FC2ブログ

水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

団塊世代の親父のブログです。
水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記 TOP  >  2012年03月

神通峡をたずねて 猪谷かいわい 22

猪谷に残る民話・伝説 その7

カワウソと提灯 

道路工事で、地形も昔とかなり異なっていますが、国道三六〇号線を宮口三郎さん宅から蟹寺方面へ百m程行った処に、山側に大きく湾曲した場所、「タノンド」が在ります。
当時、「タノンド」の道路下には、小川が流れ、川側は、一間余の石垣で、その下は急な斜面となり、樹木、雑木が鬱蒼としていて薄暗く、道からは、神通川の川面は全く見えませんでした。

 image3211.jpg

 広辞苑によれば、「カワウソは、イタチ科の哺乳類で、水かきが在って、泳ぎに適し、魚等を捕食す。人語を真似て人を騙し、水に引き込む」とあります。
 但し、「タノンドのカワウソ」は、蝋燭を好み、提灯を付けて行くと、灯りを消してしまうという、一風変わった習性がありました。
 従って、夕方、「タノンド」を通る時には、誰しもが、提灯に火を付けず、特に、夜番の子供達は気味悪がって、「タノンド」より先には行かず、「タノンド」前で折り返して、拍子木とチリン、チリンを、次の当番(隣り)に託し、早々に家に帰ったそうです。    
(森下宗義さんのお話) 「村の今昔」細入歴史調査同好会編 より

神通峡をたずねて 猪谷かいわい 21

猪谷に残る民話・伝説 その6

天狗さまの爪 

 むかし、川向かいの小糸に、たいへん力の強い、大きな男が住んでいました。この男は、力強いのがじまんで、ずいぶんわがままでした。自分のきらいなことは、役人の言うことでも守りませんでした。また、自分の言うことを聞かない者は、ひどい目にあわせて歩きました。
役人たちは、これを聞いて、「困ったやつだ、どうにかしてつかまえてやろう」と思って、大ぜいで、棒や縄を持って、男の家をかこみました。
そーっとのぞいて見ると、男は、グウグウ大きないびきでねていました。「これはよいところだ」と飛びこんで、みんなで男の上から押さえつけました。

image3201.jpg

目をさました男は、役人をはねのけて起き上がりましたが、棒や縄を持っているのを見て、「たいへんだ」と、アマへ上がって、ひさしからヒラリと飛びおり、今度は、高いがけから、神通川へザブンと飛びこみました。

image3204.jpg

 役人たちが、ワイワイ見ている内に、こちらの岸に泳ぎ着いて、今の赤岩の上から、ぼくたちの村へにげ込みました。その頃、ぼくたちの猪谷には、家が三軒しかなかったので、ドンドン、山へ登りました。そして、深い山の中の岩のかげに屋根を作って、かくれていました。そうして、ユリの根や山いもをほって来て、食べていました。

image3203.jpg

 ある晩、ねている小屋の屋根を、バサバサする者がいるので、また、「役人か」と、飛び出ると、鼻の高い赤い顔をした大きな者が、男の首をつかみました。ビックリした男は、つかんだ手をふり放して、「お前は誰だ」と、どなりつけました。「俺か、俺は、この山の天狗だ」と言ったので、男は、「これが天狗さまか」と、思いました。よく見ると、頭には長い白い毛を生やし、赤い着物を着て、手には曲がった爪を生やしていました。
天狗さまは、男に、「お前は、なかなか強い男だということだが、これからは、仲よしになってやろう」と言いました。男は、カラカラと笑って、しりをたたいてみせました。天狗さまは、この男のきかぬ気に、たいへん感心して、けらいになるように、いろいろすすめました。そして、男はとうとう天狗さまのけらいになって、山の中に住みました。

 image3202.jpg

何年もたってからのある日のこと、男は、村がこいしくなったので、天狗さまに、「山を下りたい」と言いましたら、天狗さまは、毛の生えた大きな爪を一つくれました。それから、男は村へ帰って、よい百姓になりました。
     (猪谷尋常小学校一年生の作文教材)   「村の今昔」細入歴史調査同好会編 よりの再話 

神通峡をたずねて 猪谷かいわい20

猪谷に残る民話・伝説 その5

七人衆の墓 

 今から四百二十年前、永禄年間の頃、武田信玄と上杉謙信の争いがここ、細入谷にも広がり、飛越の武士たちが戦ったそうです。
 七、八年前まで、猪谷の国道線、池内さんの近くに小さなお墓が七つならんでいました。しかし、国道拡張のため、どこか(お寺へ)に移されたそうですが、不明です。

 image3191.jpg

 これは戦国の頃、落武者が手きずをうけ、ここまで逃れてきましたが、とうとう七人ともここ猪谷で死んでしまったので、この墓がたてられたのだと言い伝えられています。何という武士かわかりませんが、「白屋筑前守秋貞」と、これにしたがう武士ではないかと言われています。
         (猪谷小学校長 丸山 博) 「官報ほそいり 昭和四八年九月五日号」より 

