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水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

団塊世代の親父のブログです。
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ふらりきままに 甲州街道を歩いて下諏訪から新宿へ 7-3

7 大月市から上野原町へ その3 

 午後3時過ぎ古い家並みの残る鶴川宿に着いた。おじいさんが歩いていた。「すいません。上野原まで後どのくらいですか」と声を掛けた。「4kmくらいかな。1時間くらいだよ」とおじいさんは答えた。「上野原には宿はありますか」と聞くと「この辺りでは1番大きな町だから、旅館もホテルあるよ」とおじいさんは親切に教えてくれた。今日は上野原で泊れそうだ。

 坂道を下ると大きな川が見えて来た。上野原の町は川向いの丘の上にあるようだ。橋を渡った所で旧道は国道20号線と合流した。再び車が激しく行き交う道となった。狭い歩道を歩いて行くと賑やかな街並みが見えて来た。上野原の町に着いたようだ。旅館かホテルはないか、きょろきょろしながら歩いて行った。高いビルが見え、屋上に「ルートイン上野原」という看板が掛かっていた。「ルートイン韮崎」の姉妹店ようだ。すんなり部屋が取れるものと思っていた。

 「すいません。1人ですが、今晩泊れますか」とフロントの女性に言った。「あいにくですが、今晩は満室です」と女性は言った。「えっ、平日なのに満室ですか」と聞き返した。「工事関係の人で一杯なんです。この辺りにある旅館も全部一杯で、今日の空きはないそうです。高尾か八王子まで行かれれば宿はあると思いますが…」女性は申し訳なさそうに、上野原駅までの地図を私に渡した。

 宿を見つけることは本当に難しい。どっと疲れが出て来たが、高尾か八王子まで行くしかないとあきらめた。地図を見ながら、上野原駅まで歩いた。上野原駅まで2kmほどだった。暗くなり始めた道たくさんの高校生が歩いていた。みな上野原駅へ行くようだった。

 やがて道は急坂になり、自然と足が前へ進む。駅はこの急坂の下にあるようだった。列車の走る音が聞こえて来た。もうすぐ駅のようだ。ひょっとして、上野原という地名は、山の上が野原のように平らになっているから付いたのだろうか。

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 上野原駅は高校生で一杯だった。いきなり、東京へやって来たという感じがした。八王子で宿を見つけることにした。高尾行普通列車は混んでいたが、空いている座席を見つけて座った。相模湖駅で乗車した親父さんが、私の前の座席に座った。クーラーボックスを下げていた。相模湖で釣りをやって来た様子だった。親父さんはしきりに手をこすっていた。餌のうどん粉が指にこびりついて白くなっているのが見える。魚はたくさん釣れたのだろうか。どんな魚が釣れたのだろうか。そんなことを考えていたら、魚の臭いが漂って来た。「親父さんは、大漁だったんだな」と思った。

 高尾で列車を乗換え、午後6時過ぎ八王子駅に着いた。八王子駅前は大都会だった。ネオンが輝き、人が道路に溢れていた。ずっと名古屋に住んでいた私だが、名古屋の比ではなかった。東京は凄い所だと思った。

 とにかく宿を見つけなくてはならない。千代田ホテルという看板を見つけた。細い路地裏に千代田ホテルはあった。「1泊6500円ですが、いいですか」とフロントの女性に言われた。「お願いします」と料金を払ってキーを受取った。

 部屋は広く、きれいだった。トイレやバスはもちろん付いていた。昨夜泊った大月の最悪の旅館を思い出した。どうしてこんなに大きな開きがあるのだろうか。やはりそれは、都会と田舎の違いだろうと思った。人が溢れる都会では、サービスが何よりも優先されるのだ。サービスがよければ、客が多くなる。それに比べ、田舎では、サービスをよくしても、客が来てくれなければ話にならない。そこにしか旅館がなければ、サービスが悪くても泊らざるを得なくなる。田舎では、そこに旅館があるということの方が大事なのだ。だから、あの旅館でも営業していけるのだと思った。

 ホテルにはコインランドリーが設置してあった。久しぶりに洗濯をした。洗濯が終り、食事に出た。飲み屋がずらりと並ぶ路地裏の道をうろうろした。小さな野菜スーパーがあり、店先に大きなハクサイが山積みにされていた。「大サービス、ハクサイ2個で130円」と値札が貼ってある。値段の安さに驚いた。今年、私は野菜を作り始めたが、ハクサイを育てるのは大変だった。アオムシとの根競べだった。雑草を取ったり、肥料をやったりするのも大変だった。今、ハクサイは畑で大きく育っているが、それが一つ65円とはあまりにも安すぎると思った。運送費や包装費やこの店のマージンを引いたら、幾らで出荷したのだろうか。農業では生活していけないと思った。

 小さな食堂を見つけて中へ入った。焼き魚定食と焼酎を注文した。サバの塩焼きに煮物、漬物、味噌汁などが付いて来た。美味しくて、ボリュームもあった。それで、2000円だった。安い食堂だった。大都会の物価の安さに驚いた夜だった。
[ 2012/04/30 06:44 ] ふらり きままに | TB(1) | CM(0)

