水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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今年1年をふり返って

 2011年5月より1年近く休止していたブログを再開したのが、今年の2月でした。しかし、再開といっても、毎日の出来事を綴ったブログではなく、これまでに全国を旅した時に書いた旅日記を再録という形で、載せることにしました。この旅日記は、とやまシティFMの旅番組、「ふらりきままに」で放送されたものです。
 
 過去の旅なので、今と少し様子が異なるところがありますが、それでも、たくさんの人が、この旅日記にお立ち寄りいただいていることを知り、とても嬉しく思っています。来年も、引き続きこのような形で旅日記を紹介していこうと思っています。これからも、よろしくお願いいたします。
 
 皆様方には、よいお年をお迎えください。 

 富山市楡原の冬風景
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[ 2012/12/31 10:45 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

「青春18切符」気まま旅

 中央本線~東海道本線~身延線~中央本線を巡る 

 手元に未使用切符の二枚残った「青春十八きっぷ」がある。この切符が使えるのは一月二十五日までである。今日は一月二十一日、金曜日。明日から始まる連休が使用できる最後のチャンスになる。  
年末にもこの切符を使って、列車旅行をした。その時は、北陸本線で敦賀へ出て、そこから小浜線を経由して山陰本線の豊岡で一泊。二日目は、そこから餘部鉄橋まで行き、その後、播但線を経由して姫路ヘ。そこで山陽本線に乗り換え岡山へ。そして瀬戸大橋を渡って高松で一泊。三日目は高松から土讃線で大歩危・小歩危を見学し高知ヘ。高知からは大阪行きのフェリーに乗って、三日目は船の中で宿泊。四日目は大阪から関西本線で奈良を経由して名古屋に戻る旅行をした。

 夕食も終わり、食後のブランディーを飲みながら、気ままな列車旅行の目的地を探そうと、時刻表を調べ始めた。今回も、幾つかの線を乗り継いでぐるっと回ってくるコースを考えていた。そこで思いついたのが、高蔵寺から名古屋へ出て、名古屋から東海道本線を東に進み富士市ヘ。富士から身延線に乗り換え甲府へ出て、甲府から中央本線に乗り換え、塩尻を経由して高蔵寺に戻ってくるコースである。これなら一日で周れそうだ。切符は二枚。この旅行に誰かを誘うこともできる。酒の勢いもあって、職場の秋山さんに電話をした。秋山さんとは今まで何度か旅行に出掛けたことがあり、私の旅話も楽しそうに聴いてくれる職場の同僚である。突然の電話に秋山さんも驚いたようだが、「明日、暇だったら私の物好きな旅行に付き合ってくれませんか」という私の誘いに彼は快く答えてくれた。楽しい旅になることを期待して床に着いた。
 
 一月二十二日(土)、六時三十六分高森台西発、高蔵寺駅行のバスに乗車。土曜日なのでいつもなら満員になるバスも、乗客が少ない。六時四十五分高蔵寺駅到着。秋山さんには六時五十三分発の名古屋行列車に乗るように連絡してあったが、彼は改札口で「いやー今日は列車に乗り続けるという旅だそうだね。ちょうど暇をもてあましていた所だったから、ご一緒させてもらうことにしたよ」と笑顔で私を迎えてくれた。「青春十八きっぷ」の最後の欄に二つ検印を受け、プラットホームに急いだ。「帰りの予定は今晩八時ごろですよ」と階段を上りながら、秋山さんに話した。果たして予定通り帰って来ることができるのだろうか。いよいよ気ままな列車旅行が始まった。

 六時五十三分高蔵寺発、名古屋行普通列車に乗車。平日、この列車はほぼ満席で走っているのだが、今日はガラ空きである。土曜休日は定着してしまったようだ。「朝ご飯は食べてきたのですか」と秋山さんに聞くと、「うちのかみさんは、いつも朝ごはんは作ってくれませんよ。自分で用意して食べていますから、今日もそうですよ」と笑いながら教えてくれた。私は、今日は列車にずっと乗っているのだから、朝ご飯は駅弁でも買ってと考えていたので、「豊橋で乗り換え時間があるので、そこで駅弁を買うつもりです」と秋山さんに告げた。

 守山を過ぎる辺りで、東の空が明るくなり始めた。今日の天気予報は、曇り後雨ということだった。今日の旅行では、楽しみの一つに、富士山の姿を間近で見ることも入っているのだが、この天気では少し難しいかもしれないと思った。
 
