はじめに 猪谷の史跡・見学ポイントの紹介地図
P4 一本木の村境の碑 国道脇の猪谷と片掛の村境に、昔大きなケヤキの木が一本植わっていた。ここは地名を一本木といい、猪谷と片掛の境界を示す大切な木であった。
戦後、物資不足でケヤキの木が高値で売買されており、境界の土地を有する両方の地主が相談し、高岡の材木商に売るため伐採してしまった。両村としては大切な目印であったため、新たな目印が必要となり、相談の結果、境界に永久的に残る石柱を建てることになった。費用は両地主負担で「村境」と彫った大きな石柱が建立された。
「細入村史」
P5 砂場集落の地蔵様 猪谷から片掛に向かう途中に、今は廃村になり、建物は何一つ残っていないが、砂場集落があった。
昭和十五年(一九四〇)一月二十九日、雪が四日間降り続き、県下各地で積雪は三メートル前後に達し、笹津では四百四十センチという豪雪になった。全てのものが新雪で覆い尽くされた中、午前十一時半頃、洞山から表層雪崩が発生し、高山線と 砂場集落を襲った。
鉄橋や橋梁、五軒あった集落の二軒を飛ばした。二軒の内一軒は、対岸まで押し出された。七名の命が奪われ、高山線は約十日間、不通になった。
難を逃れた三軒は、猪谷へ転居し、砂場集落はなくなった。その後、防雪林や防護柵など鉄道林を多くして、事故防止を図っている。国道脇にある地蔵様は、その跡に建てられたものである。
「細入村史」
P6 猪谷川河岸公園 猪谷川に架かる鉄橋を普通列車が渡って行く。列車からは、この川の少し上流にある常虹の滝も眺めることができる。
鉄橋の下には、駐車場やバーベキュー施設・トイレなどが設けられ、小さな公園になっているが、現在は、閉鎖されている。
川原は、自然の岩石を使って敷き詰められ、子どもが水遊びを楽しむことができるように工夫されている。常虹の滝まで行くことができる遊歩道は、落石の危険があるため閉鎖されている。
「細入村史」参照
P7 百衣観音 常虹の滝の横に観音堂があり、白衣観音座像が安置されている。三十三観音の一つとされ、息災延命や安産、育児などの祈願の本尊である。
そのすぐ下には、不動明王が祀られている。毎年八月下旬の土曜日には、お不動祭りが行われる。
「細入村史」
P7 常虹の滝 猪谷川の下流、国道四一号線から四百mほど入った所に見事な滝がある。滝は、大小合わせて四本。その内の一つが、常虹の滝(とこにじのたき)と呼ばれている。天気がよい午前中、この滝の裾野に美しい虹が架かることから、「常虹の滝」と名前が付いた。
階段を下りると、大きな滝が目の前に迫って来る。轟々と流れ落ちる滝の音が、身体に伝わって来て、迫力満点である。
この滝には、「その昔、この辺りは、蛇歯見ケ池という大きな池であったが、池の主の大蛇が昇天する際に暴風となり、池が氾濫崩壊して、そこに数条の滝ができた」という伝説が伝わっている。
「細入村史」
P8 山の神・水神様 猪谷集落西の棚田が続く桐谷道の平地の突端に、山の神を祀ったお堂がある。山仕事や田畑の仕事の無病息災、五穀豊穣を願い、建てられたもので、「大山祇神(ツミノカミ)」が祀られている。四月末の日曜日に、男たちが集まり、西禅寺の住職を招いて読経し、祭りを行っている。
また、広場の片隅の小さいお堂には、水神様が祀ってある。猪谷集落を流れる用水路の水は、この奥にある猪谷川から引き水をしている。
「細入村史」
P9 猪谷川断層 神通川は猪谷川との合流点で直角に曲がっている。ここは猪谷川に沿って断層が走り、大沢野小糸・伏木・吉野地区一帯に向かっている。猪谷川付近から南側は砂岩頁岩の互層である。断層の北側は小糸・伏木・吉野・片掛側が花崗岩になっている。