神通峡をたずねて 猪谷かいわい 19

猪谷に残る民話・伝説 その4

飛騨の武将 塩屋秋貞の墓

 天正十一年、塩屋秋貞は、上杉軍の越中城生城主、斉藤信利に攻め入りました。戦いは攻勢でしたが、上杉景勝の援軍が到着して劣勢となり、飛騨に退却する途中、西猪谷砂場で、鉄砲に撃たれました。瀕死の重傷になった秋貞は、戸板に乗せられて運ばれて行きましたが、猪谷の塔婆坂で息を引き取りました。 
 今も、猪谷の旧飛騨街道近くの山の中に、塩屋秋貞のお墓が残っています。    
image3177.jpg  「細入村史」より
img3182.jpg

神通峡をたずねて 猪谷かいわい 18

猪谷に残る民話・伝説 その3

白屋秋貞(塩屋秋貞)の話 
 
 都では、桶狭間に勝利を得た信長が、義昭将軍を擁して天下に号令しようとしていた頃である。
 幾月かの間は、雪の下に閉じ込められていた飛越国境の山々にも、日の光が暖かくなると共に、一日一日と少しずつ緑色が加わっていく様に見える。神通川の川淵の断崖の上を、細く長く通っている道も、雪が解け始めると、それにつれて、つるつると滑りやすいぬかるみになる。その細長いぬかるみの道を、飛騨から越中へ、白屋秋貞の越中経略の軍勢が、毎年のように、川に沿って攻め入って来たのである。

 image3171.jpg

 この年、元亀二年も、一千の軍勢を率いて、西笹津の対岸にある猿倉城を根拠にして、城生城を攻略しようとしたのである。多年、彼は、飛騨の山地から肥沃な越中の平野を望んで、機を見て越中全土を攻略しようとしていた。

 image3172.jpg

 この城生城攻撃では、川の崖を前に控え、後ろは山続きの堅城も、背後からの攻撃に、城兵が地の利を占められて危うく見えた頃、上杉謙信の援兵によって、秋貞攻撃軍は遂に退却を余儀なくされた。秋貞は、この後、謙信に従うようになった。
 翌年、元亀三年、両岸の山々の紅葉と映発する様な美しい物の具をつけた鎧武者の幾一千騎かが、旗指物を風になびかせながら、神通川の上流へ上流へと上って行く。

 image3173.jpg

 謙信は、幕営に出迎えのためと道案内を兼ねて、飛騨から面会に来た白屋秋貞を招いて、低く雲の漂った山の谷あいを指さしたり、川の上の獣か何かが、うずくまっている様な赤黒い岩に激しくぶち当たっては流れて行く紺青の水の色の方を振り向いたりして、傍の秋貞に、戦陣にある大将とも思われないくらいに、のびのびと話しかけた。
 彼、謙信がのびのびとした態度でいるのは、戦いの前途を楽観しているというよりは、こんな危ない山道、細い崖道を通って進む戦時行軍中の間にも、彼の心情の底に潜んでいる自然愛好の心持の表れだと言えばよいのであろう。
 道はいよいよ細く、雲はいよいよ低くなって、騎馬の部隊は、困難を感じ出したので、一同は馬を下り、兵糧その他は、この地方に多い牛に負わせて、雨露とも雲ともつかぬ漠々とした中を、絶壁のふちを、猪谷から加賀沢へ、更に、小豆沢へと、幾人かの馬を神通川の川底に犠牲にして、飛騨の白河城に入城した。
 秋貞は、その頃、北越の名将と言うよりは、今もうじきに、信長と一戦を交えて、天下を統一しようとその意気に燃えていた謙信の先陣として、飛騨へ入国し、その余威を受けて付近の平定に従った。この時が、一代の得意の時代であったことと思われる。
 その後、幾年かは過ぎて、天正六年の春を迎えた。謙信は、京都にいる信長と雌雄を決しようとし、領内の武士にふれを出して、六万の軍勢を集め、戦備を整えて、三月十五日をその出発の日と決めたが、その二日前に、病で春日城に没した。そのために、信長は、「謙信亡き後の上杉、取るに足らず」と思ってか、佐々成政に越中を攻めさせた。
 秋貞は、謙信の死後、自己の身の安全からか成政に従った。成政は、越中平定に従うとは言うものの、新川三郡には、謙信の子の景勝という武将がいて、魚津城を本拠にして、成政との間に攻防が繰り返された。秋貞は、猿倉城を拠点にして、佐々のために謙信方に備えた。
 天正九年二月、信長は諸州の騎馬を集めて、天子の御覧に入れようと計った。成政もその儀式に参列のために京都に上った。