 七時十五分列車は定刻通り金山駅に到着した。ここで、東海道本線に乗り換える。乗り換え時間は八分。少し余裕がある。ゆっくり歩いて離れた所にあるホームへ移動した。寒いホームで新快速豊橋行を待っていると、リュックを背負った年配のグループが階段を降りて来た。私たちと同じ列車に乗るようだ。どこへ行くのだろうか。中央本線沿いには歩いたり山登りをするコースがたくさんあるのだが、豊橋に向う東海道沿線にはそのような所はほとんどないので、不思議に思った。
 
 七時二十三分金山発新快速豊橋駅行に乗車。七両編成の車内は結構席が詰まっている。列車はかなりスピード上げて走って行く。沿線は家や工場が隙間なく続き、中央本線で見られる田んぼや畑、山並みは全く見ることが出来ない。「やっぱり、中央本線はいいですね」と秋山さんが言う。私も「全く同感です」と相槌を打った。以前、私は名古屋の真中、熱田区に住んでいた。「もっと自然がたくさんある所に住みたい」と思っていろいろ家を探していた折、この秋山さんに「私の住んでいる近くに一軒家が空いている」と紹介されたのである。さっそく高蔵寺へ見に行ったところ、大きな庭のある家で、周りは小高い山に囲まれ、自然環境には恵まれていた。買い物や通勤には不便だが、思い切って引越した。それが縁で、秋山さんとは、それから一緒に酒を飲んだり、旅行に行ったりするようになったのである。それ以来、毎日、田んぼや畑や山並みを見ながら旅をしている気分になっているのは事実だった。きっと秋山さんも私とよく似た気持ちなのかもしれないと思った。岡崎を過ぎた辺りから車窓の風景に田んぼや畑、山並みが見え始め、やっと旅に出たという気分になってきた。

 八時八分豊橋に到着。何と金山から僅か四十五分で着いたことになる。十年前には名鉄電車とJR、どちらが早く名古屋・豊橋間を走るかで競争していたのだが、今では名鉄に大きく水を空けてしまったようだ。ここでの乗り換え時間は十五分ある。豊橋駅は昨年新しく改装が終わり、実に立派な駅に変身した。駅の売店も何軒か並び、いろいろな物を売っている。私は、朝ご飯を仕入れに売店へ行った。おにぎりと、まだ朝早いが、旅行には欠かせないカップ酒とつまみの竹輪を買った。秋山さんもアルコールには目がない人だから、私と同じくつまみとカップ酒を買った。

 発車時刻が迫ってきたが、まだ、列車は入ってこない。今度乗る列車は、豊橋駅が始発である。通勤型の列車だったらいやだなあと思っていると、黄色とグリーンで塗り分けられた列車が静岡方面から入って来た。この列車が、すぐ折り返して三島行になるとアナウンスが流れた。旧い型の列車でボックスシートである。これならゆっくり車窓を眺めながら旅が楽しめそうである。

 八時二十三分、三島行普通列車は発車した。ボックスシートを二人で占領し、車窓を眺めながらカップ酒で乾杯した。これだから列車の旅は最高である。しかし、近くに座った客は、いきなり酒を飲み出した二人のおじさんにあきれていたのではないだろうか。浜名湖が左手に見えてきた。「浜名湖の北に少しアップダウンのきつい姫街道という旧い道が残っています。つい最近も歩きに来ました。春に職場のみんなを誘って歩きに来たいと思っているのですが、みかんが一杯実を付けている山の上から見る浜名湖の景色はなかなか趣がありますよ」と話した。
 浜松に近づくに連れしだいに客が増え、とうとう二人で占領していたボックスシート席も譲ることになった。

 清水を過ぎ、列車の右手に駿河湾が見えてきた。波間には船が浮かび漁をしている。この地域ではサクラエビ漁が盛んだ。そろそろサクラエビ漁が本格的に始まる季節を迎える。サクラエビのかき揚げは最高の味である。天気がよければ、ちょうどこの辺りから富士山の美しい姿が見えるのだが、今日は残念ながら見えない。

