水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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神通峡をたずねて  片掛かいわい11

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話3

片掛に文明が押寄せて来た頃の話      文山 秀三
  
 大正十五年十二月二十五日、大正天皇は崩御されて、前から摂政として天皇の代理をされていた今上天皇が皇位を継承され、年号は昭和と改元された。新しい年号の「昭和」は、中国の古典「書経」の「百姓昭明、万邦協和」という言葉から引用されたものである。

 改元はその事の重要さは誰でも知っていることであり、今更それについて書こうとするものではないし、国の制度上の問題に触れるつもりもない。私はここに「改元」をとりあげたのはこの改元を中心とした数年間、山村片掛に大きな文明の波がおしよせたからである。その波は村人の頭にも心にも、くらしそのものにも大きな変革をもたらし、新しい時代への幕開けだったからである。
 
 私が小学校へ入った一年生の時初めてトラクターを見た。その翌年関東大震災が発生した。

img8311.jpg「細入村史」 
 
 片掛から六㎞程南の蟹寺に、その頃としては我が国で最大級の水力発電所が建設されることになり、その建設資材のうち、特にセメントの運搬はすべて馬車によって運ばれ、馬車は連日のように長い列をつくって笹津と蟹寺の間を往復していた。その頃、車といえば人力車、荷車(二輪で人がひくもの)、馬車だけで、タイヤの車は人力車のほかにはなく、荷車も馬車も鉄の輪がはまっているものだった。このように明治の延長と思われるような山村にトラクターが出現したのだから、たいへんなことだった。
 
 発電所建設に伴って、土木・電気・建築などの専門家といわれる人たちが続々入って来たし、それまでに見たこともないドイツ人も来た。猪谷小学校へも、それら専門家といわれる人の子供たちが転校してきて、静かだった学校も日に日ににぎやかさを増していった。他府県からの子供たちはそれぞれ違った方言をつかったり、標準語らしい言葉でしゃべる者があったりで、面白かった反面、たいへんだった。私などは、その頃、どのような言葉が標準語であるか詳らかでなく、まして標準語らしい言葉と標準語の区別はつかなかった。
 
img8312.jpg「細入村史」

 トラクターは珍しかったが、運ばれてくる装置類や機械なども、その名称は、もちろんどこで設置されてどのようなことに使われるかもわからず、ただただ驚くばかりだった。この発電所の建設工事によって、平常時の山村の数十年分に当る文明が一度におしよせ、山村の大人・子供を問わず、目を覚まさせてくれた意義は大きかった。

 img8313.jpg「細入村史」

 その発電所建設工事がようやく終わろうとする頃、高山線の建設工事が始まった。高山線は富山市~高山市~岐阜市を結ぶ国鉄の中部地方横断鉄道で、当時わが国でも最も難工事を予想された鉄道だった。この高山線は、飛騨の開発が主目的で、木材・木製品・木炭などを積み出し、米やセメント、機械類などを送り込むためとして着工されたものだが、このほかに軍部からの強い要求があった。軍隊輸送に関して富山方面から東京方面へは、北陸線と信越線があり、大阪方面へは北陸線や東海道線があって大きな問題はなかった。しかし、名古屋方面と富山市を直結する鉄道がなかったので、陸軍は前から強く高山線の完成を要求し続けていた。

 img8314.jpg「細入村史」

 高山線は全線一度に完成したのではなく、先ず、富山~猪谷間の開通をめざして工事が開始された。とにかく、飛騨は日本の屋根といわれ、山は高く谷は深い。工事は掘割とトンネルと鉄橋の連続のようなもので、しかも、今のように進歩した建設機械がなく、コンクリートのピーヤ(橋けた)を作ることと、ダイナマイトで爆破することのほかトロッコの作業が多かった。トンネルでは特に庵谷峠の工事中熱湯が湧き出すなどのことがあって、工事がそのために相当遅れたと聞いている。
 
 鉄道建設工事の作業者には土地の人はあまり加わらず、土方といわれる人たちのほとんどは他府県から出かせぎのように来ていた。もちろん、専門家といわれる人たちも測量、設計など仕事にたずさわっていたことはいうまでもない。