 image3174.jpg
 
 この虚をついて、魚津城にいた景勝の武将河田豊前は、ひしひしと猿倉城に攻め寄せていた。周囲わずかに一里にも足らぬ小城を幾千の軍勢が潅木を伝わり、葉陰に隠れて、城の上まで押し寄せて、一気に攻落してしまった。
 秋貞は、暗闇にまぎれて、二人の子と城を逃れ、敵の気を抜いて、向こう岸に舟を出して渡った。闇を利用して、逃れるだけ逃れねばならない。ほうき星のように気味の悪い赤い火を噴いては、「ダーン、ダーン」と、山にこだまする鉄砲の響きを、敵のあげる勝どきを後に聞いて、道の分からぬ草薮の間などを、木の切り株につますきながら、川上に向かって逃れて行った。
 もう何里を走ったか分からなかった。その内、東の山の雲がいやにはっきりすると思っていると、だんだん夜が白んで来て、川風が、辺りに少し積もった雪をまともに吹きつけたので、思わず後ろを向いた。とたんに、向こう岸の林の陰から、耳をつんざくような銃声が上がって、すぐ下の堤に二つ三つの砂塵をパッパッと上げた。

 image3176.jpg

 「事急なり」と思った秋貞父子は、雪を掻き蹴って、傍の木陰に身を寄せた。と、又、魂を奪うようなすさまじい銃声が二、三発響き、秋貞の体を打ち倒した。

 image3175.jpg

 秋貞は、以前は、謙信を案内して、この土地を揚々として飛騨に入り、今度は、敗戦の憂き目をみて、ここに戦死した。こうした因果な最期について、わが身の上に対しての悔恨の心持で、眼を閉じたのだろうか。「自分が佐々方に味方したのは、上杉公に味方した時と同じ表れで、一日も早く信長公の手によって天下が平定され、尊王の精神によって、上皇様に対し奉り、下万民のため善政を望んだからだ。ここで戦死しても、何ら悔いることはない」と案じて死についただろうか。
 ともあれ、こうして、わが郷土の土地に戦死した秋貞の一生は、戦国時代にありながら悲惨な武士の最期の一つであった。
(猪谷尋常小学校 高等科生徒の作文教材)
                             「村の今昔」 細入歴史調査同好会編 より  


神通峡をたずねて  猪谷かいわい 17

猪谷に残る民話・伝説 その2

大垣宗左衛門の墓
 

 飯村家の裏に小さな五輪塔がある。これは、美濃の国大垣より対岸の小糸集落へ移り住んだ大垣宗左衛門の墓と言われている。

image3161.jpg

 宗左衛門は、当時の藩主への上納米の負担に苦しんでいた百姓のため、大罪と知りながら、単身加賀藩の藩主へ直訴し、身を挺しての訴えに感動した藩主が、上納米を軽くし、また銀納を許されたのであるが、新川代官が直訴という罪を犯した宗左衛門を召し取るため、役人を遣わした。それを予期していた宗左衛門はうまく逃げ、神通川を渡り、役人が手を出せない富山藩である西猪谷へ着いたのである
 そうして、宗左衛門は、猪谷の森家に身を寄せ、猪谷のために尽くしたといわれている。
森家には宗左衛門が所持していたという「天狗の爪(サメの歯?)」なるものがあったが、昭和十六年の大火によって消失したという。 
                                     「細入村史」

神通峡をたずねて 猪谷かいわい 16

猪谷に残る民話・伝説 その1

手品師の関所破り 
 
 昔、飛騨と越中の国境に、猪谷の関所があった。すぐそばを流れる神通川には、橋がなかったので、川の向うへ行く時は、籠の渡しに乗って行った。
 image3151.jpg