 十時四十二分富士到着。ここで身延線に乗り換えなくてはならないが、乗り換え時間は僅かに四分。階段を駆け上がり、迎え側のホームへ急ぐ。二両編成の列車に乗ると同時に発車のブザー鳴った。今日の旅行ではここの待ち合わせ時間が少なくて心配していたのだが、無事乗り換えることができ一安心。乗車したのは、いつも中央本線で乗っている青いボックスシートのある列車である。考えてみればここもJR東海の営業区域である。同じ型の列車が走っていても当然なのだろうが、名古屋からは、かなり遠い身延線に同じ型の列車が走っていることにびっくりした。身延線は初めての乗車なる。旅行の本には景色が大変素晴らしい線路としてよく紹介されているので楽しみである。ぼぼ満席になった列車は静かに発車した。

 遠くに富士山のうっすらした姿が見える。とにかく富士山の姿が見られて少し嬉しい気持ちになる。身延線は周りより少し高いところを走っているので、本来なら真正面に富士山がそびえているようだ。天気がよければなるほど絶景である。列車はトンネルを幾つも通り抜けて、ゆっくり山を上っていく。「景色がいいですね。やっと旅行に来た気分になりましたよ」と秋山さんが声を出して私を呼んでいる。右手に大きな川が迫ってきている。冬枯れの山と白い川原の色がなかなか趣のある景色だ。地図で調べると富士川とある。今はほとんど水はないが、きっと梅雨時には水が激しく流れているのだろう。

 十一時五十六分、列車は身延に到着。単線なのでこの列車はここで二十五分近く停車するとアナウンスが入る。せっかく身延線までやって来たので、どこかで途中下車して見学しようと出発の時から考えていたのだか、ここで、途中下車して身延山を見学することにした。もちろん秋山さんからは、「それはいいですね。ぜひ行きましょう」と快い返事が返ってきた。次に乗る十四時七分発甲府行特急列車までは二時間ある。さっそく駅前にある観光案内所に身延山までの道筋を聞きに行った。「二時間あれば身延山の本堂だけなら何とか見て来られますよ。バスが駅前から出ているからそれに乗っていくと便利ですよ。身延山までは十五分くらいだね」と係のおじいさんが、親切に教えてくれた。
 
 バス発車は十二時二十五分。二十分近くあるので駅前の食堂で昼食をとることにした。「時間がないのですぐできるものにしてください」と店のおばさんに言うと、「それだったら、ざるぞばだね」と五分も経たない内にざるそばが運ばれてきた。腰がかなり強いそばで、これなら時間が経っても伸びる心配はいらないなと思った。店の中に大きな水槽があり、富士川に棲むいろいろな種類の魚が泳いでいた。

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 十二時二十五分、駅前から十人くらいの乗客を乗せてバスは発車した。駅前に通りには仏壇店が何軒も並んでいるのがバスの中から見えた。身延山には日蓮宗総本山久遠寺がある。パンフレットには「身延山は今からおよそ七百年の昔、日蓮大聖人がその晩年を過ごした霊山である」と説明があり、たくさんの宿坊やお寺が地図にかかれている。毎年全国から大勢の人がこの身延山へお参りに来ていることが町の様子から伺えた。
 
 山道をバスはゆっくり上って行く。山交バスの車内に「乗り降り自由」という案内が出ている。「バス停でなくても運転手に知らせればどこでも停車します」と書いてある。ここで「降ろして」と声を出せば、停まってくれるのだろうか。残念ながら、終点まで途中で乗り降りした乗客はいなかったので、その場面を見ることが出来なかったが、今時、のどかさを感じさせる珍しいシステムだ。

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 大きな山門をくぐり抜け、しばらく走ったところが終点だった。運賃二百八十円を払ってバスを降りる。道の両側に土産物屋や飲食店が建ち並び、店先では白い湯気を上げている。気温が低いので、よけいに暖かさを感じさせる。近づいて見ると、名物の饅頭を蒸している湯気だった。「湯葉あります」の幟があちらこちらの店先にたくさん立っている。身延山は湯葉や豆腐料理が有名なようだ。帰りに土産物店は覗くことにして、本堂への道を急ぐ。