ふらりきままに 甲州街道を歩いて下諏訪から新宿へ 7-2

7 大月市から上野原町へ その2

 「猿橋まで1.5km」という表示がある。これから行く「猿橋」は、日本三大奇橋の一つで、30m近い渓谷に、両岸から刎木を突き出し、その上に橋桁を渡して作った、肘木けた式橋という珍しい工法でかけられているという。「たくさんの猿が手をつないで深い谷を渡っていたのをヒントにして作った」という伝説も残っている。甲州街道では有名な橋だという。ぜひこの目で見たいと前から思っていた。10時半には到着できそうだ。

 「大月市郷土資料館」という看板が出ている。立ち寄ってみることにした。国道から離れて細い道を下って行くと広い公園になっていた。美しい公園だった。たくさんの人が芝生に腰を下ろしたり、散策したりしていた。「ここは猿橋公園です。流れている川は桂川です。向こうにあるのが新猿橋で、ここからは見えませんが、崖の向こうに猿橋があります」とベンチに座っていたおじいさんが教えてくれた。桂川の渕に生えている木々は紅葉の真っ盛りだった。「大月郷土資料館」は公園の敷地内に、こじんまりと建っていた。

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 しばらく公園で休憩することにした。スケッチブックを取り出して絵を描いた。そこへ、リュックを担いだ保育園の園児たちがぞろぞろ歩いて来た。ここへ遠足に来たようだ。「はーい、みんな。写真を撮るからポーズを取って」と先生が大きな声で叫んでいた。何年か前の自分を思い出していた。

 大月市郷土資料館を見学に行った。入場料百円を払って中へ入った。大月市の古代から近世までの歴史や資料などが展示してあった。特別展示室があり、「白籏史郎写真展」の特設があった。日本を代表する山岳写真家である。富士山の見事な写真が展示してあった。得をした気分で資料館を出た。

 遊歩道を歩いて猿橋に向った。桂川の渕でおじさんが釣をしていた。こんな所で釣をしていいのかと思っていたら、「魚釣場」という立札が立っていた。「何が釣れるのですか」とおじさんに声を掛けると「ウグイだよ」と返事が返って来た。

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 コンクリートで出来た新猿橋の隣に木製の猿橋があった。たくさんの人がカメラを構えて撮影の真っ最中だった。黄色く紅葉した木々と歴史を感じさせる猿橋をどう切撮るのか苦労している様子だった。私はスケッチブックを出して絵で挑戦した。何段にも重なった橋桁を表現するのが難しく途中であきらめた。絵は難しいと思った。

 猿橋の見学を終え、再び国道20号線を歩き始めた。12時過ぎ、鳥沢駅前に到着した。ここは宿場町で古い家並みもたくさん残っていた。食堂があるので中へ入った。定食を注文した。「大きなリュックを背負って旅をしているのですか」とお上さんが聞いて来た。「ええ、下諏訪からずっと甲州街道を歩いてきました。新宿まで歩く予定です」と答えた。「そんな素敵な旅をしているのですか。よく暇がありますね」とお上さんが言った。「いや、仕事を辞めてね。何かに挑戦しようと思って、それで甲州街道を歩き出したんですよ」と話した。そこへ、作業服を着た親父さんが入って来た。「この人、ずっと甲州街道を歩いているんだって」とお上さんが、顔なじみらしい親父さんに話をした。「そりゃあすごい。この先に旧道があるから、そこを歩くといいよ」と親父さんは旧道のコースを教えてくれた。食事が済んで、店を出る時に、親父さんから「いいかい、大月カントリーという立札に沿って行けばいいよ。きつい上り道が続くが、頂上まで行けば、とても見晴らしがいいよ。気をつけて行きなよ」と励まされた。「頑張って旅を続けよう」と思った。

 「大月カントリー」へ続く旧道は、親父さんが言っていた通り、きつい上り坂だった。山登りをしているように、息が弾み、何度か休憩しながら上って行った。40分ほど掛かって、やっと平らな所へ出た。遥か下の方に鳥沢町の街並みが見えていた。かなり上って来たことがそれで分かった。遠くの山は雲が掛かっていて、はっきり見えなかったが、天気がよければ富士山が見えるのかも知れないと思った。

 平坦になった旧道をのんびり歩いて行った。旧道は立派な道路なのに車は走っていなかった。ハイキングコースに持って来いの道だ。しかし、以前は車がたくさんは走っていたという証拠が、道の所々に残っていた。国道20号線ができ、ここを車が走らなくなったのだろうか。

 「甲州夢街道2001」の幟がガードレールに縛り付けてある。今日は、私一人がこの道を歩いているが、何ヶ月か前にここをたくさんの人たちが歩いて行ったのだ。幟は、「道を歩きたい」と思っている人がたくさんいる証だと思った。ここを歩きに来る人のために、この幟をこれからも残しておいてほしいと思った。私は、幟を見て勇気づけられる想いがした。
 道の横の畑でおばあさんが仕事をしていた。「こんにちは」と声を掛けると「歩きに来たのかい」とおばあさんは手を休めて、私の所へやって来た。「ここは、景色がいいでしょう。甲州街道でも最高の景色の所だよ。富獄三十六景の1枚はここから見た富士が描いてあるよ。休みになると歩きに来る人がいるよ。紅葉も美しく今が最高だね。この先に一里塚が残っているから見て行きなさい」おばあさんは得意顔で話した。「旧道はどこまで続いているのですか」と聞いた。「鶴川を通って上野原まで行っているよ。ここから後2時間くらいかな。この先に分かれ道があるから、真中の道をずっと行きなさい」と道を教えてくれた。