 ある時、飛騨から、大勢の人が籠の渡しを乗り合って、この関所へ集まって来た。その中に、親子三人の手品師がいた。

 image3152.jpg
関所の役人は、三人の様子をじろじろ見て、「そこへ来た親子三人、お前らは、手品師ではないか。こっちへ来い。」と呼んだ。
「人の目をくらまして、金をむさぼり取るような手品師なら、この関所を通すわけにはいかん。」
image3153.jpg
手品師は、「何というお役人様、私らは、他の手品師のような、お客様の目をごまかすような、そんなことはいたしません。ただ、ありのままの芸をいたします。」
役人は、「そりゃ、どんなことをするのじゃ。一つ見せてもらうか。」
手品師は、「それでは…一升入りほどの鈴を、一本貸してください。私ども親子三人が、その鈴の中へ入ってご覧に入れます…。」
image3154.jpg
 役人は、家来に、木魚より大きい鈴を用意させて、手品をする台まで並べた。
いよいよ手品師は、「これからお見せする手品は、たいへん難しいもので、皆さん十歩ほど下がってくだされ…。」と言うて、黒い大ぶろしきを、上からかぶせて、「種も仕掛けもない。」という話をして、ふろしきを、鈴の上にかぶせた。
 そして、「まずは子どもから。」と言って、子どもを、その鈴の中へ押し込み、次に母親を入れた。次に、自分が鈴の中へ入って、姿を消してしまった。
 役人は、互いに顔を見あわせて、これは不思議な手品だと言っているが、どれだけ経っても、手品師は、その中から出てきません。役人は、鈴の中をのぞくだけでなく、しまいには、鈴の中へ火ばしを入れたり、鈴をこわしたりするが、影も形もない。
 不思議なこともあるものと、話し合いをしておるところへ、商人が入って来た。役人は、「これこれ、もしかするとお前は、かくかくの男と母親と子どもの三人の姿を見なかったかい。」と言うと、商人は、「そうそう、確か三人連れの親子なら、楡原の村の近くでおうたことい。」と言った。
image3155.jpg

 役人は、「あー、手品師に一杯食わされた。」と、皆あきれた話をしておったという。
これが手品師の関所破りとして伝えられているということだ。
                                                 民話出典「細入村史」

神通峡をたずねて  猪谷かいわい 15

伝えたいお話 あれこれ 5

かくれ谷 

旧猪谷小学校の西、大高山の麓に、「かくれ谷」というところがあります。 
源平合戦のころ、戦いに負けた平家の侍たちが、追いすがる源氏の軍勢の目を逃れるために、この谷間に隠れていたと言われています。
 国道から見ても、その谷間は見えませんが、近寄って見ると、広い谷間が今でも見られます。
                 丸山博編「猪谷むかしばなし」より 

西禅寺のおこり 

 猪谷集落の南の小高い森の中に、西禅寺というお寺が建っています。
この寺は、今から二百年余り前は、旧猪谷中学校跡の北側の方に建てられていました。
ある年、山津波のため、この寺は押し流され、泥や石で押しつぶされて、跡形もなくなってしまいました。集落の人たちは、崩れた土の中から、ご本尊や寺の道具を掘り出しましたが、一番大切な過去帳、即ち、お寺の歴史を書いた書類がどうしても見当たらず、西禅寺がどのようにして造られたのかが、分からなくなってしまいました。
猪谷中学校を建てる時、たくさんの卒塔婆や墓石が掘り出されました。これから察しても、大きなお寺だったことが分かります。
後に、高い石段の上に、立派なお寺が再建され、今日に至っています。
                   丸山博編「猪谷むかしばなし」より

砂場集落の大惨事

 猪谷から片掛に向かう途中に、今は廃村になり、建物は何一つ残っていないが、砂場集落があった。
 昭和十五年一月二十九日、雪が四日間降り続き、県下各地で積雪は三m前後に達し、笹津では四百四十Cmという豪雪になった。全てのものが新雪で覆い尽くされた中、午前十一時半頃、洞山から表層雪崩が発生し、高山線と 砂場集落を襲った。
 鉄橋や橋梁、五軒あった集落の二軒を飛ばした。二軒の内一軒は、対岸まで押し出された。七名の命が奪われ、高山線は約十日間、不通になった。

image3141.jpg

 難を逃れた三軒は、猪谷へ転居し、砂場集落はなくなった。
 その後、防雪林や防護柵など鉄道林を多くして、事故防止を図っている。

image3142.jpg

神通峡をたずねて 猪谷かいわい 14

伝えたいお話 あれこれ 4

安政の大地震 

 一八五八年(安政五)二月二十六日午前一時頃、飛騨北部から越中にかけて大地震が発生した。この地震は一般に、安政地震、飛越地震、富山では越中大地震と呼ばれ、マグニチュードは七と推定されている。震源は、越中と富山の国境、跡津川断層である。