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 緩やかな上り道を十分近く行った所に大きな山門があった。ここから本堂へは急な石段がずっと続いているのが見える。「さあ、上りますか」と秋山さんが石段を上り始めた。日頃から山登りで鍛えている秋山さんにとっては格好の石段のようである。ひょいひょいと秋山さんは上って行く。私も後から追いかけるがとても追い着けない。百段近く上った所で、私は一休み。まだ石段はずっと続いている。何人もの人が私と同じように途中で休んでいる。一体どのくらい石段があるのだろうか。三百段はあるのではないだろうか。再び歩き始める。ますます息がはずみ、十段上っては休み、また十段上っては休むという状態になってしまった。秋山さんの姿ははるか向こうに見える。二十分近くかかりやっとの思いで本堂前に着いた。「いやー上りガイがありましたね。さすがに総本山だけありますね」と秋山さんは汗を拭きながら満足そうに石段を見下ろしていた。後で調べたらこの石段は百四メートル、二百八十七段あることが分かった。本堂へはこの石段の他に男坂、女坂を上る行き方があることが地図に書かれていた。

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 本堂はさすが総本山にふさわしい立派な建物で威厳があった。中に入ると金色に輝く舎利殿や祭壇があり、天井には勇壮な龍の絵が描かれていた。法要の日にはここは参拝者で一杯になり読経が響いているのだろう。今日は人もまばらで閑散としていた。この本堂からさらに上った所が奥之院である。そこへはロープウエーで行くことが出来る。奥之院からは東に富士山、西に七面山、南には駿河湾を望め、絶景とのことだ。

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 時間も残り少なくなり、本堂を出発した。帰りは男坂を下ることにした。石段に比べれば勾配は緩いが、それでもかなりきつい坂道である。途中、上ってくる人とすれ違ったが、どの人もかなり息を弾ませていた。日蓮宗総本山久遠寺への参拝は楽ではないようだ。あっという間に坂を下り、山門前到着した。少し時間があるので土産物店に入る。湯葉を加工した土産物がたくさん並んでいた。地域の特色を生かした品物が多いのには感心した。

 十三時四十分バスは身延駅に向って発車した。車内はほぼ満席である。帰りのバスも途中での乗り降りはなく「乗り降り自由」の光景は見ることが出来なかった。

 十四時七分発甲府行特急「ふじかわ七号」に乗車する。特急に乗車する時は「青春十八きっぷ」は使用できないので、乗車券と特急券を購入した。列車は富士川に沿って走って行く。特急列車なのに、しばらく走るとすぐ次の駅が来て停車するのでこれで特急なのかと疑問に思った。時刻表で調べると、僅か四十キロの間に停車駅が七つもあった。
 
 十四時五十九分甲府に到着。「甲府は十年ほど前に息子と富士登山をした時に下車したことがあります。その時はここから河口湖行のバスに乗車しました。明くる日、富士山に登りましたが、山頂で見たご来光は素晴らしかったですよ」と秋山さんに話すと、「僕は昨年の夏にこの甲府駅の改札口で寝てたんですよ。友人と南アルプスに登ったのですが、その時に旅館に泊まるのも高いので、この改札口で寝たんですよ。そしたら夜中にここは改札口だからもっと離れた所で寝てくれと駅員に言われましてね。列車なんか走っていないのに、本当に腹が立ちましたよ」とおもしろい話をしてくれた。
 
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 甲府から中央本線に乗り換え塩尻へ行く。乗車するのは十六時三十六分発小淵沢行普通列車である。待ち時間が一時間三十分近くあるので、甲府市内をぶらぶら歩くことにした。観光案内所でパンフレットを貰う。パンフレットで調べると、駅のすぐ南には甲府城跡を公園にした舞鶴公園がある。駅の北およそ二キロの所には武田信玄が館を構えていた武田神社がある。私たちは、少し遠いが武田神社まで行くことにした。駅前の通りをまっすぐ北に向って歩いて行く。道は緩い上り坂になっているようだ。「武田通り」という表示が所々にかかり、歩道はレンガが敷き詰められてよく整備されている。山梨大学の前を通り、しばらく行った所に武田神社はあった。神社の前には土産物屋が何軒も並び、結構繁盛している様子だった。いろいろな漬け物がメインのようだ。ここからは甲府の町が一望できた。周りは小高い山に囲まれてなかなか眺めのよい所だった。
 
 急ぎ足で甲府駅に戻る。時間は短かったが、列車に座りっぱなしの旅行にはちょうどよい運動になり、気分も爽快になった。
 
 十六時三十六分発小淵沢行普通列車に乗車。車内は学生たちで満員である。山梨大学の前にある予備校で、センター試験を終えた受験生におしる粉を振舞っていたことを思い出した。今日はセンター試験が行われた日なのでその帰りなのだろう。窓の外を見ると、薄暗くなった中に高い山の峰がずっと続いている。「あれは南アルプスですね」と秋山さんが教えてくれる。暖冬で山頂には白い雪があまり見られなかった。
 
 十七時十五分すっかり暗くなった小淵沢に到着した。ここで、十七時二十五分発松本行普通列車に乗り換えた。「お腹が少し空いてきましたが、夕食はどうしますか」と秋山さんが言う。「この先の塩尻は大きな駅ですから、そこで弁当と酒を買う予定にしているのですが」と私が答えると「納得」と彼は頷いてくれた。

 十八時十六分、列車は塩尻に到着した。ここで松本から来る普通列車中津川行に乗り換える。いよいよ気ままな列車の旅も最終コースに入った。弁当と酒を買いにホームの売店へ行く。「えっ、弁当はこれだけしか残っていないの」と思わず声が出てしまう。いろいろな種類の弁当が並んでいるとばかり予想していたのに、五つほどしか弁当は残っていなかった。「さっき団体さんが来て、たくさん買っていったからこれだけしか残っていません」と売店のおばさんはすまなさそうに言った。私は幕のうち弁当を、秋山さんはサラダ街道弁当を買った。もちろんカップ酒もそれぞれ二本ずつ買い込んだ。
 
 十八時三十七分中津川行普通列車が入って来た。何と列車は満員である。「えっ、これじゃあのんびり座って、弁当を広げてということはできないのか」と残念な気持ちで列車に乗車した。車内は学生たちで溢れていた。センター試験を松本で受験した学生たちのようある。車内を移動すると空いている座席がある。何とか二人の座席を見つけることができほっと一安心。さっそく弁当を広げて食べ始めた。美味しい幕のうち弁当である。秋山さんのサラダ街道弁当もいろいろなおかずが並んでいて楽しくなる弁当だ。美味しい弁当で酒もすすむ。

 駅に停まる度に学生たちが少しずつ降りて行く。今日のテスト結果が今後の進路を決めることになるのだろが、大学入試の厳しさが彼らの表情から伝わって来るようだ。

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 心地よい気分になり、少しうとうとする。もう列車は南木曽近くを走っていた。間もなく中津川である。二十時二十分中津川に到着した。いよいよ今日最後の乗り換えである。向い側に停まっている二十時二十五分発名古屋行快速列車に乗車した。突然女性の声でアナウンスがあった。何と車掌は女性だ。今までJRにずっと乗ってきたが、女性の車掌の声を聞いたのは初めてだ。秋山さんも初めてだという。名鉄電車では女性の車掌を時々見かけるが、JRも女性の車掌が増えて行くのだろうか。多治見を過ぎた辺りで彼女が車内を通り過ぎて行った。小柄の若い女性であった。 
 
 二十一時十四分雨の高蔵寺に無事到着した。今日乗車した距離は五七九.八キロメートル。所要した時間は十四時間。「こんな長い時間列車に乗った旅行は始めてだったが、結構変化もあって楽しかったよ」と秋山さんが感想を言ってくれた。彼にとっては突然の電話から始まった旅なのだが、喜んでもらえて本当に嬉しく思った。また、機会があったら、馬鹿な旅に誰かを誘ってみようかなと私は思った。






[ 2012/12/30 07:39 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

美濃路(熱田宿から垂井宿を歩く) 3

第3日目  大垣宿から垂井宿へ

年が開けた1月4日に再び大垣を訪れた。天候は残念ながら小雨が少し降っていたが,今回はこの大垣から垂井までの美濃路の残り約11kmを歩き切るつもりでやって来た。

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 まずは大垣駅前から少し東に行ったところに,水門川遊歩道が作られているので,それに沿って住吉橋まで行くことにした。天候が悪いためか遊歩道を歩いている人はいなかったが,水門川の遊歩道はとてもよく整備されていて,所々に休憩所やいろいろな像や案内板が設置されていた。大垣市は「水と歴史の街」として熱心に整備しているようだ。
 八幡神社前を通る。正月ということで初詣にこの神社へ参拝する人が多いようだ。屋台の店も10軒近く並んでいた。天気はあまりよくなかったが,初詣に訪れる人をたくさん見た。

