三〇センチの頁岩の互層の上に、より古い船津期の花崗岩が南西から北東へ低角度で衝上し、このため猪谷互層は押し曲げられ・まくれ上がっている。そして両岩石の間に約一メートルの黒っぽい断層粘土が形成され、また花崗岩が砕かれて断層角礫となりこの付近の花崗岩は変質し圧砕花崗岩になっている。
 これは巨大地震もはるかに及ばぬ地殻の大変動によるもので、日本列島の大造山運動の一環として約六〇〇〇~七〇〇〇万年前に起こったものと考えられる。この大変動の跡が国道沿いに見られるのは日本でもこの地域だけで、地質学上貴重な証拠として指定されたものである。
 現在は発見者の今村外治先生の要望で、保護や観察できるようにするため、冬期間の雪崩や地質上の弱線にあたり落石防止のためスノーセットが造られ、その中が窓上に観察できるようにしてあり、左上部は衝上で持ち上げられた圧砕花崗岩、右側は猪谷砂岩片岩互層が右上がりの傾斜の岩石で、その間が断層粘土で黒くなっているのが見られる。観察は車の往来が多く危険である。    
「細入村史」

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P42 楡原山城
 
 四六三メートルの城ケ山の山頂にあり、典型的な中世の山城の性格を備えている。畠山義則が城主と伝えられ、楡原館、大乗悟山城、庵谷館と連絡を密にし、飛騨街道の守りや、攻めの要地に当たった。「肯構泉達録」に尾根や谷をうまく活用し、自然の山城を生かした特色と書かれている。   
「神通峡 ふるさと探訪」

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楡原の地名の由来と楡原保
 
 楡原には「ニレ」の木が多くあったことから名がついたと伝えられている。昔からの「ニレ」の木は、お宮に大きな「春楡」が残り、楡の木は平地に多く生える木であることから、楡原は平らな所を開墾してできた村であることが分かる。
 盆地状になったのば、今から二六〇〇万年頃前、ここの土地が海岸線で古神通川の川口だったので、石や砂が三角州状に溜り、風雨に侵食され易く、蛇が卵を飲んだように広がっていたので盆地状になった。
 楡原の歴史は古く、南北朝の正平五年(一三五〇)に、後村上天皇綸旨で滝口中務少輔を越中楡原保の地頭職に任じた文献がある。楡原保とは今の婦負郡の大半を治めていた頭がこの楡原にいたのでついた地名。楡原保の領域を今の小学校区で見ると、婦中町の速星校、宮野校、神保校、山田村の一部、八尾町では八尾校、樫尾校、杉原校、下笹原校、桐谷校、野積校、広畑校、仁歩校、大谷校、大沢野町の小羽校、細入村の楡原校、猪谷校をいい、一四七ヶ村が楡原保に属していた。

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 地頭職の滝口中務少輔とは、渡辺党のことで、南朝方に属して軍忠に尽くしたので報償に楡原保を与えられた。
 渡辺党の渡辺氏は、大江山の酒呑童子を退治した武将で、渡辺綱のこと。渡辺綱は四天王(坂田金時、碓井貞光、浦部季武、渡辺綱)の一人で大立者。また、「羅生門」の鬼退治でも有名である。この渡辺氏がこの楡原に住んでいた。(薄波には坂田金時、野積の布谷に住んだそうだ)                           
「神通峡 ふるさと探訪」


楡原の春季祭礼
 
 楡原の春季祭礼には、獅子舞が奉納される。婦負郡の獅子舞は、飛騨古川方面から神岡・越中へ入り、葛原と小羽へ伝えられ、ここから細入の村々へ江戸時代の終わり頃に伝わってきた。
 楡原の獅子舞は、青年団が中心になり行われている。現在は四月一五日に近い土曜日に行われる。近年若者が減少し、獅子を舞う人や笛を吹く人が不足して来ているのが心配である。    
「細入村史」参照

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江戸時代の頃の楡原

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[ 2016/09/06 09:19 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)

庵谷の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに 庵谷史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4 バイパス道路と庵谷町長大橋の完成

 庵谷地区には最大の難所がある。松ケ谷地内の崖崩れの心配がある場所である。大雨で心配がある時は、国道四一号線は通行止めになる。この場所は距離も長いし山腹なのでこれを避けるため、国土交通省北陸整備局は、富山高山連絡道路の建設の一つとして対岸を経由するバイパス建設に着工し、平成二二年(二〇一〇)十一月二十日にバイパスが完成した。庵谷と町長を結ぶ大橋は、全長三六九メートルで、庵谷町長大橋と命名された。
「細入村史」

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P5 旧庵谷橋

 大正十一年(一九二二)から開始された蟹寺発電所工事のために、富山方面からの資材が荷車によって運ばれることになったために、より堅牢な庵谷橋が架けられた。
 その橋詰めに料理屋があり、美しい遊女がいたため「花魁橋」と呼ばれていた。
 現在は、取り壊され、太谷川橋の横に橋の基礎部分が残っている。
「細入村史」参照

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P6 庵谷館跡  
 
 一六世紀に上杉謙信が飛騨の江馬氏、武田方の来攻に備えてとりでを築いた時にここができたようだが、今は何も残っていない。庵谷館は集落の中程に「館」の小字があり、旧飛騨街道の道の付近にあったものと思われる。
「細入村史」

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P7 神通川発電所建設で殉職された人を慰める観音像

 この観音像は、神通峡に建設された神通川第一、第二、第三発電所の工事で殉職された二十七名の霊を慰めるために、当時の北陸電力、山田昌作社長によって建立されたものである。
 ここに描かれている観音像は三十三観音のうちの一つである衆宝観音像で十徳を備えた尊い観音である。
 発電所は科学であり水であり、又生命の源泉は光であり水である。その水を配する光の慈悲門たる観音を、ここに表現し発電工事の犠牲となられた人々の霊を慰めている。
北陸電力「観音像のいわれ」より

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P8 庵谷発電所

 明治四一年(一九〇八)発電工事を開始し水の取入口を猪谷と蟹寺とし、トンネル水路で落差五〇メートル二六〇〇キロワットの発電を、明治四四年(一九一一)一月に完成させ、北陸最大の発電所ができた。
 大正三年(一九一四)の洪水で導水路が埋没したため、大正五年(一九一六)に第二発電所の工事を開始した。片掛から水を取り入れ、落差八五メートル、九五〇〇キロワットの発電所が大正八年(一九一九)六月に完成した。                
「細入村史」

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P9 神通川第一発電所 
 
 昭和二七年(一九五二)に庵谷発電所の改造計画に着手し、片掛に高さ四二・三メートル、長さ三三二メートルのダムをつくり、昭和二九年(一九五四)二月に完成した。サージタンクの水圧、フランシス型水車で八万キロワットの発電を誇り、神通川第一発電所とした。
 この工事では建設工事機器のブルドーザー、ショベルカーなど最新鋭の重機が使われ、工費一六・六億円、延べ一六〇万人の大事業であった。
「細入村史」

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P10 旧役場跡(浅野宅)

 細入村が明治二二年(一八八九)に発足し、平成元年(一九八九)四月一日に百周年を迎えた。役場が明治二二年(一八八九)から昭和一一年(一九三六)まで現在の浅野豊一宅にあったが、高山線の駅が庵谷にできなかったことから、交通の便と広い土地を考えて楡原に移転した。        
「細入村史」

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P11 庵谷小学校跡(プール付近)
 
 赤座家で寺子屋が開かれていたが、明治一一年(一八七八)に楡原小の分校となり、明治二〇年(一八八七)に簡易小学校として独立した。明治二七年(一八九四)に尋常小学校となり、明治三四年に再び楡原小の分校となり、大正一二年(一九二三)に楡原小に統合した。         
「細入村史」

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P12 フェーン現象と大火
 
 昭和二二年(一九四七)四月一日、国鉄踏切より下の家二五戸が焼失した。原因は高山線の汽車から燃焼中の石炭が転がり落ち茅葺き屋根に火がついたことによる。フェーンの南風が大谷川から吹いていて火勢を強め大火になった。国鉄から見舞金を受け、その後この辺りは新築家屋が並び建った。                  
「細入村史」参照

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P13 新庵谷大橋

 昭和六十年(一九八五)から国道四一号線庵谷トンネル口に、延長一七七メートルの緩いカーブを描く大橋の建設が始まった。この橋は昭和六二年(一九八七)に完成し、新庵谷大橋と命名された。この箇所は、以前はトンネルの出口で大きく急カーブしており、危険な場所であった。新庵谷大橋の完成によって、四一号線の難所が一つ解消したことになる。
「細入村史」

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P14 庵谷トンネル
 
 細入村の中央に屏風のように立つ庵谷峠は南北の交通を妨げ、生活圏も猪谷地区と楡原地区に分かれていた。そこに昭和二八年(一九五三)一〇月からトンネル工事が始まった。長さ九七一メートルの直線のトンネルで貫くもので、庵谷側は前田建設が片掛側は佐藤工業によってなされ、昭和三二年(一九五七)五月に完成した。当時の日本では長さが五番目のトンネルだった。
 付帯工事に一年を要し昭和三三年(一九五八)からは交通は一変した。四〇分の峠越えがわずか二~三分で通れるようになったのである。新トンネルの完成で、今はコンクリートで入口が塞がれ、その上に瓦礫が載って今は見ることができない。
「細入村史」

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P15  庵谷隋道完成記念碑
 
 昭和四一年(一九六六)十一月三日、庵谷トンネル建設の意義と関係者の功績を後世に伝えるべく、銅版をはめ込んだ立派な石碑をトンネルの庵谷側入口に建てた。ここには富山大学教授高瀬重雄博士の撰文がつづられている。
「細入村史」

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P16 新庵谷トンネル 
 
 国道の交通量が増したことで庵谷トンネルの幅が狭く、大型車の通行が不便なことから、昭和六三年(一九八八)一〇月より新庵谷トンネルの工事が東側で始まり、前と同じ佐藤工業と前田建設が請け負った。
 延長一〇三四メートル、幅一〇・二五メートル費用二一億円、平成元年(一九八九)九月に貫通、平成二年(一九九〇)九月に早々と完成し開通した。
「細入村史」

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P17 庵谷の棚田
 
 国道四一号線から西側に広がる田んぼはきれいな棚田になっていて、この風景を写した写真がよく富山の写真展で紹介されている。昭和五三年(一九七八)から始まった農業基盤整備事業で今のような棚田に整備された。
「細入村史」参照