猪谷川付近の断層は崩れやすいので国道に沿って猪谷洞門が造られ安全に車か通れるようにしてある。
「細入村史」

P10 双体道祖神 猪谷集落の北の端、国道脇の川側に小さな広場があり、そこに小さなお堂がある。中に男女二神の石像があり、男神は杯、女神は酒器を持っている双体道祖神である。
道祖神は一般的に「サイの神様」「セイの神様」といい、道の安全や集落の悪霊、悪疫、災難の侵入を防ぐ神様「塞の神」、男女二神像から夫婦和合、子宝の神様「性の神」と、広い信仰の対象として祀られている。
明治三十五年(一九〇二)に子宝を願って建立されたもので、細入地区では、ただ一体しかない道祖神である。 「細入村史」
P11 神岡軌道猪谷三井鉄橋の橋脚跡 神岡鉱山から産出された鉛や亜鉛などの鉱石は、大正時代には、高原川右岸、神通川右岸に作られた神岡軌道により、船津から笹津を経由して富山まで運ばれていた。
昭和二年(一九二七)には、馬車からガソリンエンジンの機関車が引く貨車に切り替えられた。

昭和五年(一九三〇)十一月、飛越線が猪谷まで開通すると、三井鉱山は、昭和六年、神岡軌道を猪谷駅構内へ乗り入れた。この時に建設されたのが、猪谷の三井鉄橋である。この鉄橋は、長さ二百八十メートル、高さ三十六メートルで、その後長く付近の景観を引き締め、神通峡の美観の一要素となった。極めて高い橋脚を持つ鉄橋で、高所恐怖症の人は近寄るのも恐れると思われるが、対岸の吉野・伏木・小糸方面の人は、猪谷への通勤・通学によくこの鉄橋を利用したものである。
昭和四十一年(一九六六)、国鉄神岡線の開通に伴って神岡軌道は廃止され、猪谷名物の鉄橋も、その数年後取り払われた。ダムの湖水に残る橋脚が、そのかつての存在を伝えている。
「細入村史」
P13 善光寺尼宮様お手植えの松 県道脇の不動明王堂の横に松の木がある。これは昭和三年(一九二八)九月九日に高山市に建立された善光寺別院の落慶式に参列されるため、善光寺智栄尼宮(皇族出身の姫宮)様が長野から富山、富山から笹津まで鉄道を利用され、笹津より乗合自動車で高山までお出でになる際に、乗合自動車の乗り継ぎ点であった猪谷の土田上水館で休憩された時に、自ら鍬を手にしてお植えになった松の木である。。
「細入村史」
P14 アメダス定点観測所 毎年冬になると、猪谷の積雪情報がニュースで流れる。猪谷に設置されたアメダスの観測所のデータが貴重な役割を果たしている。
アメダスとは、「地域気象観測システム」のことを言い、雨、風、雪などの気象状況を時間的、地域的に細かく監視するために、昭和四九年(一九七四)十一月一日から運用を開始した。猪谷にあるアメダスは、降雨量と降雪量のデータのみを記録している。
観測所の周囲には、風の通りを妨げないような柵を設置し、外部からの侵入をできるだけ防いでいる。また、さらにその周囲は開けた場所とし、樹木や建物などによって日光が遮られたり、風通しが悪くなったりしないよう配慮されている。 「ウィキペディア」参照
P15 細入南部地区センター この敷地には、以前猪谷小学校があった。現在は、建物が改築されて細入南部地区センターとなり、地域住民の活動の場となっている。
旧猪谷小学校の沿革史は次のようである。
明治七年(一八七四)に猪谷関所の役人をしていた橋本作七郎の自宅を啓蒙小学校として創設し、その後石田・本多・出島・西禅寺と転々と住居を借用していたが、明治二〇年(一八八七)に猪谷小学校となり猪谷二一六番地に校舎を建てた。大正一五年(一九二六)に片掛分教場を統合した。昭和四二年(一九六七)に地上一部四階建ての近代的な校舎を竣工、細入村大沢野町学校組合立猪谷小学校となった。加賀沢分校、下夕地区の伏木、東猪谷両分校を統合した。昭和四五年(一九七〇)体育館を新築。平成一五年(二〇〇三)三月閉校、楡原小学校と統合し神通碧小学校として再出発した。