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 水門川には水鳥が何羽も羽を休めていた。水鳥を見ながらの散策はなかなか趣がある。遊歩道を20分近く歩いて,住吉燈台前に着いた。ここはかって大垣の港があった所で,旧い燈台が残されている。また、松尾芭蕉が奥の細道を歩いてこの地で旅を終わりにしたということで,記念の像も残されていた。大垣市内には芭蕉の句碑も多く残されている。川の両岸には桜の木がたくさん植えられていた。きっと春には素晴らしい花見の場所になるのではないだろうか。

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住吉橋から美濃路を歩き始める。道はかなり拡張されていて4車線になり,歩道もきちんと付いていて歩き易い。しかも,道路沿いには旧い建物が並び,以前ここが街道であったことを証明していた。立派な旧家もたくさん残っているようだ。旧い作り酒屋もあった。 塩田橋の所から旧道に入る。杭瀬川を渡ると橋の袂に塩田の常夜燈があった。この常夜燈は杭瀬川の上流にある赤坂港からこの塩田港へ入る船の安全を願って作られたとのことであった。当時の歴史を伝える資料として残されていた。常夜燈の横に梅の木がかわいい白い花を付けていた。今年は暖冬というが,正月にもう梅が咲いているのには驚いた。

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旧道を歩いて行くと,10分程で久徳町の一里塚に着いた。美濃路を歩いて来て,冨田に一里塚が残っていたが,ここにも旧い一里塚が残されていた。太い榎木が立派だった。

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再び旧道は県道に吸収されてしまった。広い歩道を歩いて行く。大谷川を渡ったところで道は県道と別れ,再び旧道になる。旧い町並みの残る長松町である。二つの道標が並んで立っていた。一つは「大垣・岐阜 垂井・京都」を指し示している。もう一つは「従是 南宮社江近道」を示していた。

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 再び美濃路は県道と合流し,しばらく行った所で県道と別れ 垂井の宿へ向かう。この道も旧道の名残を残していた。しかし,車が頻繁に行き交い,白い路側帯の内側を歩くのは少し辛い。綾戸の一里塚跡を過ぎ,JR東海道線を渡った所から松並木が見え始めた。美濃路に唯一残る松並木である。松の幹にはむしろが巻かれていた。追分までの間にずっと松並木が残り,垂井町も力を入れて保存に取り組んでいるようだ。松は全部で47本あるとのことだった。道には広い歩道が付き,歩き易い。大垣を出発して約2時間で追分に着く。ここは中山道と美濃路との分岐点である。やっとのことで美濃路を歩き切ることができ,気分は爽快であった。昔の旅人もやはり,2日と少しかかって東海道熱田の宮からこの垂井まで歩いていたと,本に書かれていたことを思い出した。私も実質的には2日と少しで美濃路を歩き切った。まだまだ私の体力も大丈夫のようである。

 追分から川を挟んで向い側が垂井宿の入口,相川橋である。相川の流れの上流には養老の山々が見えていた。ここから美濃路は中山道となり幾つもの山を越えて京都につながっている。一昨年の夏にこの地を京都から歩いて来たことを思い出した。この橋の少し上流には4月になると鯉のぼりが川を横切ってたくさん吊り下げらけれるとのことだった。今度はその鯉のぼりが川の上を元気よく泳いでいる姿を見に来ようと思った。

[ 2012/12/28 05:36 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

美濃路(熱田宿から垂井宿を歩く) 2

第2日目 萩原宿から大垣宿へ

午前7時自宅を出発。7時20分金山着。特急電車で一宮へ。一宮で7時50分発の津島行き普通電車に乗り換え8時に萩原駅に到着した。

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 今日も天気は晴れ。昨日は風が強かったが,風もなく,とても穏やかな朝である。駅から少し西に行った所に萩原の町があった。商店街が道の両側に並んでいる。大売り出し中なのか飾りが張り巡らされているが,休みの朝なので人通りは全くない。

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一宮市から尾西市に入った。街道沿いには旧家が残っている。歩いていて「カッシャンカッシャン」という音があちらこちらの家から聞こえて来る。織機を動かす音だ。尾西市は織物の町ということを子どもの頃社会の勉強で習ったことを思い出した。道で農作業をしている人がいたので,織物のことについて尋ねると親切に教えてくれた。だいたい1軒には5~6台の織機があって,今は来年の夏物を織っているということだった。最近は高速織機を入れる家が増えてきているという。しかし,後継者がいなくて,織機を持っている家がどんどん減っていて,多くの家では老人が織機を動かしているとのことだった。深刻な課題を抱えているようだった。この美濃路を私のように歩いている人はいないかも尋ねたが,そのような人を見たことはないとの返事だった。