 この工事に朝鮮人も働きにきていて、言語や習慣、食べ物など違うので村から少しはなれたところに飯場を作り、そこで寝泊りし、その飯場から作業所へ通っていた。彼等が入って来て、目に付いたのは、重いものでも平気で頭にのせて歩くことと、服装は朝鮮の服であるのは当然として、男も女も白一色であった。洗濯には日本人のように洗濯板を使ってもむということがなく、石などの上に布を置き、木の棒で叩いていた。女の人の服装で変わっていたのは、上衣が非常に短く、スカートのように見えるものが長かったことであろう。食べ物は米が主食であったほか、副食に何を食べていたかは判らない。ただ、唐辛子をふりかけのようにかけて食べていたのには驚いた。
 工事が始まってから、いろいろな物売りが多く山村にも来るようになり、食べ物にしてもそれまで山村では見られなかったようなものが入って来た。作業には土方たちはみんな地下足袋を履いていたし、洋服だった。村へ出入りする人たちにも背広を着ている人を多く見かけるようになり、当然ながら革靴を履く人も増えていった。また、飛騨街道にも自動車が通るようになり、貨物自動車(当時はトラックとはいわなかった)で物資が運ばれるように変っていった。
 
 この鉄道建設工事は、多くの人の出入りと流通事情の好転によって、村人に大きな変化を与えずにはおかなかった。農作業用の服装もモモヒキはズボンになり、上衣は帯で締めなくてもよいボタンのついたものにかわった。ワラジや足なかは時代遅れとなり、ほとんどの人は地下足袋をはくように変わっていった。男に比べて女の人の服装はその変わり方は遅かったが、アッパッパ(今のワンピースのようなもの)を着るようになったことは、特筆すべき事柄であろう。村人の中にも、村長や郵便局長でなくても、背広を着る者が現れ、それが次第に増えていった。
 
 このように、蟹寺の水力発電所建設と高山線の建設工事は、大正十四年に放送を開始したラジオと共に、改元を含む僅か数年の間であったが、過去数十年に匹敵する変革と文明を、この山間の片掛にもたらした。
(飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著




神通峡をたずねて  片掛かいわい10

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話2

吊橋の思い出     
    山本外治 

 明治になって道路の話が持ち上がった時には、東側の人達は、道が出来ると色々の人達が多く通るし、悪い人も来るだろうし、狭い土地も無くなるとの理由で、莚旗を立てて反対運動を起し、西側に移してもらったのだと聞いた事があるが、本当かどうか。現在ならどう考えるかなあ。
 
 明治九年に県道(現四十一号線)が完成したそうだが、その後「ドシマ」はなくなり、代わって馬車や荷車になり、荷物が多く動くようになると共に人も多く通るようになり賑やかになった事だろう。
 
 昔から片掛は庵谷峠を降りた所に位置するので宿場として栄えた所で、筆者等が子供時分には既に、茶屋・宿屋・呉服屋・小間物屋・食料品・酒味噌・醤油屋・医者(近郷)・鍛冶屋(石塚)、銀行(密田)・郵便局・駐在所・瀬戸物屋・肥料屋・運送屋(文山)等なんでも揃っていて便利よく活用したものだ。
 
 東側と云えば県道が出来て、一、二年後の明治十年か十一年頃に伏木と東猪谷に吊橋が出来たものだと思う。
 
 伏木の橋は、現、村田秀夫さんの家と隣の坂下茶屋と云う家の間から橋道があり、少し南に向かって降りた所に橋が架かっていた。橋といっても立派なものでなかった。振り止めも粗末で人が通ると相当揺れて、女・子供は大変恐ろしかったと思う。それでも無いよりよいから絶えず通ったものだ。橋を渡り坂道を上りきった所が県道で、そこに一本木と云って、大きな欅があり、やれやれ一本木に着いてようやく片掛に来たと思った。
 