「細入村史」参照

P16 殉職教員慰霊碑 神通川には、長年、下夕地域(舟渡、小糸、伏木)と猪谷をつなぐ橋が、なかった。下夕地域の人々は、神岡鉱山軌道の眼もくらむような猪谷三井鉄橋を、危険を承知で、通行して、神通川を渡っていたのである。
昭和二十三年(一九四八)、新制猪谷中学校の建設に伴い、下夕地域に住む中学生の通学の安全から、舟渡と猪谷をつなぐ吊橋を建設することになった。工事は、順調に進み、昭和二十四年(一九四九)、下夕地域の人たちにとって、念願の橋が完成した。
村の橋梁検査を終え、九月二十六日には、県の検査を受けるという九月二十二日のことである。国指定の天然記念物になっている「猪谷の背斜・向斜」の地層を観察するため、新設されたばかりの猪谷新橋を渡っていた八尾区域小学校教育研究会の先生たちが、突如、吊橋のワイヤーを支えているアンカーボルトが破損し、吊橋もろとも落下し、神通川の激流に呑まれるという大惨事が発生したのである。この事故で、二十九名の先生が殉職した。慰霊碑が、吊橋落下地点近くの川辺に建てられた。現在、慰霊碑は、旧猪谷小学校校庭に移設された。
この事故の後、下夕地域の人たちは、猪谷へ渡る橋がなくなり、再び、神岡軌道猪谷三井鉄橋を渡らねばならないことになった。細入・下夕両村は、再度、同じ地点に強力な吊橋を建設するべく、強力な請願運動を展開した。この努力によって、昭和二十五年(一九五〇)、国・県の補助を受けて、再び吊橋の建設が着工され、翌昭和二十六年(一九五一)四月一日、悲願の吊橋が完成し、「神峡橋」と名付けられた。このようにして、下夕地域に住む人たちが、安心して神通川を渡れるようになったということである。
昭和四十年代に入り、細入村と下夕地域を直接結ぶ橋が、続々と永久橋化されていった。昭和四十四年(一九六九)、猪谷から下夕地域の舟渡に至る神峡橋が、猪谷駅前から直線で繋がる形で、永久橋化され、旧神峡橋は取り払われ、今に至る。
「細入村史」参照
P18 神岡鉱山猪谷事務所跡 三井鉱山は、製品を搬出するため,大正二年(一九一三)笹津より専用軌道の工事にかかり、大正一二年(一九二三)船津までの三六キロの軌道を完成させ、三〇数台の軌道馬車挽きで富山鉄道の笹津駅へ搬出していた。その後、馬車挽きからガソリン車に変わった。
昭和五年(一九三〇)飛越線(現在の高山線)が猪谷まで開通したことにより、対岸の舟渡地内より神通川を渡りこれに直結するように高さ七六メートル、レール幅六七センチの巨大な鉄橋を作り猪谷駅構内に乗り入れるようになった。昭和六年(一九三一)には猪谷地区の二分の一近くの広大な敷地に三井鉱山猪谷事務所を建設し、隣接して購買部、診療所等を建設した。
昭和四一年(一九六六)「国鉄神岡線」の開通により神岡軌道は廃止され、猪谷事務所等関係施設は撤去された。
鉱山の広い敷地の一部に猪谷小学校の校舎が建設され、昭和四三年(一九六八)に鉱山従業員用の鉄筋五階建てのアパート二棟が建設され、六〇世帯が入り賑わいを呈した。鉱山の事業縮小から国鉄神岡線は廃止され、第三セクターの神岡鉄道が営業を行ったが、これも平成一八年(二〇〇六)廃止になった。アパートも閉鎖された。
「細入村史」参照
P20 猪谷駅 猪谷駅舎は、木造モルタル作りの鄙びた駅舎である。この駅に降り立った旅人たちが、駅舎を撮影する風景が定番になっている。秘境の駅にやって来たという気持ちにぴったりの駅舎なのだろう。
