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水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

団塊世代の親父のブログです。
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春の小豆島を歩く ふしぎな旅 1-3

 
第1日 姫路~小豆島安田 その3  

「アイスクリームをください」と一人のおばさんに声を掛けた。
「どこから来たのかね」とそのおばさんが言うので、「小豆島を歩こうと思い、富山からやって来ました。今日は福田から歩いて来ました。安田まで行きます」と答えた。
「富山って、金沢の富山かね」と言われてしまった。富山県がどこにあるのかこのおばさんはよく分からないらしい。富山県は全国区になれていないのかもしれないと思った。

「福田から歩いて来たとは凄いね。最近は歩いている人はめったにおらんからね。」とおばさんは大きな声を出して、感心していた。「安田の町はあの丘の向こうだから1時間もあれば着くよ」ともう一人のおばさんが言った。景色のいい所などもいろいろ紹介してくれた。小豆島の人はみな親切だなあと私は思った。

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 アイスクリームを食べながら外へ出ると、バス停の前のベンチで中年の女性がお茶を飲んでいた。服装から私と同じように歩いているような感じがした。
「あの山、おもしろい形をしていますね」と私はその女性に話し掛けた。
「私は、あの山の崖を登りに来ているのです。今、下りてきて、食料の買い出しにここへやって来たのです」と思い掛けない答えが女性から返って来た。 
「えっ、あの崖を登っているとは凄いですね。命がけですね。恐くないのですか」と私は驚いて聞き返した。
「相棒と登っているから恐くありませんよ」と女性は笑って答えた。
「崖の下にお堂があってそこで寝止まりしているのです。昨日、この下の浜で、相棒がモリで鯛を突いたのです。今日も魚を突いてくると言って、先程出掛けたのですよ。まさか素人に魚が突ける訳はないと思うのですが…。今から見に行こうと思っていのですが、一緒に来ますか」と誘われたので、私も付いて行くことにした。

 海岸は港になっていて、数人の漁師たちが船で仕事をしていた。港の奥の方で女性の相棒という男性がモリを持って海の中を覗きこんでいた。足元には丸い塊が一つ転がっていた。
「ほれ、ナマコをついたよ。もう一つそこにいるから、突こうとしているところだよ」と男性は自慢気に話した。
「この人、富山から歩きに来たそうですよ」と女性が男性に私のことを紹介した。
「富山は、いい所ですね。剣岳も登りに行きました」と男性は懐かしそうな顔で話した。「寝袋を持っているのだったら私たちと一緒にお堂に泊れば」と誘ってくれた。寝袋は持っていないので断わったが、本当に気さくな男性だった。男性はそれからナマコをもう一つ突き、「今晩はこれを肴にして飲まなくては」と嬉しそうに言った。
 二人が登っている拇指嶽はロッククライミングの山として有名で、ルートも幾つかあり、3時間程度で登ることができるという話だった。「明日もう1度登ってから帰ろうと思っているのです」と2人は話してくれた。別れ際に名刺をもらった。見ると「大阪府山岳連盟」と書いてあった。山が好きで好きで堪らないのだということがよく分かった。

 橘の町から国道を歩き、峠を越えて午後5時少し前に安田に着いた。今晩宿泊する「ひろきや旅館」は安田の町の入口にあった。「お遍路宿」とは聞いていたが、普通の旅館とは少し違った雰囲気のする旅館だった。
「ここで、下駄に履き替えてください。風呂は向かいの建物にあります。浴衣と丹前はここにありますから、必要なら持って行ってください」と迎えてくれたおばあさんが説明してくれた。スリッパがずらっと並び、たくさんの人が泊るようだ。

 2階の部屋へ案内された。ハンガーが8つ掛けてある。さほど広くない部屋だが、最高で8人この部屋に泊るのだろう。今日はここを1人で使う。
「夕食は6時からです。下の食堂に用意してありますから、時間になったら来てください。風呂が沸いていますからお入りください」おばあさんは、説明を終えると部屋を出て行った。

 風呂に入った後、明日の予定を立てた。「二十四の瞳」の舞台になった岬の小学校を見学した後、渡し舟で対岸に渡り、オリーブ公園を見学して再び安田に戻ってくるというコースを設定した。この旅館でもう1泊することにした。
 「食事の用意が出来ましたから、食堂へお越しください」と館内放送が入ったので、廊下を歩いて食堂へ移動した。食堂に入って驚いた。白装束に身を固めた老人が部屋一杯に座っていた。50人ほどいるのだろうか。テーブルに「新見遍照会」という名札が立っている。団体でお参りにやって来たお遍路さんたちのようだ。前の方にはお坊さんが立っている。私のテーブルは部屋の後ろの方に用意されていた。

 何かが始まりそうな雰囲気だ。
「今から般若心経を詠みます。皆さんもご唱和願います」と責任者らしい人が言った後、般若心経が唱え始められた。信心のない私も終りまで般若心経を聞いていた。遍路宿にはこういう取り組みもあるのだと、その時始めて知った。小豆島には八十八箇所巡りがあるとパンフレットに載っていたが、たくさんの人たちがお参りにやって来ているのだと知った。偶然にもこの宿に泊り、貴重な体験ができたことを嬉しく思った。

 食事を終えて部屋に戻る途中で、宿の女将さんにあった。「もう1晩泊りたいのだけどよろしいでしょうか」と申し出ると「いいですよ」と快い返事が返って来た。
「明日はどこへ行くのですか」と女将さんに尋ねられ「岬の分教場から渡し舟に乗ってオリーブ公園に行き、帰って来る予定です」と答えた。「それなら1日掛かりそうだね。時間があれば、寒霞渓谷へ行くのもいいですよ」と教えてくれた。

 部屋へ帰って、今日描いたスケッチに色を付けたが、思うように色が塗れなかった。「これから少しずつ色塗りの勉強をしていかなくては」と強く思った。向かいの部屋からお遍路さんたちの賑やかな話し声が聞こえていたが、9時には灯りも消えて静かになった。私も荷物を整理して床に着いた。


[ 2012/06/06 17:14 ] ふらり きままに | TB(1) | CM(0)

春の小豆島を歩く ふしぎな旅 1-2

第1日 姫路~小豆島安田 その2


 9時45分定刻通りにフェリーは出航した。福田港到着は11時25分。波もほとんどない穏やかな春の瀬戸内海を船はゆっくりと進んで行った。小豆島を案内するパンフレットが置いてある。「小豆島は周囲140km、人口およそ4万人、オリーブと小説『二十四の瞳』の舞台になった土地…」と紹介してある。小豆島は予想以上に大きな島のようだ。

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 11時25分定刻通りにフェリーは福田港へ到着した。ほとんどの人は車で慌しく出発してしまい、桟橋には私一人だけがぽつんと取り残された。小豆島をのんびり旅行する人はいないようだ。福田の町は漁師町という雰囲気が漂っていた。今日宿泊する宿を見つけなくてはならない。港にある売店へ行って聞いてみることにした。
「ここには、旅行案内所はないのですか」と、私は売店のおばさんに話し掛けた。
「福田には案内所はないのです」おばさんの少し困ったような表情が見えた。
「小豆島を歩きに来たのですか、今晩泊まれる宿はあるでしょうか」
「どの方面に歩いて行くの」船で届いた荷物を整理する手を休めて、おばさんは私の相談に乗ってくれた。
「東海岸を歩いて安田へ行きたいのだけど」

「安田にはお遍路宿の『ひろきや旅館』があるから電話したら。今日は平日だからたぶん泊れるわよ」おばさんはパンフレットを開いて電話番号を調べてくれた。さっそく電話をした。
「1人で旅しているのですが、今晩泊れるでしょうか」と言うと「お遍路さんですか。いいですよ」と、快い返事が返って来た。小豆島の第一歩で、無事宿も確保でき、幸先のよいスタートになった。この時、何気なく聞いた「お遍路さんですか」という言葉が実は重大意味を持っていることに気付くのは宿についてからだった。
「良かったですね。いい旅になるといいですね。気を付けて」とおばさんに見送られて港を出発した。
 昼ご飯は、港のすぐ近くにある食堂で食べた。定食を注文する。讃岐うどんにいなり寿しが付いて来てそれで500円だった。「これは、しっかり運動しないといけないなあ」と感じる程のボリュームがある定食だった。

 福田港から国道436号線を歩いて行く。1車線の道路に歩道はない。路側帯があり、急カーブになっている所は少し危険を感じたが、車も余り通らないので、比較的安全に歩いて行ける。緩やかな上り道を歩き詰めた所で、振り返ると福田港が霞んで見えていた。行く手には緑の山と険しい断崖と瀬戸内海の青い海が広がっていた。
 前方に切り立った崖が見えてきた。採石場のようだ。地図を見ると「大阪城築城残石」という表示も載っている。小豆島から石を切り出し、大阪城を作ったという歴史があることをここで始めて知った。歩いて来る道の脇に石のモニュメントが置かれていたが、今でも小豆島は石の山地となっているのだろうか。

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「凄い崖ですね。ここの石を切り出して加工するのですか」採石場でブルドーザーを修理していた男性に話し掛けた。「この石は全部砕いて砂利にするのですよ」と男性は教えてくれた。採石場の周りには巨大な石の塊が幾つも積み上げられていた。加工すれば立派な建築材料になりそうだなと思った。

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 1時間ほど歩いた所に史跡があった。「大阪城石垣石切丁場跡」で「大阪冬、夏の陣によって破壊された大阪城を改築するために、ここから石が切り出された」と説明がある。遊歩道が作られているので、見学して行くことにした。道の行く手に大きな石の塊がある。よく見ると石を刻んだ跡が残っている。その中でも「八人石」と呼ばれる巨大な石には驚いた。「石を割ろうとして事故が起き8人の人が犠牲になった」と表示されていた。江戸時代に、この山の中から石を切り出し、大阪まで苦労して運んで行った人たちの努力とエネルギーには感心した。

 そこから少し行った所に「豆腐石切場」の立札があった。「豆腐」という名前がおもしろいので、行ってみることにした。荒れた山道を上って行くと、木が倒れていて、とても歩けない状態になった。「もう止めよう」と思いながらも、木を掻き分けて歩いて行くと、小さな小屋が目に入った。小屋のガラス窓を見て、ビックリ。何と小屋の窓からたくさんの猫が私を見ているのだ。その数は10匹を裕に越えていた。小屋の外にも猫たちが群れていた。辺りには猫の小便の異臭が漂っていた。小屋の中には人の気配も感じられた。人知れず猫たちと暮らす人の話はよく聞くが、ここにもそんな人がいたのには驚いた。早々にそこから立ち去った。

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 南風台という景色のよい所を過ぎ、坂道を下ると家並みが見え始めた。橘という町のようだ。前方には不思議な形をした山が見える。切り立った絶壁が聳えている。地図には拇指嶽と書いてある。絶壁が親指の爪の形に似ているからそういう名前が付いたのだろうか。安田までは後6kmである。時刻は午後3時。ここで少し休憩することにした。バス停の前にある小さな商店に入った。店の中では3人のおばさんが忙しそうに商品を袋に詰めていた。




[ 2012/06/05 18:46 ] ふらり きままに | TB(1) | CM(0)

春の小豆島を歩くふしぎな旅 1-1

第1日 姫路~小豆島安田 その1

 まだ朝早い姫路の町を市バスは走って行く。行く先は姫路港。これから私は、フェリーに乗って小豆島へ出掛けるところである。

 学生たちの春休みが始まり、「青春十八きっぷ」が使える季節になった。「今回は小豆島を歩いてみよう」と思い立ち、雪がまだ残る富山県細入村の自宅を出発したのは昨日である。普通列車を乗り継ぎ、昨夜遅く姫路に到着し、駅前のホテルに泊り、今朝ホテルを出発したのだ。

 今日は月曜日。市内は会社に出掛ける人たちで混雑し始めていた。このバスの車内にも眠そうな顔をした男たちが何人も乗っている。港で仕事をしている人たちのようだ。そんな中に1人、薄汚れた服を着て、大きなリュックを背負った私に、乗客たちは全く関心を示していないようだ。これが都会なのだろう。

 8時少し前、バスは港に到着した。小豆島行フェリーの出航時刻を調べに行く。福田港行は9時45分である。2時間近くある。それまで姫路港でスケッチをしながら過ごすことにした。今回の旅行には、一つ目標がある。旅をしながらスケッチを描くことだ。今までは写真でその地域の美しい景色を切り撮ってきたが、今回はその景色をスケッチに残すのだ。そのために重い絵の具もリュックに入れてきた。今までとは違った、新しい旅になりそうだ。売店でおにぎりとお茶を買い、眺めのいいフェリー埠頭の桟橋へ移動した。
 
 誰もいない桟橋で朝ご飯を食べていると、そこへバイクに乗った親父さんがやって来た。肩から大きなクーラーボックスを下げ、手には釣り竿を持っている。今からここで釣りを始めるのだろうか。
「何を釣るのですか」
「黒鯛かセイゴを狙っているのだけど、釣れるかな」親父さんはニコニコしながら答えてくれた。
「ここにいて邪魔なら引っ越しますが」と私が言うと、「いや、構いませんよ」と親父さんは、つり竿の準備を始めた。
親父さんの仕掛けは、大きな錘の上に釣針がついた不思議な構造をしていた。準備を終えた親父さんは、つり竿を力一杯振って遠くへ錘を投げ入れた。
 「餌を付けずに釣るんですか」不思議に思って尋ねると、「これは引っ掛けと云ってね、海の中を泳いでいる魚をただ引っ掛けるという単純な釣りさ。広い海の中から砂粒を拾うようなものさ」と笑いながら教えてくれた。おもしろい釣りがあるものだ。錘を遠くへ投げ入れ、リールを巻いて引き寄せ、再び錘を投げ入れるという単純な動作の繰り返しである。確かにこの釣りは、大海から砂粒を拾うようなものだと納得した。こんな物で本当に魚が釣れるのだろうか。

 親父さんの釣りを眺めながら食事を終え、私はスケッチを始めた。桟橋の横を小さな艀が走って行く。沖に停泊している船から荷物を積み下ろすのだろう。港にある工場の煙突からは白い煙が上っていた。艀を描こうとしているのだが、動いている物をスケッチするのは難しい。

 その時、親父さんのつり竿が大きくしなった。何か魚が掛かったようだ。リールを巻き取ると大きな魚が上がって来た。何と黒鯛だった。
 「いやー凄いですね」駆け寄った私に、「ああ、目を引っ掛けてしまった。かわいそうな釣り方をしてしまった」と親父さんから思い掛けない優しい言葉が返って来た。引っ掛けるという残酷な釣り方にも引っ掛けてはならない場所があるようだ。黒鯛はぴちぴち跳ねていた。親父さんは大きな網を取り出し、その中に魚を入れて海の中に吊るした。目を引っ掛けて釣ったことがよほど後味が悪かったのか、「かわいそうなことをした」と、親父さんは何度も繰り返していた。それからしばらくして、今度は、セイゴが釣れた。尾ひれが引っ掛かっていた。この辺りは魚が濃いのだろうか、それとも親父さんの腕がいいのだろうか。

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 のんびりと釣りを見ながらスケッチをして時間を過ごし、フェリーの出航時刻が近づいたので、リュックを担いで乗り場へ移動した。まだ、福田港行は入航していなかった。切符売り場で乗船券を購入した。運賃は1320円だった。

 出航10分前になってフェリーが到着した。おりいぶ丸と船体に名前がある。桟橋を通って乗船した。大きなフェリーで客室はゆったりしている。しばらくすると船内は混んできた。団体客が何組か乗船したようだ。





 
[ 2012/06/05 00:09 ] ふらり きままに | TB(1) | CM(0)

 春蝉の鳴く中山道和田峠越え (3)

(3) 和田峠~三十三所観音前~和田宿 

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  ここからは、整備された旧道を下って行く。スキー場を横に見ながら、あっという間に300m近くを下ってしまった。峠はもうかなり上の方に見える。前方に舗装道路が見えてきた。霧が峰高原や蓼科高原につながるビーナスラインである。旧道はその道を横切って下って行く。料金所のすぐ横を通り、しばらく行った所が東餅屋である。江戸時代には何軒も茶屋があったというが、今はレストハウスが一軒あるのみだ。力餅というのぼりが出ている。この土地の名産品なのだろう。時刻は11時30分、中に入って休憩することにした。コーヒーを注文した。店には、この地域で産出する黒曜石がみやげ物として売られていたが、小さなかけらが500円という値段には驚いた。そこへ10人位のグループが入ってきた。どの人も汗をしっかりかいている。どうやら和田宿からここまで歩いて来たようだ。和田宿から和田峠までは約800m近い標高差がある。ここまで一気に上ってくるのは大変だったろうなと思った。歩くコースとしては、やはり和田峠から和田宿へ向けてのんびり美しい景色を見ながら下って行くのがいいのではないかと思った。

 再び、旧道を歩き始めると、キャンプ場の横を過ぎた。今日は人が一人もいないが、夏は人でごったがえしているのではないだろうか。どんどんカラマツ林の中の道を下って行くと、時々石畳の道が現れ、旧街道の面影が残っていた。道端には、ノブキが葉を大きく広げ、その脇に黄色や白や紫などの野草が可愛らしい花を咲かせていた。その中に一際目立つピンク色の花が咲いている。満開の時期は少し過ぎていたが堂々とした花であった。後で調べるとユキワリソウという名前が付いていた。

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 更に下って行くと古い茶屋跡に着いた。永代人馬施行所という昭和58年に復元された建物である。11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚き火を、牛馬には年中桶一杯の煮麦を施した所であると説明があった。建物の横に5~6人の人が水をポリタンクやペットボトルに汲んでいる。「どうしてですか」と質問すると、「ここの水はおいしいということで汲みに来ているのです」という返事が返ってきた。建物の前にある駐車場には、長野県ナンバーだけでなく、大宮とか他府県ナンバーの車も止まっていた。10分程そこにいたが、車が出て行ったかと思うと、また、次の車がやって来て、ポリタンクを持った人が降りてきた。今日1日そのような光景が繰り返されるのだろう。ここの水はかなり有名なようだ。

 時刻は12時30分を過ぎ、腹もすいてきたが、少し我慢してそのまま旧道を下り続けると、三十三所観音前に着いた。そのすぐ横が茶屋跡で今は小さな休憩所が設置されている。前回来た時に、この休憩所に置いてあったノートに、何か書いたことを思い出し、さっそく小屋の中に入ってみると、その時のノートが下がっていた。中を開くと、たくさんの人のサインや言葉が書き綴られている。自分の書いたページがないか、どきどきしながら捜していくと、その中に自分のサインを発見した。「下諏訪から歩いてきました。今まで歩いた中山道の中ではここは最高です」という言葉が書かれていた。本当にこの道は素晴らしいと今日も感じた。

 そこから少し下った男女倉口で旧道は終わっていた。ここで昼食にした。午後1時過ぎ、出発。ここから和田宿までは国道142号線の白い路側帯を、トラックや車の危険を感じながら歩くことになった。ガードレールやコンクリートの壁には自動車が激突した跡が幾つも残り、歩くのには少々勇気が必要だった。美しい街道を歩いていた時の気持ちが半減してしまったのは本当に残念だった。午後2時過ぎに和田宿に到着。予定していた14時35分発の上田行最終バスに無事乗ることができ、今日は日帰りできそうである。

 定刻通りバスは発車した。乗車したのはたったの三人。和田から乗車したバスは途中までは村営バスだった。和田村は、本陣を再建したり、旧道を保存したりと努力しているようだが、この村への交通機関がこの状態では人は来てくれないのではないだろうか。
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 今回歩いてみて、景色の美しさも去ることながら、江戸時代に身の危険を感じながらも山越えして行った旅人の気持ちが、この道を歩くことを通して、今の私たちにも伝わって来るところが素晴らしいと思った。もっとたくさんの人にこの道を歩いてもらいたいものだ。下諏訪や和田村のお役所には、気軽に歩けるように道路を整備したり、トイレを設置したり、途中の危険な国道には、歩道をきちんと付けたりして安全にそして安心して歩けるように努力してほしいものだ。途中の交通機関が確保されれば、名古屋からも日帰りでここへ歩きにやって来られそうだ。

名古屋へ向かう「特急しなの」の車窓に広がる夕闇迫る山々を眺めながら、「今日は春蝉の鳴く和田峠越えであったが、秋には、黄色く色付いたカラマツの落ち葉が降る和田峠を越えてみよう」と思った。(完)



[ 2012/06/03 20:23 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

春蝉の鳴く中山道和田峠越え (2)


(2) 下諏訪~西餅屋~和田峠 

 この下諏訪から、今回はタクシーで和田峠の上り口まで行く。和田峠を越えるバスは夏の一時期を除いて、運行されていない。昨日、この町の観光協会の人と電話で話をしたが、その時期でもほとんど人が乗らない路線だという話だった。駅前はリュックを背負った年配の人たちで混んでいた。尋ねると、「今日は、高原を歩く会が開催されているので、それに参加するのです」という返事が帰って来た。和田峠を歩く会ではなかった。

 タクシーがやって来たので乗車すると、女性の運転手である。諏訪の町にも女性が運転するタクシーが増えているようだ。「和田峠を歩きたいのだが、その手前の西餅屋まで行ってほしい」と言うと、「そこなら、よく知っています。最近、歩く人が増えて、東餅屋まで乗せて行くことが多いのですよ」と自信ありげな返事が返って来た。

 タクシーは国道142号線(旧中山道)を上って行く。残念ながら、下諏訪から西餅屋までは旧道はほとんど残っていない。前回、この国道を早朝に歩いたことがあるが、白い線が引かれた路側帯しかなく、大型トラックの危険を感じた時の感覚がよみがえってきた。「最近、本当に歩く趣味の人が増えてきましたね。平屋に住み、歩くことを趣味にしている人は、今の時代には最高の贅沢な趣味を持っている人だと思います。」と女性運転手は言った。私は、そんなに贅沢な趣味を、実行しているのかと苦笑してしまった。

 20分程で、目的地の西餅屋の上り口に到着した。「着きましたよ」と女性運転手は、ドアを開けてくれたが、そこは、私が考えていた場所ではなく、林道の上り口であった。「ここではなくて、西餅屋の旧中山道の上り口なのですが」と、言うと、「えっ」と驚いた声が返ってきた。どうやらこの女性運転手は、その場所を知らなかったようだ。ここから、少し下った所に「西餅屋一里塚」の案内板が出ていたが、タクシーはそこを通過して来たよだ。そこまで、戻ってもらうことにした。西餅屋の上り口へ戻った分タクシー代は高くなったが、予定していた5000円ではなく、4000円で済んだのはありがたかった。

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 車止めの鎖で閉ざされた所から旧道は始まっていた。草に覆われた自然道が落葉松の林の中にずっと続いているのが見える。道の脇に案内板が立っていて、ここが「西餅屋茶屋跡」であったという説明がある。細い自然道は、草に覆われあまり人が歩いた形跡がなかった。タクシーの運転手も知らないのだから、西餅屋から和田峠を越える人はあまりいないようだ。

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 急な上り道を歩いて行く。カラマツの青い緑が太陽の光を受けて本当に美しい。この辺りは標高が1300mを超えているので、カラマツがよく育つ気候なのだろう。カラマツが美しかった奈良井の鳥居峠を思い出したが、この道はそれ以上かも知れないと思った。