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P18 日露戦勝碑 
 
 明治三七年(一九〇四)二月、日露戦争が勃発した。日清戦争の時に比べて個人からの出征者も多く、村内には日露戦争戦勝記念碑が、庵谷・片掛・猪谷の三か所に建てられ、さらに個々人の戦没慰霊碑も三基建てられている。
 戦勝記念碑の石刻によると、庵谷一二名、片掛一一名、猪谷一六名が出征している。細入村からの出征軍人は七〇~八〇人程度ではなかったかと推測される。
「細入村史」

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P19 石仏群
 
 旧道脇のこの場所に庵谷の石仏が集められている。
 

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P20 道標 
   
 県道と凌雲寺の分かれ道に「右ハやま、左ハたか山道」とあり、明治二〇年代にもう少し寺よりにあったが県道改修時に移転され、今の所になった。
「細入村史」

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P21 凌雲寺(曹洞宗)跡

 寛政元年(一七八九)、大渕寺二一世の簡易所として創設。昭和二九年(一九五四)庵から寺に昇格した。境内に「法華塔」があり、大渕寺弘道書とある。
 円空仏がこのお寺と村山家より見つかり、旧細入村での最北端での発見であった。廃寺となり、今は、法華塔と観音像が残っている。
「細入村史」参照

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P22 日枝神社

 祭神大山ひめ神・少彦名命・氏子六〇戸、天和三年(一六八三)銀山の守護神として富山の日枝神社の分霊を山王台地に祀った。  その後一〇〇年後に山口の地に遷座、以来二〇〇年を経て明治四三年(一九一〇)上野割の現在地に日枝神社を始め八幡社、粟島神社、山の神、稲荷大明神、秋葉大権現の六社を合祠した。
 庵谷に六社もあったのは銀山に派遣された人々が自分たちの氏神を祀ったことによる。境内に四角型石灯籠一対(彫刻)がある。宝暦四年(一七五四)の銘あり、貴重な石灯籠である。                         
「細入村史」

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P23 秋葉大権現 
 
 昭和二三年(一九四八)の大火で火の神である秋葉大権現を、日枝神社境内から旧社地に戻した。昭和五〇年(一九七五)に拝殿が造営された。秋葉様のお祭りは毎年四月一日に行われている。      
「細入村史」

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P24 小菅峠登り口

 集落内の県道を進んで行くと「旧飛騨街道入口」と書かれた標柱がある。この標柱から山側の右手の道跡を登って行くと、旧飛騨街道の難所であった小菅峠へ辿り着くことができる。
 以前は、一番通りやすい所を選んで道をつけ、少しずつ道幅を広げて、牛馬も楽に通れるようになっていたのだが、現在では牛馬はもちろん人もめったり通ることがなく荒れている。ここが旧飛騨街道の残存の道跡である。
「細入村史」

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P25 お不動さま
 
 飛騨街道の難所だった場所も、明治一九年(一八八六)、飛騨街道が県道として改修され、小菅峠から庵谷峠を通る道になり、荷馬車も通れるようになった。
 しかし、まだまだ危険な所が多く、馬車引きたちが交通の安全を願って、祀ったお不動さまだと云われている。八月下旬にはお不動祭りを開催している。
 このお不動さまの脇に流れる水を利用して、おいしいお茶やコーヒーを沸かすことができる。
 「村の今昔」細入歴史調査同好会

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P26 庵谷峠
 
 明治一九年(一八八六)小菅峠越えの難所を解消するため県道が新たに造られ、荷馬車が通れるようになったのが庵谷峠道である。だが、勾配を緩くするのにいくつもの谷を大きく廻ったため、カーブが多く長い道のりとなり、荷馬車で物を運搬するのにも多くの人手や牛馬が必要となった。しかし、この県道ができたことで飛騨への生魚・米・塩・木綿などが運ばれ、飛騨からは木地類・コウゾ・鉱石などが大量に運ばれるようになった。
 また、村の人たちも荷馬車の峠越えを手伝った駄賃を稼ぐことができた。この峠道も、昭和のトラック時代になると一時間もかかる峠越えや冬期間の通行止めが楡原地区と猪谷地区の生活を妨げることになっていた。
「細入村史」

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P27 庵谷峠の礫岩層
 
 峠の切り割の地層を見ると、川の礫である。しかも大きな礫が見え、礫を固めている砂や小石も同じ硬さであるため、スパッときれいに割れている。
 この礫岩層は、庵谷峠礫岩層といって、今から一億二〇〇〇万年前の中世代ジュラ紀に手取湖の底に溜まったものである。湖の底だったものが持ち上がったのである。楡原の松ケ谷の断層地と猪谷川の断層地の間が隆起したものである。
「細入村史」

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P28 庵谷峠の展望台
 
 峠の東側に展望台の上り口がある。五〇メートルぐらい行くと鉄骨の展望台に着く。この辺りは、春の若葉、夏の緑、秋の紅葉、冬の厳しさと四季を通して自然の素晴らしさを感動させてくれる場所である。
 北側は片路峡、寺津、庵谷、楡原、割山と山々、その奥に富山平野が見渡せる。また、南側は、以前は、片路峡、薄波、吉野、伏木、小糸、片掛、猪谷とその山々、その奥に飛騨の山々が見渡せたが、今は、木々が生い茂り、見えなくなった。         「細入村史」

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P29 神通峡自然環境保全地域 県指定昭和五一年(一九七六)六月一日 
 片路峡のV字峡谷と蛇行によって「ウラジロガシ」「アカシデ」の天然林の植生が見られ、庵谷峠の展望台下から長棟川口までの急崖地が特別地区に指定されている。規模の大きさや自然植生の保存状態など県内で最もよい「ウラジロガシ」の群生地である。この貴重な自然環境は細入の宝である。この宝物を大切に保存し、次の世代へ引き継いでいくことが求められている。
「細入村史」

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P30 小菅峠

旧飛騨街道の難所だった小菅峠。標高は四〇〇メートル。明治一九年(一八八六)に旧街道は荷馬車が通れるように改修工事が行われ、もう少し東にある庵谷峠を越える道になった。それ以来、人々はこの峠を越える必要がなくなった。
 今も旧街道の跡は残っているが、めったに人が通らず荒れた状態になっている。今ある小屋の辺りにその昔、茶店があったという。
「細入村史」参照

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P31 防空監視哨に無線中継局

  昭和一四年(一九三九)から日本全土の空襲にそなえて防空監視哨を三角型の建物で作り、空の監視をして富山へ電話報告していた。
 終戦後なくなり、今は細入地域行政無線の中継局がここに建っている。
「細入村史」

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P32 庵谷銀山

 今から四〇〇年ほど前の天正年間(戦国時代)に発見された銀山で、片掛や吉野銀山をあわせて坑口が一〇〇ほどあった。現在は四〇抗ほどが残っている。庵谷には、大舞坑、小舞坑など、また精錬所跡といわれる所はあるが、現在はっきりとした形で見ることはできない。また昭和一七年(一九四二)から一九年(一九四四)の戦時中は、銅・亜鉛を掘り始めたこともあったが、戦争が激しくなり経営困難となったため廃止された。                
「細入村史」

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庵谷の紹介
 
 庵谷は神通川とその支流の大谷川の間の段丘上に立地する集落である。集落は飛騨街道に面しており、通行の難所であった庵谷峠の北側の集落として栄えた所である。

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 地名は「ようだん」とも称したが「よりだん」とも言われ「庵谷」と書く。「庵」の文字を冠する地名は古い開発を伝えると言われ、「庵」の語の持つ民俗学上、最も古くから開けた土地とされている。近世に至るまで、飛越間の物資(米・塩・魚・木材・こうぞ等)を運ぶ流通の要所となっていた。
 また飛騨木材を流送する中継点で対岸の寺津との間に藤で編んだ大綱を数本渡し、流木を止めて数を確認して牛ケ増で筏に組んで東岩瀬に出し、ここから船積みで江戸に運んでいた。社寺は銀山の関係で多く日枝神社、八幡社、粟島社、稲荷社、山の神、秋葉社の六社があったが明治四三年(一九一〇)に合祀して日枝神社とした。
 慶応四年(一八六八)の家数は六四戸、人数は二五九人であった。
 片掛地区とともに銀山があり,元和五年(一六一九)の前田利光、利常による庵谷・片掛などに六金山宛の一五ケ条定書があるところから、それ以前の創業と考えられる。寛永一六年(一六三九)の富山藩成立の前後に衰退していたが、同一九年(一六四二)の書上には朱封銀三貫目とあることから廃絶することなくあったことがわかる。
 
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明治二二年(一八八九)の細入村成立のときから昭和一一年(一九三六)まで庵谷に役場が置かれていた。明治末期には水路式の庵谷発電所が作られ、大正に入ってその第二発電所も建設された。また高山線の敷設によって、 県道に踏切ができたなどの景観的な変化があった。この間自動車の普及によって次第に峠に近い場所の価値が低くなったとみえて、上の方の家は減り、国鉄踏切より低い方に家が増加した。家並に関しては、昭和二二年(一九四七)に集落の半分近くを焼き尽くした大火のことを忘れてはならない。

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 昭和二五年(一九五〇)、北陸電力の手によってダム式の神通川第一発電所が建設され、従来の発電所が廃され、その後新たに庵谷発電所が追加建設され、以前のように二つの発電所が存在するようになった。
 また、片掛との間に庵谷トンネルが抜かれ、それに伴う道路の路線変更で、庵谷地内の従来の街道が裏通りになってしまい、景観を一新した。新しい道路は、従来の家並を切り通しによって横断し、旧道と立体交差になっている。このことは、結果的に、集落を騒音公害や交通事故の危険から救うことになった。
 旧道には展望台が設けられており、片路峡の眺めは素晴らしい。
 水田については、圃場整備事業が実施されてその姿を大きく変えた。自動車の入る農道も合わせて作られ、機械化された稲作が行われている。
 最近の庵谷地区の大きな変化の特色をみると、一つは、四一号線の難所が解消され、整備が急速に進み、大型車や県外ナンバーの通行が一段と多くなったこと。二つめは、営農組合の発足で地区の農業の機械化が図られ、水田耕作の省力化・効率化が進んだこと。三つめは、上下水道工事が完成し、住宅環境が著しく改善されたこと。四つめは除雪車の配備や流雪溝の改良で雪対策が一層進んだことが挙げられる。
 環境や生活の著しい変化の中で、少子化・高齢化の波が押し寄せ、戸数・人口が減少している。 
「細入村史」参照

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江戸時代の頃の庵谷

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[ 2016/09/05 09:59 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)

片掛の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに 片掛の史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4 片掛銀山跡
 