駅舎は、飛越線の笹津~猪谷間が開通した昭和五年(一九三〇)に建てられたもので、その当時から、建物の様子は殆ど変わっていないという。高山本線が開通する昭和九年(一九三四)以前からこの地に建ち、豪雪にも負けず、昭和と平成の時代を見守ってきた駅舎である。駅舎の入口に掲げられている駅名の看板は、少し歴史は浅いが、手書きで書かれていて、これも旅人たちには人気がある。猪谷駅は、JR東海とJR西日本の境界の駅で、この駅で、運転手と車掌の引継ぎが行われる。そのことがあるのか、乗り降りする客がきわめて少ない駅ではあるが、「特急ひだ号」が停車する。
「細入村史」参照
P21 猪谷関所館 猪谷関所館は、富山市の施設で、猪谷駅から徒歩二分の所にある。昭和六十三年(一九八八)に建てられた。建物が、少し奥まった所にあるため、気が付かないで素通りする旅人もいる。
猪谷は、越中と飛騨の国境で、古くから軍事的な要衝で、江戸時代には「富山藩西猪谷関所」が置かれていた。
猪谷関所館には、当時の古文書・武具・用具や江戸時代の僧円空が彫った仏像など、貴重な資料が多数展示されている。また、険しい神通峡を渡った「籠の渡しの模型」も設置されている。
「細入村史」参照


P23 猪谷駅前商店街 猪谷商店街の歴史は昭和五年に始まる。昭和五年(一九三〇)十一月、飛越線が猪谷まで開通すると、昭和六年、三井鉱山は、ただちに神岡軌道を飛越線の猪谷駅構内へ乗り入れた。この乗り入れによって、猪谷は重要な貨物駅としての性格を持つようになった。それに伴い、三井鉱山は、猪谷に駅舎・倉庫・社宅等を多数建設した。細入村も猪谷駅から真直ぐ県道につながる村道を建設した。これが、現在の駅前通りである。
駅前通りが建設されると、その両側には、続々商家が並ぶようになり、片掛から郵便局も移転した。この頃、営業を始めた商家には、水腰酒類販売店、森下友蜂堂、早瀬亭、宮口精米所、土田洋服店、魚国商店、江尻商店などがある。また、駅前通り以外にも鮮魚店、雑貨店、理髪店、和菓子店などが建ち、大きな活気を呈していた。
平成に入り、神岡鉱山の縮小、神岡鉄道の廃線など大きな変化があり、戸を閉めている商店が目立つようになった。古い話になるが、笠智衆と宇野重吉が「ながらえば」というテレビドラマで酒を酌み交わした金山旅館も何年か前に廃業した。寂しい商店街になりつつある。
「細入村史」参照
P24 猪谷関所公園 昭和六十三年(一九八八)、「ふるさと創生一億円資金」で、神通川左岸の川べりに作られた公園である。
国道から公園に通ずる遊歩道の壁面には、「猪谷若衆歌舞伎」「獅子舞」「僧円空と仏像」「籠の渡し」等のレリーフが飾られた。桜の木が植えられた公園には、滑り台、展望あずまや、バーベキュー棟、トイレなどが設置され、家族連れで楽しめるように整備されたが、近年になって、遊具や施設の老朽化が進み、現在は公園として利用できない状態になった。平成二十三年(二〇一一)、国道四十一号線のバイパスが、ここを通ることになり、すぐ近くで工事が始まった。
「細入村史」参照
P25 神峡橋 猪谷と舟渡を結ぶ鉄骨アーチ型の赤い橋が神峡橋である。幅四・五メートル、長さ一四五メートルの永久橋として、昭和四十四年(一九六九)に建設された。
「細入村史」
P26 天然記念物猪谷背斜向斜 猪谷地区から対岸の舟渡地区に架かる「神峡橋」の下の崖にあり、湖水の中にかくれていて、いつもは見ることができない。砂岩頁岩の互層が褶曲していて馬の背のように曲がっている所を「背斜」、馬の腹のように曲がっている所を「向斜」といい、地層が斜めになった所を「単斜」という。