 この地震によって、各地に大きな被害が出たことが記録されている。
 富山では、富山城の石垣や門などが壊れ、地面が裂けて水が噴き出したほか、家屋が潰れ地割れが生じた。また、この地震によって常願寺川上流の大鳶・小鳶山に山崩れが起こり、支流の湯川と真川がせきとめられて大きな湖が二つできた。その二週間後に湯川のダムが、一ヶ月後に真川のダムがあいついで壊れ、溜まっていた水は濁流となって一気に常願寺川へ、さらに神通川、白岩川にも流れ込み、下流の村々は大洪水に見舞われた。流されたり壊れたりした家一六一二戸、溺死者百四十人にも及んだ。
 
 猪谷橋本家に所蔵されている「橋本文書」にも、細入村での安政地震の時の様子が詳しく記録されている。要約した一部は、次のようである。
 「安政五年(一八五八)二月二十五日、夜九ツ時(午前零時)大地震が起きた。人々は驚き、逃げ惑った。地震はその後も何度となく起き、人々は外にムシロを敷いて、夜が明けるのを待った。石垣や土蔵などは大きく崩れ落ち、家の戸や障子、壁、道具なども壊れ、人々は生きた心地がしなかった。西猪谷関所や長屋の内壁や石垣なども壊れ、猪谷村では、猪谷川より取り入れていた用水が山抜けの大被害をうけた。
 二十六日も地震は静まらず、人々は外に小屋を懸け、夜もそこに泊まった。猪谷村では寄合を開いて、火の用心に心がけることを申し合わせ、また蟹寺村では山が所々崩れて水溜りとなっているので、関所番人は吉四郎を遣わして様子を調べさせた。加賀沢村までの道路は寸断され通ることが出来ないので、吉四郎は山の峰を通り、加賀沢村まで行った。加賀沢村のかいがふちでは山が抜けており、そこから表村にかけて所々で山崩れが起き、神通川が水溜りとなっていた。
 村の肝煎は、村々へ神通川に水溜りができていることを知らせた。
 この水溜りは、二十六日夜六ツ時(午後六時)頃に、切れて流れ出した。流木を多数含んだ流れは、崩れて埋まっている数ヶ所の所の上を越して行ったが、大水にもならず事なきを得た。
 ところで、この地震で、関所の上手、西禅寺にかけての三百本ばかりある林の所が、七尺(二m)ほどが押し下がった。余震や雨が降った時に崩れ落ちる心配があるので、関所近くの家十軒ばかりを立ち退かせた。この地震では、飛騨地方の被害も甚大で、横山番所も山崩れによって潰れ、人も亡くなった。…」

 その後、一八六一年(文久元年)七月十日の大雨にて、安政五年の大地震による地滑場所が一挙に滑り降り、民家六軒、ほか作小屋を押し潰し、うち一軒を神通川まで押出し、関所長屋の南縁が被害を受けた。
                      参考 「細入村史」

神通峡をたずねて 猪谷かいわい 13

伝えたいお話 あれこれ 3

三井の鉄橋

昨日、私達は、先生と川原へ文鎮にする石を拾いに行きました。神通川には高い岸が映って、緑色の水が流れています。涼しい風の渡る濡れ岩の辺りに、カジカが玉を転がす様に鳴いています。
 三井の鉄橋は、片掛の山々を後ろにして、塗り立ての様にはっきりと頭の上に架かっています。中村さんが、「先生、この次に、此処へ写生に来るといい」とつながって言われました。私もそれがいいと思いました。先生は、見上げて只笑っておられましたが、「皆、あの鉄橋の高さ、どの位・・・?」と言われたら、前坂さんが、「僕の家、二つ重ねたほどかわからん」と言いました。先生は、「皆一人ひとり継ぎ合わせても、半分も届かない」と言われました。又、「向こう岸からこちら迄の長さは、三〇〇mもあるのだそうです」と言われました。私達はビックリしました。その時、幾つも繋がった車が、エンジンに引っ張られて鉄橋へ出ました。見上げていたら、大きな響きを立てて渡って行きました。

image312.jpg

 先生の話では、飛騨の鉱山から鉛の石を積んで私達の駅へ来るのだそうです。帰りには、遠い国から来た亜鉛鉱という物を、飛騨の鉱山へ持って行くのだそうです。時々、三井の鉱山の人の食べ物等を積んで帰る事もあるという事です。この為に、私達の猪谷駅は、貨物のかさが大変多いと思いました。
 私達は、拾った石を持って川原から上がって来ました。
               (猪谷尋常小学校 二年生の作文)「村の今昔」細入歴史調査同好会編 より
プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム