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水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

団塊世代の親父のブログです。
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青春18きっぷで巡る山陰・四国の旅 3

第3日目 高松~高知~大阪

 午前4時半起床。洗面を終え、五時半ホテルを出発。今日は土讃線で大歩危まで行き、祖谷のつり橋の写真を撮りに行く予定である。高松駅はまだ時間が早く売店は空いていない。改札にも駅員はいない。青春十八切符はその日最初に乗車する時に検印をもらわなくてはいけない約束になっている。駅員が来るのを待って、改札を通過する。朝食は、この先乗り換えをする駅で買うことにした。すでにホームには琴平行普通列車が入線していた。 

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 五時五八分、がら空きの列車は琴平に向けて出発した。まだ辺りは真っ暗である。坂出を過ぎた辺りで遠くに瀬戸大橋の明かりが見えた。多度津を過ぎた辺りで空が赤く染まり出した。遠くに見える山の間だから朝日が昇って来そうである。いよいよ日が昇るという時に意地悪く列車は琴平に到着した。せっかく構えたカメラをしまい列車を降りる。乗り換えの時間はわずか二分。隣りのホームへ駆け足で急ぐ。阿波池田行普通列車に乗車すると同時にドアが締まり列車は発車した。一両編成で、シートが二列向かい合っている古いワンマンカー列車である。


 列車はゴトゴト揺れながらゆっくり山を上って行く。今から四国の尾根を越えて行くのだろうか。山はますます高くなり、列車はその山の中をぐんぐん高度を上げて行く。遥か下の方に先ほど通ってきた町が見える。線路の脇に雪が積もっている。この地域の冬は雪も降り寒さがかなり厳しそうである。箸蔵という駅に停車した。何とここはスイッチバックの駅で、引込み線を戻った所に駅がある。駅を確保するだけの土地がなくこのような形式の駅になったのであろうか。それだけ土地の勾配がきついということである。長野県の篠ノ井線姥捨駅もここと同じスイッチバック方式の駅である。特急列車に乗ってしまえば通過してしまうので気が付かないが、箸蔵駅も特急は通過してしまうので急ぎの人はこんな駅が四国にあることは知らないだろう。今回普通列車の旅をして新しい発見ができてよかったと思った。遥か下の方に大きな町が見えてきた。阿波池田の町だ。大きな川は吉野川のようだ。

 
 7時53分阿波池田に到着。ここで8時発高知行普通列車に乗り換える。すでに列車は向いのホームに停車していた。乗り換え時間の間に朝食を仕入れようと駅の売店に行った。幸いにも売店は営業していたので、おにぎりとお茶を買って急いで列車に戻る。しばらくして列車は発車した。この列車も先ほどと同じタイプの一両編成のワンマンカーである。

 向い側の座席に外人と日本人の若い女性の二人連れが楽しそうに話をしている。四国の旅を楽しんでいるようだ。ひょっとするとこれから私の行く大歩危に彼女たちも行くのかもしれないと思った。列車は美しい渓谷になった吉野川の淵に沿って進んで行く。小歩危を過ぎ、次は大歩危である。

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 八時三六分大歩危に到着した。私と向い側に座っていた二人連れの女性も列車から降りた。駅前は雪こそなかったが、冷たい風が吹いていて、とても温度が低いように感じた。駅の改札口で大歩危に関するパンフレットがないか尋ねたが、「何もおいてありません」という返事が返ってきた。ここから先どう行ったらよいのか全くわからない。取りあえず、駅前広場に出てみると、大きな案内板が立っていた。それには、駅から二キロ下流のところから大歩危渓谷を遊覧船に乗って舟下りを楽しめることや、駅前からバスに乗れば西祖谷にあるかずら橋を見に行けること、その途中に村の温泉施設があることなどが紹介されていた。今日はつり橋を写真に撮ることが目的なので、取りあえずそこへ行かなくてはならない。駅前のバス停の時刻表を見ると、かずら橋を通る村営バスが九時四十分に発車することが分かった。

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 「かずら橋行バス券あります」と駅前の酒屋の窓に紙が貼ってあるので、八百八十円を払ってバス券を購入する。待ち時間は駅前をうろうろして過ごす。先ほど一緒に列車から降りた女性たちは、どうやら遊覧船に乗るようで、乗り場の方へ向って歩いて行くのが見える。少し歩いて行くと立派な橋が吉野川に架かっていた。そこから見る吉野川は深い渓谷になっていて、きれいな水が音をたてて流れていた。大歩危渓谷は長良川の上流にある風景とよく似ているなあと思った。

 再び駅前へ戻ると、かずら橋行の村営バスが停車していた。小さなマイクロバスだ。バスに乗り込むと外国人の青年がバスに乗車していた。アメリカ人だろうか。大きなリュックを持っている。日本国内を旅行しているように見える。運転手にこの地域のことを尋ねると「山の上は雪が凍結していて大変だよ。観光客は春から秋にかけて多いが、今時はほとんどいなから、かずら橋も貸切で渡れるよ」と教えてくれた。
 
 「どこから来ましたか」といきなり外国人の青年から話し掛けられた。日本語が上手なのにはびっくりした。「名古屋から」と答えると「ぼくは豊橋からです」と思い掛けない返事が返ってきた。この青年はイギリス人で、今は愛知県の常勤講師として、豊橋西高校を含め四つの高校で英語を教えている。日本人の彼女と一緒に冬休みを利用して国内旅行していたが、彼女の方は仕事があって先に帰り、昨日からは一人旅をしている。昨日は高知市内を見学し、昨夜は大歩危駅の横でテントを張って寝たということまで詳しく話してくれた。私も小学校の教員で、冬休みで青春十八切符を使って旅行を楽しんでいるというと、「同じ愛知県の職員だね」と意気投合してしまった。

 「外国人にはとても有利なJR切符があることを知っていますか」と彼は言った。彼の話によると、「その切符は日本国内では販売していなくて、日本を観光する外国人のための割安切符で、JRなら新幹線も特急も乗り放題で、七日間で二万円くらい、二十日間でも四万円くらいの値段だ」というのだ。彼は今日本で働いているので買うことができないのだが、以前はその切符で何度も旅行したという話だった。そんな割安な切符があることは初耳だった。JRはとても不公平なことをやっているのだと腹立たしく思った。

 時間になり、村営バスは発車した。八人ぐらいしか乗れないマイクロバスに乗客は六人。駅前の小さなスーパーで正月の買い物をした村の人がたくさんの荷物をかかえて乗っている。細い山道をマイクロバスは上って行く。雪が道の脇に積もっているが、道路の淵には雪が積もっている。険しい山を上り、トンネルを越え、再び山を下った所が祖谷かずら橋バス停だった。
 
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 バス停から更に五分くらい下った所にかずら橋がある。マイクロバスはかずら橋の前まで行ってくれる。「帰りは、この上のバス停で四国交通のバスに乗ってください。発車時刻は十一時50分です」と運転手は親切に教えてくれた。村営バス以外にもバスが走っていることを始めて知った。

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 かずら橋は想像していたのとは異なってスケールが小さく、谷もそれほど深くないことが分かった。それより幻滅したのは、その橋のすぐ横には立派なコンクリートの橋があり、谷の向こう側へは立派な橋を歩いて行けば行けるのである。その橋からは、かずら橋の全景を見ることができるようになっていた。私はイギリス人の若者と一緒にかずら橋の入り口へ歩いて行った。かずら橋はすべてが蔦でできていた。入口に料金所があり、大人五百円を頂きますと書いてある。わずかに二十メートルぐらいの橋を渡るのに五百円という料金の高さにはびっくりしてしまった。私は写真が撮れればよいので、とても渡る気にはなれなかった。イギリス人の青年は、大きなリュックを背負って渡って行った。橋は凍っていて滑りやすく青年は蔦をしっかり握って一歩一歩進んでいる。私はシャッターを切った。おもしろい写真が撮れるそうだと思った。かずら橋から少し離れた所にびわの滝という高さ五十メートルの滝があったが、水が少なくスケールない滝だった。

 四十分ほどで見学を終えてしまい、バス時刻までは一時間以上ある。この祖谷の村をぶらぶらすることにした。バスの通る県道を上って行くと道の両側には民宿が何軒も建っていた。ここへは年間五十万人を超える人がやって来るとのことだ。さらに五分ほど行った所が村のはずれだった。おばあさんがそうじをしているので、少し話を聞いてみる。「このあたりの村は農業で生活しています。向い山の頂上の向こうにも家があるんです。坂ばかりできつい所ですわ」と話してくれた。「この坂を上って行くと学校が見えますよ」と教えてくれたので、さっそく上って行くことにした。急な坂道を五分ほど上ると、村の全景が見えてきた。向い山の中腹に学校らしい建物も見えた。

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 しっかり汗をかき、バス停に戻ることにした。坂道を下って行くとバス停が見えてきた。バス停でイギリス人の青年が荷物を整理しながら休んでいた。「やあ」と挨拶して話をする。かずら橋が有料だったことに彼も一番腹を立てていた。「本来なら無料で渡れる施設にすべきだよ」と彼も私と同じ意見だった。そこへ大歩危の駅で見た二人の女性がかずら橋の方からやって来た。「やあ、こんにちは」と声を掛ける。「あなたたちは舟に乗りに行ったとばかり思っていたのでが、行かなかったのですか」と聞くと「船下りの後、バスでここへやって来て、かずら橋を今見終わってきたのです」と、日本人らしい女性が答えた。「この人はイギリスからきた人です」と私が紹介した。

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 いろいろ四人で話している中で、思い掛けないことが分かった。日本人とばかり思っていた女性は、台湾から仙台の大学に留学している中国人であること。もう一人の女性はオーストラリアからやって来て、今は千葉で英語の教師をしていること。二人は冬休みを利用して国内旅行をしていて、たまたま昨日泊まったユースホステルで知り合ったという。何だか国際交流会を開いているような気分になっていた。何よりもよかったことは、四人の共通語が英語ではなくて日本語だったことである。台湾からのやって来た女性は何と、外国人しか使えないJR国内フリー切符を持っていたことである。値段は割安の四万円台だった。JRに一度聞いてみなければと思った。池田行のバスがやって来たので国際交流会は終了した。オーストラリアの女性は途中の村の温泉施設で下車し、台湾から来た女性は私と同じ大歩危駅前で下車した。イギリス人は遊覧船で舟下りを楽しむため、そのままバスに乗って行った。短時間ではあったが、思いも掛けない人との出会いがあり、楽しい一時を過ごすことができた。

 台湾から来た女性はこれから高松に行くというので、すぐ連絡していた列車に乗って行った。私の方はこれからどうするのか、まだ決めていなかった。取りあえず今日は高知まで行こうと決め、駅前の食堂で昼食にすることにした。野菜そばを注文する。素朴な味のそばだった。

 十三時四七分発高知行普通列車に乗車。この列車も一両編成のワンマンカーである。しばらくうとうとしていて、気が付くと隣りで酔っ払いの老人が大声でわめき散らしている。私と目が合い、何か訳の分からないことを話し掛けてくる。とてもいやな気分になるが、じっと我慢して知らん顔をしていた。酔っ払いは土佐山田駅で下車していった。三十分ほどで高知に着く。まだ、高知から先、今日はどうするのか決めていなかった。時刻表を開いていろいろコースを考える。高知から窪川、宇和島まで行き、そこで宿泊し明日中に名古屋へ変えるコース。高知に宿泊し明日中名古屋へ帰るコース。まだ他にもコースがありそうだ。高知からフェリーで大阪へ出るコースもある。時刻を調べると高知発二一時二十分大阪南港行に乗ればよいことがわかった。これなら明日中に名古屋に確実に着けるし、フェリーの宿泊は夏の北海道旅行で経験していたのでこのコースでかえることに決めた。いよいよ私のきままな旅行も終わりを迎えそうである。

 十五時二五分列車は高知に到着した。さっそく駅前の旅行センターに行き、フェリーの切符を注文する。観光シーズンではないので、どこの席も空いている。料金七一三〇円で二等寝台を確保した。まだ出発までかなり時間があるので、高知市内をぶらつく。賑やかな帯屋町商店街はたくさんの人でごった返していた。まだ時間が四時間近くあるので映画を見ることにした。たまたま見つけた映画館で「エンド・オブ・ザデイ」というアーノルド・シャワルツネッガー主演の映画を見た。二〇〇〇年問題も絡んでこの世の終わりを阻止するという宗教的色彩の濃い内容であった。

 映画が終わって外へ出ると時刻は七時半近くになっていた。フェリー乗り場での乗船手続きを三十分前までに完了するように言われていたので、後一時間くらい残っていた。高知で旅行最後の夕食を食べようとその辺りをうろうろする。高知名物のカツオの刺身が食べたい。こういう時はなかなかいい店が見つからないものだ。大通りに「うな泰」という小さな寿司屋を見つけて中へ入った。こじんまりした寿司屋だが、店の中には六人の職人が働いていた。なかなか繁盛しているようだ。さっそくビールとカツオの刺身を注文する。ビールを飲みながら、店内を見まわすと頭の上に色紙が何枚も飾ってある。藤田まことの「仕事渡世人、またの名をはぐれ刑事と申します」の色紙がある。その下には真野響子の色紙も飾ってある。有名人がかなり訪れている店のようだ。カツオの刺身が出てきた。薄く切ったニンニクが載り、ビールには最高の味であった。続いてにぎりを注文する。こちらの方もなるほどとうならせる味だった。特にうなぎは美味しかった。

 フェリー乗船の手続き時間が近づいたので店を出る。タクシーを拾い高知港へ行く。がらんとした建物で乗船手続きを終え、埠頭に停まっているフェリーの階段を上り船内に入る。出港までまだ四十分近くあるのか、船内は静かだった。十年ほど前の夏にこのフェリーに乗ったことがあるが、その時船内は人で溢れていて、甲板で毛布を敷いて寝た思い出がある。年末に、高知から大阪に向けて旅をする人は多くないようだ。船内受付で今晩泊まる二等寝台の場所を聞き、部屋へ移動する。八つのベッドが並んでいて、私の場所は入口の下段だった。一つのベッドのカーテンが閉まり、靴が脱いであった。すでに人が休んでいた。

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 定刻の二一時二十分、フェリーは静かに港を出航した。ブリッジから真っ暗な闇の中に高知の街の明かりが輝いて見えた。空を見上げると、真っ暗な空にたくさんの星が輝いていた。今夜は雲一つない快晴のようだ。まだ、街の明かりが空に反射しているので、それほどたくさんの星は見えないが、船が沖に出れば、きっとたくさんの星がみえるのではないだろうかと思った。気温は低く、強い風も吹いていて急速に体温が奪われて行く。防寒服を着て、出直すことにした。

 午後十一時、再びブリッジへ行く。船は室戸岬の沖合いを通過している頃ではないだろうか。水平線の方向にかすかに町の光がみえる。空を見上げてびっくりした。満天、星の海だった。オリオン座の三ツ星が明るく輝き、大星雲も淡く光っている。すばる星もぼっと光っている。北斗七星が水平線から上ってきたような位置に輝き、天の川が細長く空を横切っていた。旅の最後の夜をフェリーで過ごし、そして最高の贈り物を貰ったことに感謝し、ポケットから取り出したウィスキーで乾杯した。いよいよ明日は名古屋に帰る。きままな列車の旅も無事終了できそうだ。
 

追記
 第4日目は、大阪南港から地下鉄を乗り継いで天王寺へ出、そのあと関西線を走る普通列車を乗り継ぎ、12時無事名古屋駅に到着した。









[ 2012/12/19 06:54 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

青春18きっぷで巡る山陰・四国の旅 2

第二日目 豊岡~高松 
 
 朝五時起床。日頃から早起きに慣れてしまっているのでこの時間には自然と目が覚めてしまう。テレビの天気予報は「曇り後晴れ、暖かい一日になりそうです」と言っている。今日は餘部鉄橋に行って写真を撮るのだが、この分ならいい写真が撮れそうだ。
 
 六時にホテルを出発。まだ辺りは真っ暗である。霧がかかっていて遠くが見渡せない。ひょっとしたら餘部鉄橋も霧の中にあって遠くから見えないのではないかと心配になる。六時三八分発浜坂行の普通列車に乗る予定である。幸運にも駅の横にある喫茶店が営業していた。早速、モーニングコーヒーを注文する。トーストが一枚付いてきた。発車の時間が近づいたので、キオスクでお茶とおにぎりを買いホームへ行く。二両編成の列車はもう停まっている。結構たくさんの人が乗っていた。列車は定刻通り出発した。
 
 霧に包まれた山の中を列車は走って行く。もうすぐ夜明けなのか周りは明るくなって来たが、景色は霧のためにほとんど見えない。城崎駅に到着する辺りで日が昇ったようである。大きな川があるのか川面から霧が立ち上り、その霧が金色に輝き幻想的な風景が広がっている。降りて写真を撮りに行こうかという気持ちになる。しかし、今降りるとこれからの予定が大幅に変わってしまう。また、どこかでチャンスがあることを期待してあきらめることにした。

 深くかかっていた霧も日が高く昇るにつれて晴れ上がり、遠くの景色もはっきり見えてくるようになった。険しい岩場が続き、景色が美しい香住海岸も過ぎ、列車は鎧駅に停まった。いよいよ次は餘部駅である。

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 餘部駅に着く直前に餘部鉄橋がある。今から七年ほど前に一度鉄橋を渡ったことがあるが、高い所を列車が走っていたという記憶が少し残っている。降りる用意をして、餘部鉄橋を渡る瞬間を待ち構えた。「わっすごい」隣りの座席から歓声が上がった。高い鉄橋を走る列車から餘部の町が一望できる。今この列車が本当に高い所を通過しているのだという実感が伝わって来る。乗客のほとんどが立ち上がって窓から下のほうを覗きこんでいる。「次の駅で降りてこの鉄橋の写真を撮りに行くのですよ」と大声で叫びたくなるような気持ちに私はなっていた。


 鉄橋を渡り終えてすぐに列車は停車した。降りた乗客は私と年配の女性の二人だけだった。ホームは十センチ近い雪に埋もれていて、日陰になっているので雪がガチガチに凍っていた。滑らないように注意しながら鉄橋の方に歩いて行った。遠くを見ると、鉄橋の向こうにトンネルが見えた。トンネルを抜けてきた列車はすぐに鉄橋を渡り始め、渡り終わった所に駅があるという位置関係であることが分かった。駅の端から下の方を覗くと、東側には高い山がそびえ、西側には日本海が広がり、餘部の町は鉄橋の下に、こじんまりと広がっていた。

 まずは、鉄橋を町の中から眺めることにした。細くて急な坂道は、雪が凍っていて滑りやすい。所々に人が滑った後まで付いていた。私は雪が深く積もっている所を選んで下って行った。橋げたの真横を通過した。鉄橋を支えている赤色の橋げたが規則正しく並び、美しい幾何学模様を描いていた。実に壮観である。私は足場を固めてカメラのシャッターを切った。

 坂道を下り終わった所で老人に出会った。今からバイクで仕事に出掛ける様子である。「写真を撮りに来たのですが、鉄橋がうまく写せる場所はどこでしょうか」と尋ねると、老人は親切に幾つかの絶景ポイントを教えてくれた。その中でも一番の場所は今下りてきた駅から更に上へ行った場所だと教えてくれた。私は滑る道をもう一度引き返す気にはとてもなれなかった。帰る時にその場所へは行くことにして、最初は町の東側から鉄橋を見ることにした。

 舗装された細い道を歩いて行くと国道一七八号線に出た。国道を東に歩いていき、橋の袂から鉄橋を見上げた。幅の広い谷を横断するような形で鉄橋が架かっていた。高さ四一.五メートル、橋脚十二本で支えていると言う.生涯物の内田圃の中から鉄橋の全景を写した。今度は鉄橋の西側に行こうと国道を戻っている時に列車がやって来た。あわてて、カメラを構えシャツターを切った。通過時刻を調べていなかったことを悔やんだ。ただですら本数の少ない山陰線なのに、昼までの限られた時間で後何回シャッターチャンスがあるのか時刻表で調べると、三回しかないことが分かった。次の列車の通過までは後一時間。老人に教えてもらったポイントまで急いだ。

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 海岸線の西にある道を上って行ったところにそのポイントはあった。下には荒波の日本海が広がり、遠くには餘部鉄橋が太陽の光を受けて光っていた。その向こうには白い雪を被った高い山がそびえ、パンフレットの写真もこの場所から写したことが分かった。カメラをセットし、豊岡の駅で買ったおにぎりを食べながら列車が通過するのを待っていた。ガラガラドーンという低い音が響いてくる。何か工事をしているのだろうかと思ったのだが、その音は波が海岸に打ち寄せる音であることに気が付いた。さすがに冬の日本海の波はすごいと思った。

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 最初に通過するのは九時四八分の城崎行普通列車である。この撮影のために今回旅行にやって来たのだという気持ちもあってわくわくドキドキする。ぴったり九時四八分に一両編成の赤い列車が餘部駅側から現れた。逆光で全体の色ははっきりしないが、列車が鉄橋を通過する瞬間を三枚カメラに納めることができた。次に通過するのは九時五四分の浜坂行普通列車である。今度はトンネルの中から赤色と緑色の二両編成の列車が現れた。この列車も三枚シャッターを切ることができた。

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 次の列車は、十時四十分で、その次は十時五四分である。老人から最高のポイントだと教えてもらった駅の上のポイントで写すことにして、場所を移動した。鉄橋を見上げながら細い急坂の道を上って行った。駅のホームから細い階段の道があり、それを上って行くと太い松の木が倒れている小さな空き地についた。確かにそこは最高のポイントで、鉄橋とトンネルと日本海が一望できる場所だった。そこには何人もの人がここで写真を撮っていたことが分かる踏み跡が幾つも付いていた。

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 列車通過まで後、三十分。じっと待っているとカメラを担いだ男性がやって来た。その人はもっと上の崖に上って行ってカメラをセットしていた。十時四十分定刻通り赤い二両編成の浜坂行普通列車がトンネルから姿を現した。今回も鉄橋を渡る列車を三枚カメラに納めることができた。何だかいい写真が撮れたような気がした。

 次の城崎行普通列車もすぐ来るが、その後は十一時三十分までない。これから先、どうするのか、山陰線を巡り米子か松江に行こうという気持ちもあったが、写真が撮れた満足感から、とにかく城崎行に乗ってしまおうという気持ちになり、荷物を持って駅に下りて行った。これから先のことは列車の中で考えることにして、到着した城崎行普通列車に乗車した。鉄橋を渡る列車の窓から餘部の町を眺めながら、今度は緑輝く季節にもう一度この鉄橋を撮りに来たいなと思った。

 列車は朝通った線路を逆向きに城崎へ向って走っている。この先どうするのか、城崎で乗り換えて再び餘部を通り米子へ向うこともできるようだ。しかし、米子へ行ってどうするのか、米子へ行かなくてはならない大きな目的は何もない。再びカメラを構えて撮りたいところはないか、そのことだけをずっと考えていた。何年か前に徳島から吉野川に沿って列車を乗り継ぎ高知へ行った時に四国の秘境といわれる大歩危・小歩危を通った時のことを思い出した。あの時は通過しただけだったが、祖谷には蔦でできたつり橋があるという。この機会にそこへ行ったらおもしろいのではないか。さっそく時刻表で調べて見ると、この先の和田山で播但線に乗り換えて媛路に出て、そこから山陽線で岡山に行き、さらに列車を乗り継いで四国に渡れば、明日の朝には大歩危・小歩危に行くことができることが分かった。列車が城崎に到着する頃には、もう気持ちは、明日は大歩危で下車し、つり橋の写真を撮りに行く気持ちになっていた。本当にきままな一人旅はこれだからおもしろいと思った。

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 城崎駅で二十分の待ち時間があるので駅前をぶらぶらする。朝見た美しい霧に輝いていた丸山川は、明るい光の中ではどこにでもありそうな川で、美しいと思える景色はどこにもなかった。

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 城崎の駅前はみやげ物店の並ぶ温泉街までつながり、観光客でごったがえしていた。駅前広場には休憩所があり、温泉が噴出していた。柄杓が置かれて観光客がその湯を飲んでいた。私も飲んで見たが、妙な味のするまずい湯だった。京都方面からこの城崎まで特急列車が1時間に一本は走り、賑わっているようだった。

 十一時五十二分城崎発の普通列車で和田山に向う。今晩は四国の琴平か高松に泊まることになりそうだと時刻表を確認しながら思った。十二時三十八分和田山に到着。和田山発播但線、寺前行普通電車は十三時四十分である。約一時間あるので駅前で食事にすることにした。駅前には残念ながら一軒しか食堂がなく、そこへ入る。中に入ると、太ったおかみさんが一人で店を切り回していた。「牛肉弁当がありますが、これにしますか」と進められたが、値段が千三百五十円と高いので断わる。メニューの中からヤキソバ定食を頼む。しばらくして定食が出来あがってきたが、何だかまずそうな感じのする雰囲気が伝わってきた。食べて見るとやはり予想した通りのヤキソバだった。
 
 駅の待合室で時間をつぶし後、ホームに下りて行く。すでに列車が入っていて車内はほぼ満席状態になっていた。なんとか座席を見つけて座ることができた。列車は二両編成である。列車が発車した。暖かい日差しを受けて車内は春のような温度になっている。山深い中を単調に走る列車の心地よい振動でぐっすり眠ってしまい終点の寺前にはあっという間に着いた。ここで姫路行の普通列車に乗り換えた。ここから姫路までは四十分。電車も四両編成になり町並も広がりこの辺りは姫路の通勤圏になっているのだろう。遠くに姫路城の美しい姿が見えてきた。間もなく姫路である。

 十五時三十分姫路に到着。十六時四分発三原行普通列車に乗車。山深い山陽路を列車は走って行く。落葉樹が多いこの辺りの山は、秋には紅葉が美しいのではないだろうかと思った。時刻は午後五時を過ぎ、真っ赤な夕日が山の間に沈んで行く景色は実に美しかった。十七時二八分岡山に到着。岡山で瀬戸大橋線高松行マリンライナーに乗り換える。幸運にも待ち時間が三分しかない十七時三一分発に乗車することができた。暗くなった瀬戸大橋を渡りながら、今晩はこの列車の終点高松で宿泊することに決めた。途中大きな音がして停電するハプニングが起こり、臨時停車した。車内放送で「パンタグラフがスパークしたために起きた停電です」と説明があった。運行には支障がないことが分かり再び発車した。

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 列車は四国に入り坂出を過ぎ、間もなく高松である。何だか朝ホテルを出る時には全く考えてもいなかった四国に自分がいることが、とても不思議に思えた。青春十八切符を使った普通列車を乗り継ぐ旅でも結構おもしろい旅行ができるものだと感心した。

 十八時三一分高松に到着。駅前に出るとすぐ目の前にビジネスホテルや旅館が幾つも建っている。一番近くにある小奇麗なビジネスホテル清恵に宿泊しようとフロントへ行く。「空いてますよ。一泊四千五百円です。部屋に風呂はありませんがこの一階の風呂はあります。和室の部屋でいいですね」と感じのいいおかみさんが案内してくれた。まだ建ったばかりのホテルのようで調度品も新しく、落ち着いた和室であった。「食事をしてから風呂に入りますから」と声を掛け、外へ食事に出掛けた。周りには中華料理店や飲み屋や焼肉屋などが幾つもあった。やきとり屋でビールとやきとりで乾杯し、隣りの中華屋でチャーハンを食べ、最後は駅のホームにあるうどん屋でさぬきうどんを食べた。旅行をするどうしても食べ過ぎや飲み過ぎになってしまうのはどうしようもない。いつもならしっかり歩いているので、それほど体重は増えないのだが、今回はじっと列車に乗ったままでいるので体重がかなり増えてしまうのではないだろうか。家に帰ってからかみさんに何と言われるのか予想ができそうだ。宿に戻り、風呂に入ってから、明日の列車を調べた。高松五時五八分発琴平行に乗車しなければならない。天気予報では明日もよい天気になるそうだ。明日はどんな一日になるのだろうか。きっとまた、破茶滅茶な一日になるのだろうか。



 

[ 2012/12/18 08:48 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

青春18きっぷで巡る山陰・四国の旅 1

第一日目        高蔵寺~豊岡

 冬休みが始まり、やっと旅行に出掛ける条件が整った・・・とは言っても、今回は行く先がなかなか決まらずにいた。いつものように街道歩きに行けばよいのに、なんだか歩きに行く気持ちになれない。それがなぜなのか自分にも分からない。

 十二月二十四日(金)は出勤し、冬休みの大事な宿題になっている中学受験をする子どもたちの調査書を書き上げた。いよいよ明日から正月までは全くフリーなのに、まだ行き先が決まらなくてぐずぐずしていた。「今度はどこへ出掛けるのかね」と、出勤していた校長にも聞かれたが、「全く自分にも分からないんですよ。日にちだけははっきりしているので、旅行届は出しますが、行き先は未定で許可してください。連絡の方は携帯電話の番号を載せておきます」と申し出て、何とか許可だけはもらった。

 家に帰ってからも、明日からの旅行の目的地が見つからずにいた。いっそのこと今回は歩くことは止めて、青春十八切符を使った鉄道旅行をしてみたらおもしろいのではないかという思いが強くなった。今まで時々時刻表を眺めて、いろいろコースを考えることはしていたので、青春十八切符が使える冬休みに、それを実行してみようということで、やっと決断がついた。さっそく時刻表を開いて、コースを考えた。鈍行列車に乗って北海道まで行ったらどうだろうかとか、本州を一周したらどうだろうかとか、九州まで行って帰ってきたらどうだろうかとか、結構実現可能なおもしろいコースがある。しかし、まだ行き先は決まらずに、二十五日を迎えた。

 いよいよ今日から出発できるというのに、未だに行き先は決まらず、おまけに、咽が痛くて少し熱もあるようなので、出発を一日遅らせることにした。その日は、再び時刻表を開いて、出掛けるコースをいろいろ考えたが、時間だけが過ぎていくだけで、やはりはっきりした目的地は夕方になっても決まらなかった。大晦日が近づいているので、自分の部屋の掃除を始めることにした。壁に飾ってある写真も少し模様替えをしなくてはと思い整理を始めた。その時、ふと、今年の夏に行きたいと思っていた兵庫県の餘部鉄橋のことが頭に浮かんできた。「餘部鉄橋を写真に撮りに行こう!」今回の旅はその瞬間から始まった。

 二十六日(日)午前七時三分高森台西発高蔵寺駅行きのバスに乗車。車内は数人の乗客がいるのみ。七時十二分、高蔵寺駅着。切符売り場で青春十八切符を購入。値段は一万千五百円。旅行好きな人にとったら実に有効で割安な切符である。改札口で検印を受ける。七時十九分発名古屋行の普通列車に乗車。今日は日曜日なので車内は閑散としている。

 七時四三分金山着。ここで、八時ちょうど発の米原行特別快速列車に乗りかえる。駅の案内放送が豊橋駅構内で列車故障があり、その前の大垣行新快速列車が十五分近く遅れて来るとのアナウンスを繰り返している。特別快速列車も五分ほど遅れるらしい。この特別快速列車は、十二月のダイヤ改正で新設された列車で、これまで走っていた新快速は大府に停まるのだが、特別快速は大府を通過するのでその名前が付いたようだ。

 八時七分、六両編成の米原行特別快速列車が七分遅れで到着。車内は半分くらい座席が埋まっていたが、私の座席は確保できた。名古屋を過ぎ、岐阜の手前で、この列車の前より二両が大垣で切り離される放送が入った。私は前から四両目に乗っていたので、切り離されずに済んだが、突然の放送に続々と前の車両から座席を求めて移動する人が通り過ぎていく。金山でも名古屋駅でもそのような放送を聞かなかったのだが、きっとこの人たちも驚いているに違いないと思った。車内は何時の間にか満席になっていた。大垣ではたくさんの人が乗り込んできて、車内は超満員になった。この列車はこの大垣から先は各駅停車で米原まで行く。

 米原から先、どうするのかまだ決めかねていた。東海道線で京都へ出て、山陰線に乗り換え、餘部に向う経路と、米原から北陸線で敦賀に向い、敦賀で小浜線に乗り換えて、若狭湾沿いを巡り、餘部に向う経路である。京都周りで行っても到着時刻は四時近くになってしまい、日没の早い今の時期は写真を写せそうもないので、敦賀経由で日本海の景色を見ながら進む経路にした。途中、長浜で列車の待ち時間が1時間半近くあり、長浜の町も少し見学できることが分かった。

 九時十八分米原到着.九時二六分発長浜行に乗りかえる.快速列車が入って来た。JR西日本を走る快速列車はクリーム色をしていて、車内のシートは二人掛けが多い。連結している車両数も十両を超えていて、少し辛抱すれば座ることができる。それに比べるとJR東海を走る快速列車は四人掛けのシートが多く、連結している車両も三両とか四両と短いのが特徴である。利用者が少ないので仕方がないのであろうが、私はJR西日本を走る快速列車が好きである。列車は定刻通り発車した。窓の外には雪を被った美しい山々の景色が広がっていた。

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 九時三六分長浜に到着。この町は豊臣秀吉が築いた町で、歴史的にも古い建物がいくつか残っている。

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 さっそく秋に歩いた北国街道の古い町並みを見に行く。古い町並みの保存が進み、今はそこが観光のメーンになっている。有名なのが舟板べいとよばれる舟の板を使って作ってある旧家の壁である。夏に撮った写真は迫力がなくもう一度撮り直したいと思っていた場所である。天気こそよくなかったが、しっかりファインダーを覗いてシャッターを切った。
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 続いて、長浜城を見に行く。琵琶湖のほとりに堂々と建つ城はなかなか壮観である。惜しむなく残念なのは、この城が昭和五八年に再建されたものであることだ。城の周りには桜が植えられ桜の名所になっている。

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 北風の吹く琵琶湖の湖面にはカモがたくさん群れていた。さすがに秋に見たウインドサーフィンやルアーフィシィングを楽しむ若者の姿は見なかった。しかし、駅を降りた時に、つり竿を持った若者を数人見かけたので、きっとこの寒い湖水のどこかで釣りを楽しんでいるのではないだろうか。

 急ぎ足で二箇所を見学し、長浜駅に戻る。時間が二十分近くあるので、駅前の喫茶店に入りコーヒーを飲む。秋に訪れた時は、祭りの当日だったこともあり、長浜の町中は押すな押すなの人で賑わっていた。今日は、新しい年を迎える準備こそ始まっていたが、観光客はほとんど見ることができなかった。

 十一時五分発の敦賀行二両編成の普通列車に乗車。ブルートレインを改造したような列車で、座席の頭上には、寝台が折りたたまれて吊られているような感じがした。なかなか趣のある列車である。敦賀に近づくに連れて雪が深くなり、道はすっかり雪に埋まっていた。この数日間、かなり雪が降り続いたようである。十一時四九分、敦賀に到着した。
 
次に乗車する小浜線東舞鶴行は十二時四一分発である。約一時間の余裕があるので、駅前商店街で食事にすることにした。みぞれが降り続き、道は雪が溶けてぐちゃぐちゃになっていた。おでんの暖簾が下がる食堂に入る。ビールとおでんを注文する。大根と油揚げは薄味で美味しかった。北陸と言えば、この時期カニであるが、みやげ物店ではズワイガニを売っていたので、覗いてみた。何と一匹八千円の値段がついたカニがある。庶民にはなかなか食べられそうもない値段のカニばかりが並んでいた。

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 駅の売店でつまみの竹輪とカップ酒を買って、東舞鶴行普通列車に乗車した。青色に白い線が入った2両編成の列車である。車内は結構混んでいた。私の座席は日本海の見える右側にした。景色がよい所は写真を撮るつもりでいる。定刻の十二時四一分に列車は出発した。遠くに白い山を望みながら雪が積もった田んぼの中を列車は進んで行く。雪国ならどこにでもある風景なのだろうが、太平洋側に住む私にとっては新鮮でとても美しい風景である。しばらく走ると冬の日本海が見えてきた。雲が深く垂れ込めて、海は色を失い灰色に見える。冬の日本海はほとんどこんな色をしているのだろう。ふと、となりの座席を見ると、私と同年輩の男性がカメラを構えてシャッターを切っていた。私と同じように冬の日本海を撮りにやってきのだろうか。私もその男性に負けじとシャツターを切った。

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 沿線に大きな看板が立っている。小浜線電化早期実現と書いてある。小浜線を電化しようという計画なのだろうが、たった二両でもあまり客が乗っていない列車を電化するよりも、開発行政の中では、この線路が廃線にされてしまう危険もあるのではないかと思った。
 
 二時三二分列車は東舞鶴駅に到着した。途中日本海を眺めながら飲んだカップ酒も美味しかった。途中で撮った写真の中には何枚かいいのがあることを期待しながら列車を降りた。次の列車は十五時六分発の福知山行である。三十分時間があるので改札を出て、駅前をうろうろすることにした。
 
  ここでちょっと恥ずかしい大失敗をした。改札を出る前にトイレに寄ったのだが、何とこともあろうに男性用のトイレだとばかり思って入った所が実は、女性用トイレだったのである。入り口の表示もはっきりしなかったのもあるが、中にはちゃんと男性用のトイレがあったのだ。何だか小さな男性用トイレだなあとは、用を足している時には思ったのだが、実はそれは子ども用のトイレだったのだ。子ども連れで入ってきたお母さんが、男の子にそこで用を足たせるように作られているものだったのだ。私はそのことに全く気が付かずに用を足し、外に出て初めて実は今出てきたのが女性用のトイレだと気付いたのだった。幸い女性が入って来なかったのでよかったのだが、もし女性が入って来たとしたら、きっと悲鳴を上げられて大問題になっていたのではないかと、今考えてもぞっとする。何はともあれ女性用トイレに男性用のトイレが設置してあったのがいけないのである。まぎらわしいことは止めてもらいたいものだ。しかし、こういう失敗が起きた本当の原因は、ビールと酒を昼に飲んだことにある。くれぐれも昼の酒には注意しなくてはと深く反省した。
 
 東舞鶴は大きな町で、港を中心にして発展しているようだ。ここからは、北海道へフェリーも出ている。駅前をぶらつく。名古屋で言えばダイエーとかユニーにあたる大きなスーパーが一つ建っている。中に入って見たが、どこにでもあるような商品しか並んでいなかった。発車の時間か迫り、駅に急ぐ。

 十五時六分発福知山行の普通列車がホームに入って来た。ここから先は舞鶴線になり電化されている。乗車するのは、黄色と緑色で塗り分けられた電車で、東海道線をつい最近まで走っていたのと同じ型である。京都と東舞鶴を結ぶ特急列車が走っていることも、大きな看板に表示してあった。「小浜線の早期電化」という地域の願いが「なるほど」とうなづけるものであることが理解できた。ほぼ満席になった列車は発車した。

 列車は綾部で山陰線に入り、まもなく福知山である。降りる準備を始めていると、立派な城が見えた。福知山城だ。木造建築のようである。記念に写真を撮りたいと思ったが、残念ながら乗り換えの時間が短く今回はあきらめることにした。後で調べると、昭和六二年に再建されたものだということが分かった。
 
 十六時十一分発豊岡行普通列車に乗車する。もう辺りは薄暗くなりかかっている。今夜はこの列車の終点、豊岡の町で宿をとることにした。餘部鉄橋は豊岡から列車で一時間のところにある。明日早朝に豊岡を出発し餘部まで行けば念願の写真が撮れそうである。なんだか今から緊張感が漂ってくる思いがする。

 十七時二三分、すっかり暗くなった豊岡に到着。この町は人口が五万人くらいだそうだ。駅前は大きなショッピングセンターが建ち、商店街も整備されていて賑わっている感じだ。ちょっとした小都市である。通りには五センチくらい雪が積もっている。昨日までだいぶ雪が降り続いていたようである。駅前にホテルがないか見回すと大丸というビジネスホテルの看板が目に付いた。駅からすぐ近くなので建物は少し古そうだが、ここにしようと近づいて行った。一階はレストランになっていてホテルの入口が見当たらない。細くて暗い路地の奥の方が入口になっているようだ。フロントのある三階までエレベーターに乗る。「一人ですが、部屋は空いていますか」と受付の係員に言うと「風呂の設備がない部屋なら空いています」という返事が返ってきた。ここまで来て風呂がないのではと、そのホテルはあきらめた。ここから少し南側にもホテルがあるというのでそこをあたってみることにした。豊岡パークホテルという新しい建物のホテルで素泊まり六千五百円だった。もちろん風呂付きである。

 入浴を済ませた後、ホテル横の飲み屋でイカの刺身を食べながらビールを飲む。客が一人もいなくて薄暗い感じのする店だったが、イカは甘味があって美味しかった。食事を終えて、もう一軒飲み直しに行くことにした。通りをぶらぶらしながら歩く。久しぶりにカラオケでも歌ってみたくなり、スナックに入る。客は一人もいなかったが、しばらくすると五人くらいの客が入ってきて賑やかになった。地域商店街の役員の人たちだった。どうやら忘年会の後ここへやって来たようだ。私と同年輩の人がまず歌い出した。何と堀内孝雄の歌だった。音程がしっかりしていて、とても上手な歌だった。私が歌いたいのも堀内孝雄の曲なので、歌う内にその人と意気投合して、いっしょに何曲か歌った。楽しい一時を過ごし、帰りにはママさんから開店三周年の記念品まで貰いホテルに帰った。





[ 2012/12/17 08:49 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

「青春18きっぷ」で山陰・九州を巡る旅 7

第六日目 大分~門司  日豊本線 

 十二月十六日、土曜日。午前四時半起床。コンビニで仕入れたカップ麺を温めて朝食を済ます。五時四二分大分発門司行普通列車に乗るので忙しい。五時二五分ホテルを出発。フロントは真っ暗で誰もいない。鍵を返し駅へ急ぐ。駅で青春十八きっぷを購入しなくてはならない。昨日、最初に購入した切符は使い切ってしまったのだ。

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 駅の待合室は人が十人ほど座っていた。列車の時間を待っているのだろうか。切符売り場へ行く。当然駅員が起きていると思ったら、何と大分駅の切符売り場はカーテンが締まっていた。ドアを叩いても何の反応もない。列車が発車するまで後十分だ。改札口の中に切符売り場の入口があったのでそにへ行くことにした。改札口に一人の男が立っていた。「駅員ですか」と聞くと「いや、俺は駅に泊っているのだ」と男は答えた。足もとの電気ストーブが赤く光っていた。男は暖を取っていたのだ。あの待合室にいた人たちもホームレスだったのだとその時気づいた。
 
 切符売り場の出入口の戸を叩いていると中から若い駅員が眠そうな表情で出て来た。「青春十八きっぷだって。駅の業務は六時からなんだけど、これからは前もって買って下さい」と駅員は言ったが、コンピュータを動かして切符を販売してくれた。その切符はコンピュータ印刷のよく見なれたものだった。「昨日まで使っていたあのピンク色の切符は一体どういうことなのだろうか」不思議で仕方がなかった。ホームに行くと、列車はまだ到着していなかった。JRの職員らしい人がいたので、早速疑問に思っていた切符の違いについて質問した。「ピンク色の切符は古い用紙を利用して印刷しているのです。用紙がまだたくさん残っているので利用しているのです。いろんな青春十八きっぷがあるのです」と教えてくれた。「丁度いいです。私が乗車証明を書いてあげましょう」とその人は切符に日付を入れてくれた。「あっ、しまった。間違えましたが、まあこれでも通用しますから安心してください」と切符を渡してくれた。何とその人は、書き場所を間違えて三回目のところに日付けを記入してしまったのだ。きっとこういう間違いはよくあるのだろうと思った。
 
 列車が到着した。再びあの大きな窓のある列車だった。九州最後の日に乗る列車としてはふさわしい列車だと思った。そして車掌は先程切符に乗車証明を書いてくれた人だった。五時四四分柳ヶ浦行普通列車は大分を発車した。真っ暗な中を列車は走り、国東半島を横切る辺りでようやく空が明るくなり始めた。
 
 六時四七分柳ヶ浦に到着。六時五十分発門司行普通列車に乗換える。八時二二分門司に到着。九州一周普通列車の旅は終了した。普通列車を使って駆け足で周った旅行だったが、九州に住む人たちの考え方の一端が覗けた旅だったように思った。また機会があったら挑戦しようと思っている。
 
おわりに 門司~楡原 
 
山陽本線=山陽新幹線=東海道新幹線=東海道本線=高山本線 

 その後、富山までの経路は、下関から厚狭までは普通列車を使い、厚狭から新幹線に乗換え、名古屋まで行き、名古屋から岐阜に戻り、岐阜から高山本線の普通列車で富山県楡原に帰った。細入村の自宅には午後九時少し前に入った。今回の旅行で乗車した総距離は二八六六.七キロメートルだった。

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[ 2012/12/16 08:02 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(1)

「青春18きっぷ」で山陰・九州を巡る旅 6

第五日目 鹿児島~大分  日豊本線 

 十二月十五日、金曜日。午前五時起床。名古屋の知人から依頼されていた原稿の締切が迫り、原稿を書き始めた。七時過ぎにやっと書き上げる。昨日買ったおにぎりとインスタント味噌汁で朝食を終える。書き上げた原稿を自宅へFAXで送ることにした。ホテルのフロントで「FAXはありますか」と聞くと「ええ、そこにありますよ」と受付の横へ案内してくれる。立派なFAX機が置いてあった。「安宿だが、さすがにビジネスホテルという名前を付けているだけあるなあ」と感心する。無事、原稿を自宅へ送信し宿題は完了した。
 
 久しぶりにNHKテレビの「オードリ」を見る。一週間でどこまで進んだのだろうか。働いていた時は全く見ることができなかった朝の連続テレビ小説も、仕事を辞めた今は欠かさず見るようになり、俗人の仲間入りができるようになったと喜んでいる。今日は朝の番組としては相応しくない「オードリが城島に抱かれる」という内容だった。今時の若者なら特に問題はないという感覚なのだろうが、抗議したい内容だった。ひょっとしたらNHKに抗議電話が届いているのではないだろうか。

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 八時四十分ホテルを出発。今日は十一時四十分鹿児島発の列車に乗車する予定なのでそれまでに桜島見学を終えなくてはいけない。「桜島へ行くには市電に乗って桜島桟橋で降り、そこからフェリーに乗ればいいです」とフロントで教えてもらった。教えられた通り、西鹿児島駅から市電に乗る。通勤時間帯でもあり、車内は込んでいた。私は大きなリュックを背負っているので、隅の方へ移動する。見ると、前の座席に六人の高校生グループが座っていた。手に冊子を持っていて、調べている。どうやら修学旅行生のようだ。多摩高校という文字が見える。彼等は市役所前で下車した。

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 桜島桟橋で下車し、五分ほど歩くとフェリー乗り場に着いた。港の向こうに桜島が霞んで見えていた。天気はよいのだが、気温が低いためか霧がかかっているようだった。フェリーが引切り無しに鹿児島と桜島の間を行き来している。時刻表を見ると十分毎に便がある。三十年前に桜島へ行ったことがあるが、その時は小さな船で渡ったような記憶がある。大きくて立派なフェリーが運行していることにびっくりした。料金は百五十円と格安だった。フェリーの中は立派な椅子がたくさん並び、展望室まである。ゆったりした展望室からの見る青い空と青い海、そして遠くに聳える桜島の風景は素晴らしかった。「十三分で鹿児島港と桜島を結んでいます」と船内放送が流れていた。
 
 九時三十分桜島に到着した。島内を巡る定期観光バスは所要時間が三時間と案内がある。列車の時刻を考えると、桜島を十一時には出発しないと間に合わない。バスには乗れない。案内所で短時間で見学できるコースを紹介してもらう。「すぐ近くにビジターセンターがあるのでそこへ行かれたらいいですよ」と教えてもらい、地図を見ながら歩いて行く。大きな建物が見えて来た。マグマ温泉の旗が風に揺れている。温泉施設のようだ。その隣りに桜島ビジターセンターの建物があった。無料の施設で桜島の歴史をビデオで流していた。今年は一六三回も噴火があったと案内が出でいる。全国的に火山の活動が激しくなっているが桜島も例外ではないようだ。

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 近くを散策する。溶岩渚遊歩道が作られ、桜島の真っ黒い溶岩が道の両サイドに保存され、海の青さとマッチして美しい景色であった。遠くに見える桜島が噴煙を上げていたが、噴火が今後ひどくならないことを願った。歩いている途中で中学生二人に質問をされる。島のことを研究して発表するのだという。「富山県から来た」というとびっくりしていた。

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 十一時少し前フェリー乗り場に戻り、フェリーに乗船。十一時には鹿児島港に到着した。港にある商店街を歩く。魚屋が何軒も並んでいる。買い物客がたくさんいて活気がある。アジ、イカ、サバ、メジナなどが並んでいる。活きのいい魚を食べさせる食堂がないのが残念だった。

 
 十一時三十分鹿児島駅に到着。鹿児島では西鹿児島駅がメインの駅で、鹿児島駅は貧弱で小さな駅だ。何だか不思議な感じである。西鹿児島駅を鹿児島駅に、鹿児島駅を東鹿児島駅にしたらどうだろうか。そう考えるのは私だけかな。売店で昼食のおにぎりを買う。

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 十一時四六分発宮崎行快速列車に乗車する。三両編成のボックス型の列車である。ワンボックスを確保し、美しい錦江湾と桜島を見ながらおにぎりを食べる。旅は素晴らしいという気持ちで満足。十四時三分宮崎着。次の列車まで少し時間があるので駅前をうろつく。駅前は整備されていて、フェニックスが植えられ、ここは南国宮崎県というイメージぴったりだった。巨人軍がここでキャンプを張る理由がよく分かった。

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 十四時三分発延岡行普通列車に乗車する。またあの大きな窓のある列車だった。太平洋を右手に見ながら列車は進んでいる。波は穏やかである。同じ海なのに山陰のイメージとどうしてこんなに違うのだろうか。九州一周の旅もあと少しである。今まで乗り続けて来た距離を計算したら二四〇〇キロになっていた。すごい距離を旅して来たことに驚いた。今晩は大分か別府に泊る予定でいる。しかし、この窓の大きな列車は長距離を乗るには疲れる。停車駅で真っ黒な特急列車が追い抜いて行った。
 
 十六時一二分延岡着。十六時三六分発大分行普通列車に乗換える。ボックス椅子のある三両編成の列車だ。延岡から大分方面に向けての普通列車の本数が少ないのに驚く。一日六本しかない。その後列車は山の中を走りつづけた。本数が少ない理由が分かったような気がした。
 
 十九時二十分大分に到着。ここで普通列車に乗換え、別府に行くことも考えたが、別府は温泉街。「一人ものは泊められません」と宿を見つけるのに苦労することも予想されるので、大分駅前で宿を見つけることにした。駅前にビジネスホテルの看板が見える。サウナありと表示もある。料金は何と三九〇〇円、今回の旅行では最低の料金である。部屋はこざっぱりしていて、トイレとバスは狭いが綺麗だ。食事に出掛ける。近くの中華屋でラーメン定食とビールで済ませる。ビールを追加したので料金は二〇〇〇円になった。コンビニで明日の朝食を仕入れホテルに帰る。
 
 このホテルにはサウナが付いている。サウナだけ利用しても一二〇〇円という料金である。宿泊してしかもサウナも利用し三九〇〇円には驚く。一体料金体系はどうなっているのだろうか。着替えを持ち、サウナへ行く。五人ほど先客がいた。中には大きな風呂もあり、しっかり汗を流した。快適な風呂だった。明日は九州最後の旅になる。



[ 2012/12/15 08:03 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(1)

「青春18きっぷ」で山陰・九州を巡る旅 5

第四日目 熊本~鹿児島   鹿児島本線 
 十二月十四日、木曜日。午前六時起床。体調はすっかりよくなったようで腰に痛みはない。窓を開けるが、まだ空は真っ暗である。熊本駅の時計が明るく光っている。天気はよさそうである。カップうどんで朝食を済ませ出発。重いリュックをフロントに預けることも考えたが、気ままな旅なのでどこでどう考えが変わるかもしれないので背負って歩くことにする。家を出発した時から、立ち寄った所で貰うパンフレットが増えた分リュックは重くなっている。ズシリと背中に食い込むが、今日はしっかり背負って歩けるようだ。
 
 午前七時二七分熊本発宮地行普通列車に乗車する。この列車は熊本と大分を結ぶ豊肥本線を走る。昨日乗って驚いた窓の大きな車両と同じ型である。今日はワンマンではなく車掌が乗車している。「俺は九州男児だ」という顔をした眉毛が濃くて眼の大きい車掌だ。車内には高校生がたくさん乗っている。相変らず高校生の態度はよくないが、車掌は生活指導も兼ねていて、床に座りこんでいる生徒に「ちゃんと椅子に座れ」と注意しながら歩いている。恐い顔で睨まれた生徒は、しぶしぶ空いている座席に移動していた。これが九州だと思う風景だった。その後、乗車した列車でも、乗っていた車掌が態度の悪い高校生に対してしっかり生活指導をしているのには感動した。本州では絶対見られない風景だ。
 
 立野で列車はスイッチバックした。いよいよ阿蘇の外輪山を上って行くのだ。急な勾配の線路を列車はゆっくり進んで行く。やがて山並みが切れて列車の左側に褐色の岩肌が見え始めた。阿蘇外輪山の壁だ。列車は大きな平原の中を進んで行く。列車が進む右側には褐色の高い山が見える。木がほとんど生えていない。現在も活動中の火山なのだから木が生えていないのも当然なのかもしれないが、圧倒されそうな景色である。あの山にこれから登るのだろうか。
 
 八時五十分列車は阿蘇に到着した。ここからバスで阿蘇火口に向かう。バス乗り場へ行く。ガランとした待合室におばあさんが一人座っている。乗り場の扉に「今日はガスが発生していて危険なのでロープウエーは動きません」と張り紙がしてある。火口まで行く予定だったので残念に思った。バスはその手前のロープウエー乗り場までは行くようだ。時刻表を見ると、九時五十分の発車だった。切符売り場で「阿蘇山を見るならどこへ行ったらいですか」と聞くと「今日はロープウエーが動かなから、草千里で下車されるといいですよ」と教えてくれた。しばらくして、阿蘇山へ向かう観光客が何人かやって来た。その中に九人の高校生の一団があった。どうやら修学旅行のようだ。最近の修学旅行は自由行動が主体のようで、彼等もグループ行動で九州の中を移動しているようだった。話を聞くと埼玉の高校生だった。だれもがロープウエーが動かないことにがっかりしていた。

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 九時五十分バスは二十人位の客を乗せて出発した。阿蘇パノラマラインと呼ばれる狭い高原道路をバスは上って行く。頂上まで四十分くらいだそうだ。次第に視界が開けて来て、列車の通っていた火口原が眼下に広がり出した。ちょうどお椀を伏せたような形の山が真横に見える。「米塚と呼ばれる山です」と運転手が教えてくれる。大観望と呼ばれる場所でバスは十分間停車した。眼下には火口原が広がり、道路を挟んだ反対側は阿蘇烏帽子岳が望める場所だ。自然の美しさに圧倒される風景だ。高校生たちは記念撮影をしている。風が頬を突き刺し寒い。しかし、素晴らしい景色だ。「今日はここで絵を描くぞ」という気持ちになった。旅に出てからそういう気持ちになったのは初めてだった。

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 大観望を出発して三分ほどで草千里に到着した。草千里は大観望から見ていた場所だった。道路から烏帽子岳の裾野までなだらかな平原が広がっていた。草原の中には池があり、キラキラ輝いていた。氷が張っているようだった。修学旅行生が四人草原を駆けて行く。少し小高くなった丘の上まで見る間に行ってしまった。若いということはエネルギーが満ち溢れていて素晴らしいと思った。

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 リュックを置いて、私も草原を歩いてみることにした。

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 枯れた草原のあちらこちらに牛や馬の糞が転がっていた。つい最近まで牛や馬が放牧されていたようだ。小高い丘に登ると景色が違って見えた。眼前に迫った烏帽子岳のなだらかな稜線がとても美しかった。時間を掛ければ登って行けそうに思った。遠くには噴煙を上げる中岳が見えた。丘を下り、草原を横切って烏帽子岳の稜線の所まで行くと、眼下に火口原が広がっていた。バスの運転手が「阿蘇山は、大昔大きなカルデラ湖だったのですが、立野の所で外輪山が崩れて水が流れ出し、カルデラ湖が消滅したのです」と話していたが、外輪山がなくなっている立野の町が遠くに見え、運転手の説明が納得できた。立野から烏帽子岳に向かって自然歩道がずっと延びているのが見えた。あの道を歩いたらどんなに素晴らしいだろうか思った。

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 リュックの置いてある所へもどり、スケッチブックを持って再び草原を歩き出した。烏帽子岳を描いて見ようと思った。丘の上で二枚、烏帽子岳の稜線の所でも二枚描いた。道路を観光バスがひっきりなしに走って行く。バス停の前にある博物館や売店に観光客は立ち寄っているようだが、草原まで歩きに来る人は全くいなかった。絵を描き終わり、時刻を見たらもうすぐ十二時だった。何と草原に一時間半もいたのだ。その間、寒さはほとんど気にならなかった。雄大な自然に圧倒されていたのだろうか。阿蘇駅へ戻るバスがすぐある。売店で阿蘇の写真を買い、バスに乗った。来る時一緒だった二人連れのおばさんと一緒になった。「あなたのこと覚えていますよ。その青いヤッケが目立っていたもの」と一人のおばさんから言われてしまった。「草千里は素晴らしかったですよ」と言うと、「えっ、あの寒い中、草原にいたのですか」と感心されてしまった。まだまだ私は若いようだ。

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 十二時半過ぎバスは阿蘇駅に到着した。十三時三分発肥後大津行の列車まで二十分近くある。駅の横にある食堂でカレーうどんを食べた。インスタントの薄味でまずいカレーうどんだった。それでも値段は立派な六百円だった。
 
 十三時三分定刻通りに列車は発車した。旧い型の列車だった。火口原を走り、スイッチバックを過ぎ、十三時五一分肥後大津に到着した。十三時五五分発熊本行に乗換える。あの窓の大きな電車だった。十四時二九分熊本到着。十五時〇〇分発八代行普通列車に乗車する。再びあの大きな窓のある列車だった。最初乗った時は、眺めがよくて感動した所もあったが、否応でも真正面を向いて前をしっかり見なさいという座席は、長時間乗り続けるには疲れる電車であることが分かった。長時間乗るなら特急に乗りなさいというのが九州の考え方のようだ。九州を走る特急列車も実に派手派手しい姿と色をしている。真っ黒な色をした弾丸特急のような形で如何にも「俺は走るぞ」というタイプのものと、真っ赤な色をした四角い形をしたタイプと、同じ形だが緑色のタイプの三種類が走っていた。主張がはっきりしているというのが九州の考え方のように思った。   
 
 十五時三四分八代に到着。十五時四九分発西鹿児島行普通列車に乗換える。久しぶりにボックス椅子の列車だ。やはり長距離を乗るにはこのタイプが一番である。しばらく走ると海が見え出した。八代海だ。波も小さく穏やかな海である。山陰と同じ海沿いを走っているのだが、明るさを感じる。反対側に山が迫っているが、斜面を見ると黄色いみかんがたくさん枝に付いているのが見える。気候がとても温暖なのだ。列車は水俣に停車した。水俣と聞いたら水俣病とすぐ反射的に答えてしまうくらい有名になった土地である。今でも病気で苦しんでいる人がたくさんいると昨日見たテレビで報道していた。 
 
 途中で高校生がたくさん乗って来た。高校生の態度はここでも一緒だった。窓を開けてタバコを吸っているグループがいる。携帯電話でメールを送る動作をしている姿があちこちで見られた。女子学生はミニスカートを履き、ルーズソックスを引き摺り、男子学生はだぶだぶズボンを腰まで下げた姿は大都会で見られるものと全く一緒だった。青年のファッションは全国同時進行で進んでいるようだ。
 
 十九時五七分西鹿児島に到着した。駅前は大きなビルが建ち並び賑わっていた。駅の右に商店街があり、ビジネスホテルの看板が見える。一泊四三〇〇円、土、日は三八〇〇円と格安の宿泊料に惹かれ、フロントへ上がって行った。「三〇八号室へどうぞ」と鍵を渡される。トイレと風呂が付いているが狭い。電球が一つ壊れていて、部屋は暗い。旧式のテレビが置いてある。ポットにはお湯が入っていた。不思議に思ったのが、シングルベッドなのにスリッパもタオルも二組用意してあることだった。この狭い部屋に二人で泊まることがあるのだろうか。
 
 荷物を整理し、食事に出掛ける。駅前の商店街には赤提灯や飲食店の看板が並んでいる。どの店も結構客が入っているようだ。昨晩のことを思い出し、一膳飯屋の暖簾を探すことにした。商店街をだいぶ行った所で一膳飯屋を見つけた。今晩はここで食事を取る事にした。ほとんどのテーブルは客で埋まっていた。支払いを終えた客の席が空き、そこへ座る。壁に値札が下がっている。定食物で七百~八百円。品数も多いようだ。定食の中で一番高い上定食千円と焼酎二百五十円を注文する。しばらくして私が注文した上定食が届いた。海老と野菜の天ぷら、まぐろの刺身、塩鮭の焼き物、サトイモの煮物、味噌汁、ごはんと品数が多くてボリュームもたっぷりだ。これで千円とは驚いた。味もまあまあでしめて千二百五十円。豪華で格安の夕食だった。コンビニで朝食のおにぎりとインスタント味噌汁を買いホテルに戻る。風呂に入る。テレビからはブッシュ大統領誕生のニュースが流れていた。



 
[ 2012/12/14 08:57 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

「青春18きっぷ」で山陰・九州を巡る旅 4

第三日目 長門市~熊本市  山陰本線=鹿児島本線
 
 十二月十三日、水曜日。午前六時起床。洗面を済ませる。天気はよさそうである。午前六時五十分旅館を出発。駅前のコンビニでサンドイッチとお茶と新聞を買う。七時十分発小串行普通列車に乗車する。まだ薄暗い中、たくさんの高校生がホームを歩いている。長門市は厚狭と結ぶ美称線もあり、いろいろな方向へ高校生が通学しているようだ。私の乗った列車にも高校生がたくさんいる。
 
 列車が走り出し、右手に日本海が見えて来た。今日も日本海を見ながらの旅のスタートである。どうも今日は腰の調子がよくないようだ。ひねると痛みがある。ずっと椅子に座りっぱなしだったことが腰に負担をかけたようだ。無理をするともっと悪くなりそうな気がする。昨日立てた予定ではこの後下関で下車し、下関市内を歩いて関門海峡の入口まで行き、関門海峡の人道を門司まで歩いて行く計画だった。今の状態では、重いリュックを背負って歩けそうにない。関門海峡を歩くことは、またの機会とすることにした。
 
 八時十八分小串に到着。八時二十分発門司行普通列車に乗換える。昨日見つけた真っ赤な漆の葉が前にも増して多く見られるようになってきた。九時八分下関に到着。港がすぐ近くにあるようで、大きなクレーンが何本も立っている。列車はここから門司まで関門海峡トンネルを走る。本来なら歩いて九州へ渡る予定だったのにと、列車が関門海峡を通過する時は、残念な気持ちで一杯だった。走り出して五分ほどで門司に到着した。

 今日の宿泊予定地は熊本にしている。九時三二分発荒尾行快速列車の発車まで十五分程ある。プラットホームにうどんの売店があるので、食べることにした。一番安い素うどんを注文したのに、出て来たのは肉や葱が入っていた。豚肉がたっぷり入っていて美味しいうどんだった。博多ラーメンは豚骨スープが命だが、うどんも豚肉が主役だったのにはびっくりした。

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 荒尾行快速列車が到着した。今まで山陰本線を走って来て、乗った列車は、ほとんどがくたびれたディーゼルカーだった。荒尾行の電車は新型車で、座席も新しく、乗り心地は満点だった。さすがに大都会を走る列車は違うなあと思った。乗客もサラリーマンや学生、旅行客などたくさんの人が駅毎で乗り降りして、大都会を走る通勤列車だった。
 
 一時間ほどで博多に到着。大きなビルが建ち並んでいる。途中下車して博多の町を見物するのもおもしろいが、それはまたの機会にとそのまま列車に乗り続ける。十一時十六分長崎本線と分岐する鳥栖に到着。今回の旅行では、長崎を回ってくるコースも考えたが、長崎の町は何度も行ったことがあったので、長崎は入れなかった。九州を一周する中でどうしても見学したい所として、関門海峡トンネル、熊本城、阿蘇山、桜島の四ヵ所を考えていた。しかし、その一つの関門海峡トンネルは体調不良で中止したばかりである。気ままな一人旅、これからどうなるのか、とにかく今日の目的地熊本へ直行することを考えた。

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 大牟田の次の駅、荒尾に十一時五一分到着。十一時五九分発八代行普通列車に乗換える。二両編成のワンマンカーだが、ボディーの色が真紅の実に派手な電車だった。さらに驚いたのは、乗ってからだった。座席は窓側に一列ずつの向かい合うタイプで、しかも座る所がしっかり区切られていて、向かいに座っている人の顔を真正面からしっかり見ろという実に几帳面な造りになっていた。また、窓がとてつもなく大きくて、大スクリーンのパノラマで、九州の景色は大変美しいからしっかり見なさいという造りだった。「これぞ、九州なのだ」という九州人の考え方を知らされた電車だった。山陰の暗さとは対称的な九州の明るさは一体どこから来ているのか、これからの旅の中で解明したいと思った。
 
 十二時四五分熊本に到着した。今晩宿泊する宿を決めた後、熊本城の見学に出掛けることにした。駅前に大きなビジネスホテルがある。一泊五五〇〇円だった。チェックインは三時からというので、フロントにリュックを預け、出掛ける。

 昼食は、すぐ近くにあった博多ラーメンの暖簾が掛かった店で食べた。豚骨スープのラーメンは、私の口には合わないようだ。

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 熊本駅から熊本城へは市電に乗っていくと便利だとラーメン屋の主人が教えてくれた。早速駅前から乗車する。一日乗車券を五百円で購入した。今も市電が走っている都市が幾つかある。熊本もその一つだ。自動車公害がひどくなる中で、市電を復活させようという声が全国的に大きくなっていると新聞に書いてあった。熊本の市電はこれからもずっと残って行くのだろう。見ているといろいろな型の市電が走っている。他の都市で昔走っていた市電が、熊本で走っているのだろうか。 

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 細い道を曲がりくねりながら市電は走り、十分ほどで熊本城前に到着した。目の前に熊本城が見える。入口で入園料五百円を払う。「熊本城は加藤清正が一六〇一年から七年掛かって築いた城だったが、一八七七年の西南戦争の折、焼失した。その後一九六〇年(昭和三五)に再建された」と説明がある。再建されたとはいえ、白と黒がマッチした立派な城であった。修学旅行の高校生がたくさん見学に訪れていた。

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 熊本城を見学した後、城の周りを散策した。県立美術館や市立博物館などがあり、大きな公園になっていた。旧細川刑部邸や水前寺公園などを見学する時間はあるが、体調がよくない。ホテルに戻って静かに過ごすことにする。再び市電に乗り、熊本駅に帰り、午後四時過ぎホテルに入った。
 
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 午後六時、近くの飲み屋で食事をする。串の盛り合わせと焼酎を注文する。九州はやはり焼酎の本場だけあっていろんな銘柄がカウンターに並んでいた。日頃飲んでいるいいちこを注文した。歳の瀬も迫り、店の奥では忘年会が開かれていた。そういう季節になったのかと思った。この店では酒を飲むだけにして、もう一軒行くことにした。
 
 少し行った所に一膳飯屋があった。中は活気があり、賑やかな話し声が響いていた。味噌ラーメンを注文する。前に座っているおじさんの所へお姉さんがチャーハンを持って来た。そのチャーハンを見てびっくりした。何とどんぶりに二杯分ほどの山盛りチャーハンなのだ。私にはとても食べられる量ではなかった。おじさんは全く表情を変えないで食べ始めた。私の所にラーメンが届き、おじさんが食べるのを見ながら、私もラーメンを食べた。おじさんは、山盛りチャーハンをあっという間に平らげ、それからビールと餃子を注文した。私はラーメンを食べ終わり勘定を払って店を後にしたが、あのおじさんは、まだ食べ続けている。熊本のすごい人を発見した夜だった。
 
 ホテルに帰る途中に、バスセンターがあったので、中に入って阿蘇へのバスを調べる。熊本駅から直通で阿蘇山までバスが出ているが、JR阿蘇駅から阿蘇山までのバスがあるとのこと、明日はJRで出掛けることに決めて、ホテルに戻った。少し休んだこともあり、体調もよくなってきているようだ。天気予報では明日は雨にはならないようだ。阿蘇山はどんな景色なのだろうか。明日が楽しみである。



[ 2012/12/13 16:24 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

「青春18きっぷ」で山陰・九州を巡る旅 3

第二日目 城崎~長門市 山陰本線 

 十二月十二日、火曜日。午前五時半起床。テレビの天気予報では、今日は雪模様になるという。窓を開け、外を見たがまだ真っ暗である。ひょっとして雪が積もっているのではないかと思ったのだが、積雪は見られない。洗面を終え、六時二十分宿を出発する。親切だった宿のご主人が股式姿で見送ってくれる。城崎温泉街は幅の狭い大谿川に沿うように延びている。川の渕には柳が植えられ、街燈に枝が照らされて温泉街らしい雰囲気を漂わせていた。
 
 六時半過ぎ、城崎駅に到着。列車の発車まで待合室で待つことにした。待合室の椅子に男が一人寝ている。昨日の余部鉄橋のハプニングでここに泊ったのかと思った。そしたら、いきなりその男が起き上がって私に話し掛けてきた。「この駅に泊るようになってもう二週間目だ。四国からここへ友達を頼って出てきたのだが、職が見つからなくてとうとう、駅で泊るようになってしまった。毎日職安へは行くのだが、仕事がなくてね」とその男は言った。厳しい現実が聞こえてきた。事実上私も現在は無職の身なので人事でないように思った。その男より私の方が身なりは、もっと酷い格好をしているだ。
 
 列車の到着時刻になったのでホームに出た。駅員に昨日の余部鉄橋の話を聞くと「鉄橋が通れるようになったのは最終列車が走る十一時過ぎでした。一時は二五メートルを超える風が吹いていたのです。今日は大丈夫です」と教えてくれた。定刻通り六時四九分、城崎を浜坂行普通列車は発車した。

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 夜が明け、辺りの景色がはっきり見えるようになり、日本海の美しい青色が目に飛び込んできた。風が強いためか白い波頭が立ち、海は荒れていましたが、空は明るく今日はこの美しい海を眺めながらの旅になるのかと嬉しくなった。

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 柴山で中学生がたくさん乗車して来た。一般客の姿は車内にほとんどなく、この列車は通学列車としての役割を地域で果たしているようだ。鎧に着く。断崖の上に駅があり、海が下の方に見える。向かいのホームに三十人近い小学生がいる。一人の母親がむずがる子どもを説得している。あの子は学校へ行くのを嫌がっているようだ。彼らは香住の小学校へ通っているようだが、本来ならこれだけの人数ならこの地域に小学校があってもいいのではないかと思った。きっと数年前までは小学校があったに違いない。全国的に小・中学校の統廃合が猛烈な勢いで進んでいるが、この現実には腹が立つ。

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 昨日渡れなかった余部鉄橋を列車は渡って行く。この鉄橋の橋桁の高さ四一.五メートル、長さ三〇〇メートルで余部の町並みが鉄橋の上から小さく見える。景色は最高である。
 
 七時五四分浜坂着。八時三分発鳥取行普通列車に乗り換える。高校生の一団が乗って来る。この列車も乗車しているのは学生ばかり。働き盛りの人はJRにはほとんど乗らないようだ。天気もよくなり、美しい海岸線を列車は走って行く。ぼっと景色を眺めるうちに鳥取に到着した。
 
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 次の列車が発車するまでに一時間近くあるので、朝食を取るため途中下車する。駅にも食堂があったが、駅前商店街で見つけることにした。大きなビルが建ち並び大都会である。ファーストフードの店やコンビニなどもある。朝食五百円という看板が見える。喫茶店のようにも見える感じのよい食堂である。中に入るとアルバイトらしい女性が注文を聞きに来た。メニューを見ると、朝食でもいろいろある。和定食Bを注文した。しばらくして届いた定食は、塩鮭、おでん、煮物、納豆、味噌汁といろいろおかずが付いていて驚いてしまった。追加したコーヒーも百円と割安ですごく得した気分になってしまった。
 
 九時五十分鳥取発出雲市行快速列車とっとりライナーに乗車。車内はほぼ席が埋まっている。老人や主婦に交じってサラリーマンの姿も見える。列車は美しい海岸沿いを走って行く。倉吉を過ぎ、列車の左側に白く雪を被った美しい山並みが見えて来た。大山である。伯耆富士の名があり山陰のシンボルになっているとパンフレットに説明が載っていた。大山は薄っすらと雪が被る程度でこの辺りは日本海側といっても比較的温かい地方のようだ。日本海と大山に挟まれた細い平野を列車は走っている。空から見たらさぞかし美しい風景だろうなあと思った。

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 十二時二七分列車は出雲市に到着した。ここで浜田行普通列車に乗り替える。列車は一両編成のワンマンカーになった。車内はほぼ満席である。昼食の時間だが、ホームに売店はなく、購入するのを諦める。昼食は浜田に着いてからになりそうだ。海のすぐ横を列車は進む。青空も見え始め海の色が紺碧になり美しい。江津を過ぎた辺りで、木々の間に真っ赤な色をした漆の葉が目に付くようになる。まだこの辺りは紅葉が終っていないのにびっくりした。すっかり冬を迎えた富山県細入村を昨日出発し、日本列島を南下するに従ってだんだん季節が逆戻りしていることに気が付いた。これから九州へ向かう旅の中で、季節が更に逆戻りするのだろうか。タイムマシーンに乗った旅がこれからこの小さな列車の中で体験できることに感動していた。

 十四時五一分浜田着。駅の売店でアンパンとつまみの竹輪とビールを買う。十五時十四分発益田行普通列車に乗車。美しい海の景色を見ながら食べる遅い昼食は美味かった。

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 十六時四分益田に到着。大きな町である。益田は江戸時代に石見地方の中心として栄えたと説明がある。十六時二四分発長門市行普通列車に乗り換える。黄色いボディーの二両編成の列車である。こういう黄色い列車を見たのは今回が初めてである。もちろんワンマンカーである。今日は下関まで行く予定だったのだが、少々疲れが出てきたので、この列車終点の長門市で宿泊することにした。列車は家に帰る高校生でほぼ満員になった。列車が走り出し、どこからかタバコの臭いが漂ってきた。遠くを見ると男子高校生のグループが窓を少し開けて、タバコを吸っているのが見えた。昨日からずっと列車に乗ってきて、男女を問わず、高校生の態度の悪さに驚くことがしばしばある。嘆かわしいが現実である。

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 十八時二一分列車はすっかり暗くなった長門市に到着した。まずは今夜の宿を見つけなくてはならない。遠くにビジネスホテルのネオンも見えるが、駅前に古い旅館がある。駅前食堂も兼ねているようだ。入口の戸を開けるとお上さんが忙しそうに料理を作っていた。「お一人さんですね。料金は素泊まりで四六〇〇円です」と即座に返事が返ってきた。二階に何室も部屋があり、その一番手前に案内された。。昔、映画で見たことのある駅前旅館という表現ピッタリの旅館だった。客は私一人であった。食事は下の食堂で済ませることにした。刺身定食とビールの夕食だったが、疲れもあったのだろうか、あまり美味しくなかった。コンビニで朝食のおにぎりとインスタントの味噌汁を買い旅館に戻る。風呂に入り、明日の予定を立て、午後九時過ぎには床についた。明日はいよいよ九州に入る。



