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水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

団塊世代の親父のブログです。
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北海道最北端から歩く

第9日 遠別から羽幌

 午前五時、起床。洗面を終わり、地図で今日の目的地、初山別までの道筋を調べる。道のりは、二十四キロ、途中豊岬に大きな公園があり、そこには、宿泊施設もあるということが分かった。
 午前六時三十分、食堂へ行く。朝から、幾つも料理が並んでいる。女将さんは相変らず忙しそうに働いていた。美味しい朝食であった。
 
 午前七時、宿泊費の六千五百円を払って、出発しようとすると、女将さんが「これを、おみやげに持って行ってください」と、ホタテガイの貝柱が入った袋をくれた。女将さんの優しい心遣いに感謝し、リュックにしまった。大切な思い出が、また一つ加わった。
 遠別の町を出ると、歩道がなくなり、白い路側帯になった。かなり激しいアップダウンの道である。この道で、八月二十二日の日曜日に、トライアスロン大会が開かれるそうだ。幌延の旅館にポスターが貼ってあり、そのことを知った。トライアスロンは、水泳、自転車、マラソンの三種目をこなす、総合的なスポーツである。今、歩いている、遠別から初山別の間は、マラソンコースになっていた。この激しいアップダウンのある道を、選手たちは走って行くのだ。トライアスロンの選手は、超人でないと出来ないと思った。

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 国道は、昨日よりも車が多くなり、団子状態は、一層激しくなっていた。追い抜きをかける車も、かなり長い距離を走らないと抜けない。私は、道の右端を、対向車を真正面に見ながら歩いている。車が、猛スピードで、私の横を走り抜けて行く時には、かなり強い風圧を受けるようになった。今日は、その回数がとても多い。事故に巻き込まれないことを願いながら、歩いて行った。

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 午前十一時、豊岬に到着。今日の目的地、初山別の町までは、残り七キロである。岬センターに、寄り道して行くことにした。岬センターのある「みさき台公園」からの景色は、最高であった。丘の上に作られた展望台からは、今日歩き始めた遠別まで、ずっと見渡せた。ここには、宿泊施設やキャンプ場、海水浴場などが作られていて、たくさんの人で賑わっていた。また、初山別天文台もあって、口径六十五センチの天体望遠鏡が設置され、一般公開されていた。

 レストランで、少し早い昼食をとる。帯広から来たという家族連れと話をした。「帯広の海は、オホーツクの冷たい流れがあるので、とても海水浴はできません。こちらの日本海は、それに比べると温かくて、波も穏やかで、今日もしっかり泳いできました」と父親が教えてくれる。「海に、くらげがたくさんいて刺されたよ」と、子どもが、刺された跡を見せてくれた。

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 天文台を見学する。「昼なので、星は観測できない」と思っていたが、係の人が、水星を望遠鏡で見せてくれた。水星は、太陽に一番近い星だ。昼間にも観測できることを初めて知った。この天文台は、夜九時まで開館していて、美しい星の観測が、できるということだった。

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 十二時半、岬センターを出発する。国道は、ますます車が多くなっている。町が近くなって来たのか、道に歩道が現れた。

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 午後二時、初山別の街中に到着。今までの町に比べると、かなり小さな町である。郵便局の隣の店で、この町の宿のことを聞くと、岩田屋という旅館しかないということだ。場所を教えてもらい、旅館の玄関を開けて中へ入った。

 「こんにちは。今晩泊めてほしいのですが」と言うと、おばあさんが出て来た。「残念だけど、今日は泊められないんだわ」と言う。「旅館が満員というのではなくて、お盆で、私はちょっと休みたいのだわ。今日も、何人も泊めてくれと人が来るけれど、みんな断わっているのだわ。だから、あんたも断わりたいのよ」と、とても疲れた様子だ。「そんなこと言われても、私は歩いているのです。次の町は、まだ二十キロも先だから、とても歩けません。何とか泊めてください」と懇願したが、おばあさんは、頑として、首を立てには振ってくれなかった。「とにかく、しばらく休憩させてください」と、私は旅館に上げてもらった。

 隣が、酒屋だったことを思い出し、ビールを買いに、外へ出た。自動販売機の前に、自転車旅行をしている若者が、休憩していた。その若者に、北海道の旅について話を聞くと、彼は稚内を目指しているとのことだった。私は、仲間を見つけた気分になり、今まで歩いて来た道の情報を、提供し始めた。

 少し長話になり出した頃、思いがけないことが起こった。車が止まって、「やあ、元気でがんばっていますね」と、二人の男性が降りてきたのだ。よく見ると、手塩の「民宿さとう」で一緒だった測量技師さんたちだった。
「えっ。こんなところで、また再会できるなんて、不思議ですね。よく、私だと分かりましたね」と、挨拶をした。私のことを、しっかり覚えてくれていた二人を、とても嬉しく思った。「今日は、ここで泊まるのですか」と聞かれて、今、旅館で断わられていることを二人に説明した。「それじゃ、次の町の羽幌まで、今から送ってあげましょう。羽幌は、大きい町だから、泊まる宿もたくさんありますよ」ということになってしまったのだ。道を歩き続けるべきなのだろうが、今日は、泊まる宿がなくて困っていた。私は、二人の親切に甘えることにして、旅館に戻り、荷物を持って二人の車に乗った。「羽幌に、泊まることにしました」と話した時に、旅館のおばあさんの表情が、笑顔に変わったことは言うまでもない。
 
 羽幌へ車で向かう。「あなたが、元気にリュックを背負って歩いている姿を、昨日も見ましたよ」と、測量技師さんは言った。羽幌に近づいた所に、大きな風車が、丘の上で回っていた。「北海道には、どんどん風車ができているようですね」と話すと、「今日も、その測量に行ってきたのですよ。羽幌の次の町に、苫前町がありますが、そこには、二十基近く風車が立っています。新しいエネルギーの開発も、急速に進んでいるのです」と教えてくれた。
 
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 二十分ほど走ると、もう羽幌の町だった。あっという間に、羽幌に着いてしまった。車は、本当に早くて便利な乗り物だと思った。二人にお礼を言って別れた。北海道には親切な人が多いのだ。
 
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 午後四時半、石崎ホテルという、少し大きなビジネスホテルに、今日の宿は決まった。素泊まり風呂付きで四千五百円は、安いと思った。荷物を整理し、夕方の羽幌の街中を散策する。羽幌川のすぐ横に、大きな風車が立っていた。その風車を、遠くから見たくて、羽幌の港へ行った。港には、大きなフェリーが泊まっていた。日本海に浮かぶ天売島と焼尻島を結ぶフェリーだった。
 
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 夕日がだんだん西に傾き、空が赤く染まり出した。夕日が沈む所を、もっと近くで見たいと思い、港の先へ延びる突堤を、どんどん歩いて行った。振り向くと、丘の上にある大きな風車が、夕日を受けて、赤く染まりながら、ゆっくりと回っていた。学級の、子どもたち一人ひとりの顔が、目に浮かぶ。まとまれば、すごい力を発揮する子どもたちなのに、みんなで、力を合わせることができないでいた。旅をしている間も、頭の片隅では、いつも、子どもたちのことを考えていた。二学期は、あの子どもたちと、どう取り組んだらいいのだろうか。それは、担任の私にかかっている。その答えを得るために、北海道へやって来たのだった。
 
 そして、北海道を旅して、得たことの一つは、北海道に住む人たちが、とても親切だということだった。よれよれの格好をして、歩いている私に、誰もが親切だった。私が、道に迷ったり、水がなくなったりしたら、助けてくれた。どこでも、「がんばれよ」と激励された。たくさんの人と出会い、たくさんの親切をもらった。名古屋では、体験できないことばかりだった。やはり、そのことを、子どもたちに伝えることが、大切だと思った。

 素晴らしい自然にも、たくさん出会った。宗谷岬、礼文島、原生花園、はるかかなたまで真っ直ぐに続く道、広い広い牧場。スケールの大きな北海道の自然について、子どもたちに話してやりたいと思った。そして、この壮大な北海道で、自然のエネルギーを利用した風車が、回り始めていた。風車の建設に携わっている人たちにも、出会った。今のままでは、やがて石油も石炭もなくなって、車も機械も動かなくなる時が来る。石油やいろいろな化学物質による汚染や環境の破壊も、ひどい状態になっている。「こうした問題を解決するためには、どうしたらよいのか」この課題を、子どもたちにぶつけてみたら、きっと前向きに考えてくれるのではないだろうか。

 北海道で出会った風車は、風力という新しいエネルギーを利用した、未来を切り開くシンボルに見えた。この風車が、子どもたちをまとめる支えになってくれるのではないかと思えた。そのことを、子どもたちに話したいと思った。これが、私の掴んだ答えだった。そして、頭の中にあった、もやもやしたものが、吹っ切れたように思えた。丘の上でゆっくり回る大きな風車に、二学期から子どもたちと取り組むべき課題を、やっとのことで見つけたようだ。

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 夕日は、ずっと沖合にある島影の間に沈んで行った。その島影は、天売島と焼尻島だろう。今回の旅は、もう終了してもいいのでは…。でも、休暇は、まだ少し残っている。せっかく、北海道へ来たのだ。明日は、あの島へ渡ってみようか。また、面白い体験ができそうだ。行き当たりばったりの旅は、実にいいかげんである。
 
 午後八時過ぎ、近くの居酒屋に食事に行く。ビールとホッケの焼き物を注文する。「道を歩いているのです」と言うと、「私の息子は、高校を卒業した後、〝自転車で、日本一周に出掛けるよ〟 と言って出発し、ちょうど一年たった日に、元気に帰って来ましたよ。今は、会社勤めをしていますが、その時の経験は、かなりプラスになっているみたいです」と、女将さんは話してくれた。「今日の夕日は、きれいでした」と言うと、「羽幌に海岸があります。雪が降った日に、誰もいない海岸へ行ったのです。海の上に、霧がかかっていて、ボーと向こうが霞んでいて、それは、それは、幻想的な風景でしたよ。冬の羽幌もいいですよ。ぜひ来てください」と女将さんに誘われた。冬の北海道は、もっと違った表情を見せてくれるのだろう。今度は、冬の北海道を旅してみたいと、思った。
 
 午後九時、宿に帰り、風呂に入った。久しぶりに風呂付きの部屋に泊まった。「風呂に入るのなら、やっぱり、身体がしっかり伸ばせる温泉がいいなあ」と思った。今回の旅行で、温泉が少し好きになったようだ。明日は、また、ドラマチックな旅になるのだろう。北海道の夏の夜の涼しさを感じながら、床に着いた。



[ 2012/07/31 08:25 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

北海道最北端から歩く

第8日 手塩から遠別

 午前五時、起床。快晴。今日は、暑くなりそうである。洗面を終わり、荷物を整理する。パンフレットや記念品などの荷物が少しずつ増え、リュックが、前より重くなったようだ。
 