 今から四〇〇年ほど昔の天正年間に、この辺り一帯で銀山の開発が盛んに行われた。片掛・庵谷・吉野銀山で、坑口が一〇〇ほどあったという。
 その鉱口の跡が、庵谷へ通ずる村道の脇に、幾つか残っている。大渕寺から峠を少し上った所には、細入観光協会の『片掛銀山跡』の道標が立っている。
「細入村史」
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P5 大渕寺  
 
 曹洞宗のお寺である。山門の両脇には、勇壮な仁王像が立っている。開山は文明元年(一四六九)。船峅坂本(大沢野)に開創し、花崎村の瑞泉寺を講じて開山した。この寺は、永禄年間に、上杉勢の兵火により消失した。その後、加賀藩三代の前田利常の寄進を得た。大渕寺と寺号を改め、再興を願っていたところ、須原の森田氏の保護と寄進があり、享保十年(一七二五)、この片掛に本堂を再建した。その後、大正五年(一九一六)の火災で楼門以外は消失したが、大正十二年(一九二三)、現在の伽藍の復興をみた。                                  
「細入村史」

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P6 六地蔵と石仏群

 大渕寺の門前に六地蔵がある。この地蔵は、片掛銀山の採掘に従事する山方衆の安全を祈願するために峠に立てられていたが、銀山の衰退と共に、長い間そのまま放置されていた。そのため、昭和五十八年(一九八三)に、大渕寺門前にお堂を建て、移設した。現在も地蔵法要を行い、お参りしている。
その横には、地蔵菩薩が四体並んでいる。この祠の裏側、山門脇にもたくさんの石仏が並んでいる。

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P9 三十三所観音 

 細入にある三十三所観音の一組は、片掛大渕寺の山門脇にある。配列の乱れはあるものの、三十三体すべてが揃っている。
 この石仏は、最下に方形の台石、その上に別石による蓮花座を置いて立てる舟光背型の一石一尊仏である。台石を含めて総高約八十センチメートルである。
 砂岩系の石材である上に刻みがあまり深くなく、欠損するもの、摩減のために像容や刻字が定かでないものもある。正面下方に台座による「壹番」「拾番」「丗三番」等と札所番号を縦書きに刻む。約半数は光背部に、「大姉」「居士」「信女」「童子」などの法名二人分ずつ刻む。はじめから、同寺山門脇に並べるため、同寺檀徒による寄進であろう。                
「細入村史」

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P10 馬頭観音

 片掛集落から庵谷峠への上り口に馬頭観音が奉られている。お供えの花が耐えることはない。地域の人たちが今も大切にお守りしていることが伝わってくる。
 昔は、人々の生活と牛や馬は深い関わりを持っていた。田畑を耕し、物を運ぶのにも牛や馬が使われた。物を運んでいた牛が死ぬと大日如来を祭り、物を運んでいた馬が死ぬと馬頭観音を祭ったとのことだ。
 片掛大渕寺前の馬頭観音には明治四三年(一九一〇)と刻まれている。
「細入村史」

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P11 小菅峠上り口

 大渕寺に近い道路脇に、「旧飛騨街道」の標識が立っている。ここが、小菅峠を越えて庵谷集落へ続く旧飛騨街道の上り口である。峠までは、細くて険しい上り道が続いている。しかし、今は、ほとんど通る人もなく、雑草に覆われている。
 明治十九年(一八八六)、旧飛騨街道の改修が行われ、庵谷峠を越える新道が作られた。それまで牛でしか越せなかった峠道が、荷馬車の通行ができるようになり、輸送量が飛躍的に増加した。
「細入村史」

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P12 水戸家
 
 明治初期に建てられた農家である。今は懐かしいくぐり戸と、長いヒサシが残る農家である。傾斜地の多い片掛は、江戸時代から養蚕が盛んであった。蚕の成育には、日光が直接当たるのがよくないので、屋根のヒサシを長くした。
「細入村史」

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P13 円龍寺
 
 元は真言宗の寺であったが、承元元年(一二〇七)親鸞聖人の化導を受けて浄土真宗に改宗した。その後文明年間に本願寺の蓮如上人の教化を受けた。永正四年(一五〇七)に本願寺実如上人より開祖仏ならびに円龍寺の寺号を許された。「白銀山」という寺の山号は、片掛の地で銀が盛んに掘られたことに由来する。その後本願寺が東西に別れ、東本願寺の末寺になる。明治三十四年(一九〇一)に大火にあい、本堂や鐘堂、宝物などの多くを焼失したが、大正八年(一九一九)に現在の本堂が再建された。
「細入村史」

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P14 西念寺

 浄土真宗本願寺派である。源義仲の家臣で片津権左衛門友明が逃れて下山に城を構えていた説がある。親鸞聖人に都の様子を聞きたい一念で富山に忍び上人の化導に合い髪をそり法衣「西念」を受け、庵谷に草庵を設け念仏三昧に入った。その後片掛に移り鉱山奉行所の跡を賜り現在地に堂宇を構えた。明治三十四年(一九〇一)の大火にあい、その後本堂、庫裏、経蔵、楼門、梵鐘などを再建した。
「細入村史」

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P15 片掛公民館と金剛院跡 
 
 平成二年(一九九〇)に旧公民館を建て替える時に、現在の道脇に移転した。水力発電施設周辺地域交付金で建てられた。
 この場所には、以前金剛院があった。金剛院は、永禄二年(一五五九)に富山にあった金剛院の権代僧都逢山の代に片掛村へ院号とともに転地して住職となった。
 明治三年(一八七〇)十月二十七日旧富山藩の長柄町清傳寺への合寺に遭ったが、同九年(一八七六)二月二十四日元に復した。当院は、もともと山伏の寺として飛騨の角川から笹津界隈を加持祈祷の場としていた。明治三十四年(一九〇一)の大火に遭い、その後堂宇を建立したが,未完のままだった。                             
「細入村史」

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P16 坂野家 
 
 片掛に設けられていた郵便局がこの坂野家にあった。片掛の郵便局は、大久保局と高山局の中間地として、人の足で配達や集配をしていた。大正十年(一九二一)から、密田銀行もこの家の一室に出張所を置き、営業していた。今も、二階の家の窓に、その当時の鉄格子が残っている。昭和五年、飛越線が開通し、猪谷駅前が賑わうようになると、郵便局は猪谷駅前に移転した。
「細入村史」 

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P17 一里塚 
 
 片掛集落の中央よりやや南の道路東脇に、直径約九十㎝の榎の大木が二本そびえている。旧飛騨街道は、この木の下を通っていて、昔の一里塚に植えられた榎と伝えられている。
「細入村史」
 
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P18 秋葉社
 
 三百年ほど前には、この地に社があったことが確認されている。現在は八坂社の末寺になっている。御神体は浮彫石神で火焔光背型台座の狐の上に立ち、右手に剣、左手に索を持ってぃる。
「細入村史」

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P19 八坂社 
 
 創建ははっきりしないが、往時、片掛銀山の忍屋新左衛門が守護神として奉斎していた牛頭天王社があった。新左衛門の退転後、同村内の諏訪・春日・神明の各社を合祈し、八坂社と称した。現在の社殿は、昭和十一年(一九三六)九月に改造したものである。
 境内には日露戦勝記念碑も設置されている。  
「細入村史」

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P20 道の駅細入
 
 平成六年(一九九四)四月、国道四十一号線、片掛地内東野に、芝生広場、アストロゲレンデ、遊具、公衆トイレ、飛越ふれあい物産センター「林林」、などが整備された道の駅が建設された。その後、食堂も増設された。越中と飛騨の県境にあり、富山と飛騨のお土産が所狭しと並んでいる。休日や行楽シーズンには大勢の人に利用されている。 
「細入村史」

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P16 東野台地 
   
 東野台地では、今から三千年前の縄文土器が出土する。中でも爪型文様の口縁部を飾った土器や矢じりが多い。
 この大地をよく見ると砂の層である。この砂の層を調べると噴火した火山灰である。今から三万年前に上流の上高地の焼岳の火山灰が流され、ここに堆積したものである。砂地の上は黒土があり、ラッキョウの生産が有名である。細入の特産品になっている。
「細入村史」

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P22 神通川第一ダム

 富山市細入地域を流れる神通川には、三つのダムがあり、最上流にあるのが神通川第一ダムである。昭和二十七年(一九五二)に建設が始まり、昭和二十九年(一九五四)に送電を開始した。長さ三百三十二メートル、高さ四十二メートルのダムである。ここから、下流の庵谷の発電所までトンネルで水が送られている。最大出力は八万キロワットである。                      「細入村史」

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P23 籠の渡し跡

 神通峡で一番狭い吉野橋の少し上流の大岩に篭の渡しがかかっていた。古図、神通川絵図(文化十年 一八一三年)に書かれている。幅が十四間(二十五・五メートル)あった。明治十八年(一八八五)に丸木橋になる。
「細入村史」

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P24 吉野橋 
 
 昭和二十八年(一九五三)神通第一ダム工事で丸木橋が架け替えられ、更に昭和五十八年(一九八三)に現在の橋となった。幅七メートル、長さ百二十三メートル、片路峡を望む絶景の場所である。
「細入村史」

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P25 ダム湖横の崖にある野仏

 ダム湖横の片掛から吉野へ通じる道の崖に野仏が二体ある。一体は嘉永四年(一八五一)の年号が確認できる浮彫地蔵立像である。

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片掛の紹介 

 国道四十一号線「道の駅 細入」の周辺に広がる集落が片掛である。集落は、高山本線から山方の旧飛騨街道沿いに連なる家並みと、国道から神通川へ下る吉野道に連なる家並みがある。
 「片掛」という地名は、東野と呼ばれる火山砂がたまった土地があり、神通川沿いの土地がえぐり取られたような地形になっているところから、「片方が掛けている」という説と、片津という武士が、お寺を建て、それを「片津のお掛け所」と呼んだことからの説がある。
 片掛は、旧飛騨街道の峠下の宿場町として発展した集落である。また、片掛には、銀が産出する鉱山があり、室町時代から江戸時代頃まで採掘された歴史がある。銀が採掘されていた時代には、飯場や精錬場があり、三百戸ほどの家が建ち並び、吹き屋かまどの煙が絶えなかったという話が残っている。採掘された鉱山跡の記念碑が、庵谷峠へ上る旧街道沿いに立っている。
 大正時代の地図を見ると、街道沿いに商店街があり、旅館三、馬車宿一、飲食店七、食料品店等五、馬車屋四、酒屋二、理髪店二、運送問屋三、人力車三、鍛冶屋三、大工四、女郎屋二、木羽板屋、下駄屋、石屋、左官、警察署、医院など賑わっている様子が記されている。この頃が、片掛の戸数・人口のピークで、昭和五年(一九三〇)、飛越線が猪谷まで開通し、猪谷駅前が賑わうようになると、商いをしている家々が猪谷へ移って行った。

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 昭和二十七年(一九五二)神通川の電源開発事業が始まり、片掛と吉野を結ぶ地点に神通川第一ダムを建設し、下流の庵谷に発電所を建設するという工事が始まった。工事は急ピッチで進み、第一発電所は、昭和二十九年(一九五四)に完成し、送電を開始した。工事期間中、片掛には、北陸電力の工事事務所や合宿所、大工事の本部などが置かれた。旧街道沿いには、魚店、とうふ店、飲食店、パチンコ店などができ、一時的ではあったが、昔を偲ばせる賑わいが片掛に戻った。
 昭和三十年代になると、新しくできた神通湖(第一ダム湖)に、貸しボートや遊覧船が走り、湖畔には三階建ての料亭が建ち、神通峡は、富山からの日帰りハイキングの場所として、にわかに脚光を浴びるようになった。たくさんの人が、列車やバスに乗って、神通湖へやって来た。しかし、昭和四十年代に入り、観光が広域化する中で、こういう風景は、衰退していった。       

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細入村史「片掛」の巻頭詞には、次のように紹介されている。
 
 片掛 
 
 富山・船津へは共に七里
  峠の峻険の南にあって 
  飛騨からの人と荷、  
    足を停めるを常とする
  かね山と宿場の賑わいで 
  町と呼ばれるも 
  七寺四社の勢い今はなく
  古き坑道に栄華を想う 
  ダム工事をひと花として
  静かな畑作の村に還る
                     「細入村史」


江戸時代の頃の片掛

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[ 2016/09/04 18:05 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)

猪谷の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに 猪谷の史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4 一本木の村境の碑

 国道脇の猪谷と片掛の村境に、昔大きなケヤキの木が一本植わっていた。ここは地名を一本木といい、猪谷と片掛の境界を示す大切な木であった。
 戦後、物資不足でケヤキの木が高値で売買されており、境界の土地を有する両方の地主が相談し、高岡の材木商に売るため伐採してしまった。両村としては大切な目印であったため、新たな目印が必要となり、相談の結果、境界に永久的に残る石柱を建てることになった。費用は両地主負担で「村境」と彫った大きな石柱が建立された。
「細入村史」

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P5 砂場集落の地蔵様   

 猪谷から片掛に向かう途中に、今は廃村になり、建物は何一つ残っていないが、砂場集落があった。
 昭和十五年(一九四〇)一月二十九日、雪が四日間降り続き、県下各地で積雪は三メートル前後に達し、笹津では四百四十センチという豪雪になった。全てのものが新雪で覆い尽くされた中、午前十一時半頃、洞山から表層雪崩が発生し、高山線と 砂場集落を襲った。
 鉄橋や橋梁、五軒あった集落の二軒を飛ばした。二軒の内一軒は、対岸まで押し出された。七名の命が奪われ、高山線は約十日間、不通になった。
難を逃れた三軒は、猪谷へ転居し、砂場集落はなくなった。その後、防雪林や防護柵など鉄道林を多くして、事故防止を図っている。国道脇にある地蔵様は、その跡に建てられたものである。    
「細入村史」

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P6 猪谷川河岸公園

 猪谷川に架かる鉄橋を普通列車が渡って行く。列車からは、この川の少し上流にある常虹の滝も眺めることができる。
 鉄橋の下には、駐車場やバーベキュー施設・トイレなどが設けられ、小さな公園になっているが、現在は、閉鎖されている。
 川原は、自然の岩石を使って敷き詰められ、子どもが水遊びを楽しむことができるように工夫されている。常虹の滝まで行くことができる遊歩道は、落石の危険があるため閉鎖されている。
「細入村史」参照

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P7 百衣観音
 
 常虹の滝の横に観音堂があり、白衣観音座像が安置されている。三十三観音の一つとされ、息災延命や安産、育児などの祈願の本尊である。
 そのすぐ下には、不動明王が祀られている。毎年八月下旬の土曜日には、お不動祭りが行われる。
「細入村史」

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P7 常虹の滝

 猪谷川の下流、国道四一号線から四百mほど入った所に見事な滝がある。滝は、大小合わせて四本。その内の一つが、常虹の滝(とこにじのたき)と呼ばれている。天気がよい午前中、この滝の裾野に美しい虹が架かることから、「常虹の滝」と名前が付いた。
 階段を下りると、大きな滝が目の前に迫って来る。轟々と流れ落ちる滝の音が、身体に伝わって来て、迫力満点である。
 この滝には、「その昔、この辺りは、蛇歯見ケ池という大きな池であったが、池の主の大蛇が昇天する際に暴風となり、池が氾濫崩壊して、そこに数条の滝ができた」という伝説が伝わっている。
「細入村史」

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P8 山の神・水神様

 猪谷集落西の棚田が続く桐谷道の平地の突端に、山の神を祀ったお堂がある。山仕事や田畑の仕事の無病息災、五穀豊穣を願い、建てられたもので、「大山祇神(ツミノカミ)」が祀られている。四月末の日曜日に、男たちが集まり、西禅寺の住職を招いて読経し、祭りを行っている。
 また、広場の片隅の小さいお堂には、水神様が祀ってある。猪谷集落を流れる用水路の水は、この奥にある猪谷川から引き水をしている。
「細入村史」

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P9 猪谷川断層
 
神通川は猪谷川との合流点で直角に曲がっている。ここは猪谷川に沿って断層が走り、大沢野小糸・伏木・吉野地区一帯に向かっている。猪谷川付近から南側は砂岩頁岩の互層である。断層の北側は小糸・伏木・吉野・片掛側が花崗岩になっている。
 猪谷川付近の断層は崩れやすいので国道に沿って猪谷洞門が造られ安全に車か通れるようにしてある。
「細入村史」

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P10 双体道祖神
 
 猪谷集落の北の端、国道脇の川側に小さな広場があり、そこに小さなお堂がある。中に男女二神の石像があり、男神は杯、女神は酒器を持っている双体道祖神である。
 道祖神は一般的に「サイの神様」「セイの神様」といい、道の安全や集落の悪霊、悪疫、災難の侵入を防ぐ神様「塞の神」、男女二神像から夫婦和合、子宝の神様「性の神」と、広い信仰の対象として祀られている。
 明治三十五年(一九〇二)に子宝を願って建立されたもので、細入地区では、ただ一体しかない道祖神である。           「細入村史」

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P11 神岡軌道猪谷三井鉄橋の橋脚跡

 神岡鉱山から産出された鉛や亜鉛などの鉱石は、大正時代には、高原川右岸、神通川右岸に作られた神岡軌道により、船津から笹津を経由して富山まで運ばれていた。
 昭和二年(一九二七)には、馬車からガソリンエンジンの機関車が引く貨車に切り替えられた。

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 昭和五年(一九三〇)十一月、飛越線が猪谷まで開通すると、三井鉱山は、昭和六年、神岡軌道を猪谷駅構内へ乗り入れた。この時に建設されたのが、猪谷の三井鉄橋である。この鉄橋は、長さ二百八十メートル、高さ三十六メートルで、その後長く付近の景観を引き締め、神通峡の美観の一要素となった。極めて高い橋脚を持つ鉄橋で、高所恐怖症の人は近寄るのも恐れると思われるが、対岸の吉野・伏木・小糸方面の人は、猪谷への通勤・通学によくこの鉄橋を利用したものである。
 昭和四十一年(一九六六)、国鉄神岡線の開通に伴って神岡軌道は廃止され、猪谷名物の鉄橋も、その数年後取り払われた。ダムの湖水に残る橋脚が、そのかつての存在を伝えている。
「細入村史」

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P13 善光寺尼宮様お手植えの松
  
 県道脇の不動明王堂の横に松の木がある。これは昭和三年(一九二八)九月九日に高山市に建立された善光寺別院の落慶式に参列されるため、善光寺智栄尼宮(皇族出身の姫宮)様が長野から富山、富山から笹津まで鉄道を利用され、笹津より乗合自動車で高山までお出でになる際に、乗合自動車の乗り継ぎ点であった猪谷の土田上水館で休憩された時に、自ら鍬を手にしてお植えになった松の木である。。      
「細入村史」

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P14 アメダス定点観測所

 毎年冬になると、猪谷の積雪情報がニュースで流れる。猪谷に設置されたアメダスの観測所のデータが貴重な役割を果たしている。
アメダスとは、「地域気象観測システム」のことを言い、雨、風、雪などの気象状況を時間的、地域的に細かく監視するために、昭和四九年(一九七四)十一月一日から運用を開始した。猪谷にあるアメダスは、降雨量と降雪量のデータのみを記録している。
観測所の周囲には、風の通りを妨げないような柵を設置し、外部からの侵入をできるだけ防いでいる。また、さらにその周囲は開けた場所とし、樹木や建物などによって日光が遮られたり、風通しが悪くなったりしないよう配慮されている。               「ウィキペディア」参照

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P15 細入南部地区センター
 
 この敷地には、以前猪谷小学校があった。現在は、建物が改築されて細入南部地区センターとなり、地域住民の活動の場となっている。
 旧猪谷小学校の沿革史は次のようである。
 明治七年(一八七四)に猪谷関所の役人をしていた橋本作七郎の自宅を啓蒙小学校として創設し、その後石田・本多・出島・西禅寺と転々と住居を借用していたが、明治二〇年(一八八七)に猪谷小学校となり猪谷二一六番地に校舎を建てた。大正一五年(一九二六)に片掛分教場を統合した。昭和四二年(一九六七)に地上一部四階建ての近代的な校舎を竣工、細入村大沢野町学校組合立猪谷小学校となった。加賀沢分校、下夕地区の伏木、東猪谷両分校を統合した。昭和四五年(一九七〇)体育館を新築。平成一五年(二〇〇三)三月閉校、楡原小学校と統合し神通碧小学校として再出発した。
「細入村史」参照