この「背斜」「向斜」「単斜」の三つを「三斜構造」といい世界でも珍しい構造が、この二十五メートルほどの間に見ることができることから、国の天然記念物に指定された。
今は、対岸から湖水が減水した時に、褶曲が見える。東猪谷の発電所の対岸では、向斜構造が観察できる。
「細入村史」

P27 富山藩西猪谷関所跡 明治初めに関所が廃止された後、関所跡は、宅地や畑地として利用され、石畳や礎石が残っていたが、昭和四十年(一九六五)、国道四十一号線の拡張工事が行われ、今の関所跡は、ほんの一部しか残っていない。関所跡に立つ説明板には、次のように記されている。
「西猪谷関所は、天正十四年頃(一五八六)から、明治四年(一八七一)までの約二八〇年間置かれ、特に富山藩が立藩した寛永十八年(一六四一)からは、橋本家と吉村家が代々番人を務め、人や物の監視など国境の警備にあたっていました。
番人は関所内の建物で生活し、その建物には川手方へ十四間、山手方へ三十八間の矢来垣があり、番所には常時鉄砲二挺等が備えてありました…」
西猪谷関所の模型を、猪谷関所館で見ることができる。
「細入村史」

P28 大垣宗左衛門の墓 飯村家の裏に小さな五輪塔がある。これは、美濃の国大垣より対岸の小糸集落へ移り住んだ大垣宗左衛門の墓と言われている。
宗左衛門は、当時の藩主への上納米の負担に苦しんでいた百姓のため、大罪と知りながら、単身加賀藩の藩主へ直訴し、身を挺しての訴えに感動した藩主が、上納米を軽くし、また銀納を許されたのであるが、新川代官が直訴という罪を犯した宗左衛門を召し取るため、役人を遣わした。それを予期していた宗左衛門はうまく逃げ、神通川を渡り、役人が手を出せない富山藩である西猪谷へ着いたのである
そうして、宗左衛門は、猪谷の森家に身を寄せ、猪谷のために尽くしたといわれている。
森家には宗左衛門が所持していたという「天狗の爪(サメの歯?)」なるものがあったが、昭和十六年(一九四一)の大火によって消失したという。
「細入村史」
P30 氏神八坂社 猪谷 八坂社の主祭神は、建速須佐之男命で、安政年間に祀られたと言われている。「八幡宮」「神明大神宮」「牛頭天王「「石動大明神」「諏訪大明神」などが合祀されている。
春祭りでは、勇壮な獅子舞が奉納される。境内には、日露戦勝記念碑、御大典紀念碑がある。
「細入村史」


P31 稲川治助顕彰碑 八坂社境内にあるこの碑は、明治二四年(一八九一)の銘がある。稲川治助は、当時この界隈で並ぶものがなかつた相撲取りであったという。安政四年(一八五七)に猪谷で生まれ、大正一三年(一九二四)に死去した。石碑には、「千代獄門弟 稲川治助」と大きく刻まれている。治助は、この界隈で名をなしただけでなく、中央の相撲界にまで挑戦したという説もある。猪谷を中心とした対岸の村々を含む広い範囲の青年たちが勧進元となって碑を建てたことを考えれば、近在にはよほど鳴り響いていたのであろう。
「細入村史」
P32 猪谷中学校跡 昭和二十二年(一九四七)、義務教育が六・三制になり、猪谷中学校が発足した。当初は、猪谷小学校の一部を借りての授業だったが、昭和二十三年(一九四八)、校下あげての協力により、猪谷の高台に、校舎が新築された。
昭和三十七年(一九六二)、生徒数が二〇七名にもなったが、その後、生徒数が減少し、中学校は廃校となった。
跡地には、村営住宅が建てられ、校舎は、コンデンサー工場となったが、村営住宅は老朽化により取り壊され、工場も不況により撤退した。平成十五年(二〇〇三)、シイタケ栽培工場「シーテック細入」が建設され、細入の特産品生産に動き出した。 「細入村史」