 午前七時、食堂へ行く。全員揃っての朝食が始まった。もちろん味噌汁には、シジミが出た。この民宿には、水彩の絵がいろいろな所に飾ってある。この食堂にも飾ってある。どれも、透き通った感じの色彩で、作者の優しい心が、伝わって来る作品ばかりだ。この民宿の息子さんが、描いたものだった。昨日も、私が外へ出かけようとして、居間を覗くと、息子さんが、熱心に絵を描いていた。中でも、玄関に飾ってあるブナの林の中を歩く少年の姿を描いた作品が、印象に残った。私も写真ばかり写していないで、素晴らしい風景を描いてみたら、面白くなるかも知れないのだろうが、その才能がなかった。私は、写真でがんばろう。

img7300.jpg手塩小学校

 午前八時、出発。天塩からの道は、立派な歩道が付いていて、とても歩き易い。遠別までは約二十キロ。この調子だと十二時には到着できそうである。

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 今日は、十四日のお盆である。今まで走っていた、トラックやダンプの姿は、ほとんど見かけなくなり、自家用車が、たくさん走っている。旭川や札幌ナンバーの車に交じって、本州ナンバーの車も走っていた。数十台の車が、団子になって走って行ったかと思うと、しばらくして、また、団子になった車が通過して行く。一台の遅い車が、そのような状態を作り出しているようだ。その中を、無謀な車が、追い越しをかけて行く。カーブになったり、峠になったりして、向こうが見えない所でも、平気で追い越しをかけている。「あっ、ぶつかる」と、ハラハラする場面も時々ある。このスピードでは、衝突すれば、ケガぐらいではすまない。北海道で死亡事故が多い理由が、よく分かった。
 
 緩い上り坂になった所で、二台のバイクが止まっていた。「どうしたのですか」と声をかけると、「バイクが急に動かなくなってしまって、困っているのです」と、二人の女性が、携帯電話で修理屋に電話を掛けていた。近くに町がないから、車を修理するにも、時間がかかるから大変なのだ。「貴女たちは美人だから、手を上げてバイクを止めたら、きっと直してくれるよ」と言うと、二人は笑っていた。私は、すぐ歩き出しが、その後、彼女たちは、本当に手を上げて、バイクを止めたかも知れない。美人たちだから、きっと、たくさんのバイクが急停車したことだろう。

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 淡々と道を歩いて、午前十一時四十五分、今日の目的地、遠別に到着。街中を歩くと、五分ほどで町の外れに出てしまった。宿屋は三軒ほど見かけた。どこかで泊まれそうな気がした。
 
 「海航」という名の居酒屋を見つけ、中に入る。十二時前で、客はだれもいない。メニューを見ると、いろいろな品が並んでいる。「この店のおすすめは、何ですか」と若主人に言うと、「ヒラメの唐揚げが、美味しいです。今日、私の父親が、海で獲ってきたものです」と、まだ生きているヒラメを、見せてくれた。注文は、それで決まった。若主人は、料理を作りながら、私の話をいろいろ聞いてくれた。「この町に、町営の旭温泉というのがありますから、昼から入りに行ってはどうですか。バスはすぐ前の、町役場から無料で出ていますよ」と勧められる。
 
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 調理に、まだ時間が掛かりそうなので、町役場に、バスの時刻表を見に行く。受付の女性に、温泉行のバスについて尋ねると、「午後一時三十五分に発車します」と、親切に教えてくれた。せっかく遠別まで来たのだからと、この町を紹介するパンフレットを求めると、資料を探しに、わざわざ役場の受付まで行ってくれた。改めて、北海道の人の親切を実感した。 

 居酒屋に戻ると、料理が出来上がっていた。ヒラメの唐揚げに野菜の煮物、ホタテの味噌汁等があり、美味しい味だった。若主人に、今日泊まる旅館も紹介してもらった。それで、福井館に決まった。
 
 午後一時三十五分、役場前を、マイクロバスは発車した。乗客は三人。そのうちの二人が、風呂に入る客で、もう一人は、従業員。マイクロバスに乗って十五分ぐらい走ると、旭温泉の建物が見えてきた。山の中の湯治場という雰囲気がする建物である。 旭温泉は、昭和四十七年に発見され、現在に至っているという。

入口で、入浴料の四百円を払い、中に入る。休養室や食堂があり、たくさんの人で混み合っていた。さっそく、風呂場へ行く。黄色い色をした湯船がある。豊富温泉のことを思い出したが、ここのお湯は石油ではなく、鉄分を含んでいて、こんな色をしているのだそうだ。ゆっくり湯船でくつろぐと、疲れが飛んで行くようだ。次のバスが発車するのは、午後四時。休養室でのんびり過ごす。

 今回の旅で起きた出来事が頭を過ぎる。名古屋から稚内に着いた時は、「車がビュンビュン走る道を、本当に歩いて行けるのだろうか」と、とても不安な気持ちで一杯だった。それが、たくさんの人と出会い、いろいろと助けてもらい、ここまで無事歩いて来ることができた。自分の家族である親父や妻や子どもたち、それに、職場で相談にのってくれた同僚たちも、今回の旅をとても心配していた。そんな皆の心配をよそに、のんびりと温泉につかり、旅を満喫している自分は、幸せ者だと思った。

 休暇は、二十一日まで。今日は十四日だから、後、一週間である。宗谷岬から歩く目的地だった札幌が、旭川になり、それが、今は「留萌までは歩こう」と、どんどん距離は縮小していた。九月には、教室で子どもたちと向かい合い、一緒に頑張っていかなくてはいけない。その手掛かりが、何となく、見えてきたような気はしているが、残りの一週間で、はっきりしたものを見つけ、この旅を、終了させなくてはいけない。

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 午後四時十五分、マイクロバスに乗り、再び、遠別の街中へ戻った。今日の宿「福井館」は、年季の入った建物だった。女将さんは、とても愛想のよい人で、いろいろ世話をしてくれる。「洗濯したいのですが」と言うと、「どうぞ、ここの洗濯機を使ってください。洗剤はここにありますよ」と、洗濯場まで案内してくれた。何と、使用料は無料であった。今までいろいろな宿に泊まったが、無料だったのは、ここが初めてだった。
 
 午後七時、夕食が始まった。いろいろなおかずが、どんどん出て来る。刺身、天ぷら、やっこ、煮物、茶碗蒸、漬け物…そして、何とタラバガニの足まで出てきた。料理の多さには、びっくりした。「ビールをお願いします」と言うと、「隣の酒屋で買って来て」と、不思議なことを言われた。冷えたビールが、切れてしまったのだそうだ。さっそく、缶ビールを、二本買って来た。たくさんのお客で、女将さんはてんてこ舞いだったが、一生懸命働く女将さんの優しい心遣いが、一人一人に伝わっていた。

 午後八時過ぎ、夜の町を見学に行く。お盆だから、店のほとんどが閉まっていた。神社には、提灯がいくつも下がり、お参りをする人の姿が見える。旅館のすぐ近くにあるスナックに入る。店に、客は一人もいなかった。ビールを注文し、いろいろ話をする。ママはさんは、淡路島出身の人だった。「この辺りは、冬には雪が一メートル以上も積もり、除雪にお金がかかって大変ですよ」と教えてくれた。除雪だけで、一冬二十万円もの負担があるとのことだった。雪国の冬は、経済的にも大変なのだ。雪がたくさん積もる話を聞いて、北海道の道路に、車道の線を示す矢印が規則正しく並んでいる理由が分かった。


[ 2012/07/30 08:16 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

北海道最北端から歩く

第7日  幌延から手塩

 午前四時半、起床。空は少し曇っている。風も少し吹いていて、今日は、歩き易そうに思える。洗面を終え、荷物を整理した。
 
 午前六時三十分、食堂へ行く。朝の早い工事関係者は、ごはんを食べ始めていた。女将さんは、忙しそうに、宿に泊まった人たちの弁当を、用意していた。街中で働くのなら、店で食べればよいのだろうが、こういう所では、旅館で弁当を用意してもらうのだということを、始めて知った。味噌汁には、やはり、大きなシジミが入っていた。
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 午前七時、宿を出発する。広栄荘の女将さんが、見送ってくれた。幌延の駅前を通り、線路を渡って、西に向って歩いて行く。一時間ほど歩いた所に、「ここは、北緯四十五度通過点」という案内板が立っていた。北半球のちょうど半分の位置を記念して、立てられたもののようだ。車が、クラクションを鳴らして止まった。風力発電の基礎工事をしている男性だった。「なかなか、歩くのが速いですね。これからまだ、長いですが、気をつけてくださいね」と激励された。本当に、こういう励ましが、一番嬉しい。「ありがとう。お互いに頑張りましょう」とお礼を言う。
 
 そこからしばらく行った所で、天塩川を渡った。橋の長さは百メートル位で、それほど大きな川だとは感じなかった。水は茶色に汚れている。牧場から流れ出した水もたくさん含まれているので、こんな色になっているのだろうか。
 
 国道四十号線と別れ、ここからは、天塩川を右に見ながら、国道二百三十二号線を、日本海に向って歩いて行く。一直線の道路を、時々、車が猛スピードで走って行く。北海道の道路は、信号も交差点もほとんどないので、高速道路のようだ。今まで路側帯だった所に、歩道が現れた。こういう時は、近くに町があるか、学校があるかだ。予想した通りに、小学校が現れた。通学路に、きちんと歩道が確保されている。しかし、この車時代に、遠く離れた所から、歩いて通う子どもが、本当にいるのだろうか。ほとんどの子が、スクールバスか自家用車の送り迎えになっているのだろう。 

 なだらかな丘になった所を、通過する。緑の牧草が、一面に広がった原っぱに、牛が何十頭も放牧されている。小さな川も流れている。北海道でしか味わえない、美しい風景である。

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 午前十時、小さな小学校の前を通過する。「川口小学校」という表示がある。道路のすぐ横に校舎が建っているので、寄り道することにした。今は、夏休みだが、今日は金曜日だから、だれか、学校にいるのではないかと、玄関へ行く。しかし、残念ながら、鍵がかかっていてだれもいないようだ。

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 すぐ横に、教員住宅のような建物がある。車が止まっているので、ドアをノックした。中から、若い女性が、眠そうな顔で現れた。「こんにちは。名古屋で教員をしていますが、北海道へ歩きにやって来ました。ここを、通り掛かりましたので、立ち寄りました。この学校のことについて、少し教えてくれませんか」と頼んだ。

 「全校児童は八人。三年生と五年生がいないので、一・二年と四・六年の複式学級である。先生は、担任二人と校長の三人。学校が、この地域の文化センターのような形になっていて、学芸会や運動会も、地域ぐるみで取り組んでいる。すぐ隣の小学校は、もっと小さくて児童数が三人である。集合学習なども、取り組んでいる。子どもたちの家庭は、すべて酪農である」と、詳しく教えてくれた。突然ドアをノックされ、質問を受けた女先生は、大変びっくりしていたことだろう。全くもって、私は失礼な旅人だった。女先生、ありがとうございました。
 天塩の町へは後、八キロ。この分なら、十二時頃には到着できそうだ。