 何だか辺りが騒々しい。どうやら蝉の鳴き声である。今の時期に鳴くのだから春蝉というのだろう。これまでに春、蝉の鳴き声を聞いたことはあったが、これほどたくさんの蝉の鳴き声を聞いたのは初めてだ。足元に蝉の抜け殻が落ちている。目の前の枝に何か動くものを見つけ、手に取ると、それは蝉であった。透き通った羽で、ツクツクボウシくらいの大きさである。これが春ゼミなのかと初めて知った。道をどんどん上って行くと、かっこうやウグイスの鳴き声も聞こえて、奥深い春山の素晴らしさを満喫しながらの街道歩きになった。 

 30分近く上ったところで急に道が分からなくなった。何だか辺りの山の様子が荒れている。遠くを見ると、建築用の支柱が見える。何かこの辺りで作っているようだ。消えかけた道をかろうじて残っている道標を頼りに上って行くと、突然ガレ場が現れた。木が倒され、山の斜面が掘り返され、大きな建築機械が持ち込まれ、レストハウスを建築しているようだ。ここから峠を越えた所はスキー場なっているので、そことつながるのかもしれないが、美しい緑に囲まれた旧道がガレ場に変わってしまっていることは、本当に残念だった。下諏訪の町の人に、旧道がなくなってしまったことを聞いてみたらどんな返事が返ってくるのだろうか。役所の人もこんなひどい状態になっているのを知っているのだろうか。

 ガレ場を過ぎて、再び旧道が現れた。ここは破壊からは免れているようだ。更に急になった道を上っていくと見晴らしのよい場所に着いた。しばらく休憩する。遠くの山々の緑が美しい。道の脇に生えているカラマツの葉が光にきらきら輝いて見える。昔の旅人も同じようにこの地でこの景色を眺めて、疲れを癒していたのだろうか。

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 休憩を終え、岩がごつごつした道を上って行くと大きな道標が見えた。標高1600mの和田峠に着いたようだ。峠には、案内板や道標、記念碑などが幾つも立てられていた。案内板には「この道は、江戸時代の中山道である。和田宿は慶長七年(1602)開設された。下諏訪まで和田峠越えの5里余(約20km)の道筋は、慶長19年(1614)頃完成したといわれる。中山道開設以来、江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や一般旅人の通行、物資を運搬する牛馬の往き業などで賑わいをみせた峠である。頂上に遠く御嶽山の遥拝所がある。冬季は寒気も強い上に積雪量も多く、冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったろう。」と説明があった。山並みのずっと向こうに下諏訪の町が小さく霞んで見えていた。




[ 2012/06/02 05:45 ] ふらり きままに | TB(1) | CM(0)

春蝉の鳴く中山道和田峠越え (1)

(1) 高蔵寺~下諏訪

 高蔵寺5時56分発の松本行普通列車に乗車し、塩尻に向かっている。今日は、中山道和田峠を歩きに行く。

 列車は、中津川に到着。ここで、5分ほど、停車したが、後は、停車時間も短く、順調に進んでいる。時刻は8時近くになり、駅に止まる度に、どこかへ出かける人たちが続々と乗り込んできて、車内は賑やかになってきた。踊りの発表会でもあるのか、着物を着飾った婦人が5、6人乗ってきて、楽しそうに話している。地方を走る普通列車の日曜日の朝はいつもこんなのだろうか。

 8時34分、塩尻に到着。ここで中央東線に乗り換え、下諏訪まで行くのだが、待ち時間が30分近くあるので、一端改札を出て、待合室で待つことにした。待合室にはそばを売る店があり、さっそく食べる。列車の中でおにぎりを二つ食べたのだが、旅に出ると、つい土地の名物を食べたくなってしまう。てんぷらそばを注文すると、あっという間に、注文の品が出来あがった。下諏訪のそばはどんな味か期待しながら食べるが、どこにでもありそうな大味で特徴のないそばだった。

 発車時刻が近づいてきたので、改札を通って、4番線に降りていくと、3両編成の「甲府行」普通列車が入線していた。車内には結構お客がたくさん乗っていたのには少しびっくりした。

列車が発車した。外の緑濃い山の景色を眺めていたら、遠くに諏訪湖の湖面が見えてきた。湖面がきらきら光っていた。列車は20分ほどで下諏訪に到着した。
[ 2012/06/01 08:29 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)
プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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