 片掛村には何でも揃っているので、東猪谷・舟渡・小糸・伏木の人は買物によく通ったものだ。店が県道の両側に並び、まるで街のようだった。行商人は荷車で運び、東側へは天秤で肩にかけてくる人、背負ってくる人で色々だが、どういうわけか八尾付近の人がよく来た。三、四人はいたなあ。
                    「郷土研究大沢野町 ふるさと下夕南部」 野菊の会編
  

神通峡をたずねて  片掛かいわい9

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話1

大正期の片掛 

 大正期の片掛には、かなりの商店・運送店・職人が集まっていた。

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 この頃の片掛の戸数は八十数戸で、庵谷発電所工事時は、臨時世帯を含め一〇三戸あったという。
 
 その中でも特に旅館業は、四軒もあった。一月下旬から二月になると、高山や古川から、信濃の製糸工場へ女工として出向く娘たちが、どの宿にも泊まった。彼女らは、斡旋業者につれられ、一時に百数十人という想像を絶する人数が富山に向かって行った。あまりにも多いときは、一般の家にも宿泊したという。その時は、お茶代として宿泊費が各家に入ったので、庵谷峠まで多数の村人が見送ったこともあったという。
 
 古老からの聞き取りによると、細入村からも、明治末期に野麦峠を越えて信濃へ糸引きにいった例があるという。しかし、富山県から大量の製糸工女が出るようになるのは、大正二年の北陸線開通によって、富山~直江津~長野~高崎が結ばれるようになってからである。この頃になると、細入村においても、豊かな家の娘を除いて、多くの娘たちは、尋常小学校を卒業するとすぐに糸引きに出るのが、普通となった。
 
 片掛には、銀行・郵便局・警察も置かれていた。金融・通信・治安という点でも、細入村および周辺地域の中心だったのである。

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 当時郵便局と銀行が併設されていた坂野家

 また、片掛には、明治二十年頃から、近郷源治氏という人が医院を開業していた。この人の家に乃木将軍が宿泊した話は、有名である。明治四十一年近郷氏が富山へ転居され、しばらく医者のいない村になったが、地域や企業の支えで、大正十三年から昭和九年まで、医院が開設され、地域医療にあたった。
 
 明治十五年の春祭りには、坂野善助宅の家と土蔵の間に仮屋を造り、富山から楽屋職人を招いて舞台を造った。舞台小屋は、近郷源治が自費で建てたが、後に部落が管理することになった。この時の「先代萩竹ノ間御殿場安達ケ原」という芝居は、近在に響き渡ったという。
 
 大正九年、この舞台で活動写真が上映された。
 
 また、このころ、楽隊ができていた。楽隊は日露戦争の旗行列にも参加し、また、猪谷小学校の運動会には必ず出演したという。もちろん我流でなく、富山から師匠を招いて、分教場でよく練習したという。
 
 当時の片掛は、飛騨街道沿いでは、大久保・船津・角川・高山などと並んで、「まち」としての諸機能がほぼ完備していたところであったといえる。
 
 このような片掛の繁栄も、昭和十年に飛越線が開通し、猪谷に駅ができるとかげりをみせ、さまざまな商業機能は、猪谷へ移っていった。          「細入村史」



神通峡をたずねて  片掛かいわい8

伝えたいお話あれこれ   明治時代の頃のお話

片掛分教場で学んだ頃の思い出
   

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片掛分教場 「細入村史」
 
 細入村立猪谷尋常小学校片掛分教場の名称のとき入学し、片掛大渕寺の本堂(分教場が明治三十四年四月、火災によって焼失)において教育を約二年八ヶ月間受け、その後は現在の片掛公民館の建物である片掛分教場が新築落成(明治四十年二月頃)したので、約四ヶ月間程分教場で勉強しました。そして小学校三年を終わり翌年四年生となり、本校の猪谷小学校へ通学し、三カ年間教育を受け、義務教育の六ヵ年を卒業したのです。
 当時の先生は今井千代さんで一・二・三年を担任、校長先生は四・五・六年を担任されたのです。教科書は、読本・書き方・算術・唱歌、五年生になって理科・地理・歴史・図画を習ったのです。また、一・二年のとき、大渕寺と猪谷西禅寺の境内で二つの学校の運動会もしました。   片掛 佐藤利次(明治四十年入学) 
                                       「細入村史」


乃木将軍、片掛に一泊

 富山日報によると、明治三十九年六月二十一日飄然として金沢を訪れた乃木将軍は、翌日病院や兵営を巡回。その後、七尾、和倉を経て二十三日午前十時二十七分、富山に汽車で到着、しばらく時を過ごした後、同日午後三時ごろ細入村片掛に向けて八尾を発った。以下富山日報の記事は次のとおりである。

乃木将軍飛騨入 
 一昨々日当市を経て飛騨に入りたる乃木大将は八尾出発後佐野同警察署長と共に車を駈て山道に進みたるが寺津の淵より庵谷峠に至るまでは真に絶景にして其間車の通じ難き場所約一里余ありしかと将軍は車を棄てて徒歩し日暮れて後細入村片掛なる近郷予備二等軍医の宅に着し一泊せり同夜将軍は手づから鍋にて卵酒を作り同行の署長等にも侑めて寝に就かれ翌朝は午前七時雨を冒して同村を出発し進む事一里六丁飛越国境蟹寺橋を渡り更に進む事五里余、午前十時頃船津町に着し渡辺旅館に昼飯を取り十一時出発数里にして古川町に入り(以下略)
 
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 この記事にある近郷重孝軍医は、金沢医学専門学校を卒業、日露戦争に軍医として出生した人である。
 片掛では、将軍が宿泊した離れ座敷の建物を、大正末期に青年会が譲り受けた。青年たちはその建物を現在の片掛公民館うえの資料館の地に移築し、それを乃木館と名づけた。この建物は太平洋戦争直後まで約四十年の間、片掛青年会の勉強塾となった。                「細入村史」


ウェストンも通った片掛の道 

 今からおよそ110年ほど昔、イギリスの宣教師ウォルター・ウエストンが、富山から飛騨の笠岳へ向かう途中、神通川を通った様子が、彼の著書「日本アルプス登山と探検」に記されているので紹介する。

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明治時代の登山家、小島鳥水も神通峡を旅した 

 小島鳥水の著書『山水無盡蔵』に、片掛で食事をした時の様子を詳しく記しているので、紹介する。
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神通峡をたずねて  片掛かいわい7

伝えたいお話あれこれ    片掛銀山のお話

越飛に跨るかね山 


 わが国では十六世紀後半から十七世紀初頭にかけ、金・銀・銅山などが全国各地で開発され、幕府はもちろん、各藩も領内鉱山開発に意を注いだ。
 越中のかね山で最も重要視されたのは、幕政以前の松倉・河原波・虎谷・下田・吉野と、その後の亀谷・長棟で、これらの諸山を合わせて、越中の七かね山と呼んだ。
 この新川かね山のほか、下の地図に示すように、片掛・庵谷の銀山や、野積谷のたたら製鉄などがあった。
 
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 一方、越中と境をなす飛騨の高原郷には鉛・銅・銀が、白川郷には銀・金が産出するなど、早月川流域と越飛両国にまたがる神通川水系(長棟・高原の支流域を含む)と小矢部川水系に鉱床が集中していた。
 これら大小のかね山のうち、神通川筋の三山はともに銀山で、村の名前を冠してそれぞれ吉金・片掛・庵谷銀山と呼んでいるが、下図のように相接しているので一山とみることができる。
 
img8275.jpg 「細入村史」

 この三銀山は加賀・富山の二藩にまたがっているが、江戸後期、吉野銀山が退転した後は、片掛銀山を取締る役人が吉野かね山もその配下に置いていたといわれている。


片掛・庵谷両銀山坑跡の分布 

 現在の庵谷峠の西側、通称「さくらおぼね」を中心にして片掛の北部と庵谷南部にかけ、直線距離にして、東西二キロメートル、南北約一・五キロメートルに跨り、かつての坑口跡が多く点在している。
 昭和六〇年六月、三回にわたり山中を調査し、かつての坑口跡が今も明瞭に露見している三十八坑を確かめ、次の地図に記入した。

img8272.jpg  「細入村史」

 古老の話を総合すると、現在の神通川第一ダムによって湛水した下山地内に相当大きな坑跡が五、六か所もあったが、今は穴がふさがっているので、往時はおよそ100くらいはあったと想像される。
 この三十八の坑口のうち、小字峠の千荷(貫)谷に、外観上やや大きな穴で、しかも入口からみても落盤形跡のない某坑の調査を試みた。
 この坑道内から収集した松明・梯子の一部は、越飛歴史民俗資料庫(現在はない)に保存されていた。


からみの出る製錬場 

 
 「からみ」は俗に金糞といい、今も畑を耕していると鍬先にあたることがある。ここは、曽ての製錬所の跡であって、製錬所には敷地が広くて坑口に近いこと、そして、多量の水のあるところが選ばれた。両銀山の製錬所は幾箇所もあったと聞くが、最も確かな両銀山の製錬所は、坑跡分布図に示したとおりである。
 
 片掛銀山 字窪 現在の下町 前坂宅の東側畑地と湛水部
 庵谷銀山 字峠 現在の峠道、秋葉社の北側約100メートル西方の畑地


銀山坑道に入った話 


 片掛に住む人が、片掛銀山について次のように話してくれた。
 
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 「私は、冒険心が旺盛だった頃、穴に入ったことがありますが,人が一人はって進めるくらいの広さしかありませんでした。大きな人はとても進める広さはありません。
 昔の人は小柄だったのでしょう。少し進むと、穴は下に向かい、穴の長さは、100メートルほどあったと思います。岩から鍾乳石が下がっている所もありました。コウモリもいました。岩肌はきれいに掘ってありましたよ。
 
img8273jpg.jpg  「細入村史」


 現在の国道四十一号線下の洞谷近くが、精錬の釜場であったと伝えられていますが、そういう跡は、今は何も残っていません。片掛銀山は、銀の含有率が低く、鉱脈も細いため、明治維新の頃には廃山となったそうです」






神通峡をたずねて  片掛かいわい6

片掛に残る古い民家

坂野家
 

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 片掛に設けられていた郵便局がこの坂野家にあった。片掛の郵便局は、大久保局と高山局の中間地として、人の足で配達や集配をしていた。大正十年から、密田銀行もこの家の一室に出張所を置き、営業していた。今も、二階の家の窓に、その当時の鉄格子が残っている。昭和五年、飛越線が開通し、猪谷駅前が賑わうようになると、郵便局は猪谷駅前に移転した。



水戸家

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 明治初期に建てられた農家である。今は懐かしいくぐり戸と、長いヒサシが残る農家である。傾斜地の多い片掛は、江戸時代から養蚕が盛んであった。蚕の成育には、日光が直接当たるのがよくないので、屋根のヒサシを長くした。



旧飛騨街道の面影を感じさせる片掛の家屋

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立山町へ移築された旧嶋家 

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 片掛の旧嶋家は、昭和四十六年三月三十一日付で、国の建造物の重要文化財の指定を受けた。その後、県が買い受け立山町芦峅寺にある「風土記の丘」に移築。同年五月にこの地で公開された。
 嶋家の建築年代は明らかでないが、文久年間(一八六〇ごろ)に改造したと伝えられ、およそ江戸中期の元禄期(一六八〇年代)に建築されたのではないかとみられている。
 所有者だった嶋家は代々農業を営み、肝煎をつとめた家柄であった。片掛は飛騨街道筋の宿場町であったため、農家であっても町家風の普請をしたものであろう。(「細入村史」)
 建物は杉林に囲まれており、黄土色の土壁は、緑に映えてひときわ往時の姿を感じさせる。
 しかし、山あいの住宅という感はうすく、むしろ町家風である。屋根は切妻造りで、勾配は飛騨の影響を受けてかなりゆるく、板葺きで石が並べてある。正面には板屋根の軒がつき、出入り口の板戸二枚に障子が設けてある点など、町家の特色を示す。往来の多い街道筋にふさわしい建て方である。家に入ると、広い土間があり、右手に、板の間の「かちって」と「広間」が続く。広々とした感じを受ける。飛騨街道筋民家の特色である。 
   (富山県教育委員会発行「富山県の文化財」)






神通峡をたずねて  片掛かいわい5

片掛の旧跡

片掛銀山跡 

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 今から四〇〇年ほど昔の天正年間に、この辺り一帯で銀山の開発が盛んに行われた。片掛・庵谷・吉野銀山で、坑口が一〇〇ほどあったという。
 その鉱口の跡が、庵谷へ通ずる村道の脇に、幾つか残っている。大渕寺から峠を少し上った所には、細入観光協会の『片掛銀山跡』の道標が立っている。


旧飛騨街道の一里塚 

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 片掛集落の中央よりやや南の道路東脇に、直径約九十㎝の榎の大木が二本そびえている。旧飛騨街道は、この木の下を通っていて、昔の一里塚に植えられた榎と伝えられている。


庵谷峠へ続く旧飛騨街道(新道)

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 大渕寺に近い道路脇に、「旧飛騨街道」の標識が立っている。ここが、小菅峠を越えて庵谷集落へ続く旧飛騨街道の上り口である。峠までは、細くて険しい上り道が続いている。しかし、今は、ほとんど通る人もなく、雑草に覆われている。
 明治十九年、旧飛騨街道の改修が行われ、庵谷峠を越える新道が作られた。それまで牛でしか越せなかった峠道が、荷馬車の通行ができるようになり、輸送量が飛躍的に増加した。



吉野と片掛の篭の渡し

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 神通峡で一番狭い吉野橋の少し上流の大岩に篭の渡しがかかっていた。古図、神通川絵図(文化十年 一八一三年)に書かれている。「幅が十四間(二十五・五米)あった。明治十八年に丸木橋になる。」
 昭和二十八年神通第一ダム工事で架け替えられ、更に昭和五十八年に現在の橋となり、幅七米、長さ百二十三米、片路峡を望む絶景の場所になった。

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       吉野橋から見える冬の片路峡

神通峡をたずねて  片掛かいわい4

片掛の石仏 

旧飛騨街道の馬頭観音 

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 片掛集落から庵谷峠への上り口に馬頭観音が奉られている。お供えの花が耐えることはない。地域の人たちが今も大切にお守りしていることが伝わってくる。
 昔は、人々の生活と牛や馬は深い関わりを持っていた。田畑を耕し、物を運ぶのにも牛や馬が使われた。物を運んでいた牛が死ぬと大日如来を祭り、物を運んでいた馬が死ぬと馬頭観音を祭ったとのことだ。
 片掛大渕寺前の馬頭観音には明治四三年と刻まれている。


六地蔵 

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 大渕寺の門前に六地蔵がある。この地蔵は、片掛銀山の採掘に従事する山方衆の安全を祈願するために峠に立てられていたが、銀山の衰退と共に、長い間そのまま放置されていた。そのため、昭和五十八年に、大渕寺門前にお堂を建て、移設した。現在も地蔵法要を行い、お参りしている。


大渕寺山門脇の三十三所観音 

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 細入にある三十三所観音の一組は、片掛大渕寺の山門脇にある。配列の乱れはあるものの、三十三体すべてが揃っている。
 この石仏は、最下に方形の台石、その上に別石による蓮花座を置いて立てる舟光背型の一石一尊仏である。台石を含めて総高約八十センチメートルである。
 砂岩系の石材である上に刻みがあまり深くなく、欠損するもの、摩減のために像容や刻字が定かでないものもある。正面下方に台座による「壹番」「拾番」「丗三番」等と札所番号を縦書きに刻む。約半数は光背部に、「大姉」「居士」「信女」「童子」などの法名二人分ずつ刻む。はじめから、同寺山門脇に並べるため、同寺檀徒による寄進であろう。



神通峡をたずねて  片掛かいわい3

片掛のお寺や神社  

 片掛が宿場や銀山で賑わっていた頃には、「七寺四社」あったと言われているが、今は、安龍山大渕寺(曹洞宗)、白銀山円龍寺(浄土真宗大谷派)、洞谷山西念寺(浄土真宗本願寺派)の三つのお寺と八坂社、秋葉社の二つの神社がある。

安龍山 大渕寺 

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 曹洞宗のお寺である。山門の両脇には、勇壮な仁王像が立っている。開山は文明元年(一四六九)。船峅坂本(大沢野)に開創し、花崎村の瑞泉寺を講じて開山した。この寺は、永禄年間に、上杉勢の兵火により消失した。その後、加賀藩三代の前田利常の寄進を得た。大渕寺と寺号を改め、再興を願っていたところ、須原の森田氏の保護と寄進があり、享保十年(一七二五)、この片掛に本堂を再建した。その後、大正五年の火災で楼門以外は消失したが、大正十二年、現在の伽藍の復興をみた。


白銀山 円龍寺

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 元は真言宗の寺であったが、承元元年親鸞聖人の化導を受けて浄土真宗に改宗した。その後文明年間に本願寺の蓮如上人の教化を受けた。永正四年(一五〇七)に本願寺実如上人より開祖仏ならびに円龍寺の寺号を許された。「白銀山」という寺の山号は、片掛の地で銀が盛んに掘られたことに由来する。その後本願寺が東西に別れ、東本願寺の末寺になる。明治三十四年に大火にあい、本堂や鐘堂、宝物などの多くを焼失したが、大正八年に現在の本堂が再建された。


洞谷山 西念寺 

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 浄土真宗本願寺派である。源義仲の家臣で片津権左衛門友明が逃れて下山に城を構えていた説がある。親鸞聖人に都の様子を聞きたい一念で富山に忍び上人の化導に合い髪をそり法衣「西念」を受け、庵谷に草庵を設け念仏三昧に入った。その後片掛に移り鉱山奉行所の跡を賜り現在地に堂宇を構えた。明治三十四年の大火にあい、その後本堂、庫裏、経蔵、楼門、梵鐘などを再建した。


片掛 八坂社

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 創建ははっきりしないが、往時、片掛銀山の忍屋新左衛門が守護神として奉斎していた牛頭天王社があった。新左衛門の退転後、同村内の諏訪・春日・神明の各社を合祈し、八坂社と称した。現在の社殿は、昭和十一年九月に改造したものである。


片掛 秋葉社  

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 三百年ほど前には、この地に社があったことが確認されている。現在は八坂社の末寺になっている。



神通峡をたずねて  片掛かいわい2

道の駅 細入

 
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 平成六年四月、国道四十一号線、片掛地内東野に、芝生広場、アストロゲレンデ、遊具、公衆トイレ、飛越ふれあい物産センター「林林」、などが整備された道の駅が建設された。その後、食堂も増設された。越中と飛騨の県境にあり、富山と飛騨のお土産が所狭しと並んでいる。休日や行楽シーズンには大勢の人に利用されている。


神通川第一ダム

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 富山市細入地域を流れる神通川には、三つのダムがあり、最上流にあるのが神通川第一ダムである。昭和二十七年に建設が始まり、昭和二十九年に送電を開始した。長さ三百三十二m、高さ四十二mのダムである。ここから、下流の庵谷の発電所までトンネルで水が送られている。最大出力は八万Kwである。
 昨日、大雨が降り、今日は、放流している姿を見ることができた。轟音を響かせて落下する水は、圧巻である。
 
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 真冬の景色も趣がある。黒いダムと白い雪。黒と白しか色がない墨絵の世界が広がる。その景色の中に、微かだが、薄茶色に枯れた小枝と、ダムの下にある川面に、淡いエメラルドグリーンの色を見つけた。

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 秋の紅葉に染まったダムもまた美しい。




プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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