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 道は揺るやかな下りになった。車が通らないので本当に歩き易い。下って行くと、藁葺き屋根の旧家が建っていた。甲州街道を歩いて来て、初めて見た藁葺き屋根の家だった。蕎麦屋を営業しているようだが、今日は休業のようだった。その家を見ていたら、庭にいた犬が私に気付いたようで吠え出した。スケッチをしていこうと思ったが、早々にその場を離れた。
 
 しばらく歩くと、道の下に広い芝生が見えて来た。ゴルフ場だった。この辺りにはゴルフ場があちこちにあるようだ。ゴルフを楽しむ男たちの話し声が薮の向こうから聞こえて来た。
[ 2012/04/29 08:20 ] ふらり きままに | TB(1) | CM(0)

ふらりきままに 甲州街道を歩いて下諏訪から新宿へ 7-1

7 大月市から上野原町へその1

 午前6時起床。隣の部屋の客はまだ寝ているようだ。着替えをしたり、荷物を整理したりするのにも気を使いながらした。本当に最悪の旅館に泊ってしまったものだ。洗面を終え、午前7時旅館を出発した。
 
 大月駅の売店でおにぎりを探したがないので、仕方なく朝食の菓子パンとお茶を買う。7時23分発松本行普通列車に乗車した。今日歩くことになる国道20号線が見える。しっかりした歩道が付いていないように見える。また、いろいろハプニングがありそうだなと思いながら車窓の景色を眺めていた。

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 7時33分笹子駅に着いた。カメラを持った若者も下車したが、若者は足早にホームから立ち去って行った。改札口へ行くとだれもいない無人駅だった。笹子駅前から国道20号線を歩き始めた。朝が早く車の量は少ないが、猛スピードで走っていた。しっかりした歩道が付いていたが,大型トラックが通ると風圧を感じた。

 向こうから小学生の一団が歩いて来た。「おはようございます」と声を掛けると「おはようございます」と明るい声が返って来た。車が激しく通るこの国道が通学路になっているのだ。しばらく歩くと、再び小学生の一団と出会った。「おはようございます」と声を掛けたが、今度は挨拶が返って来なかった。変な格好の親父が挨拶したので、ビックリしたのだろう。

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 30分ほど歩いた所に旧道が残っていて、そこを歩くと古い家並みが続く町があった。宿場町のような感じである。地図で調べると「白野宿」となっていた。休憩して朝食の菓子パンを食べた。

 旧道は町外れで再び国道と合流した。しかし、驚くことにそれまで歩いていた歩道がなくなってしまった。国道に白い路側帯はあるが、歩く場所はなかった。とても車道を歩く気にはならなかった。笹子駅まで戻るしかないと思った。来た道を引き返し始めた時、向こうから黄色いトラックがゆっくり走って来た。道路公団の散水車だった。「ひょっとしたら乗せてもらえるかも知れない」と思った。手を振ったらトラックは私の横で停車した。「すいません。実は甲州街道を歩いて東京へ行こうと思っているのですか、見た通り歩道がなくなってしまい歩けなくなりました。歩道がある所まででいいですから、乗せてもらえませんか」と運転手に頼んだ。「ああ、いいよ。狭いけど乗りな」と運転手はドアを開けてくれた。私にとっては、これが初めてのヒッチハイクだった。「この辺りは歩道がなくて危険な所が多いよ。歩道がある初狩駅まで乗って行きな」と言いながら運転手は車を走らせた

 初狩駅の手前で歩道が見えて来たので、車を停めてもらい、礼を言って車を降りた。山田洋次監督の映画「学校Ⅳ」に同じような場面があったなあと思った。ひょっとしたらこれから先、また同じようなことがあるのだろうか。

 初狩駅前から再び国道を歩き始めた。午前10時過ぎ、大月の街並みが見えて来た。町の向こうには大きな山が見える。昔、頂上に城があったという岩殿山だ。頂上に登れば、富士山まで望めるということだが、先を急ぐことにした。旧道が残っているので、旧道を歩く。昨日世話になった旅館や焼き鳥屋の前を通った。しばらくして街並みがなくなり、川沿いの国道へ出た。次の目的地、猿橋へ向かって歩いて行った。
 
[ 2012/04/28 06:58 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

ふらりきままに 甲州街道を歩いて下諏訪から新宿へ 6-5


6 甲府市から大和村へ その5

 大月駅に到着した。JRだけでなく富士急行も乗り入れていた。駅前にビジネスホテルある。ホテルの玄関へ行くと、ガラス戸に「今日は満室です」と張り紙がしてあった。「また宿を見つけるために苦労しそうだな」と思った。駅前の通りに古ぼけた旅館を見つけた。入口から2階へ上がって行った。「ごめんください」と声を掛けると、奥からおじいさんが出て来た。「今日泊れますか」と聞いた。「ワシではよく分からんから、ちょっと待ってくれ」とおじいさんは言って、電話をした。しばらくして、奥の部屋から、おばあさんが出て来て、「はい、泊れますよ。1泊5000円です」と言った。「すぐ、現金でお願いします」と言われた。5000円を受取ったおばあさんは私を部屋へ案内した。
 
 酷い部屋だった。四畳半の部屋で、しかも、隣にも部屋があり、襖1枚で仕切られているだけだった。襖を開けて一つの部屋として使うのが普通なのに、それを二つに仕切って使わせるという信じられない話だった。「きっと今日は、隣りは客がないのだろう」その時はそう思っていた。
 
テ レビを付けて相撲を見ていたら、「風呂が涌きましたから、入ってください」とおじいさんに呼ばれた。手ぬぐいを持って風呂場へ行った。普通の家庭にある小さな風呂だった。しかも、洗い場が壊れかけていた。とんでもない旅館に泊ってしまったようだ。
 
 夕食を食べに出掛けた。細い路地に飲食店が何軒か並んでいた。「焼き鳥」という看板のある飲み屋に入った。エプロン姿のお上さんが料理をしていた。焼き鳥とビールを注文した。「大月はどんな町です」と私は聞いた。「大月は、狭い谷間に家がごちゃごちゃ建っていて、それも小さな家ばかりでウナギの寝床のような所ですよ」とお上さんは言った。

 平日なのに駅前のビジネスホテルが満室だった話をしたら「あそこは、いつも満室という張り紙があるよ。聞いてみたら空いていたかもしれないね」とお上さんは言った。今日泊った旅館の話をしたら、「やっぱりねえ。おじいさんとおばあさんになってしまって、サービスが行き届かなくなってしまったんだよ」とお上さんは、残念そうな顔をした。「それにしても5000円は高いねえ。もっと安くしろと言わなかったのかい。あんたも人がいいねえ」と叱られてしまった。
 
 そこへ、作業着姿の若者が入って来た。手に冷凍イカのパックを持っている。「お上さんこのイカを買ってくれないですか」と若者は言った。「そうねえ。少し待って」とお上さんは店の冷蔵庫を開けて中を調べていた。「まだあるみたい。今日はいいわ」とお上さんは言った。「そういうこと言わないで、ちょっと見てほしいよ。味は保証するから。安くしておくから買ってくれない」一生懸命冷凍イカを勧める若者にお上さんは負けたようで、その冷凍イカを購入した。大月ではこういう品物しか手に入らないのだろうか。産地から遠く離れた山の町では仕方のない話なのかも知れない。帰りにラーメンを食べて、宿へ戻った。
 
 明日のことについて考えた。笹子峠を歩くことは、今回は止めることにした。「笹子峠はクマの出ないもっといい季節に歩きに来よう」と思った。「どんな形であれ,峠を越えればいい」と考えたら、気持ちが楽になった。車で笹子トンネルを抜ける方法もあるが、列車でトンネルを抜けるのも同じだ。笹子トンネルは今日すでに列車で通っていたので、明日は、トンネル出口の笹子駅から歩き始めることにした。「甲斐大和と笹子の間は列車に乗って通過した」と旅日記に記録した。
 
 電気を消して床に着いた。しばらくして目が覚めた。隣の部屋の、テレビの音がうるさいのだ。隣の部屋に客が入ったのだった。時計を見ると午後11時過ぎだった。欄間から灯りが漏れて、私の部屋まで明るくなっていた。本当に酷い旅館に泊まってしまったものだ。その夜は、落ち着かなくて、ぐっすり眠ることができなかった。宿を見つけるのは本当に難しいことだと思った。

[ 2012/04/27 06:23 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

ふらりきままに 甲州街道を歩いて下諏訪から新宿へ 6-4

6 甲府市から大和村へ その4

 もうすぐ大和甲斐駅だ。時刻は午後3時を過ぎている。今日は大和甲斐駅前で宿を見つけることにした。人家が見えるようになり、しばらく行くと笹子峠上り口という道標が立っていた。旧道は笹子峠へ上る道である。交差点にガソリンスタンドがあるので聞いてみることにした。スタンドで働いていたおばさんに「笹子峠へ行く道はこちらでしょうか」と聞いた。「そうだけど、今から歩くのかい。ちょっと無理じゃないかなあ」と言った。「明日歩こうと思っているのですが」と答えると、「止めといた方がいいよ。クマが出るという話だよ」と真剣な顔だ。「本当ですか」と聞き返した。そこへ、車が入って来た。おばさんは、「この先に役場があるからそこで聞いて」と慌しく言うと、車の方へ行ってしまった。

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 役場へ向って国道を歩いて行った。警察署の前を通りかかったら、おまわりさんが検問をしていた。トラックの重量検査をしているようだった。歩道におまわりさんが立っていたので、聞いてみることにした。「旧道を歩いて笹子峠を越えようと思っているのですが」と言うと「クマが出るから、止めといた方がいいよ」とおまわりさんもおばさんと同じことを言った。「この先の笹子トンネルは歩けますか」と聞いた。「いや、トンネル内は歩行禁止になっています」という答えが返って来た。ここから先、峠をどうやって越えればいいのだろう。とにかく役場へ行ってみることにした。
 
 国道のすぐ横に大和町役場はあった。「すいません。笹子峠について聞きたいのですが」と言うと、観光課の男性がやって来た。「笹子峠を歩く人が最近増えて来ました。ここに地図がありますから、どうぞお持ちください」と男性は地図を開いて、赤鉛筆で歩くルートまで記入してくれた。「クマが出るという話を聞いたのですが、本当ですか」私が言うと「はい、出ますよ。山梨県全域でクマが出ると言った方がいいかもしれませんが、ラジオとか鈴とか音の出るものを用意された方がいいと思います」と助言してくれた。笹子峠は覚悟して歩かなくてはいけない場所だということがよく分かった。
  
 役場を出て、駅の方へ歩いて行った。食堂がある。暖簾が掛かり、営業しているようだ。遅い昼食を食べることにした。「何でもあります」の食堂で、夜は居酒屋を営業しているようだった。カレーライスを注文した。調理を始めた主人に「この辺りに宿屋はありませんか」と聞いた。「この辺りにはありません。ここから4kmほど山へ入った所に温泉があって,民宿とか旅館があります」と教えてくれた。今から更に1時間近く歩く気にはなれなかった。「この中央線沿線で、宿のある大きな駅はどこですか」と再び聞いた。「塩山か大月じゃないかな」と答えが返って来た。今日はこの先にある大月で泊ることに決めた。カレーライスは美味しかった。

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 甲斐大和駅から高尾行普通列車に乗った。明日は、クマが出るという笹子峠を歩くことになるのだが、気がすすまなかった。「甲州街道を歩いて新宿まで行く」というのが今回の目標だった。ここまで道は何度も間違えたが、ずっと歩き続けて来た。それを、クマが恐いという理由で、断念していいのか。そのことについては、今晩ゆっくり考えようと思った。
 
[ 2012/04/26 08:14 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

ふらりきままに 甲州街道を歩いて下諏訪から新宿へ 6-3

6 甲府市から大和村へ その3

 緩やかだが長い坂道をゆっくり上って行った。古い家並みが続いていて、宿場町だった面影がかなり残っている。時刻は12時、どこかに食堂があれば入ろうと思った。蕎麦屋を見つけたが、「本日休業」の看板が下がっていた。「残念」。更に道を上って行くと勝沼町の街外れになってしまった。
 
 「勝沼氏館跡」という大きな看板が立っている。この近くにあるようだ。そこへおばあさんが歩いて来た。「館跡というのはどこにありますか」とおばあさんに聞いた。「この通りの向こうにありますよ。私の家の庭を通っていけばすぐだから、着いて来なさい」おばあさんはそう言うと、私を自分の家の庭へ連れて行った。勝沼氏館跡は庭のすぐ横にあった。礼を言って親切なおばあさんと別れた。

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 館跡は芝生に蓋われ、小さな公園になっていた。小さく盛り上がっている所が館のあった所だろうか。「勝沼氏館は、武田氏の親類勝沼五郎の居館である。今から30年ほど前、発掘調査が行なわれ、ここに館があったことが解明された。館跡は発掘当時の姿で保存され、国の史跡になっている。」と説明があった。今も発掘調査が行われていた。
 
 時刻は1時近くなっていた。腹が空いた。この辺りに食堂はないのだろうか。交差点の所に作業服を着た若者がいた。「この辺りに食堂はないでしょうか」と尋ねると「この坂を下って行った所に蕎麦屋があるけど」と教えてくれた。「本日休業」と看板の掛かっていた店だった。「他にありませんか」と再び聞くと「ずっと下って行けばあるけど、この辺には店はないよ。勝沼から先も、ずっと家のない国道だから、大和村まではないよ」と若者は親切に教えてくれた。坂を逆戻りするのも癪なので、昼は8km先の大和村へ着いてから食べることにした。私の気ままな旅では食事が不規則になるのはいつものことだ。お茶を飲んで出発した。
 
 旧道は国道20号線に合流した。韮崎市からずっと旧道を歩いて来たので、国道20号線を歩くのは久しぶりである。車が猛スピードで走っていた。トラックも多い。「歩道がなかったら歩くのを止めよう」と思ったが、細いが一応歩道が付いていた。歩道をトラックの風圧を感じながら歩いて行った。

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 国道はずっと上り道になっていた。30分ほど歩くと見晴らしのいい所へ出た。山の急斜面にはブドウ畑が広がり、その下の方にはきれいな川が流れていた。対岸の山を縫うように高速道路が走っている。赤や黄色に紅葉した山、ブドウ色に広がる畑、眼下を流れるきれいな川が作る風景は美しかった。国道のガードレールの横で絵を描いた。今日初めて描く絵だった。ブドウ畑の紅葉にもいろいろ変化があって、面白い発見ができた。車に乗っている人には、この美しい景色は目に入らないだろうと思った。
 
 国道20号線を歩いて行くと、前方にトンネルが見えて来た。いやな予感がした。だんだんトンネルが迫ってきた。見ると路側帯のない狭いトンネルだ。「どうしよう」と思って、少し手前で立ち止まっていた。その時、向こうからおじいさんが歩いて来たのだ。「えっ、トンネルをおじいさんは抜けて来たのか」とビックリした。おじいさんは、歩道をこちらへ歩いて来る。「トンネル、歩けるのですか」と聞いた。「トンネルのすぐ横に歩道があるよ。そこを歩いて来たんだよ。ハッハッハ」とおじいさんは笑っていた。近付くと、トンネルのすぐ横に、トンネルを迂回するように道が付いていた。その道はトンネルができる前の旧国道だった。木に隠れて見えなかったのだ。私は、ホッとした気持ちで旧道を歩いて行った。
 
[ 2012/04/25 07:55 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

ふらりきままに 甲州街道を歩いて下諏訪から新宿へ 6-2

6 甲府市から大和村へ その2

 本陣跡を過ぎ、前方に大きな川が見えて来た。旧道はその川に沿って伸びている。見通しがよくなり、紅葉している山肌が見えた。堤防に「笛吹川」と表示がある。「笛吹川」とは趣のある名前だ。何か伝説が残っているように思った。後で調べてみたら次のような昔話が残っていた。