 広い牧場で、大きな草刈り機に乗って、作業をしている人がいる。草刈りの様子を見るのは、初めてである。しばらく、見学することにした。草刈り機は、牧草をどんどん刈り取って行く。もう一台大きな機械があって、それは、刈り取った牧草を、機械の中に巻き込み、大きな牧草の玉を作っていった。やがて、この牧草は、サイロで保管され、牛の食料となるのだ。北海道の牧場には、大きな牧草の玉が、ごろごろしているが、どうやって作るのか、その作り方が分かり、大変、勉強になった。

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 十二時過ぎ、二十五キロを無事歩き、今日の目的地、天塩の町に到着した。まずは天塩港へ行く。天塩川の河口にある、小さな港である。漁船が泊まっていて、青年が作業をしていた。「ここは、何が採れるのですか」と聞くと、「シジミやホッキ貝が有名だね。イカやヒラメもよく獲れるよ」と教えてくれた。

 港を離れ、街中を歩く。小さな町だが、旅館も何軒かありそうだ。パンフレットによると、「この町の人口は約四千五百人。北海道第二の長流、天塩川の河口に位置し、『酪農郷天塩』を目指す牧歌的都市。全道一の生産量を誇る、シジミ貝で有名な町」と、説明されていた。

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 どこかで食事をと、食堂を探す。大きな病院の前に、小さな食堂を見つけて中に入る。ビールとシジミランチを注文した。今まで、何度もシジミが味噌汁に出てきたが、ここでとれる手塩シジミだったのだ。大粒なシジミである。ここは、産地だけあって、シジミランチとは、さすがである。どんぶりに、シジミが一杯入っていて、美味しかった。

  食事を終わり、外へ出る。この店へ来る途中に、「天塩川歴史資料館」という建物があったことを思い出し、そこを、見学することにした。赤レンガの建物で、旧役場庁舎を再生したものだという。江戸時代に、北前船の港町として開かれ、北海道開拓の拠点として発展してきた町の歩みの分かる資料や写真が、展示されていた。無料で開館しているところがよかった。今晩の宿は、その建物のすぐ前にある「民宿さとう」に落ち着いた。この民宿は、一泊二食付きで五千円だった。
 
 宿に入ったのが午後一時、夜までの時間は、洗濯をしたり、これまでの旅をまとめたり、街中をぶらぶらして過ごした。途中、郵便局に行ってはがきを買い、稚内の居酒屋「伍佰」のマスターに礼状を出した。
近くの生協市場にも行って、中をうろうろした。魚屋の店先に、美味そうなカレイやヒラメ・ソイなどが並んでいた。どれも、値段が三百円とか四百円とか、あまりにも安いのにはびっくりした。「調理器具と調理場があったら、買って来て料理を作りたいなあ」と思った。シジミを大量に買っていく人がいる。聞いてみると、「お盆で家族が帰ってくるから、土産にするんだよ」と教えてくれた。市場は活気があって、たくさんの人で賑わっていた。

  午後六時過ぎ、港へ散歩に行く。海の見える港町で泊まるのは、稚内以来である。「今日は少し雲があるが、天塩の夕日も、さぞかし美しいのではないか」と、期待しながら道を急ぐ。港は、ひっそりと静まり返り、誰もいなかった。
 
 西の空を見ると、薄い雲を通して、真っ赤な夕日が見え、その横には、利尻富士が薄っすらと、姿を現していた。カメラを忘れたことに気が付いた。取りに帰ろうかとも思ったが、今日の夕日は、心にしっかり焼き付けることにした。夕日は、沈むにしたがって、水平線近くにあった雲に隠れ、見えなくなってしまったが、うら寂しさを感じさせる夕日だった。家へ電話しようかな。
 
 午後七時、食堂へ行く。この宿の泊り客は五人。親子連れの二人と、工事関係の若い二人、それに私である。この民宿は、おばあさんと息子さんの二人で経営している。料理を肴に、ビールを頼んで飲み始めた。ここでハプニングが起こった。「まあー大変。ごはんが炊けていないわ。スイッチを入れ忘れたわ。どうしよう」と、おばあさんが、叫び声をあげた。親子連れは、ごはんがないと、食事が始まらないようだった。おばあさんと息子さんが謝る中、二人はあきらめて、部屋へ戻って行った。

 工事関係の二人は、私と同じようにビールを飲み始めた。私が、道を歩いていることを話すと、二人は興味を持ったようで、話し掛けてきた。「明日は、次の町の遠別まで歩く予定です」と言うと、「あの町には宿屋が幾つもあるから、きっと泊まれますよ。道の地図を持っているから、後であげましょう」と親切に言ってくれた。この二人は、建設省の技師で、風力発電に関する測量の仕事をしていた。「お盆もありません。家は札幌ですが、ずっと、泊まり歩いています」と、仕事の大変さを話してくれた。
 
 食事が終わって、しばらくしたら、「これ、よかったら使ってください」と、さっきの若者が地図を届けてくれた。北海道の町の紹介や、道にある宿泊施設などが、詳しく書かれていて、大変参考になるものだった。北海道には親切な人が多いのだ。明日は、ここから二十キロ先にある遠別という町まで歩く。北海道を歩く旅も、だんだん調子が出てきたようだ。



[ 2012/07/29 09:51 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

北海道最北端から歩く

第6日 豊富から幌延

 午前五時に目が覚める。昨夜は、あまりぐっすり眠むれなかった。一日四十キロも歩いて、疲れがたまり過ぎていたことや、連日の日焼けで、身体が火照っていたこともある。しかし、それよりも、向いのガソリンスタンドから、一晩中、音楽が流れていたことが、最大の原因だった。夢の中に音楽が流れ、気が付くと、それはガソリンスタンドから流れている音楽だった。そんなことが、二、三度あったからだ。ガソリンスタンドの周りには、このホテルしかないから、だれも苦情を言わないのかもしないが、私には大変迷惑な音だった。
 
 朝食まで時間はある。重い身体を引きずって、洗面所まで行った。顔を洗って少しすっきりした。荷物を整理する。昨日の夕方洗った下着や靴下は、まだ、半乾きで湿っていた。
 歩き旅では、たくさん着替えを持つことはできない。リュックには、折りたたみ傘、カッパ、カメラ、フィルム、常備薬、手帳、財布、洗面用具、懐中電灯、携帯電話、水筒、地図、パンフレットなど必需品が入っている。それに着替えということで、今回は、下着とTシャツの着替えを二日分、厚手の靴下を二足、それに長袖の上着を二日分、短パンを一つ入れた。宿に着くと、すぐに着替えをし、その日に着た物は、全部洗濯をした。宿にランドリーがあれば、それを利用するようにした。洗濯の費用は、一回二百円くらいだった。このホテルのランドリーが故障しているということで、利用できなかったのが、乾かなかった最大の原因だった。そのままビニル袋に入れたが、靴下からは、悪臭が漂っていた。

 午前七時、食堂へ行く。卵焼きに海苔、納豆等、どこにでもありそうなメニューだった。味噌汁にシジミが入っている。今まで見たことのない、大粒のシジミだった。「天塩で採れるシジミです」と、奥さんは言った。美味しい味噌汁だった。

  午前八時、出発。天気は快晴。今日も、暑くなりそうな一日だ。コンビニで、お茶とおにぎりを買う。今日は、「幌延」という十六キロほど南にある町まで行く。昨日しっかり歩いたので、骨休めの日にしたかった。地図で見ると、国道四十号線を歩くより、県道を歩いて、豊富温泉を回った方がだいぶ近いようだ。昨日、バスの中から見た豊富温泉までの道は、歩き易い道に見えた。 
 
 豊富の街中を抜け、七キロ先の温泉に向って、歩いて行った。道路には、「自転車運転安全都市」と、大きな標識が立っていた。自転車道を快適に歩いて、午前九時三十分、豊富温泉に着いた。ふれあいセンター前の広場では、昨夜開かれた、盆踊り大会の後片付けが行われていた。昨日、ここの旅館もホテルも満員だった理由が、それで理解できた。広場で十五分ほど休憩し、幌延の町へ向った。
 
 ところが、豊富温泉から少し行った所で、いきなり道が狭くなり、歩道はおろか、路側帯もなくなってしまったのだ。ダンプやトラックが、すごい勢いで走って行く道なのに、路側帯がないというのは、どういうことなのだ! このまま進むべきか、それとも引き返して別の道を歩くべきか、決断しなければならなかった。
 町と町との境の所では、道路事情が、大きく変わる時がある。ここもそうなのだ。「自転車運転安全都市」は豊富町のことで、隣の幌延町は、そうではないようだ。私は、「冒険よりも安全」を選んで、豊富の町まで引き返し、路側帯や歩道のある、国道四十号線を歩くことにした。これから先、「冒険より安全」は、私が道を歩く一つの基準になった。

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 豊富温泉のバス停まで歩いて、ちょうどあった豊富駅に向うバスに乗車した。午前十時三十分、豊富の街中にある、国道四十号線に到着した。今度は、四十号線を幌延に向って歩き始める。昨日よりも、国道を走る車の量ははるかに多くなっていた。今日は、八月十二日、お盆で里帰りする人や、旅行する人の車が、増えたのだろう。団子状態で走っている車を、猛スピードで追い越して行く車がいる。スピードは、百数十キロなのだろう。追い抜いて行く車の風圧を受けて、身体がグラッとする時がある。そうした中を、自転車に乗った若者が、次々と通り過ぎる。昨日よりも、その数も多くなったようだ。手前に山が見えて来た。この先は、峠になっているようだ。

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 十二時、幌延町に入り、峠にある名山台展望公園に着く。広い公園になっていて、食堂やトイレも完備されている。売店でラーメンを注文し、持って来たおにぎりも食べる。
 
 三十分ほど休憩し、出発。幌延の街中までは、後十キロほどである。日差しはますます強くなる。木陰があれば休憩したいが、道の両サイドは、牧場が延々と広がり、はるか彼方まで真っ直ぐに延びる道に、木陰を作るものはない。直射日光と道路からの熱気で、砂漠の中の道を歩いているようだ。
 単調な道を、黙々と歩いて行く。昨日貰った大きなペットボトルには、お茶がかなり入っていたから、水分については、心配はなかったが、疲労感だけが重くのしかかって来た。そんな時、走ってくるバイクから、「やあ」と、手を上げて挨拶を交わされた。お陰で、元気が沸いてきた。有難いライダーだった。

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 午後二時、「こちら幌延市街」という道標を見つけた。ここからは、その道を歩いて行くことにした。きちんと舗装された農道だった。ぽつんぽつんと農家が遠くに見えるが、三十分近く歩いても、車には一台も会っていない。こういう時は、「また、道を間違えたのではないのだろうか?」と、不安な気持ちになるものだ。近くに線路が見えてきた。この道が、宗谷本線に沿っていることが分かった。道は間違っていないようだ。
 遠くに、人の姿を見つけた。何頭もの牛を追い立てている。牛と、散歩でもしているのだろうか。その人の所に駆け寄り、「この道を歩いて行くと、幌延の町がありますか」と尋ねると、おばさんは、「すぐそこですよ」と教えてくれた。疲れが一気に吹き飛んだ。
 
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 午後二時四十分、幌延駅前に到着した。今日はもっと早く、この町に来る予定だったのに、結局、二十四キロも歩いてしまい、大変な一日になった。早速、今日の宿を探すことにした。駅前には何軒か旅館があり、どこかで泊まれそうな雰囲気がする。最初に入った広栄荘というビジネス旅館で「いいですよ。部屋は空いていますよ」と言われた。こうして、今日の宿泊は、すんなり決まった。一泊二食付きで、五千五百円だった。

 洗濯を終え、午後五時、近くの薬屋へ行く。鏡で見た私の顔は、酷いものになっていた。それに、痛みもかなり出ていたからだ。「顔が痛くてたまらないのだけど、何か塗る薬はありませんか」と言うと、薬屋の奥さんが、「まあ、酷い日焼けをしていますね。どうしたのですか」と聞いてきた。「道をずっと歩き続けているのです。今日は、豊富温泉からの道が怖くて、大回りをしてしまいました」と話すと、「北海道の道を歩くのに、そんなことを気にしていたら、歩けませんよ。多少の危険は、覚悟して歩いてくればよかったのに。それに、豊富温泉からなら、山の中を通る道があったのですよ。温泉で聞けば、教えてもらえたかも知れないね」と叱られた。私は、まだ、肝っ玉が据わっていないようだ。「明日は、手塩まで行くつもりです」と、言うと、「海側の道は景色がいいから。頑張って歩きなさいよ」と、今度は激励された。日焼け止めの化粧水を買って、薬屋を出たが、「北海道の道を歩くのなら、多少の危険は覚悟して歩きなさい」と言われた言葉が、頭の中をぐるぐる駆け巡っていた。

 午後七時、食堂で夕食が始まった。今日の泊り客は、全部で八人。ほとんどが、この地域で建設工事をしている人たちだった。「この旅館は、普段は、工事関係の人で満室ですよ。今日は、お盆で帰った人が多いから泊まれたけど、いつもなら、絶対に泊まれなかったよ」と女将さんが言った。「へぇー、道を歩いているのですか」と、一緒に食事をしていた中年の男性が、話し掛けてきた。「私は、北海道電力の下請け会社で働いています。今は、この近くの天塩川の所で、風力発電の風車を建てる基礎工事をしています」と、自分のことをいろいろ話してくれた。「風力発電は、以前はコストが高くて、一基作るのに、三億円近くかかっていたのですが、今は、一億円くらいで作れるようになってきました」と教えてくれた。私は、稚内の丘の上で、ぐるぐる回っていた大きな風車を思い出した。「明日は、七時には出発し、天塩の町まで歩く予定です」と話すと、「じゃあ、明日は、私が工事している所を通るから、見送ってあげるよ」と励まされた。化粧水の効き目があったのか、顔の痛みも弱くなり、その夜は、ぐっすり眠ることができた。



[ 2012/07/28 08:20 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

北海道最北端から歩く

第5日 稚内から豊富

 天北旅館の一夜は、凄まじかった。夜中に、部屋の前の廊下で、ドタンという激しい音がして起こされた。「何だろう」と、戸を開けると、若者が倒れていた。「大丈夫ですか」と声をかけたが、返事はなかった。泥酔状態で、廊下に寝込んでしまったようだ。そのままにして、私は寝たが、時々、バタンという、彼が寝返りをして壁にぶつかる音で起こされ、熟睡することができなかった。

 午前三時半、起床。相変らず酔っ払った青年は、廊下で熟睡していた。洗面を終え、荷物を持っていよいよ出発。駅前を通ると、バイクや自転車で旅をしている青年たちが、寝袋に入って寝ていた。彼らは、安上がりの旅を楽しんでいるのだ。薄暗い稚内の町を、南に向かって歩いて行く。時々、車がすごいスピードで走って行くが、時間が早いので、車はほとんどない。

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 午前五時、約五キロ歩いて、国道四十号線の出発点に到着した。コンビニで、朝食のパンと牛乳、昼食のおにぎりを買う。「豊富まで三十五キロ」という標識を見ながら、パンを食べた。牛乳には、「豊富牛乳」というラベルが貼ってあった。
 
 国道四十号線も朝が早いので、車はほとんど走っていなかった。最初の内は、歩道があったのだが、やがて白い路側帯だけになってしまった。しかし、路側帯は大変幅が広くて、安全に歩くことができた。
 午前六時を過ぎた頃から、少しずつ車が増えてきた。北海道の道は、実にスケールが大きい。ずっと向こうまで、真っ直ぐの道が続いているのだ。距離にして、ニキロ以上はありそうだ。さすがに、北海道にしかない道路だ。車がスピードを出してしまうのも、仕方のないことかも知れない。また、道路には、百メートルごとにポールが立っていて、矢印の標識が下がっている。「矢印の真下に、路側帯が引かれている」ということを知らせるもので、冬、除雪のために必要な標識のようだ。その標識の数を数えれば、あそこまでは、何百メートルあるかと計算できるので、それからは、標識を目印にして歩くようになった。

 午前八時、歩き始めて四時間が過ぎ、日差しが、だんだんと強くなって来た。今日も雲一つない天気である。私の歩く時速は、どうも五キロのようだ。日頃、道を歩く時には、リュックも軽く、軽い靴を履いているので、時速六キロは出ていた。ところが、今回は、リュックは重く、底の厚いトレッキングシューズを履いているので、思うほどペースが上がらない。ここまで、ちょうど半分の二十キロを歩いたことになる。
それにしても、北海道の道は、景色がほとんど変わらない。道の両側には、広大な牧場が広がり、家がない。稚内から豊富の間には、宿のある町がなく、どうしても今日は、豊富まで歩いて行かなくてはいけない。
 
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 道の端で、少し休憩し、ペットボトルに入ったお茶を飲む。向こうの方から、自転車が近付いて来た。自転車で、北海道を旅している若者だ。「こんにちは」と挨拶すると、「歩いているのですか。頑張ってください」と、励ましの声を掛けてくれた。今日も、こうした自転車やバイクの若者たちとの挨拶を励みに、歩いて行くことになるのだろう。リュックの横にある緑色の旗が、彼らと同じ仲間だということをアピールしながら揺れていた。
 午前九時過ぎ、一台の車が、私の横に泊まった。何と、居酒屋「伍佰」のマスターだった。「がんばってね。この先に、店が一軒あるから、そこで休憩するといいよ。後は、豊富までは何も店がないからね。気を付けて歩いて行きなさいよ」と、マスターは激励してくれた。わざわざ、遠い稚内から、朝早く見送りに来てくれたマスターに、北海道の人たちの優しさを感じた。

 しばらく歩いて行くと、小さな店があった。ここから先、豊富まで店がないというので、五百ミリリットルのペットボトルに、お茶を、しっかり補給した。日差しはますます強くなり、道路からも熱気が伝わって来る。しかも、道路には日陰が全くなかった。汗がしたたり落ち、すぐ、水が飲みたくなった。しばらく歩いて水を飲むという、繰り返しの中で、とうとう、ペットボトルの水がなくなりそうになった。「ペットボトル一本で十分歩いて行ける」と考えたのが、間違っていたのだ。「とにかく、どこかで水を補給しなくては、この先歩けなくなる」。私は、切羽詰った気持ちになっていた。見渡す限り牧場が続き、家は、一軒も見えなかった。
 
 カーブを曲がった所で、ようやく、工事現場の小さな事務所を見つけた。車が一台止まっていて、事務所の扉が開いていた。「すいません。だれかいませんか」と、私は開いている扉から中に入って行った。中では、二人の男性が座って仕事をしていた。「ここに水はありませんか。歩いていて、水がなくなってしまったのです」と、手前の男性に言うと、「残念だけど、ここには、水道はないんだよ。もう少し行くと、もっと大きい工事現場があるから、そこで頼んだら」と、冷たく断わられた。がっかりして、事務所を去ろうとした時に、「ちょっとかわいそうだから、これをあげるよ。持って行きな」と、奥にいたもう一人の男性が、大きなペットボトルを一本私に手渡してくれた。それは、新品のスポーツドリンクだった。たぶん、私は、かなり悲壮な顔をしていたのだろう。涙が出るくらいうれしいペットボトルを恵んでもらい、何度も何度もお礼を言って、その場を後にした。そのペットボトルは、旅が終わった今、北海道の貴重な思い出の一つとして、大切に保管している。

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 兜沼を過ぎ、午前十一時、豊富町徳満に着く。目的の豊富駅まで後、八キロ程である。午後一時頃には到着できそうである。大きな農家の前を通ると、おばあさんが、一生懸命畑仕事をしていた。「こんにちは。少しここで、休憩させてもらっていいですか」と声を掛けると「いいですよ。どうぞ、そこでは何ですから、家の中へ入って休憩してください」と、親切にも自分の家に案内してくれた。道端で休憩できればと思っていたのに、おばあさんの親切にはびっくりした。家に入ると、息子さん夫婦(私と同年輩ぐらいに見えた)が、居間でくつろいでいた。
「冷たいお茶をどうぞ。名古屋から来たのですか」と、息子さんとの会話が弾む。「酪農も大変で、農業をやめてしまう人が、増えているのです。私たちは、戦後、ここを開拓して、酪農を始めました。今から、私の牧場へ行って、サロベツ原野を見させてあげましょう」ということになった。私は親切に甘え、ジープに乗って、牧場に連れて行ってもらった。

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 山の上からの見晴らしは素晴らしく、サロベツ原野が、はるかかなたまで広がっていた。天気がもっとよければ、真正面に利尻富士が望めるということだった。豊富の町は、もうすぐそこに見えていた。牛舎の中も見学させてもらい、息子さん夫婦にお礼を言って、その農家を後にした。北海道の人は、親切だと聞いていたが、今日は、その親切を何回も体験する一日になった。
 
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 十二時、徳満駅に到着。この駅で、昼食にすることにした。徳満駅は、全くの無人駅だった。北海道では、旅行をしているバイクや自転車の若者が、駅を宿舎替わりに使うこともよくあるという。私も計画の段階では、無人駅で寝ることも考えていた。駅舎の中は、がらんとしていて、ベンチが二つ置いてある。やはり、こういう無人駅で泊まるには勇気がいるようだ。
 
 棚の上に、ノートが何冊も積み重ねてある。手に取って見ると、この駅にやって来た人や、ここで泊まった人たちの感想が、びっしり書かれていた。「学生時代以来二十年ぶりでやって来て、駅が大きく変わってしまい残念だ」という感想もある。昔は、この駅も賑わっていたようだ。「ノートを盗むな」という記述もある。貴重なノートを、失敬していく人がいるのだろう。徳満駅は無人駅だが、思い出が一杯詰まった貴重な駅だった。