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P16 殉職教員慰霊碑
 
 神通川には、長年、下夕地域(舟渡、小糸、伏木)と猪谷をつなぐ橋が、なかった。下夕地域の人々は、神岡鉱山軌道の眼もくらむような猪谷三井鉄橋を、危険を承知で、通行して、神通川を渡っていたのである。
 昭和二十三年(一九四八)、新制猪谷中学校の建設に伴い、下夕地域に住む中学生の通学の安全から、舟渡と猪谷をつなぐ吊橋を建設することになった。工事は、順調に進み、昭和二十四年(一九四九)、下夕地域の人たちにとって、念願の橋が完成した。
 村の橋梁検査を終え、九月二十六日には、県の検査を受けるという九月二十二日のことである。国指定の天然記念物になっている「猪谷の背斜・向斜」の地層を観察するため、新設されたばかりの猪谷新橋を渡っていた八尾区域小学校教育研究会の先生たちが、突如、吊橋のワイヤーを支えているアンカーボルトが破損し、吊橋もろとも落下し、神通川の激流に呑まれるという大惨事が発生したのである。この事故で、二十九名の先生が殉職した。慰霊碑が、吊橋落下地点近くの川辺に建てられた。現在、慰霊碑は、旧猪谷小学校校庭に移設された。
 この事故の後、下夕地域の人たちは、猪谷へ渡る橋がなくなり、再び、神岡軌道猪谷三井鉄橋を渡らねばならないことになった。細入・下夕両村は、再度、同じ地点に強力な吊橋を建設するべく、強力な請願運動を展開した。この努力によって、昭和二十五年(一九五〇)、国・県の補助を受けて、再び吊橋の建設が着工され、翌昭和二十六年(一九五一)四月一日、悲願の吊橋が完成し、「神峡橋」と名付けられた。このようにして、下夕地域に住む人たちが、安心して神通川を渡れるようになったということである。
 昭和四十年代に入り、細入村と下夕地域を直接結ぶ橋が、続々と永久橋化されていった。昭和四十四年(一九六九)、猪谷から下夕地域の舟渡に至る神峡橋が、猪谷駅前から直線で繋がる形で、永久橋化され、旧神峡橋は取り払われ、今に至る。
「細入村史」参照

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P18 神岡鉱山猪谷事務所跡 
 
 三井鉱山は、製品を搬出するため,大正二年(一九一三)笹津より専用軌道の工事にかかり、大正一二年(一九二三)船津までの三六キロの軌道を完成させ、三〇数台の軌道馬車挽きで富山鉄道の笹津駅へ搬出していた。その後、馬車挽きからガソリン車に変わった。
 昭和五年(一九三〇)飛越線(現在の高山線)が猪谷まで開通したことにより、対岸の舟渡地内より神通川を渡りこれに直結するように高さ七六メートル、レール幅六七センチの巨大な鉄橋を作り猪谷駅構内に乗り入れるようになった。昭和六年(一九三一)には猪谷地区の二分の一近くの広大な敷地に三井鉱山猪谷事務所を建設し、隣接して購買部、診療所等を建設した。
 昭和四一年(一九六六)「国鉄神岡線」の開通により神岡軌道は廃止され、猪谷事務所等関係施設は撤去された。
 鉱山の広い敷地の一部に猪谷小学校の校舎が建設され、昭和四三年(一九六八)に鉱山従業員用の鉄筋五階建てのアパート二棟が建設され、六〇世帯が入り賑わいを呈した。鉱山の事業縮小から国鉄神岡線は廃止され、第三セクターの神岡鉄道が営業を行ったが、これも平成一八年(二〇〇六)廃止になった。アパートも閉鎖された。
「細入村史」参照

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P20 猪谷駅
 
 猪谷駅舎は、木造モルタル作りの鄙びた駅舎である。この駅に降り立った旅人たちが、駅舎を撮影する風景が定番になっている。秘境の駅にやって来たという気持ちにぴったりの駅舎なのだろう。
 駅舎は、飛越線の笹津~猪谷間が開通した昭和五年(一九三〇)に建てられたもので、その当時から、建物の様子は殆ど変わっていないという。高山本線が開通する昭和九年(一九三四)以前からこの地に建ち、豪雪にも負けず、昭和と平成の時代を見守ってきた駅舎である。駅舎の入口に掲げられている駅名の看板は、少し歴史は浅いが、手書きで書かれていて、これも旅人たちには人気がある。猪谷駅は、JR東海とJR西日本の境界の駅で、この駅で、運転手と車掌の引継ぎが行われる。そのことがあるのか、乗り降りする客がきわめて少ない駅ではあるが、「特急ひだ号」が停車する。             
「細入村史」参照

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P21 猪谷関所館 
 
 猪谷関所館は、富山市の施設で、猪谷駅から徒歩二分の所にある。昭和六十三年(一九八八)に建てられた。建物が、少し奥まった所にあるため、気が付かないで素通りする旅人もいる。
 猪谷は、越中と飛騨の国境で、古くから軍事的な要衝で、江戸時代には「富山藩西猪谷関所」が置かれていた。
 猪谷関所館には、当時の古文書・武具・用具や江戸時代の僧円空が彫った仏像など、貴重な資料が多数展示されている。また、険しい神通峡を渡った「籠の渡しの模型」も設置されている。
「細入村史」参照

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P23 猪谷駅前商店街

 猪谷商店街の歴史は昭和五年に始まる。昭和五年(一九三〇)十一月、飛越線が猪谷まで開通すると、昭和六年、三井鉱山は、ただちに神岡軌道を飛越線の猪谷駅構内へ乗り入れた。この乗り入れによって、猪谷は重要な貨物駅としての性格を持つようになった。それに伴い、三井鉱山は、猪谷に駅舎・倉庫・社宅等を多数建設した。細入村も猪谷駅から真直ぐ県道につながる村道を建設した。これが、現在の駅前通りである。
 駅前通りが建設されると、その両側には、続々商家が並ぶようになり、片掛から郵便局も移転した。この頃、営業を始めた商家には、水腰酒類販売店、森下友蜂堂、早瀬亭、宮口精米所、土田洋服店、魚国商店、江尻商店などがある。また、駅前通り以外にも鮮魚店、雑貨店、理髪店、和菓子店などが建ち、大きな活気を呈していた。
 平成に入り、神岡鉱山の縮小、神岡鉄道の廃線など大きな変化があり、戸を閉めている商店が目立つようになった。古い話になるが、笠智衆と宇野重吉が「ながらえば」というテレビドラマで酒を酌み交わした金山旅館も何年か前に廃業した。寂しい商店街になりつつある。     
「細入村史」参照

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P24 猪谷関所公園

 昭和六十三年(一九八八)、「ふるさと創生一億円資金」で、神通川左岸の川べりに作られた公園である。
 国道から公園に通ずる遊歩道の壁面には、「猪谷若衆歌舞伎」「獅子舞」「僧円空と仏像」「籠の渡し」等のレリーフが飾られた。桜の木が植えられた公園には、滑り台、展望あずまや、バーベキュー棟、トイレなどが設置され、家族連れで楽しめるように整備されたが、近年になって、遊具や施設の老朽化が進み、現在は公園として利用できない状態になった。平成二十三年(二〇一一)、国道四十一号線のバイパスが、ここを通ることになり、すぐ近くで工事が始まった。                     
「細入村史」参照

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P25 神峡橋 
 
 猪谷と舟渡を結ぶ鉄骨アーチ型の赤い橋が神峡橋である。幅四・五メートル、長さ一四五メートルの永久橋として、昭和四十四年(一九六九)に建設された。 
「細入村史」

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P26 天然記念物猪谷背斜向斜

 猪谷地区から対岸の舟渡地区に架かる「神峡橋」の下の崖にあり、湖水の中にかくれていて、いつもは見ることができない。砂岩頁岩の互層が褶曲していて馬の背のように曲がっている所を「背斜」、馬の腹のように曲がっている所を「向斜」といい、地層が斜めになった所を「単斜」という。
 この「背斜」「向斜」「単斜」の三つを「三斜構造」といい世界でも珍しい構造が、この二十五メートルほどの間に見ることができることから、国の天然記念物に指定された。
 今は、対岸から湖水が減水した時に、褶曲が見える。東猪谷の発電所の対岸では、向斜構造が観察できる。
「細入村史」

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P27 富山藩西猪谷関所跡

 明治初めに関所が廃止された後、関所跡は、宅地や畑地として利用され、石畳や礎石が残っていたが、昭和四十年(一九六五)、国道四十一号線の拡張工事が行われ、今の関所跡は、ほんの一部しか残っていない。関所跡に立つ説明板には、次のように記されている。
 「西猪谷関所は、天正十四年頃(一五八六)から、明治四年(一八七一)までの約二八〇年間置かれ、特に富山藩が立藩した寛永十八年(一六四一)からは、橋本家と吉村家が代々番人を務め、人や物の監視など国境の警備にあたっていました。
 番人は関所内の建物で生活し、その建物には川手方へ十四間、山手方へ三十八間の矢来垣があり、番所には常時鉄砲二挺等が備えてありました…」
 西猪谷関所の模型を、猪谷関所館で見ることができる。     
「細入村史」

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P28 大垣宗左衛門の墓
 
 飯村家の裏に小さな五輪塔がある。これは、美濃の国大垣より対岸の小糸集落へ移り住んだ大垣宗左衛門の墓と言われている。
 宗左衛門は、当時の藩主への上納米の負担に苦しんでいた百姓のため、大罪と知りながら、単身加賀藩の藩主へ直訴し、身を挺しての訴えに感動した藩主が、上納米を軽くし、また銀納を許されたのであるが、新川代官が直訴という罪を犯した宗左衛門を召し取るため、役人を遣わした。それを予期していた宗左衛門はうまく逃げ、神通川を渡り、役人が手を出せない富山藩である西猪谷へ着いたのである
 そうして、宗左衛門は、猪谷の森家に身を寄せ、猪谷のために尽くしたといわれている。
 森家には宗左衛門が所持していたという「天狗の爪(サメの歯?)」なるものがあったが、昭和十六年(一九四一)の大火によって消失したという。 
「細入村史」

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P30 氏神八坂社
 
 猪谷 八坂社の主祭神は、建速須佐之男命で、安政年間に祀られたと言われている。「八幡宮」「神明大神宮」「牛頭天王「「石動大明神」「諏訪大明神」などが合祀されている。
 春祭りでは、勇壮な獅子舞が奉納される。境内には、日露戦勝記念碑、御大典紀念碑がある。        
「細入村史」

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P31 稲川治助顕彰碑

 八坂社境内にあるこの碑は、明治二四年(一八九一)の銘がある。稲川治助は、当時この界隈で並ぶものがなかつた相撲取りであったという。安政四年(一八五七)に猪谷で生まれ、大正一三年(一九二四)に死去した。石碑には、「千代獄門弟 稲川治助」と大きく刻まれている。治助は、この界隈で名をなしただけでなく、中央の相撲界にまで挑戦したという説もある。猪谷を中心とした対岸の村々を含む広い範囲の青年たちが勧進元となって碑を建てたことを考えれば、近在にはよほど鳴り響いていたのであろう。
「細入村史」