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 「むかし、笛吹川の上流に権三郎という若者がお袋と住んでいた。権三郎は笛を吹くのが大好きで仕事の合間にはいつも笛を吹いていたという。そんなある日、この辺りを暴風雨が襲い、川が氾濫した。洪水で権三郎とお袋は濁流に流され、お袋はとうとう帰らぬ人となった。それからというもの、権三郎はお袋の姿を求めて、来る日も来る日も笛を吹きながら川の上流から下流までさまよい歩いた。権三郎の吹く笛の音は心に染み入るようにもの悲しく聞こえた。そしてある朝、権三郎の亡がらが下流で浮んだ。人々は権三郎を手厚く葬ったが、それからも人々が寝静まった夜中になると、川の辺りから細く長くむせぶような笛の音が聞こえて来たという。それで人々はこの川を笛吹川と呼ぶようになった」(「甲州の伝説」より)

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 笛吹川の堤防道路を歩いて行くと、堤防の下に松並木が続いていた。犬を連れたおばさんが歩いて来たので、松並木について聞いてみた。「この松並木は、以前はずっと続いていたのですか、今はこれだけになってしまいました。甲州街道に植わっていた松並木か、洪水を防ぐための松並木かそこのところは、よく知りませんが」とおばさんは親切に教えてくれた。私には旧道の松並木のように思えた。
 
 笛吹川に架かる大きな橋を渡って、一宮町に入る。細い路側帯しかない堤防道路を進む。トラックが猛スピードで走って行く。こういう道を歩くのが1番嫌だ。「脇道はないのだろうか」と思っていたら、向こうからバイクに乗ったおばさんが来た。手を振ったら親切に停まってくれた。「すいませんが、勝沼へ行く脇道はありませんか」と聞いた。「勝沼なら、そこの畑の中の道を歩いて行けばいいよ」とおばさんは、堤防の下にあるブドウ畑を指差して、教えてくれた。山梨県も親切な人が多いようだ。
 
 おばさんに教えてもらったブドウ畑の中の道を歩く。辺りには広いブドウ畑が広がっていた。ここは一宮町だが、隣の勝沼町はブドウの産地として全国的に知れ渡っている。これからしばらくはブドウ畑を見ながら歩けるようだ。ブドウの収獲時期は夏である。目の前に広がるブドウの木に実は下がっていなかったが、葉がブドウ色に紅葉していた。
 
 畑の中の道を歩いて行くと車がたくさん走る旧道へ出てしまった。ずっと畑の中を歩いて行けることを期待していたので、残念だったが、旧道にはしっかりした歩道が付いていたので、ほっとした。
 
 道路に沿ってブドウ畑が続いている。「○○園」と看板が出ていて、すぐ横のブドウ畑でブドウ狩ができる店もある。「美味しいワインあります」とワインを売る店もある。「この辺りは、ブドウだけで生活している」ということが伝わって来る。よく見ると、ブドウがまだ下がっている木もある。「取り残しのブドウだろうか」と思っていたら、何と観光バスが停まっているブドウ園がある。ブドウ畑にはたくさんの観光客がいて、木からブドウをもぎ取っている姿が見える。この晩秋の時期にもブドウ狩りができることに驚いた。ブドウにも収獲できる時期が違うものがあるようだ。
 
 道はきつい上り坂になった。リュックが重く感じられる。旅の途中で手に入れたパンフレットや地図などがリュックに納まり、その分、荷物が重くなったようだ。

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 11時過ぎ、勝沼町へ入った。小さなワイン工場がある。大きな樽が工場の前に置いてあり、「工場見学自由」という看板が掛かっていた。ワイン工場が見学できるとは嬉しい。さっそく入口から中へ入った。

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 ブドウを発酵させる方法や、発酵させたブドウ酒を長期間保存しておく蔵、ブドウ酒をビン詰して製品とする工程などが見学できたが、ここで本格的に製造しているのではなく、この工場は見学コースとして作られたものだった。工場の出口はワイン売り場となっていて、「見学した皆さんは、ここのワインを買ってからお帰りください」と試飲コーナーが作ってあった。結構訪れる人がいるようで、店は賑わっていた。私は、試飲のワインを味わい、手ぶらで工場を後にした。

[ 2012/04/24 06:37 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

ふらりきままに 甲州街道を歩いて下諏訪から新宿へ 6-1

6 甲府市から大和村へ その1

 午前6時起床。荷物を整理した。昨夜洗濯した下着も乾いている。旅行中は宿に着くと洗濯をするようにしている。ホテルにはエアコンが入っているので、朝にはほとんど乾いている。着替えを2日分用意して来たが、十分それで足りるようだ。コンビニのおにぎりで朝食を済ませる。

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 午前7時ホテルを出発した。空は曇っているが、雨は大丈夫のようだ。旧甲州街道になる国道411号線を石和市へ向って歩いて行く。側溝の上に蓋が被せてあり、それが歩道となっている。所々に側溝の蓋が開けられるようになっている。雪を捨てる時に使うのだろうか。
 
 午前7時半を過ぎ、自転車に乗った登校を急ぐ高校生や中学生が多くなってきた。路側帯を猛スピードで走って行く。車が来ても平然としている。怖さを知らない若者だからできるのだと思った。「山梨県はバスの本数が少ないから、みんな車に乗っているよ」と、昨日タクシーの運転手が話していたが、高校生や中学生は自転車をしっかり活用しているようだ。