[ 2012/12/12 05:28 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(1)

「青春18きっぷ」で山陰・九州を巡る旅 2

第一日目 楡原~城崎  高山本線=北陸本線=小浜線=舞鶴線=山陰本線 

 十二月十一日、月曜日。楡原六時四四分発の富山行普通列車に乗車する。この列車が楡原の一番列車である。高山本線を走るローカル列車は何年か前にワンマンカーになり、本数もどんどん減っている。それも一両とか二両の列車になり、利用客も減りそのうちに走らなくなってしまうのではないかと心配の声が聞こえてくる。一番列車は二両編成である。車内はほとんど客がいない。大きなリュックを荷棚に上げ、まだ暗い車窓を眺め、これから始まる列車の旅のことを考えていた。雨が降り出して、窓が濡れ出した。天気予報は今日から明日にかけて大荒れになり、日本海側では十センチほどの降雪になりそうだと告げていた。笹津で高校生や通勤客がたくさん乗ってきて、八尾で満員になった。旅行に出掛ける人の姿を見ることは出来なかった。七時十九分富山に到着。

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 七時三三分発福井行快速列車に乗車した。天気はますます悪くなり、横殴りの雨が降り出した。金沢までの停車駅に津幡がないのに驚いた。ずっと昔は、津幡は特急も停車した記憶があったのに、今では快速も停車しなくなったのかとびっくりして時刻表で調べると、快速や特急でも通過するものや停車するものといろいろなタイプの列車が走っていることに気が付いた。

 金沢からグリーン色の制服を着た二人の女性が前の席に座った。旅館かホテルの清掃業務をしている仕事のように見える。よく喋るおばさんとフンフンとにこやかに相槌をうつおばさんの組み合わせは絶妙で、この二人きっと息の合った仕事をしているに違いないと思った。二人は小松で降りて行った。
 
 十時十四分福井に到着。十時十六分発長浜行普通列車に乗り換えた。列車はガラガラである。相変らず横殴りの雨が降っている。十一時六分敦賀に到着。ここから小浜線に乗り換え、冬の若狭湾を見ながら走ることになる。小浜線のホームは一番線。列車が発車するまでに三十分近くある。列車が入ってくるまでホームで待つことにした。なぜかホームには待合室がなくて、吹きさらしである。雨は小ぶりになったが、風が強く、薄着で来たことを後悔したが今更どうにもならない。派手なウインドブレーカーを羽織る。売店で、敦賀名産のあなご弁当とカップ酒とつまみの竹輪を買った。あまりの寒さに、取りあえず竹輪をつまみに、カップ酒を飲んだ。しばらくして寒さを感じなくなった。

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 一番線に敦賀終点の、ブルー色をした二両編成の列車が入って来た。この列車が十一時三九分発東舞鶴行普通列車になる。小浜線は昨年の十二月乗ったことがある。その時は雪が舞っている日本海の景色を眺めながらの旅だった。今年は、雪は見られないが、やはり暗い空に覆われた日本海を見ながらの旅になりそうだ。

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 定刻通り列車は発車した。しばらく走ると日本海が見えてきた。海を見ながら食べたあなご弁当は美味しかった。窓ガラスに白い物が音を立ててぶつかり始めた。「アラレだ」と乗客の中から声が上がった。天気予報は確実に当たっているようだ。冬の日本海は白い波が立ち、とても寒そうに感じた。これから旅する山陰地方はこの風景がずっと続くのだろうか。

 十三時五二分東舞鶴に到着した。次の列車の発車まで一時間以上待ち時間がある。駅前の喫茶店に入ることにした。駅前を探したが、喫茶店が見つからず、駅前商店街をしばらく歩いてやっと喫茶店を見つけた。感じのいい店だった。

 十五時十分東舞鶴発福知山行普通列車に乗車。車内はかなり混んでいる。空はかなり明るくなり、雨も上がったようだ。西舞鶴駅に停車。ここは天橋立へ行く北近畿タンゴ鉄道の乗換駅である。天橋立へは行ったことがないので、そのうちに行ってみたいと思っている。列車は綾部から山陰本線に入った。沿線は低い山並みが続く農村風景である。歴史を感じさせる旧い農家が並んでいる。屋根はトタンで覆われているが、その下には藁葺き屋根が隠れているのだろう。何十年か前にはきっと藁葺き屋根が並ぶ家並みが続いていたのだろう。京都と日本海の宮津を結ぶ山陰街道丹波路に沿って列車は進んで行った。
 
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 十五時四九分福知山に到着した。十六時十分発豊岡行普通列車に乗り換える。雨はすっかり上がったが、冷たい風が相変らず吹いている。明日の山陰は雪模様の天気になりそうな感じがする。十七時二四分豊岡に到着。ここで十七時三五分発浜坂行普通列車に乗り換える。今晩の宿泊予定地は鳥取に予定している。この後浜坂で乗り換え、鳥取に着く予定である。山陰本線を走る普通列車は短い区間をぶつぶつに切って走っている。乗り換えがやたら多いので大変不便である。短い区間を走る列車が多いのは全国的にJRの方針のようである。一両編成のワンマン列車はほぼ満席の状態である。
 
 定刻通り列車は豊岡を発車した。真っ暗になった中を列車は進んで行く。志賀直哉の小説で有名な城崎を過ぎた。香住に到着。ここでなぜか列車は停車したままである。運転士が慌しく動き出した。駅員と何か話している。無線も入っている。「何だろうか」と思っていると、運転士から「この先の余部鉄橋が強風で渡れません。この香住でしばらく停車します」とアナウンスがあった。思い掛けぬハプニングにびっくりした。何年か前、強風が吹く中を渡っていた貨物列車が余部鉄橋から転落する事故があった。それ以来、十五メートルを超える風が吹いたら列車は停止するということになったそうだ。 大荒れの天気の中、余部鉄橋ではかなりの強風が吹いているのだろう。

 二十分近く過ぎた頃、運転士が行き先調査を実施し始めた。「どこまで行かれますか」との問いに、ほとんどの乗客が「浜坂」と告げていた。私は「鳥取」です答えた。「鳥取?」と運転士は少し驚いた様子だった。結局調査の結果、浜坂から先へ行く客は、私を含めて2人だけであった。三十分近く待っても列車は発車しない。私の向かいに座るおばあさんは、親戚の不幸があって、浜坂に帰るという話をした。「こんなこと初めてです。電話で迎えに来てもらうしかないかなあ」と困った表情を示していた。乗客の中にはイライラする人もいたが、ほとんどの乗客は静かに発車を待っているという様子であった。こういうことは時々あるのだろう。

 四十分近く過ぎた頃「強風が治まったようなので、これから出発します」とアナウンスが入り、列車は余部に向かって走り出した。外は真っ暗なので風が吹いているのかどうかほとんど分からない。鎧に到着。余部鉄橋を渡るすぐ手前の駅である。運転士には無線が入っているようだ。「風が治まるまでここで再び停車します」とアナウンスがある。なかなか風は治まらないようだ。十分ほどして運転士がハンドルを持って車掌席へ移動して行った。そして「香住へ引き帰すことになりました。香住から浜坂へはバスで代行運転します」という運転士のアナウンスがあり、列車は香住へ戻った。
 
 予想もしなかったハプニングの中、これから私はどうするか。浜坂へ向かうバスの発車は八時五十分ごろになるという。香住駅前にホテルか旅館がないか見回したが、それらしい建物は見当たらない。大きな町でないと宿は見つからない。豊岡へ戻る列車が発車するという。明日からの旅の日程が少し狂うが、気ままな一人旅、旅館がたくさんある城崎へ戻ることにして普通列車に飛び乗った。
 
 九時少し前、列車は城崎に到着した。駅前に停まっているタクシーの運転手から、一人者でも泊れるみよし旅館というビジネスホテルを紹介してもらう。みよし旅館は「一の湯」のすぐ前にあり、素泊まり一泊六千円であった。旅館のご主人は、風呂巡りの案内や食事のできる店の紹介を大変詳しく説明してくれた。旅館は建て付けも古く、六千円は高いと感じたが、有名な城崎温泉街にあるのだから相場としてはこの位なのだろうか。

 早速タオルを持って、一番お勧めの「一の湯」に出掛けて行った。時間も遅く入浴客はほとんどいない。ここは洞窟風呂がメインだという。湯はさらっとしていて温泉に入っているという感じが私にはしなかった。風呂を出た後、近くの居酒屋で食事をした。旅行最初の夜を城崎温泉で過ごすことになろうとは思ってもいないことだった。気ままな一人旅はこれからどんなことが待ちうけているのだろうか。また、思わぬハプニングが起きるのだろうか。そんなことを考えながら、ビールを飲み干した。旅館への帰り道、雪がチラチラ舞い出した。富山県細入村ではもう十センチ近く積雪があるとかみさんは電話口で悲鳴を上げていた。明日の朝は、ひょっとするとこの辺りも銀世界になっているのかもしれないと思った。




[ 2012/12/11 05:43 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

「青春18きっぷ」で山陰・九州を巡る旅 1

はじめに 

 富山県細入村に引越して二週間が過ぎ、荷物の片付けや家具の取り付けなどもほぼ終了した。新しい家で生活を始めるには、やらなくてはいけないことがたくさんあることにびっくりした。慣れない大工仕事やちょっとした電気工事など新しい体験もでき、自分にはひょっとしたらこういう仕事の素質も隠れていたのかと、感動したこともあった。これからますます寒くなり、雪がたくさん降るようになり、そのための準備も必要になってくるのだろうが、雪の中での生活はほとんど分からないので、周りの人に聞きながら対処していこうと思っている。
 
 少し時間にゆとりが出来たこともあり、どこかへふらっと出掛けたい気持ちがいつものように膨らんできた。それではと、オワラ節で有名な八尾の町まで歩いたのだが、その帰り道、越中八尾駅で「青春十八きっぷ」のポスターを見つけた。そろそろ学生たちの冬休みが近づき、「青春十八きっぷ」を利用できる季節がやって来たのだ。発売は、すでに始まっていて、利用期間は十二月十日から一月二十日となっていた。昨年の冬、その切符を使って友人と身延線を旅した時のことを思い出した。ポスターを見て、今年の冬も旅に出ようという気持ちになってしまい、八尾駅で「十八きっぷ」を買ってしまった。購入した切符は、ピンク色の台紙に昔懐かしい感じのする印刷がしてあり、今まで見ていたコンピュータ印刷とは違っていたので、JRは今年から切符をレトロ調に変更したのかなと思った。
 
 家へ帰り、かみさんに「家の中もだいたい片付いたからふらっと旅に出るよ」と言うと、「行って来たら」とすんなり許可の返事が返って来て、少々驚いてしまった。どこへ行こうか、それから少し考えて、山陰から九州を周って帰って来る旅をすることにした。



[ 2012/12/08 23:22 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(1)
プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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