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P32 猪谷中学校跡 
 
 昭和二十二年(一九四七)、義務教育が六・三制になり、猪谷中学校が発足した。当初は、猪谷小学校の一部を借りての授業だったが、昭和二十三年(一九四八)、校下あげての協力により、猪谷の高台に、校舎が新築された。
 昭和三十七年(一九六二)、生徒数が二〇七名にもなったが、その後、生徒数が減少し、中学校は廃校となった。
 跡地には、村営住宅が建てられ、校舎は、コンデンサー工場となったが、村営住宅は老朽化により取り壊され、工場も不況により撤退した。平成十五年(二〇〇三)、シイタケ栽培工場「シーテック細入」が建設され、細入の特産品生産に動き出した。        「細入村史」

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P33 金剛山西禅寺

開基は大渕寺七世の盛厳で慶長九年(一六〇四)創建した。塼仏三体、観世音菩薩、涅槃絵像、十三仏絵像、大鑿、韋駄天像、稲荷大明神像、烏枢瑟摩明王像、曼荼羅絵、虚空蔵菩薩、三十三観音像、聖観音菩薩、地蔵尊、如来型地蔵尊がある。      「細入村史」

 「猪谷集落の南の小高い森の中に、西禅寺というお寺が建っています。
 この寺は、今から二百年余り前は、旧猪谷中学校跡の北側の方に建てられていました。 
 ある年、山津波のため、この寺は押し流され、泥や石で押しつぶされて、跡形もなくなってしまいました。集落の人たちは、崩れた土の中から、ご本尊や寺の道具を掘り出しましたが、一番大切な過去帳、即ち、お寺の歴史を書いた書類がどうしても見当たらず、西禅寺がどのようにして造られたのかが、分からなくなってしまいました。
 猪谷中学校を建てる時、たくさんの卒塔婆や墓石が掘り出されました。これから察しても、大きなお寺だったことが分かります。後に、高い石段の上に、立派なお寺が再建され、今日に至っています。」
丸山博編「猪谷むかしばなし」

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P34 六地蔵

 西禅寺西の裏道の脇にコンクリートのお堂がある。中には、六体のお地蔵様が並んでいる。以前は、旧飛騨街道にあったのだが、ダム湖に沈むので、ここに移された。細入地域の中では、最も古い六地蔵で、江戸時代中期に作られたものである。 「細入村史」

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P35 塩屋秋貞の墓

 天正十一年(一五八三)、塩屋秋貞は、上杉軍の越中城生城主、斉藤信利に攻め入った。戦いは攻勢だったが、上杉景勝の援軍が到着して劣勢となり、飛騨に退却する途中、西猪谷砂場で、鉄砲に撃たれた。瀕死の重傷になった秋貞は、戸板に乗せられて運ばれて行ったが、猪谷の塔婆坂で息を引き取った。 
 今も、猪谷の旧飛騨街道近くの山の中に、塩屋秋貞のお墓が残っている。     
「細入村史」

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猪谷の紹介
 
 国道四十一号線沿いに人家が密集し、小さな町にやって来たという感じがする集落である。中心には、高山本線猪谷駅があり、駅前には、郵便局や商店街がある。
 細入村史には、「イノシシが多く住んでいたことによる説と、『井の谷』すなわち水の得られやすい地という説などがある。」と紹介されている。
 江戸時代の頃の猪谷の家並の多くは、山の斜面を登る桐谷道に沿って広がっていて、神通川に近い所を通る飛騨街道周辺には家が少なかったそうだ。人々は、急流の神通川沿いを避け、なだらかな山の斜面に生活の場を見つけて住んでいたようだ。今も、桐谷道周辺には、田畑がたくさん見られる。山の斜面を切り開いて、田畑を作っていった先人達の苦労が、棚田に積まれたたくさんの石垣から偲ばれる。
 江戸時代には、猪谷に関所が設けられ、飛騨街道を行き交う人々を厳しく監視した。国道四十一号線の山下自動車整備工場前には、富山藩西猪谷関所跡の碑が建っている。
 猪谷が大きく変貌するのは、昭和五年(一九三〇)に開通した飛越線の猪谷駅ができてからである。神岡鉱山専用軌道が乗り入れ、鉱山物資の搬出入が始まり、駅前には三井鉱山のおびただしい施設が作られ、駅前通りには商店街がひしめくようになったという。 
 昭和四十一年(一九六六)、国鉄神岡線が開通し、三井専用軌道は、役目を終えた。昭和四十二年(一九六七)、生徒数の減少により、猪谷中学校は楡原中学校と統合し、廃校となった。昭和四十九年(一九七四)、三井鉱山アパート二棟の建設があり、二百人が入居した。
 平成に入り、三井鉱山の縮小、鉱山事務所、鉱山施設の撤去、神岡鉄道の廃線などが相次ぎ、猪谷の人口が急激に少なくなった。平成十五年(二〇〇三)、猪谷小学校は、楡原小学校と統合し、廃校となった。小学校跡地には、地区センターが建てられ、住民の憩いの場となっている。
「細入村史」参照

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江戸時代の頃の猪谷

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[ 2016/09/03 09:40 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)

蟹寺の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに 蟹寺の史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4 蟹寺城跡

 飛騨との各街道、河川を押さえる要塞で、経済、軍事の交流を掌握し防衛の拠点として城があった。城郭は北西、南東の二面に堀り切られてあり、幅二十三メートル、奥行き十二メートルの平坦地で中央がやや高くなっている。城跡は、城ケ山の頂上付近にある。
「細入村史」

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P5 電灯無償供与記念碑  
 
 秋葉神社からやや離れた小高い丘の上に碑がある。
 大正九年( 一九二〇)、当時の寒村にとって驚天動地ともいうべき、「出力五万キロワット」の発電所建設の構想と工事の申し入れが日本電力株式会社からあった。
 村としては工事に協力しながらも集落全体の利益について検討を重ね、その結果、対価と村全体で二五ワットの電灯一〇〇灯の永久無償供与と発電所の貯水槽からの水を農業用水に分水する契約を交わした証として城ケ山に記念碑が建立された。
「細入村史」

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P6 石仏群

 八月二十七日にあたる孟蘭盆会には、岩の祠に祀られている火の神、不動明王、薬師如来、弘法大師、三十三番地蔵に観音経を唱え、村の女性たちが盛大にお参りしたものである。
 このうち三十三番地蔵については一番から三十三番までは、以前、庵谷凌雲寺から峠道を辿って大渕寺まで設置されていたと伝えられるが、その一つである三十三番地蔵が城ケ山にある。
 「細入村史」

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P8 城ケ山広場 
 
 ここの広場で昭和初期に電力会社の協力によって、毎年八月二十七日の孟蘭盆会に合わせて相撲大会が行われた。近郷近在はもちろんのこと、遠くは能登からも参加し大いに賑わった。
戦後も復活し、賑わった場所である。    
 「細入村史」

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 P9 秋葉神社

 城ケ山の坂道を登り詰めた正面の建物は、火の神、風の神を祀る秋葉神社である。
 以前の社は天保六年(一八三五)に棟梁治四郎が建立したものであった。現在の社は平成十一年( 一九九九) 十月十五日に蟹寺出身の佐藤信春棟梁によって建立されたものである。
「細入村史」

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P10 城ケ山展望台
 
 付近の山並みと二本の川、右手に宮川、左手に高原川これらが合流して神通川となっている所が展望できる。対岸は加賀藩で東街道、右手が富山藩で西街道、挟まれた中央が飛騨の国天領で「籠の渡し」で中街道である。それぞれの要所になるので関所や番所が置かれていた。このように三つの川、三つの国、三つの街道を偲びつつ眺める絶好な展望台である。
 「細入村史」

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P11 徳本僧の名号塔
 
 城ケ山登道の曲り角にある石塔は、念仏の高僧と知られた徳本僧の名号塔である。
 僧は、寛政元年(一七八九)紀伊に生まれ、文化十三年八月に飛騨小豆沢から越中に入り蟹寺五郎兵衛屋敷で休憩されたとしている。この名号塔は村内唯一のものである。
 「細入村史」

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 P12 新国境橋
 
 越中と飛騨の国境の難所として有名な籠の渡しの場所には、明治五年( 一八七二) には刎板橋が架けられていた。明治九年( 一八七六) の蟹寺村絵図には、現在の国境橋近くに、板橋が書かれていて、ここには明治の初め頃から板橋が架けられていたようだ。大正十四年( 一九二五) 撮影の写真には、蟹寺と谷間に架けられた初代国境橋が写っている。
 
飛騨街道の往来が激しくなり、道路の整備とともに、橋も新しくなり、昭和初期から昭和四十一年( 一九六六)までは二代目のアーチ型国境橋が架かっていた。現在の新国境橋は、昭和四十一年( 一九六六) に完成したもので、長さは九七メートルである。
「細入村史」参照

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 P14 石仏群 

  新国境橋から旧国境橋に通じる旧街道沿いに六体の石仏が並んでいる。また、宮川を渡った対岸には、灯篭が土に埋もれて上部だけが見えるのが確認できる。宮川の流れの中には旧国境橋の橋脚もあり、ここは歴史を感じさせる場所である。

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P15 市川寛斎の詩碑跡 
 
 通称「橋場道」を降りた場所に、二体の浮彫り地蔵があり、そこからわずかに行った岩の台地に市河寛斎の詩碑が建っていた。この地は明治五年以降、荷馬引きの茶店や宿屋などが営まれていた。この地から上流二百メートルあまりの両岸から川にやや突き出している箇所が、かつての籠の渡し場である。
 平成十六年(二〇〇四)台風二十三号によって、かってないほどに宮川が氾濫し、この「詩碑」も台地諸とも濁流に飲まれ跡形もなくなった。
 しかし、平成二十二年(二〇一〇)九月、建立の場所から約三〇〇メートル下流の土砂の中から掘り出された。三分の二はしっかり形を留め、奇跡的と思えるほどである。現在、猪谷関所館に展示されている。 
「細入村史」

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 P16 石仏 
 
 猪谷から蟹寺への旧街道の入口、峠下の竹やぶの中に一体の石仏がある。時代の変遷とともに、現在は草木の中に埋もれ忘れ去られようとしている。

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 P16 旧慈眼院跡 
 
 山裾の清水が湧き出る場所で通称池田という沼地に蟹の妖怪が住みつき村人を悩ましていた。富山の海岸寺住職がこの慈眼院を訪れ、妖怪を退治したと伝承される旧慈眼院は、現在の田んぼより一メートルほど下がった場所であったとされている。    「細入村史」