P33 金剛山西禅寺 開基は大渕寺七世の盛厳で慶長九年(一六〇四)創建した。塼仏三体、観世音菩薩、涅槃絵像、十三仏絵像、大鑿、韋駄天像、稲荷大明神像、烏枢瑟摩明王像、曼荼羅絵、虚空蔵菩薩、三十三観音像、聖観音菩薩、地蔵尊、如来型地蔵尊がある。 「細入村史」
「猪谷集落の南の小高い森の中に、西禅寺というお寺が建っています。
この寺は、今から二百年余り前は、旧猪谷中学校跡の北側の方に建てられていました。
ある年、山津波のため、この寺は押し流され、泥や石で押しつぶされて、跡形もなくなってしまいました。集落の人たちは、崩れた土の中から、ご本尊や寺の道具を掘り出しましたが、一番大切な過去帳、即ち、お寺の歴史を書いた書類がどうしても見当たらず、西禅寺がどのようにして造られたのかが、分からなくなってしまいました。
猪谷中学校を建てる時、たくさんの卒塔婆や墓石が掘り出されました。これから察しても、大きなお寺だったことが分かります。後に、高い石段の上に、立派なお寺が再建され、今日に至っています。」
丸山博編「猪谷むかしばなし」
P34 六地蔵 西禅寺西の裏道の脇にコンクリートのお堂がある。中には、六体のお地蔵様が並んでいる。以前は、旧飛騨街道にあったのだが、ダム湖に沈むので、ここに移された。細入地域の中では、最も古い六地蔵で、江戸時代中期に作られたものである。 「細入村史」
P35 塩屋秋貞の墓 天正十一年(一五八三)、塩屋秋貞は、上杉軍の越中城生城主、斉藤信利に攻め入った。戦いは攻勢だったが、上杉景勝の援軍が到着して劣勢となり、飛騨に退却する途中、西猪谷砂場で、鉄砲に撃たれた。瀕死の重傷になった秋貞は、戸板に乗せられて運ばれて行ったが、猪谷の塔婆坂で息を引き取った。
今も、猪谷の旧飛騨街道近くの山の中に、塩屋秋貞のお墓が残っている。
「細入村史」
猪谷の紹介 国道四十一号線沿いに人家が密集し、小さな町にやって来たという感じがする集落である。中心には、高山本線猪谷駅があり、駅前には、郵便局や商店街がある。
細入村史には、「イノシシが多く住んでいたことによる説と、『井の谷』すなわち水の得られやすい地という説などがある。」と紹介されている。
江戸時代の頃の猪谷の家並の多くは、山の斜面を登る桐谷道に沿って広がっていて、神通川に近い所を通る飛騨街道周辺には家が少なかったそうだ。人々は、急流の神通川沿いを避け、なだらかな山の斜面に生活の場を見つけて住んでいたようだ。今も、桐谷道周辺には、田畑がたくさん見られる。山の斜面を切り開いて、田畑を作っていった先人達の苦労が、棚田に積まれたたくさんの石垣から偲ばれる。
江戸時代には、猪谷に関所が設けられ、飛騨街道を行き交う人々を厳しく監視した。国道四十一号線の山下自動車整備工場前には、富山藩西猪谷関所跡の碑が建っている。
猪谷が大きく変貌するのは、昭和五年(一九三〇)に開通した飛越線の猪谷駅ができてからである。神岡鉱山専用軌道が乗り入れ、鉱山物資の搬出入が始まり、駅前には三井鉱山のおびただしい施設が作られ、駅前通りには商店街がひしめくようになったという。
昭和四十一年(一九六六)、国鉄神岡線が開通し、三井専用軌道は、役目を終えた。昭和四十二年(一九六七)、生徒数の減少により、猪谷中学校は楡原中学校と統合し、廃校となった。昭和四十九年(一九七四)、三井鉱山アパート二棟の建設があり、二百人が入居した。
平成に入り、三井鉱山の縮小、鉱山事務所、鉱山施設の撤去、神岡鉄道の廃線などが相次ぎ、猪谷の人口が急激に少なくなった。平成十五年(二〇〇三)、猪谷小学校は、楡原小学校と統合し、廃校となった。小学校跡地には、地区センターが建てられ、住民の憩いの場となっている。
「細入村史」参照
江戸時代の頃の猪谷