 
 午前8時間半、石和町に入る。遠くに高いビルが見えて来た。石和町は温泉の町。25年ほど前に職員旅行で1泊したことがあった。当時、石和温泉郷が田んぼの中に突然出現し、話題を呼んでいた。もの珍しさもあって職員旅行の目的地になったのだ。今では100件近い旅館やホテルが建ち、年間140万人もの人がこの温泉郷を訪れているという。高いビルもホテルか旅館なのだろう。

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 大きな交差点の所をそのまま真直ぐ進む。後で分かるのだが,旧道はここを右に曲がるのだそうだ。やはり高いビルは旅館だった。客室が何百もありそうだ。この不況で経営は火の車なのだろう。その旅館の大きな駐車場は、雑草が生えて荒れ果てていた。旅館やホテルが並ぶ道をしばらく行くと、左手に石和駅が見えて来た。時刻はちょうど9時。駅で休憩することにした。
 
 客待ちをしているタクシーの運転手に、旧甲州街道について尋ねた。「バス通りが旧甲州街道だよ。本陣跡も残っているから見て行くといい」と教えてくれた。

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 バス通りに向かって歩き出した。大きな旅館がある。お客さんがたくさん玄関から出て来て、バスに乗り込む所だった。着物を来た10人ほどの仲居さんも出て来た。仲居さんは、バスが見えなくなるまで手を振っていた。温泉街の風景だった。
 



[ 2012/04/23 06:38 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

ふらりきままに 甲州街道を歩いて下諏訪から新宿へ 5-3

5 韮崎市から甲府市へ その3

 午後3時、甲府の街中へ到着した。「丸の内」と番地が表示してある。高いビルが建ち並び大都会だ。時刻は少々早いが、今日はここで宿泊するつもりだ。「宿を見つけよう」と思った。大きな交差点から1本中へ入った所にビジネスホテルの看板が出ていた。そこで聞いてみることにした。「ごめんください」声を掛けたが、戸が閉まっているようだった。隣りにあるラーメン屋のおじさんが出て来た。「午後4時になったら店の人が来ると思うが、本館があるからそこへ行くといいよ」とおじさんが親切に本館の場所を教えてくれた。
 
 そこから少し歩いた所に本館はあった。「今、電話を貰った人ね。部屋は空いているわ」とお上さんは言った。ラーメン屋のおじさんが電話してくれたようだった。1泊3500円だった。どんな部屋だろうと不安だったが、バス・トイレが付いていて小奇麗な部屋だった。都会には破格のビジネスホテルがあるのだと驚いた。
 
 今度の旅にはデジカメを持って来た。今までは一眼レフの重いカメラだったのだが、スケッチを中心して旅日記をまとめようと考えて、軽いデジカメにした。しかし、残念なことにデジカメのフロッピーが甲府で書き込みができなくなってしまった。新しいフロッピーを買わなくてはいけないのだ。甲府は大都会。すぐにパソコンショップが見つかるものだと思っていた。

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 ビジネスホテルのお上さんに、パソコン販売店を尋ねたが要領を得ないので、探しに出掛けることにした。少し歩くと甲府の銀座通りだった。今日はお祭りが行われていて、テレビでよく見るねじり鉢巻に法被を着た男性や女性が神輿を担いでいた。「ワッセー、ワッセー」威勢のよい掛け声が飛んでいた。
 
 「この辺りにパソコンを売っている電気屋さんはありませんか」チラシを配っている時女性に尋ねた。「そこにデパートがあるから、その中で売っているかも。聞いてみたら」とデパートの場所を教えてくれた。大きなデパートだ。当然デジカメのフロッピーが置いてあるものだと思った。パソコン売り場を見つけ、係の人に尋ねた。しかし、返って来た返事は「残念ですが、置いてありません」だった。「駅の北口にパソコンショップがあったように思います。そこへ行ってみてはどうでしょう」と係の人が申し訳なさそうに言った。
 
 甲府駅の中を通過して北口へ行った。すぐ目の前にあるビルの窓に「パソコンショップ」という看板が掛かっていた。「フロッピーが手に入る」と思った。ビルの入口から中へ入ったが、ゲームセンターと飲食店があるだけだった。「えっ、これはどういうこと」不思議に思って、ゲームセンターの店員に尋ねた。「パソコンショップは移転しました」という素っ気無い返事が返って来た。甲府駅周辺にはパソコンショップはないようだ。
 
 「こうなったらタクシー運転手に聞くしかない」と駅前に停車しているタクシーに乗車した。「すいませんが、パソコンショップへ行ってくれませんか」と言った。「パソコンショップですか。郊外に山田電機があります。そこでいいですか」と運転手が言った。「デジカメのフロッピーが欲しいのだけど」と言うと、運転手は本社に無線でデジカメのフロッピーがあるかどうか聞いてくれた。「置いてあるそうですから、発車します」そう言って、運転手は車のアクセルを踏んだ。
 
 タクシーの中では話が弾んだ。気さくな運転手だった。私が道を歩いている話をしたら、「山梨県は本当に不便な所だよ。車がなかったらとても生活できないよ。バスなんか1時間に1本も走っていないところが多いから、車がないと生活できないよ。だから、家族の数だけ車があるところだよ。車が生活の中心になって、駐車場のある中心部から郊外へ大きなスーパーも移転して、ますます車がないと生活できなくなったよ」と運転手は山梨県の交通事情について説明してくれた。「車を運転しなければ飲み屋にも行けないのだからね。飲酒運転の取り締まりをすればお客が減ると警察へ苦情が行くそうだよ。取り締まりもなかなかできないみたいだね」という話まで飛び出した。
 