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 P17 白山社
 
 鳥居をくぐると、慶応三年作の狛犬、天保十年( 一八三九)、安政四年( 一八五七) 作の石灯篭がある。神殿には、石川県にある白山比咩神社を総本山とする神様が祀られている。
 向って左には山の神、その後方に五重塔があり、これは太平洋戦争当時疎開していた高田鶴次郎が献上したものである。
 また、右には蟹寺間兵衛、五郎兵衛のいずれかが村の生計の糧としていた養蚕の女神を寄進したものが、祀ってある。昭和四十八年、円空仏二体が、神殿の中から発見された。神社境内には「アサダ」の木があり、県内では珍しい。
 「細入村史」

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P18 庚申様と納経塔 
 
 以前は村の南端に建てられていた庚申様は、人々が西国の霊場めぐりに旅立つときの道中の無事を祈願し、無事に満願成就して帰着した時などにお参りしたと伝えられている。
 また、納経塔は大渕寺二十七世の弟子の了宗尼が西国、秩父、坂東の百観音と西国八十八ヶ所巡礼を全うした証に建てられたものである。現在は、白山社脇に建てられている。
「細入村史」

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P19 五輪塔 
   
 昭和六十三年( 一九八八) 五月、故山口昌則氏の浄財で慈眼院住職の墓地を新しく整えた。その脇に、籠の渡し場における悲
話として語継がれている悪源太義平の妻と妹の八重菊、八重牡丹姉妹の五輪塔が二基安置されている。
「細入村史」

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P20 慈眼院と石仏群
 
  蟹の妖怪の伝説があった旧慈眼院は西の山裾にあった。当時富山の「海岸寺」からの月庵光瑛和尚が退治したもので、慈眼院は鎌倉期から江戸期に曹洞宗の別院であったと思われる。その後片掛大渕寺の末寺になった。戸数、人口などが増加したので現在地に移築された。
 慈眼院横の広場には丸彫地蔵立像、丸彫阿弥陀如来坐像、延命地蔵を含む六地蔵があり、御堂内には有名な立像円空仏や千手観音像が安置されている。

 また昭和の戦前戦後、村歌舞伎が盛んだった頃は慈眼院で催され、柱や梁などが外せるようになっていた。現在は老朽に伴う改築等によって見ることは出来ない。慈眼院は、現在、地区公民館になっている。
「細入村史」

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P22 越路トンネル 
 
 地方の主街道であった古川―猪谷線は峡谷を縫うようにして建設された道路であったため、昭和五十年代に入り国道三六〇号に昇格したものの、冬期間の県境は閉鎖され通行はまったく出来なかった。
 平成七年( 一九九五) にようやくトンネルの掘削に着手し、一億二千万年前と推定される草食恐竜「イグアノドン」の足跡の化石が発掘されるなどして、平成十二年( 二〇〇〇) 八月に二千六百二十メートルのトンネルが竣工した。福井県の博物館にその化
石が保存してある。
 「越路」という名称は、江戸時代初期の僧、円空が飛騨街道から越中に入った時に詠んだ歌に、「越路」の言葉が使われていたことから命名された。  
「細入村史」

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P23 大岩と稲荷の祠

 高田英弘宅の前にある大岩は、約百九十二トンあると推定され、岩の角が丸くなっていることから、上流から流されてきたものと判断される。この岩にある祠は、太平洋戦争時代に高田鶴太郎大工が稲荷の神霊を分割してここに建立したものである。
「細入村史」

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P24 五郎兵衛屋敷跡
 
 籠の渡しで財を成し、街道筋に屋敷を構え細入の大旦那とまで言われた。五郎兵衛は脇本陣役で幕府天領の見分け役で宿屋では十人雇い西山の開田をした。本陣役の井伊間兵衛は機織りと運送業をして土蔵が七つ、二~三十人も雇っていた。
 両家は、道路の建設や橋梁の建設によって籠の渡しの中街道、西街道を分岐する要路としての価値がなくなったことにより、没落していった。今は五郎兵衛屋敷跡の石垣のみがその名残を留めている。
「細入村史」

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 P25 籠の渡し跡

 籠の渡し場までの道筋を辿ってみると、城ケ山の峠から蟹寺の加藤剛宅と土蔵の間の道(道路拡張前は石畳であった)を通り、高田英弘宅裏の石垣沿いに進み、蟹寺トンネルの上を横切り、清水の流れ水と関電作業道が交差する箇所の斜面をわずかに残る痕跡から川筋に下りたところが籠の渡し場であったと考えられている。今は草が生い茂り、通行することができなくなっている。
 なお、江戸末期に使用されたとされる籠渡しの材料が加藤剛宅から発見され、関所館に展示されている。
「細入村史」

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P27 蟹寺発電所導水管
 
 宮川上流の打保で取り入れられた水は、宮川沿いに連なる山中に掘られた導水路を通り、蟹寺まで運ばれる。水路の長さは、
実に一四・三五kmに及ぶ。そして貯水槽から二本の導水管を通して放水される。落差百三十四・五メートル、使用水量毎秒四百三十六立方メートルである。
 この水によって二つの発電機が回され、最大出力五万キロワットの電力が作り出される。
「細入村史」

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P27  蟹寺発電所
 
 蟹寺発電所は、大正十四年( 一九二五)八月に一号機が運転を開始、二号機は翌年( 一九二六) 三月に運転を開始した。最大出力は五万キロワットで当時の東洋一であった。
 新設の頃は五十人近い勤務員がいたが、昭和三十年代に、設備近代化によって一人制御方式( ワンマンコントロール) が採用され、さらに昭和四十五年( 一九七〇) 八月以降は、所長以下四名という寂しい形になり、ついに昭和五十年( 一九七五) 十二月、遠方制御方式が完成して現在は全くの無人運転である。 
「電力史誌90年」参照

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P28 旧飛騨街道の石仏

 蟹寺から加賀沢への旧飛騨街道沿いに石仏が点在している。今は車では行くことができない。歩いて行かなくては見ることができないが、一見の価値あり。

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 蟹寺の紹介   
              
 高林 利三
 その昔、菅寺のこの地にわずか七軒しかなかったころ、西の山裾の清水が湧き出る場所に慈眼院という寺があり、その寺の前の沼地に「蟹の妖怪」が住み着き村人を苦しめていた。この話を聞いた富山の海岸寺の住職がこの地を訪れ、妖怪と禅問答の末、見事この蟹を退治し、それを称え村人は慈眼院を「蟹寺」と呼ぶようになった。それがいつの間にかこの地の地名となり、以後蟹寺村と称するようになったと伝えられている。
 承応四年( 一六五五) の村御印では村高は九十二石余、すべて畑地、銀納地代銀五六九匁二分七厘、慶応四年( 一八六八) の家数二八戸、一五一人すべて高持百姓であった。元禄期に円空が通り、村に仏像を残している。
 
 時代が進むにつれ、越中と飛騨の交易が盛んとなり、これを結ぶ街道が三つあった。この三街道の内、蟹寺から分岐する中街道は重要な街道であったが、随一の難所であった宮川を「籠の渡し」で渡らなければならなかった。歌川広重の版画「籠の渡し」
で知られている。

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 しかし、明治に入り道路建設と宮川に板橋が架けられたことにより要路としていた「籠の渡し」は価値がなくなり、必然的に姿を消していった。
 
 大正九年( 一九二〇) には日本経済の発展に伴い東洋一と言われるマンモス水力発電所「出力五万キロ」の建設構想が発表された。村人、ないし一般の人にとっても想像を絶するものであった。
 当時村の人口は約一五〇人ほどであったが、工事の最盛期には人口三〇〇〇人に達したといわれ、一四年( 一九二五) に完成し、関西電力の建設当時の集落状況図からは、都会並みのハイカラな生活様式であったことがうかがえる。この建設には村人も協力し、その対価として発電所の貯水槽から農業用水への分水と電灯一〇〇灯の永久無償供与を契約し、その記念碑が城ケ山に建立されている。この契約によって、田が開墾され、消火栓の設置や住居前の融雪装置など電灯と共に便宜を受けることとなった。

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 当時の運送力、技術力の乏しい中、五年の歳月をかけて建設され、中学校の教科書に写真まで掲載された発電所も時代の変遷により昭和五〇年( 一九七五) 十二月笹津制御所からの遠隔制御運転によって無人化され、それまで従事していた村人や社員は他へ配転となり、宿舎や社宅は撤去された。発電所の社員やその家族によって活気に溢れていた村も閑散となり、当時盛んった村歌舞伎の引き幕だけが当時の面影を語っている。
 昭和五〇年代に入り、五三年( 一九七八) に地区内道路拡幅工事により家屋の移転が始まり、翌年には蟹寺トンネル掘削工事に着工し、五五年( 一九八〇) に完成した。主要道路であった古川~猪谷線は国道三六〇号に昇格したものの、県境を縫うような道路であったため冬期間中は通行ができなかった。そこで、年間を通じた交通の確保を目指し改良工事が進められた。中でも現在の越路トンネルは富山県側工事区間の主要工事であった。その越路トンネルも平成十二年( 二〇〇〇) 八月竣工し、飛越を結ぶ大動脈が完成した。
 現在の国道三六〇号線は、幾多の歴史を綴った街道の代わりに現代産業や経済の発展のため大量の物資や人を運んでいる。                  
 
細入村史「蟹寺」の巻頭詞には、次のように紹介されている。

 蟹寺

   西街道と中道の合流点
     米のみのらぬ寒村の大立物は昔語り
   東洋一の発電所の出現を前に
     村人の団結毫もゆるがず
   融和の中に水利と文明の光を得る
     人は集り散じたが
   広い道路と美田に村は輝き
     伝説の寺をまもる心は今も

「細入村史」


江戸時代の頃の蟹寺

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[ 2016/09/02 08:41 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)

加賀沢の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに 加賀沢の史跡・見学ポイントの紹介地図

加賀沢史跡見学ポイント紹介最終印刷本02のコピー

P4 旧飛騨街道の野仏 
 
 加賀沢集落北の旧街道沿い、鉄道線路の防壁の裏の大きな岩の下に、三体の野仏が鎮座している。その一つが、文政元年(一八一八)と銘のある浮彫聖観音立像である。 他に浮彫子安観音坐像と弘法大師坐像がある。

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浮彫聖観音立像

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浮彫子安観音坐像

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弘法大師坐像


P5 立岩
 
 集落から約百メートルの宮川の真ん中に大きな岩が柱のように立っている。周りの流れはゆるく淵のようになっていて鮭や鮎
の休み場になり、素潜りしてヤスで捕る漁場であった。集落ではこの岩のことを立岩と呼んていた。
 猪谷駅から六キロも歩いて、職場、学校に通い疲れ果てている時、立岩を見て、「やっと帰った」と安堵する懐かしい岩なのであ
る。  「細入村史」