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 午後二時過ぎ、長い長い四十キロを歩き切り、無事豊富駅に到着した。まずは、今日の宿を見つけなくていけない。駅の中にあるサービスセンターへ行く。「ここでは、宿を紹介はできませんが、電話を教えますので、自分で交渉してください」と、受付の女性は言った。
 まずは、豊富温泉に近い旅館に、電話をかけた。「残念ですが、満室です」という返事が返って来る。どこも満室のようだ。続いて、駅近くのトーヨーホテルに電話をした。「ええ、いいですよ」と、どうにか宿は確保できた。今日は、長距離を歩き、かなり疲れているので、これから豊富温泉でしばらく休憩してから、宿に行くことにした。行き当たりばったりの旅は、こういうところが面白い。
 
 午後二時三十分、留萌行のバスに乗車し、豊富温泉で下車する。豊富温泉は、大きな温泉のようである。ホテルや旅館がたくさん建っていた。

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 町営のふれあいセンターへ行く。入浴料三百八十円を払って、中に入る。休憩室や食堂もあって、たくさんの人で賑わっていた。荷物を置いて、さっそく温泉に行く。風呂場には五人くらい人がいた。二つの風呂があり、一つは濁っていて、もう一つは透き通っていた。さっそく、濁った方に入った。ぬるい湯である。疲れた身体を湯船で伸ばすと、今日歩いた疲れが、飛んで行くように感じた。

 しばらくして、お湯が、少し奇妙なことに気が付いた。お湯の表面に、油が浮いているようなのだ。「おかしいなあ」と思いながら、今度は、透き通った風呂に入った。こちらの方は、水風呂だった。横を見ると、中年の男性が、タライから何か黒いものをすくって、身体に塗りつけていた。「何を塗っているのですか」と聞くと、「コールタールですよ」と、返事が返ってきた。「コールタール?」聞き間違えたと思い、もう一度質問すると、「ここの温泉は、石油が含まれている塩水の温泉です。私は、コールタールを塗って、皮膚病を治しているのです」と教えてくれた。それで、湯に油が浮いているのも納得できた。
 
 しかし、不思議な温泉があるものだ。私が、びっくりしているのを見て、近くにいた老人が、「出る時には、しっかり石鹸で身体を洗って、シャワーで流して行かないと、いつまでも油臭いよ」と忠告してくれた。「ここは、湯治場の方で、もう一つ、新しくできた風呂があるから、そちらは、油臭くなくていいよ」と、勧められたので、新しい風呂にも入った。新しい風呂は、家族連れや若者で一杯だったが、薄い油の幕が浮いているのは、一緒だった。世の中には、本当に珍しい温泉があるのだ。
 
 後で、パンフレットを読むと、「大正末期に、石油の試掘をしていた際に、天然ガスと一緒に噴出したのが始まり。日本最北の温泉郷として、多くの人に親しまれている。わずかに黄濁したアルカリ性の湯は、なめると少し塩辛い。また、弱い石油臭があるのも特徴で、アトピー性皮膚炎をはじめ、皮膚病全般への効能がある」と説明されていた。また、入口には、皮膚病の難病といわれる「乾癬の会」のコーナーも作られていた。
 
 午後五時、豊富駅へバスで戻り、今日の宿、トーヨーホテルへ行く。国道沿いにあるビジネスホテルで、向い側に、ガソリンスタンドがある。明日は、次の町の幌延まで歩く予定だ。距離的には、二十キロはない。朝は、ゆっくりできそうなので、朝食をお願いする。

 午後七時、夕食を食べに、外へ出る。近くの焼肉屋に入る。店の中は暑いが、冷房はもちろん、扇風機も置いてない。「うちわがあったら、貸してくれませんか」と女将さんに言うと、「そんなものあったかねえ。少し待ってください」と、店の奥へ入って行った。だいぶ時間が過ぎて、「やっと見つかりました」と、うちわを持ってきてくれた。北海道でも、この辺りは、夏にうちわを使うことがほとんどないようだ。「今年の夏は、本当にどうかなっていますね」と女将さんは言った。ビールと焼肉を注文した。肉の味が美味しくなかった。きっと、疲れていたのだろう。




[ 2012/07/27 08:33 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

北海道最北端から歩く

第4日 礼文島から稚内

 ぐっすり眠り、午前五時に目が覚める。外に出ると、日の出はとっくに過ぎ、すっかり明るくなっていた。隣の家の人たちが、一生懸命、昆布を家の前に干していた。今日も快晴だが、風が強く、海は波立っていた。「今日は、朝から漁ができると期待していたのに、この波で、漁が中止になってしまいました。今、干している昆布は、昨日採った物です」と、その家のおばあさんが、話してくれた。
 
 午前五時三十分、早く出発する人たちの朝食が始まった。私は、今日の計画を、まだ決めていなかった。行き当たりばったりの旅ではあるが、早く、北海道を南に向かって、歩き出さなければいけない。しかし、一番の問題は、十キロ近い荷物を背負って歩くことだった。本当に歩けるのだろうか。今までやったことがないので、不安な気持ちだけが大きくなっている。「礼文島で、荷物を全部背負って試してみよう。だめなら、寝袋とシートを、背負うことはやめよう」と思った。今日は、そのトレーニングの日にすることにした。そして、トレーニングが終わったら、稚内に帰り、明日から、いよいよ南に向けて、北海道を下って行こうと決心した。

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 午前六時、礼文島八時間コースを歩く人たちが出発して行った。私も朝食を終え、荷物を整理する。
 午前八時、フェリーに乗船する人たちを見送った後、荷物を背負って、民宿を出発した。曲がり角まで、手を振って見送ってくれた、文夫さんのお母さんの姿が、忘れられない。

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 まずは、港まで歩く。距離は三キロ少し。島の人たちが、忙しそうに昆布を干している。「昆布にも、養殖ものと天然ものがあるのですよ。今、干しているのは、天然ものだから値段も高くて美味しいです」と、昆布を干していたおばさんが、教えてくれた。「今日は、波が高くて漁ができない」と、このおばさんも、残念がっていた。

 四十分近く掛かって、港に到着した。しっかり汗をかいている。日差しの強さもあるが、荷物の重さも、かなり関係しているようだ。やはり、寝袋とシートを背負って歩くのは、無理だと判断し、港のロッカーに預ける。少し軽くなったリュックを背負って、礼文島を歩くことにした。海岸道路を、北に向かって歩いて行く。相変らず風が強く、東側に広がっている青い海には、三角の波が立っている。その波の中を、漁船が、大きくジャンプしながら走って行った。

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 午前十時、香深井の水中公園前に到着。ここから、礼文島の美しい山を見ようと、昨日歩いた林道コースへ向かう。街中の舗装された道を過ぎ、やがて急な上り道になった。この道は、車も走れるようになっているので、時々、車やバイクが追い抜いて行く。

 木陰に入ると、必ずというくらい、アブの群れが襲って来た。長ズボンなので、足に被害はないが、腕や手は、何箇所も刺された。一時間ほど坂を上ると、視界が開け、雲一つない空の青さと、なだらかな山の薄い緑が、目に飛び込んできた。足元には高山植物が、紫や黄や白の可憐な花を咲かせていた。本当に、山は美しかった。 

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 林道コースを一周し、十二時少し前、再び港に戻った。今日は、朝から十五キロほど歩いたことになる。途中きつい上り坂もあったが、リュックを背負っていることが、そんなに負担ではなかった。この重さなら、明日から本格的に歩いても大丈夫だと、確信した。

  昼食を、昨日と同じ店でとり、フェリー乗り場で、乗船手続きを済ませる。フェリーが入港してきた。フェリーには、たくさんの人が乗っている。次々に人が降りて来る。この人たちは、これから、礼文島でどんな思い出を作るのだろうか。

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 「民宿なぎさ」の旗を持った竹ちゃんがいる。「たくさん、お客さんが来るといいね。がんばって」と声を掛けた。「がんばって、これからも北海道を歩いてください」と、竹ちゃんは私を見送ってくれた。

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 午後一時五分、フェリーは、稚内に向かって出港した。だんだん遠くなる礼文島を見ながら、「いつの日か、もう一度、あの民宿なぎさに泊まって、礼文島を北から南まで、思う存分歩いてみたいなあ」と思った。

 午後三時、フェリーは稚内港に到着した。今日は、この稚内で再び宿泊しなければならない。一昨日、泊まったステーションホテルは、値段が高いので泊まりたくなかった。どうしようか迷いながら道を歩いて行くと、旅行代理店の看板が出ている。さっそく中に入って、「今日の宿を紹介してほしいのですが」と、受付の女性に言った。「大きい所はどこも満室です。小さくてもいいですか」と、何軒か電話をしてくれた。「ありましたよ。天北旅館という駅前にある小さな旅館です。いいですね」と女性は言った。「えっ、天北旅館!」その名前を聞いてびっくり仰天。その旅館は、これまで泊まっていたステーションホテルの隣りにある、粗末な建物の旅館だったのだ。泊まっていた部屋の窓から「天北旅館」という文字を見ていたから、しっかり覚えていた。皮肉な結果になってしまったが、承知した。素泊まりで四千五百円だった。ステーションホテルに比べると、三千二百円も安かった。

 天北旅館へ行くと、すぐ、部屋へ案内された。西日がまともに当たる、八畳の暑い部屋だった。テレビが、一台ポツンと置いてあるだけで、それ以外は何もなかった。入り口も、南京錠で鍵をかけるという、まさに安宿の一室という雰囲気だ。風呂もトイレも共同である。「風呂に入りたいのだが」と言うと、「風呂は五時からですから、シャワーだけならどうぞ」と女主人は言った。風呂はあきらめ、シャワーを浴び、荷物を整理した。寝袋とシートは持って歩くことにし、できるだけ荷物を軽くするために、不要になった本などを荷造りして、宅急便で家に送り返した。

 午後六時、食事に出掛ける。再び、居酒屋「伍佰」に行く。「礼文島を歩いてきました。山や海が、本当に美しかったです。食事もおいしかったです」とマスターに話した。「いよいよ明日から、南に向かって歩いて行くのですね。絶対に、海岸を歩いて行った方が、景色も美しくていいですよ」と、マスターは言った。「明日は四時に起きて、出発しようと思っています。とにかく、国道四十号線を歩いて、四十キロ先の豊富まで行くつもりでいます」と私が言うと、「それじゃ、明日、どこになるかわからないけど、見送りに行きますから、頑張ってください」と、マスターは、タラバガニをご馳走してくれた。その味は格別に美味しかった。親切にいろいろ教えてくれたマスターにお礼を言って、店を出た。これから先、どんな旅になるのか分からないが、明日は、豊富まで歩いて行けそうな気持ちになっていた。


[ 2012/07/26 08:33 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

北海道最北端から歩く

第3日 礼文島

 朝5時、起床。今日も快晴である。洗面を終わり、荷物を整理する。昨日歩いた足の痛みが、少し残っている。
午前七時、支払いを済ませ、宿を出発。

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 「礼文島行」フェリーは、午前七時三十分発。港に着くと、すでにたくさんの人が、フェリーの乗船手続きをとっていた。自分の名前を記入し、乗船手続きを済ませ、フェリーに乗る。船内は満員で、二等船室は空いていなかった。それで、荷物を持って、ブリッジへ上って行った。しかし、そこの座席も全て埋まっていて、座るのはあきらめた。ブリッジに荷物を置いて、船内を見物する。売店があるが、パンと飲み物、お菓子などしか置いてない。菓子パンを買って食べることにした。

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 午前七時三十分、フェリーが出港した。稚内の町が、次第に遠くなって行く。フェリーは、野寒布岬を大きく回って、半島の反対側にある、礼文島に行く。丘の上には、風力発電の大きな風車が回っていた。反対方向を見ると、昨日歩いて来た宗谷岬が、ずっと遠くにかすんでいた。自分が歩いた距離の長さにびっくりした。一歩一歩の積み重ねは、すごいものだ。空は、雲一つない青空である。今日も暑い日になりそうだ。

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 利尻富士が見えるようになった。麓の方は、靄が薄っすらとかかっているが、全体の姿がはっきりと見える。高さは、一七二一メートルとパンフレットにある。美しい山で、その姿は富士山に似ていた。

 フェリーの横を、カモメが何羽も飛んでいる。このカモメは、稚内からフェリーにずっと付いて来ている。フェリーのスピードは結構速いように思うのだが、カモメは平気だ。どうやら、フェリーの客が差し出すお菓子を、お目当てにしているようだ。手に持ったお菓子を、実に上手にくわえて持っていく。空中に投げられたお菓子を、みごとにキャッチして、拍手が起きた。フェリーの旅には、こんな楽しみもあるのだ。
 
 フェリーは、穏やかな海を進み、九時三十分、礼文島香深港に入港した。フェリーを降りると、民宿や旅館の旗を持った人が、たくさんいる。一瞬、旗を持っていた人と目が合ったが、私の今日の宿は、港のサービスセンターで決めてもらおうと思っていた。

 「とにかく、朝食が先、駅前の食堂に行こう」と歩き出すと、「今日の宿は、決まっていますか。決まっていなかったら、ぜひ泊まってください。料理は保証します。相部屋になるかと思いますが、どうですか」と、後ろから声を掛けられた。それが「民宿なぎさ」の従業員、竹ちゃんだった。「うーぬ」と、躊躇しているところに、もう一人やって来た。その人が「民宿なぎさ」のご主人、伊藤文夫さんだ。泊まる気は、全くなかったのだが、二人の熱心で強い誘いを、断わることができず、「今日は、この民宿に泊まろう」と決めた。
 「これから、礼文島は、どこへ見学に行くつもりですか」と聞かれたが、何も考えていない行き当たりばったりの旅。とりあえず、民宿へ行くことになった。

 「民宿なぎさ」は、礼文島の西の外れにあって、真正面に、利尻富士が望めた。中に入ると、居間で、何人かの泊り客が、本を読んでいた。
 荷物を部屋の隅に置き、これから見学するところを、調べ始めた。パンフレットを見ると、礼文島には、いろいろな観光スポットがあるようだ。その中から、香深から林道コースを通り、礼文滝から、海岸の岩場を渡って地蔵岩へ、さらにそこから、元地海岸・桃岩・元地灯台を通って民宿へ戻る、六時間コースを選んだ。「これを使ってください」と、文夫さんが、小さなリュックを貸してくれた。その親切にはびっくりした。とにかく、必要なものだけを入れて身支度した。

 車で、再び香深まで送ってもらう。港の前にある店で、遅い朝食をとり、昼の弁当も作ってもらい、午前十時三十分、出発。急な上り坂を歩いて行くと、下の方に、港の景色が見え出した。青い海と、遠くには利尻富士、すぐ手前は緑の山と、景色が美しい。

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 林道コースに入ると、木陰が所々にあって、涼しくなった。林道をぐんぐん上って行くと、視界が急に開けて、美しい緑の山の姿が前面に広がった。今までに見たことのない、素晴らしい風景だった。「礼文島にやって来て本当によかった」と、その時初めて思った。

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 それから続く景色は、どこも最高であった。山頂近くでは、高山植物が花を開いていた。

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 礼文滝の近くでは、カモメやウミウが、何百と飛び交っていた。

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 地蔵岩までの海岸歩きは、スリル満点だったし、地蔵岩の切り立った岩肌は、すごかった。

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 桃岩から元地灯台へ向かう道の景色も、草原の山を歩いているという雰囲気がした。

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 午後三時三十分、民宿にもどる。民宿にはたくさんのお客がいた。皆、私よりはるかに若い青年たちだ。今日は相部屋だという。一体、だれと一緒に、泊まるのだろうか。「お客さんの部屋は、この隣ですが、今は、食堂になっていますので、それまではありません」と、竹ちゃんが言った。「えっ!」とびっくりしたが、それからも、寝るまで、びっくりすることが、連続して起こったのだ。「民宿なぎさ」は、本当に不思議な宿だった。
 
 まずは、風呂に入る時刻が、決まっていたことである。この宿には、小さな風呂が、一つしかない。そこにたくさんの人(今日はおよそ三十人とのこと)が、宿泊するのだから、時刻をきちんと決めて入ってもらうのだという。当然といえば当然だが、「五時になったら呼びますので、お客さんはそこで入ってください」と言われた。泊まり客の中には、入る時刻を忘れてしまい、寝る時になって、「まだ風呂に入ってないのですが」と申し出た人がいた。その時の竹ちゃんの困った顔を、今でも記憶している。果たして、その人は、風呂に入れたのだろうか。

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 時刻は午後六時に近づき、泊り客が続々到着し、宿は、人で一杯になってきた。夕食は、六時三十分頃から始まるそうだ。「夕日が沈む時には、利尻富士が赤く染まり、とても美しいですよ」と教えてもらい、私は、カメラを構えて外にいた。だんだん、日が西の空に沈むにしたがって、日の光を真正面から受け、利尻富士が、薄っすらと、赤く染まり出した。決定的チャンスを逃すまいと、数人の泊り客も、カメラを構えて、シャッターを切っていた。今日の日没時刻は、午後六時四十分頃である。ますます、利尻富士が赤くなりだし、もう少しで、最高潮を迎えようとしていた時である。

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 「夕食が始まります。中へ入ってください」と宿の中から声がした。「えっ! どういうこと?」「なぎさでは、みんなが揃ったところで、夕食を始めることになっているのです」と、何日も泊まっている若者が教えてくれた。「ちょっと、待ってよ!」と思ったが、他の客は、宿の中へ入ってしまった。自分だけが取り残されてしまい、私は、しぶしぶ宿へ戻った。「宿に泊まるお客全員が揃わないと、夕食が食べられない!」、これもびっくりしたことだった。
 
 広間二つに並ぶテーブルの上に、料理がびっしり並べられていた。全員が揃った所で、「今から夕飯を始めます」と、主人の文夫さんが言った。そして、今日の料理メニューを紹介していった。
「イカの刺身、生のバフンウニ、ソイの煮付け、タラバガニの足のフライ…」美味しそうな料理が、本当にたくさん並んでいた。ビールを飲み、一口一口、しっかり味わいながら食べていった。どれも最高の味であった。
ただ、いつまでも、ビールを飲んでいるという訳には、いかなかった。「民宿なぎさ」では、夕食の時間は、一時間と決められていたからだ。まだ、これから、いろいろとスケジュールがあるようだ。食事が終わらなければ、私の泊まる部屋だって、いつまでたっても、確保できないのだから、当然かも知れないが、「夕食時間は一時間」、これもびっくりしたことだった。

 夕食が終わり、広間の食器も片付けられ、「そろそろ、自分の部屋ができるのではないか」と、待っていたのだか、一向にその様子はない。「今晩は、港で花火大会があります。見に行きたい人は、車を出します。乗ってください」と文夫さんが言った。花火は稚内で見てきたので、私は見ないことにして、居間で、本を読んで過ごすことにした。

 午後八時半、花火大会も終わり、みんなが帰って来た。「今度こそ、自分の部屋ができるのではないだろうか」と思っていると、「九時からミーティングがありますので、それから布団を敷きます」と竹ちゃんが言った。「ミーティングって何だ」と、またまた不思議な言葉にびっくり。
 
 午後九時になり、再び、宿泊客全員が広間に集まって来た。いよいよ、ミーティングなるものの、始まりである。「今から、この宿に泊まった方一人一人に、自己紹介と、この宿に泊まったきっかけは何かを、語っていただきます。まずは、焼酎で乾杯しましょう」と、文夫さんから、お酒が振舞われた。そして、自己紹介が始まった。ミーティングとは、このことだったのだ。そして、「民宿なぎさ」には、ユニークな人が、たくさん宿泊していることを、知ることになった。

  東京に住む男性は、「一年のうち、何回もこの民宿へやって来て、過ごしています。ここへ来ると、ほっとして、ストレスが全部飛んでいくのです」と語った。ある夫婦は、「百名山に登る挑戦をしています。今日、利尻富士に登頂して、その目的を達成し、山頂で、仲間たちと祝杯を上げてきました」と嬉しそうに語った。朝、この宿へ来た時から、エプロンを着けて、一生懸命働いていた若者を見てきたが、実は、彼は従業員ではなくて、泊まり客だったということを、その時知った。「自転車で道内を周っていて、この宿に泊まり、ここが気に入り、しばらく手伝いをさせてもらっているのです」と、彼は恥ずかしそうに話した。今、働いている従業員の女性も、「今まで、何回もここへお客としてやって来たのですが、とうとう、今年は、この店の従業員になってしまいました」と話していた。私と同じように、港で声を掛けられて、やって来た人も何人かはいたが、多くの人は、この民宿の温かさを実際に体験したり、人から紹介されたりして、ここに泊まっていることが分かった。「民宿なぎさ」は、礼文島にしかない、特別の宿だった。次の日に、知ったのだが、この宿に泊まり、この宿の温かさを体験した人たちが、本でそのことを紹介していた。

 一人一人の自己紹介が終わり、記念撮影をした。文夫さんが、みんなから預かったカメラのシャッターを、順番に押して行く。カメラのシャッター音を聞きながら、「私はなんて幸運なのだろう」と、今日声を掛けてくれた竹ちゃんに、感謝したい気持ちで一杯になった。「明日の朝食は、八時間コースを歩く人は午前五時半です。後の人は、六時半です」と文夫さんが言った。あまりに早い朝食の時刻にびっくりしたが、お客さんの日程に合わせて、朝食を準備するこの民宿は、本当にすごいと思った。



[ 2012/07/25 08:48 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

北海道最北端から歩く

第2日 宗谷岬から稚内

 暑くて寝苦しい夜が、明けた。今日も、天気はよさそうだ。午前七時、宿の食堂へ行く。この宿は、朝食もできるというので、昨夜、頼んでおいたのだ。何と豪華な朝食だろうか。ウニ・カレイの煮付け・イクラ・ニラのおひたし・味噌汁・生タマゴと、それぞれの量は多くないが、テーブルに、ずらりと並んでいる。「ちょっと、食べきれないなあ」と思いながら食べ始めた。正直いって、どれも味はイマイチだったが、今日は、三十三キロを歩かなくてはならない。無理して食べた。それでも、半分以上は、残してしまった。後になって気が付いたのだが、あれは二日酔いだったのだろう。宿の人には申し訳ないことをした。
 
 午前八時十分発、大岬行バスに乗車する。座席は、ほぼ満席である。どの客も、宗谷岬に行くように見える。バスは、国道を宗谷岬に向かって走り出した。この道は、私が宗谷岬から歩く道である。地図を開いて、バスの窓から、道の様子を観察する。海岸沿いに面した道路の横に、しっかりした歩道が続いていた。宗谷岬と稚内の真中にある川尻という町には、コンビニとレストランがあることも分かった。事前に、歩く道が確認できたことほど、心強いことはなかった。

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 午前九時、宗谷岬に到着した。パンフレットで見た「日本最北端の記念碑」が立っている。大きな記念碑だった。駐車場には、バスや自動車、バイク等が、たくさん止まっていた。記念碑の前で、訪れた人たちが、写真を撮っている。観光バスでやって来た人が多いようだ。ボーと立っていたら、「すいません。シャッターを押してください」と、若者にカメラを渡された。「じゃあ、終わったら、私のカメラもお願いします」と、私も記念撮影をした。

 いよいよ、最北端を歩く旅を開始する。「さあ、出発」と、自分を勇気付ける大声を上げてから、歩き始めた。今日到着しなくてはいけない稚内が、はるか彼方にかすんで見える。その後ろには、利尻富士が、雲をうっすらとかぶって見えていた。ずっと彼方まで見渡せる、北海道のスケールの大きさには、圧倒される。それにしても、今日は雲一つない快晴である。風は心地よいが、強い日差しが、ジリジリ照りつける。しばらく歩いただけで、汗が吹き出した。

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 時々通過して行く車は、裕に、時速百キロを超えているように思う。トラックが通過する時の風圧は、ものすごい。体が飛ばされそうである。しっかりした歩道があってよかった。北海道を旅行しているライダーが、走って行く。「やあ」と、手を上げて挨拶を交わす。単調な道を歩いているので、時々交わす挨拶は、励みになって、元気が出てくる。彼らもきっと、自分と同じ気持ちになっているのかもしれない。

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 歩き始めて一時間近く経った頃、向こうから、大きなリュックを背負った八人のグループが、近づいてきた。私と同じように、道を歩いて、旅をしているように思える。どうやら、高校生のようだ。「こんにちは。どこから歩いて来たのですか」と声を掛けると、「豊富から歩いてきました」と返事が返ってきた。何日か先に行くことになる、「豊富」という地名を聞いて、どういう道筋でやって来たのか知りたくなり、さらに質問した。「豊富から出発して、一日目は兜沼で一泊。二日目は抜海駅で一泊。三日目は稚内の小学校で一泊。そして、今日は、宗谷岬に向かって歩いています」と詳しく教えてくれた。

 彼等のリュックには、寝袋やテント、炊事道具等が詰まっていて、とても重そうに見えた。あの重さでは、一日二十キロ歩くのが、やっとのようだ。今日、自分が背負っているリュックの重さは、せいぜい四キロだが、荷物を全て入れたら、十キロ近くになる。本当に、それを背負って歩けるのだろか。不安な気持ちが、再び広がり始めた。

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  午前十一時、富磯と呼ばれる町に入る。この辺りは、昆布漁が盛んで、海で採れた昆布が、所狭しと、海岸や道路・空き地に並べてあった。昆布を、一生懸命干しているおじいさんがいる。「こんにちは。精が出ますね」と声を掛けると、「この辺りの昆布は、利尻昆布という名前で出荷しているよ。一日干しても、昆布は乾燥しない。乾燥するまでに五・六日は掛かるからね。昆布の仕事は、とても世話が掛かるよ。とにかく、天気次第だから、今日のような天気は、本当に嬉しいよ。つい三日前までは、すごい雨が続いていたから、どの家でも、今日は、大忙しだよ」と、昆布漁について、親切に教えてくれた。「いい昆布とよくない昆布は、どう見分けるのですか」と質問すると、「白い粉がふいたのは、だめな昆布さ。真っ黒な昆布は、味も美味しいよ」と、干していた昆布を数本、「道々、かじって行きなさい」と私にくれた。早速もらった昆布をかじりながら、歩き始めたが、長距離を歩く者には、塩辛い昆布は、水が欲しくなって、あまりよくないようだ。

 おばさんが、ガードレールに、旗を縛り付けていた。「ライダーハウス」という文字が見える。「ライダーハウスって、北海道には、たくさんあるのですか」と尋ねると「いやーちょっと分かりません。私の家は、つい最近開業したばかりで、宣伝もしていないのですよ。それでも、この旗を見て、ライダーがやって来るのですよ。よかったら、あなたも今日泊まりません」と言われてしまった。「今日の宿は、稚内で決まっています」と断わると、「この旗を記念にあげましょう」と、おばさんは、縛り付けていた小さな旗を一本、私にくれた。ライダーたちは、小さな旗をバイクの後ろに付けて走っていたので、私も旅をしている目印にと、リュックの横に、旗を差して歩くことにした。面白い姿だが、それからは、バイクや自転車で走っている人たちからの挨拶が、かなり多くなった。この旗は、今も、私の家に記念として飾ってある。

 十二時、増幌川に架かる橋を渡ると、レストランの建物が見えてきた。昼食を、ここでとる予定である。ペンションも経営しているようである。入口から中へ入り、「食事ができますか」と言うと、少し迷惑そうな顔をされた。「ちょっと待ってください」と、受付の若者は、奥へ入って行った。「イクラ丼なら、できるということですが、いいですか」と言うので、それを注文して、テーブルに着いた。

 店の人たちは、他のテーブルの上に、昼食の準備をしていた。なかなか、豪華な食事のようだ。ペンションの、泊り客のものなのだろうか。しばらくして、イクラ丼なるものが、出てきた。一面赤いイクラが載っている。「イクラ丼というのは、こういうものだったのか」聞いてはいたが、見るのは初めてだった。見たところ、とても美味そうに見えた。しかし、一口食べて、吐き出したくなってしまった。ごはんが生臭くて、食べられるものではなかった。「気持ち悪くて、食べられない」とも言えず、少し我慢して食べたが、箸はほとんど進まなかった。「申し訳ないけど、残してしまいました」と若者に謝って、代金五百円を払って外へ出た。
日差しは、ますます、強く照りつける。ペットボトルを一本と、お茶の缶一本を、用意してきたが、缶の方はすでに空になってしまった。

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 午後一時過ぎ、「メグマ原生花園」という立札のある所を通過する。辺り一面、低い潅木が生い茂っている。植物が、保護されている地域のようだ。空からジェット機の音が聞こえて来た。見上げると、飛行機が、着陸しようとしている所だった。どうやら、稚内空港の近くまで、歩いて来ているようだった。

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  午後二時過ぎ、稚内空港の横を通る。フェンスの外れの所に、立て札が立ててある。「熊出没」と書いてある。「ゲッ、熊がこの辺りで出るのか」びっくりしながら立札を詳しく見ると、「年月日」の表示があるが、何も記入してなかった。その時、再びジェット機の音が近づいて来た。着陸するようだ。ちょうど、その立札のすぐ上を通過しそうなので、カメラを構えて待った。「ひょっとすると、面白い写真が撮れるかも知れない」と待っていると、飛行機は、立札のすぐ上を滑空して、下りてきた。「カシャ!」シャッターを切った。「やった! もし写っていたら、最高の写真になりそうだ」。まだ見ぬ「熊出没と飛行機」というタイトルの写真を想像して、笑いがこみ上げてきた。

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 午後二時三十分、声問海岸に到着。海水浴を楽しむ家族連れが、たくさんいる。水はきれいで、海水浴には最高の日和である。しばらく、海岸を歩いて行くことにした。バーベキューを楽しんでいる人もいる。ずっと続く海岸は、車が、すぐ水の際まで乗り入れられる。ここは、稚内の人たちの、絶好の海水浴場となっているのだろう。
 
 とうとう、ペットボトルの水が、底をついた。やはり、今日の暑さでは、一本では足りなかったようだ。道は、街中へ入って来ているので、どこかにコンビニがありそうだ。

 再び、国道に出て、しばらく行くと、前の方から、自転車がやって来た。何だか、ふらふらしているように見える。よく見ると、外国人が運転していた。「変だなあ」と思いながら見ていると、いきなり、歩道から畑に落ちて行った。「こりゃあ大変!」と駆けつけると、その外国人はにこにこしながら起き上がった。「大丈夫」と声を掛けると、「OK」というようなことを言っている。どこも、ケガはなかったようだ。何だか、酔っ払っている。「自転車でトレーニングしているのだ。パラシュートを着けて空を飛んだので、うまく着陸できたよ。ケガはないだろう」というようなことを、身振り手振りを交えて、言っているようだ。この暑さの中、酔っ払いながらトレーニングとは、変な外国人もいるものだ。
 
 コンビニが、見えてきた。スポーツドリンクを買って、日陰になっている所で休んでいると、競技用自転車に乗った中年の男性が、同じように、スポーツドリンクの缶を手に持ってやって来た。「こんにちは」と声を掛ける。「今日は、百二十キロ走って来たよ。宗谷岬からもっと先の浜頓別まで行って、後は、山の中を走って帰って来たよ」と、筋肉もりもりの男性は、教えてくれた。「息子も付いていたのだが、この暑さで、気分が悪くなって、途中で帰ってしまったよ」と、付け加えた。「ああ、その子なら会いましたよ」と教えると「やっぱりねえ。息子は、まだまだ。これからだね」と、男性は笑っていた。「これからもお互い元気でがんばろう。交通事故にだけは気を付けよう」と挨拶を交わして別れた。

 午後三時三十分、南稚内駅近くを通過する。後、四キロで、稚内駅である。工場の花壇に、水をやっている男性がいるので、水を頭からかけてもらう。その人は、「私も若い頃、名古屋の町をトラックで走っていたことがあるよ」と話してくれた。

  午後四時三十分、稚内駅前に到着。第一日目の目標は、無事終了した。宿に帰り、シャワーを浴びる。「明日はどうするのか」。今日の状態から考えると、荷物を全て持って歩く自信はない。「せっかくここまで来たのだから、思いきって、楽しい旅もしなくては。今日見えた利尻富士を見に、礼文島へ行こう」と決めた。本来の目的からは外れるが、行き当たりばったりの旅なので、そこが気楽なところである。