 渋滞した道路を30分ほど走って山田電機へ到着した。タクシー代は2500円を超えていた。山田電機でフロッピーを購入し、再び、同じタクシーに乗ってホテルへ帰った。ホテル代は格安だったが、タクシー代とフロッピー代で1万円はあっという間に消えて行った。歩き旅も結構お金がかかるものだ。
 
 午後6時、銀座通りへ出掛け、ラーメン屋で味噌ラーメン食べた。帰りにコンビニでビールとつまみ、それから明日の朝食を買い、ホテルへ戻った。風呂に入り、下着を洗濯した。その後、旅日記を整理していたら、疲れがどっと出て来た。9時過ぎには灯りを消してベッドへ潜りこんだ。

[ 2012/04/22 05:43 ] ふらり きままに | TB(1) | CM(0)

ふらりきままに 甲州街道を歩いて下諏訪から新宿へ 5-2

5 韮崎市から甲府市へ その2

 竜王町に入った。家が多くなり、山の下に家並みが見えて来た。坂道を下って行くと、坂を上ってくるおばあさんに出会った。「こんにちは」と声を掛けた。「まあ、貴方が犬を連れて歩いて来たかと思って心配していたのよ。手に持っていたのはステッキだったのね」おばあさんは犬がいなくて安心した様子だった。「大きなリュックを背負って、どこまで歩くの」おばあさんが聞いてきた。「東京まで行こうと思って、下諏訪から歩いて来たのです」と答えた。「ええ、そりゃあすごい。いろんな人に会ったのでしょうね。山梨県の人はどうでしたか。みんな親切でしょう」と話が返って来た。山梨県の人と言われても、まだよく分からなかったが、「そうですね」と返事をした。「でも、北海道の人はもっと親切ですよ」と更に話が進んだ。私も北海道ではたくさんの人から助けられた思い出がある。「北海道の人は特別ですよ」と合槌を打った。「私は3年前まで北海道の浜中に住んでいたのよ。やはり北海道はいいわね」おばあさんは寂しそうな顔をした。都会に住む子どもの家へ越して来たのだろうが、長く住んだ故郷が忘れられないのだ。「頑張って東京まで行きなさい。お気を付けて」と励まされておばあさんと別れた。
 
 坂道を下ると車が2台やっと擦れ違えるほどの道幅になった。しかし、この道はこの町の生活道路だった。人が車を避けながら歩いていた。自転車に乗っている人もいた。交通事故が多発しているのではないだろうか。私も車を気にしながら歩いて行った。
 
 ふと、道路の横にある溝の中を見た。少しよどんだ水溜りの中に小魚がピチピチと跳ねていた。それは小ブナだった。何十匹と固まっている所もある。街中といえ、ここはやはりきれいな水が残る田舎なのだと思った。網を持ってフナを追い掛ける子どももいるのだろうが、この道ではすぐ交通事故になりそうだった。この交通事情が子どもたちからフナを守っているのかも知れない。
 
 竜王駅前を過ぎ甲府へ向う。甲府まで4kmほどだ。狭いがしっかりした歩道が付いている。もうすぐ甲府の町だ。

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 立派な建物が見える。「山梨県立美術館」と看板が出ている。大きな公園の中に美術館はあった。芝生の青さとブロンズのモチーフ、紅葉した木々が調和して美しい。たくさんの家族連れが公園を散策して賑わっていた。ここには「山梨県立文学館」も併設されている。時間をたっぷり取って美術館と文学館を見学して行くことにした。
 
 リュックを受付に預け、美術館から見学した。常設展には有名な画家の作品がずらりと展示されていた。特に目を引いたのがミレーの作品だ。「落ち穂拾い」「種を撒く人」など教科書で勉強した作品が掛かっていた。コルヴィッツという人の版画は迫力があった。
 
 続いて、文学館に入った。高校生の頃あこがれていた芥川龍之介の「羅生門」の草稿や「或阿呆の一生」の原稿が展示してあった。芥川龍之介は几帳面で神経質な文字を書いていることが分かった。樋口一葉、太宰治の原稿や手紙なども展示してあった。道を歩いていて、美術館や文学館まで見学できラッキーな日だと思った。公園で日向ぼっこもして、12時少し前に美術館を後にした。

 しばらく行くと大きな川に出た。「荒川」と表示がある。「まさか東京を流れる荒川ではないはず」と思った。もちろんこの川は富士川の支流なのだ。手前にレストランがあるので昼食にした。日曜日なので店内は家族連れで混んでいた。カツランチを注文した。30分近く掛かってやっと注文の品が届いた。ボリュームたっぷりのカツランチだった。

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 橋を渡り始めた。見上げると何と富士山が見える。白く雪化粧していた。嬉しくなった。山梨県をずっと旅していてやっと出会えた富士山だった。橋の下の川原は公園になっている。初めて見た富士山をスケッチして行くことにした。絵を描いていると野良犬が吠え出した。誰に吠えているのだろうと思ったら、私に向かって吠えていたのだ。風体のよくない男が芝生に座っているのだから、犬が吠えるのも仕方がない。睨みつけたら犬はすごすごと離れて行った。昨日から、犬には縁があるようだ。自分でも少し納得できる富士山のスケッチになった。美術館を見学したお陰かもしれない。
 
[ 2012/04/21 04:56 ] ふらり きままに | TB(1) | CM(0)
プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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