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宮川にある「立岩」
※立岩の高さは、水底から十一・一メートル、一億七千七百五十万年前( 中生代ジュラ紀)に変成した飛騨片麻岩であることが、杉谷和男氏の調査によって明らかになった。


P6 白山社
 
集落の真ん中ほどに今も鳥居とお堂が残っている。このお宮さんには、興味深いエピソードが残っている。昭和四十七年( 一九七二)八月のこと、美術文化研究会宮川村調査班が、この白山社を訪れ、拝殿の奥にかかっている紫の幕を上げたところ、円空仏五体が埃にまみれて鎮座しているのを発見した。
 この発見がきっかけとなり、蟹寺・猪谷・庵谷の集落で円空仏の発見が続き、細入村内で円空仏二十四体の発見につながったという。加賀沢白山社の五体の円空仏は、現在、猪谷関所館のロビー正面に展示されている。 
「細入村史」

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発見された円空仏

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白山妙理大権現 総高(51.7㎝)

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白山金剛童子 総高(26㎝) 
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観音像総高(11.2㎝)  虚空蔵菩薩 総高(16.2㎝) 白山不思議十万金剛童子 総高(26㎝) 


P8 猪谷小学校加賀沢分校跡 
 
 小学校のあった所は、樹木が生い茂り、見つけることが困難だが、白山社の南側にあったと地図に記されている。
 明治四十五年( 一九一二) 猪谷小学校加賀沢分教場として、民家の一部を借りて開校された。大正二年( 一九一三)、白山社参道南側に新校舎ができ、岐阜県東加賀沢の児童も受け入れた。大正末期に二階建に改築される。
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 昭和二十六年( 一九五一)、分教場より五十メートルほど南側に、新校舎が新築された。校舎一階は職員玄関と職員住宅として二間・児童玄関と体育室、裏側に台所と浴室、便所、二階は広い教室と職員室、資料室と小さいながら整っていた。その頃は、三十名ほどの児童がいた。昭和三十九年( 一九六四)、児童減少により廃校となった。
「細入村史」

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P10 加賀沢の石仏群
 
 加賀沢集落南端の道路脇に、小さなコンクリートの建物があり、その中にお地蔵さんが九体並んでいる。
 明治四十五年( 一九一二) の分教場の建設時に、白山社の境内にあった地蔵堂を整理し、谷向いの地蔵様を含めて、こ
の場所にお堂を建て直し、集められたとのことだ。
 どのお地蔵さんも、新調したばかりの赤い帽子と前掛けを身に着けて、仲良く鎮座している。今も欠かさずお世話をし
ている人がいるようだ。

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加賀沢の石仏群


P11  加賀沢橋 

飛越国境にある飛騨加賀沢と越中加賀沢は、幕政時代から、宮川を舟で往復していた。昭和の初めごろ、初めて歩道橋が架かった。これが初代の加賀沢橋で、幅一メートルの木吊橋で、風の吹くたびに大きく揺れるので、番線を張って振り止めをし、安全
を保った。しかし、昭和二十年( 一九四五) 九月の大風で墜落した。その後もかろうじて橋を架け替えて利用していた。
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初代加賀沢橋

 昭和四十七年( 一九七二)、関西電力株式会社が新しく橋を架け替え、電力関係や山行きの人々が利用するようになった。これが二代目の加賀沢橋である。橋の幅員一メートル、延長六十メートル余、歩道橋鋼吊橋で、振り止めの番線を張ってはあるが、宮川の激流を下に見れば、目もくらむばか11りであった。
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二代目加賀沢橋

 現在の加賀沢橋は、平成十二年( 二〇〇〇)、国道三六〇号線の小豆沢~蟹寺間が大きく改修された際に、加賀沢トンネル入口に、鉄筋コンクリートの立派な橋として生まれ変わった。
「宮川村誌」 「細入村史」参照
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現在の三代目加賀沢橋


 P13 国道三六〇号線バイパス道路

 国道四一号線が通る神岡~数河高原~古川のコースは、高低差が大で急坂が多い。一方、国道三六〇号線は、県境付近では急坂はないが、宮川の深V字谷に沿って屈曲し、しかも道幅はきわめて狭く、車がすれ違えない所も数多くある。
 このような宮川沿いの交通難所を解消するための努力は、平成元年(一九八九)から本格的に進められた。富山県側の加賀沢
~猪谷間四・五キロメートルは富山県が細入トンネル建設と道路改修を、岐阜県側の加賀沢~小豆沢間二・三キロメートルは国
が直轄事業として、改修工事を進めた。
 平成十二年(二〇〇〇)八月二十八日、「国道三六〇号バイパス 細入バイパス・宮川細入道路」が完成し、開通式が行われた。
 新しくできたバイパス道路は、要所をトンネルでつなぎ、橋は冬期間でも安心して通行できるシェルター構造になっている。北から越路・加賀沢・飛越と三つのトンネル、その他六つの橋が新設された。道路はほぼ直線状となった。
 「細入村史」

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P15 東加賀沢集落跡記念碑
 
 加賀沢橋を渡り、加賀沢トンネル手前の道を上っていくと東加賀沢集落跡(岐阜県飛騨市宮川町)に着く。
 現在、東加賀沢集落があった所には、記念碑が建てられ、小さな公園になっている。記念碑には、「ふるさとに想う」という題で、次のように刻まれている。
 「先人達がいつごろからか、この人里離れた小さな斜面の土地を切り開き、家族同様に住民が寄り添い、永住の地として生活していた。しかし冬期間、交通が遮断され孤立状態となり、病院、学校その他あらゆる面で不便を痛感した。
 昭和三十年から四十年代にかけて不安と動揺を感じながらも子供の将来を考え、住民それぞれが離村を決断した。 
 平成十二年( 二〇〇〇) に国道三百六十号 小豆澤~蟹寺間が改修され、加賀澤の地形が大きく様変わりした。このため、人々の記憶から忘れられることがないよう加賀澤住居跡地に石碑を建て後世に申し伝えることにする。 平成十二年( 二〇〇〇) 八月建立」
東加賀沢に住んでいた人たちは、「加賀沢会」を組織し、年に一度、富山市に集まり、故郷を偲んでいる。

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P17 不動滝 
 
 東加賀沢、宮川右岸の渓谷にかかる垂直の瀑布のことをいい、幅五メートル、直下五十五メートル余。水は流れて直ちに宮川に
注いでいる。この滝へ続く道は、今は閉ざされてしまった。
 不動滝は、西加賀沢地内水上橋から、越中西街道を蟹寺方向へ二十分ほど歩いた所から眺めることができる。
 屹立した付近の山容と相まって美観を呈し、特に夏秋の眺めがよいので知られている。 高山本線の窓から対岸にその全容が眺められ、奥飛騨の旅情をそそるのもまた一興である。
 明治・大正の頃、この滝の上に、建坪九坪余の拝殿があり、不動尊を安置していた。昔より、眼病の霊験著しく、また養蚕守護の神として参詣者も多かった。しかし、その後、二回の火災に見舞われ、かつ交通も不便なため、本尊は巣納谷の久昌寺へ移し、現在に至っている。
 「宮川村誌」

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加賀沢の歴史

 猪谷から国道三六〇号線を走り、二六二〇メートルの越路トンネルを抜けて、しばらく行った所が、「加賀沢」である。現在は無人の集落ではあるが、家が一軒残っている。昔からこの地に住む持ち主の家で、夏場には、避暑に訪れているという。
「蟹寺から宮川を遡ること四キロメートル、宮川左岸のわずかな傾斜地に、国境の小村『加賀沢』がある。江戸時代から明治期にかけて九戸の村であった。『カガ』という地名は、草地に由来するという説と、崖地に由来するという説がある。
 対岸の岐阜県側にも加賀沢という集落があり、細入側の西加賀沢に対して、東加賀沢と呼ばれた」
「細入村史」

 岐阜県宮川村誌に、「東加賀沢」の地名の由来について記述があるので紹介しよう。
 「祢宜ケ沢上(ねががそれ)・小豆沢(あずきざわ)などのように、昔のこの地は沼沢地で、一面に野生の『蘿藦(ががいも)』がよく茂ったので『蘿藦沢(ががいもさわ)』とよび、それがしだいに転訛して加賀沢となったかといわれている。
 ががいもは山野に自生する宿根蔓草で、葉は対生し、夏のころ紫色五弁の小花をつける。実の長さは七、八センチでこれを採って綿に代用した。地名にはその地に生い出るものの名をもって、名付けたものが多く、たとえば、『古事記』上巻に天の蘿藦船(ががみのふね)を、『書記』には白藦皮舟(かがみのかわふね)とある。『和名抄』や『本草』に蘿藦(ががいも)は、一名藦蘭(かが)・和名加加美(かがみ)・白藦(かがみ)、夜末賀々美(やまかがみ)、徐長卿に和名比女加々美(ひめかがみ)などとある。」
「宮川村誌」
 
 その昔、この辺り一帯は、草が生い茂る沢地であったようだ。東加賀沢は、昭和三十九年( 一九六四) に廃村化している。
 
 「江戸期の加賀沢は、水田がなく、わずかな畑地と山や川の恵みに頼っての生活であったと思われる。細入谷の中でも、税率はとりわけ低く、街道の物資輸送に携わるほかは、平野部とほとんどかかわりのない生活が、そこに展開していたのであろう。国境といっても、このぐらい奥地になると、東加賀沢や小豆沢方面とは、日常的な往来が盛んであった。

 明治初期の加賀沢は、水上谷の南、街道の山側に家が並んでいた。
 明治二十年( 一八八七) 近くに飛騨街道が改修され、明治四十五年( 一九一二)に猪谷小学校加賀沢分教場ができた。これに伴い、対岸の東加賀沢からの委託児童も通学するようになったため、独立の校舎が大正二年( 一九一三) に建てられた。
これから以後、集落は様変わりし、道路の川側にも新しい家が建てられた。一時、黒鉛が掘られたこともあった。

 この状態は昭和三十年代まで続いたが、昭和三十九年( 一九六四) に加賀沢分校が廃止され、このころから急激に挙家離村が進むようになる。…そして、加賀沢は村落社会としての機能を全く失ってしまった。その離村先の多くは、富山市・大沢野町方面であった。」
「細入村史」

 江戸時代の頃の加賀沢
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村田長保筆  「細入村史」
[ 2016/08/28 19:43 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)
プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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