 午後六時、食事に出る。大きな寿司屋に入り、にぎりを注文する。生きのいい魚が載った寿司は、美味しかった。再び昨日の居酒屋「伍佰」へ行く。時間が早いので、今日も店に客はいなかった。今日歩いた道のことを、マスターはいろいろ聞いてくれる。「明日は、利尻富士を見に礼文島に行って来ます」と話をした。マスターから、ビールをご馳走になった。

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「今夜は、港で花火大会が開かれる」というので、店を後にする。花火大会は、港のフェリー乗り場の前で開かれていた。久しぶりに、こんな間近で花火を見る。時間的には、三十分と短かったが、迫力のある花火だった。午後九時、宿に帰る。今夜も、暑くて寝苦しい夜になりそうだ。

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[ 2012/07/24 09:39 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

北海道最北端から歩く

第1日 名古屋から稚内

 午前八時四十分、定刻通り飛行機は、名古屋空港を飛び立った。行き先は、札幌千歳空港。夏の長期休暇をもらい、「日本最北端の北海道宗谷岬から札幌までを、歩いて見よう」と、馬鹿な計画を立てた。今まで、いろいろな所を歩いてきたので、北海道も歩いてみようと思ったのだ。そのことを、ついつい、口が軽い私は周りの人に話し、それを聞いた人も、「また馬鹿なことを、この人は言っている」と思いつつ、いろいろアドバイスや協力をしてくれた。 
 
 「とにかく、北海道はスケールが大きいから、町と町との間の距離も長いし、宿屋がないところもあるよ。寝袋を、持って行った方がいいよ」「リュックを、もっとしっかりした物にしたら」「靴も、足に負担の少ない物にしたら」と、スポーツ店に一緒に行って、買い物の手伝いをしてくれた職場の同僚。実際に、北海道を自転車で走ったことのある若者からは、「ライダーハウスという、ライダーが泊まる施設が、あちこちにできているから、それも利用するといいよ」という情報ももらった。「困った時に連絡が取れる手段としては、電話が一番」と、それまで頑なに拒否していた携帯電話も、持つことになった。「北海道には、親戚があるから住所録を送るよ。もし行ったら、きちんと挨拶してきてくれ」と、親父からは、今まで一度も受け取ったことのない手紙まで届いた。「北海道を歩く」という旅が、いかに注目を集めていたかが分かる。
 
 実は、今回の旅については、もう一つ大きな目標があった。現在、私は、小学校六年生の学級担任をしているが、一学期の学級経営は、あまりうまくいっていなかった。世間一般で言われている「学級崩壊」寸前だったのだ。それで、北海道を歩けば、二学期になって、子どもたちと一緒に取り組める課題が、見つかるのではないか。いや、見つけなければいけないと思ったのだ。これが、旅に出る最大の理由だったように思う。

 「課題が見つからなかったら、どこまでも歩き続けるから」と上さんに話した。旅人の疲れた様子を見ていた上さんは、「ひょっとしたら、これが今生の別れになるのでは…」と思ったのか、「見送ってあげるちゃ」と、わざわざ名古屋空港まで、見送りに来てくれた。

 今回の旅行は、細かい日程などは何もなく、行き当たりばったりの旅なので、(実はいつもそうなのだが…)この先どうなるのか、皆目検討がつかない。とにかく、協力してもらった人や、心配してもらった人に、帰ってから旅日記にまとめて報告できることを目標にして、出発した。

 飛行機の座席は、操縦席のすぐ後ろのスペースである。機内は満席。つい数日前に、ハイジャック事件があったばかりで、飛行場での警備体制も、強化されていた。しかし、この飛行機の客室乗務員は、女性ばかりだった。男性も入れるべきだという議論が起こっているが、まだ、改善は進んでいないようだ。天候がよく、飛行機は、定刻の午前十時二十五分、千歳空港に着陸した。

 千歳空港で列車に乗り換え、一路稚内へ向かう予定である。「旭川行」特急列車の乗り換え時間は、僅か二十分。乗れるかどうかは、荷物を受け取る時間次第だ。しかし、あせっても、なかなか荷物が出てこない。ようやく十分ほどして、自分の荷物を受け取り、JR乗り場に急ぐ。新千歳空港駅は、空港の地下にあり、空港ロビーから五分ほどの所にあった。滑り込みセーフ。予定の列車に乗車することができた。

 この列車は、札幌から「ライラック七号」と名前を変え、旭川まで行く。車内の座席には、余裕がある。どうやら、飛行機で来た人たちの大半は、観光バスに乗り換えてしまったようだ。

 午後一時、列車は旭川に到着した。ここで、「急行宗谷」に乗り換える。待ち時間は十八分。すでに、プラットホームには、長い行列ができていた。ホームで駅弁とビールを買い、列の最後尾に並ぶ。「ひょっとすると、座れないかも知れない」と思った。「急行宗谷」が入って来た。急行らしい、少し古い型の列車である。窓がない最前列の席だが、何とか座席を確保することができ、一安心。ここから、稚内までは四時間かかる。

 列車は、ずっと緑の草原が続く、単調な景色の中を進んで行った。改めて、北海道の広さを認識し、自分が、途方もない計画を立てていたことを、思い知った。とにかく、稚内から札幌までは、列車で六時間近くかかること。距離にして、四百キロ近くあるのだ。一日三十キロのペースで歩いたとしても、二週間はかかる。とても歩けないという不安な気持ちだけが、どんどん大きくなっていった。

 私の計画では、この宗谷本線に沿って、道を歩くつもりだ。たぶん、歩くことになるであろう道が、列車の窓から時々見えるようになった。白い路側帯が見えるが、歩道はないようだ。ずっと、危険な道の連続のようだ。ますます、気分が重くなっていくが、歩かなくては事は始まらない。

 午後五時二十五分、列車は稚内駅に到着した。日差しが強く、暑い。「今日は、三十度を超えたんだよ」という声が聞こえる。名古屋と、全く変わらない暑さである。「まずは、宿を探さなくては」と、駅のサービスセンターヘ行く。「ホテルはどこも満室です。駅前に、幾つか旅館があるから、そこへ、行って見てください」とチラシを渡された。

 今日は土曜日で、この町では、盆踊り大会が開かれるという。「ひょっとしたら、宿が取れないかも知れない」と、少し不安な気持ちになりながら、紹介された方向へ歩いて行くと、旅館が、三軒ほど並んでいた。どれも古い建物である。「稚内ステーションホテル」という名前が目に入ったので、その旅館へ入って行った。
受付に、おじいさんが座っている。「一人ですが、泊まれますか」と言うと、「値段の高い方なら空いているが、そちらでいいか」と聞かれた。もちろん断わる理由は、私にはない。バス・トイレが付いて、素泊まりで七千七百円という部屋だった。部屋は狭く、クーラーはなく、小さな扇風機が置いてあった。「これで七千七百円もするのか」とは思ったが、今日の宿は確保した。

 明日は、ここから、日本最北端の宗谷岬へバスで行き、そこから、この稚内まで歩いてくる計画を立てた。バス停はこの宿のすぐ前にあり、出発時刻は午前八時十分だった。地図で調べると、宗谷岬から稚内までは三十三キロ。けっして歩けない距離ではないが、最大の問題は、背中に背負うリュックの重さである。寝袋やシートを入れると、十キロ近くになり、ズシリと重い。今までこんなに重い荷物を、背負って歩いた経験はなかった。それで、急遽、寝袋やシートは、稚内に置いて出かけることにした。フロントに「明日も泊まりたい」と言うと、「いいですよ」との返事ももらえた。明日の行動は、これで決まった。

 午後七時、シャワーを浴びた後、食事を兼ねて、町の見物に出かけた。稚内の町は、夏祭りの真っ盛りである。駅前から少し行った所には、テントが幾つも立ち、ビールやつまみが売られていた。さすがに、北海道でしか食べられない品物が並んでいる。さっそく、ビールとホタテを買って、食べながら歩き出した。

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 大通りは、人で一杯である。盆踊りを踊る行列が、ずっと続いている。なかなか激しい踊りである。今日は、踊りの審査もあるので、日頃から練習してきた成果を、ここで披露しているのだという。手に鳴る子を持って踊っているグループ、カスタネットを持って踊っているグループ、仮装をしているグループもある。稚内市は、それほど大きい市ではないと思うのだが、これだけたくさんの人たちが踊っているのは、市民あげてのお祭りだからだろう。○○商工会・○○町内会・○○銀行・宗谷支庁・○○中学校…たくさんのチームが参加している。稚内子ども劇場・パート労働組合というチームも参加していたのには驚いた。この踊りの列は、全長二千メートルにもなっていた。

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「どこかで食事をしよう」と、賑やかな通りを歩いて行った。鄙びたビルの一階にある、「伍佰」という名前の居酒屋に入った。まだ、盆踊りが真っ盛りで、お客さんはだれもいなかった。取りあえずビールを注文した。

 「この店は、店の名前の通り、どの品物も五百円ということです」とマスターは言った。なかなか粋な店である。まずは、イカ刺を注文した。「稚内の今日の暑さは、すごいですね」と言うと、「稚内では、クーラーや扇風機は、必要ありません。そんな日は、二・三日あるかどうかですからね。この数年は寒くて、こんな夏はありませんでしたよ。今年の夏は、特別ですよ」とマスターは言った。「名古屋から北海道に、歩きにやって来ました」と私が言うと、マスターは興味を示して、話を聞いてくれた。それで、私も調子に乗って、これから歩く所の情報を、いろいろ教えてもらっていた。

 そこへ、何人かの女性客が入って来て、店の中は、賑やかになった。私が、名古屋から来た客であることを知ると、入って来たお客さんも、話に加わった。そのうちの一人は、「私も若い頃、名古屋に住んでいたんだよ。ごちそうするよ」と、二本も銚子を差し入れてくれた。ふらっと入った飲み屋で、思わぬ楽しい一時を過ごし、「明日の夜も、ここへ飲みに来よう」という気持ちになっていた。





[ 2012/07/23 13:50 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

気ままな旅人の「車で長旅する方法」

4 終わりに

 「軽自動車にそんなにたくさんの物が積めるの?」と、不思議に思われるかも知れませんが、座席の下も使えますから、できるだけ小さい物という条件ですべて準備すれば十分に積むことができます。旅人の旅のスタイルは、「小さな家に住み、それで旅をしている」と考えていただければ、きっと想像していただけると思います。

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 こまごまと紹介しましたが、あくまでも、これは旅人の旅行スタイルです。皆さんだったらきっと違ったスタイルで旅行されることでしょう。


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 とにかく一度出掛けて見ませんか。貴方の目の前にきっと素晴らしい世界が広がり始めると思います。 何時の日か、何処かでお会いできることを楽しみにしています。(完)




[ 2012/07/19 07:13 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)
プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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