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冨田の一里塚前を通る。この一里塚は道を挟んで二つの塚が残っている。そしてその塚には見事な榎の木が生えていた。愛知県内にある一里塚で二つの塚が残っているのは,旧東海道豊明にある阿野一里塚だけである。冨田一里塚は国の史跡に指定されていた。

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冨田一里塚から50mほど先に大きな道標が立っていた。「左 駒塚道」という文字が刻まれている。この先の木曽川を渡って岐阜県の駒塚まで行く道を指しているのだという。この辺りは江戸時代は低湿地帯でいろいろな所に渡し場の跡が残っていると老人が教えてくれた。現在も木曽川の渡し船が残っている所がこの近くにあるということだった。機会があったら乗ってみたいものだ。

 起宿に到着。旧い町並みが残る小さな町である。尾西市の歴史民族資料館が脇本陣の旧家を使って開設されていた。残念ながら日曜日と祝日は休館ということで見ることはできなかったが,尾西市は歴史の保存に力を入れているようだ。ここから美濃路は木曽川を渡る。起宿には渡し場の跡が残されていた。

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 濃尾大橋を渡る。歩道がきちんと付いていて歩き易い。空を見上げるとプロペラつきのパラグライダーが飛んでいる。木曽川の緩やかな流れの上を飛ぶ気持ちはどんなだろう。見ているとパラグライダーは川原に着陸した。川原を飛行場として利用し,趣味を生かしている人がいることに感心した。それにしても,凄い趣味を持っている人がいるものである。

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  濃尾大橋を渡った所に起渡船場石灯台が残されていた。とても見事な灯台である。岐阜県指定の史跡になっているという。墨俣宿へはここから8km。今は10時過ぎ。昼には到着できそうである。

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 不破の一里塚跡の前を通る。この一里塚跡は羽島市立正木小学校の前にある。今まで道を歩いていて学校の前に一里塚があったり,松並木があったり,道標があったりしている所が幾つもあった。歴史を子どもたちに伝える貴重な遺産があるということは,きっとその学校では教材に生かす取り組みが行われているのではないだろうか。

 間の宿跡を通り,街道の両側が広い田圃になった。長良川と木曽川に挟まれたこの地域は,昔は低湿地帯で洪水に度々見舞われた所であるが,今では有数の穀倉地帯になっているようだ。
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 境川の堤防を上る。堤防の上が街道になっていて,土手には桜が植えられている。堤防の上から境川の緩やかな流れを見ながら歩く気分は最高である。川原が公園になっていて子どもたちがサッカーの試合をやっているのも見える。春や秋にはきっとこの道を歩く人が多いのではないだろうか。大きなイチョウの木の前に西小熊の一里塚跡があった。その横に「減量ウオーク健康街道」という表示がある。やはりこの道はたくさんの人が歩いているようだ。

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長良川がすぐ近くになってきた。小熊大橋を渡り反対側の土手を歩いて長良大橋に向かうことにした。境川の土手を歩き出して思わず足が止まった。水面にたくさんの水鳥が群れているのが見える。鳥たちが羽を休める場所になっているようだ。早速カメラを取り出してシャッターを切った。周りの風景もなかなか趣がある。対岸の河原にはススキが一面に白い穂を光らせていた。ふと足元を見るとカラシナが黄色い花を開いていた。この時期にどうしてカラシナが咲いているのか,本来なら春に咲く花である。とても不思議で,思わず座り込んでシャッターを切った。道を少し変更したことが思わぬ発見につながり,気分は最高であった。結局30分近くそこでシャッターを切っていた。

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長良大橋を渡る。新しくできた橋である。歩道が両サイドに作られていて,大変歩き易い。川の向こうに墨俣城が見えてきた。実に立派な城である。この城も清洲城と同じく,つい最近建てられたようだ。全体がまぶしく光り輝いていた。12時ちょうどに墨俣宿に到着した。食堂を見つけて中に入りラーメンを食べた。

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 12時30分食堂を出発。墨俣城を見学する。歴史的には墨俣城は一夜城として作られたもので木と石を組んだ砦のようなものであったらしい。このような立派な城でなかったことははっきりしている。墨俣城と銘打って存在しているこの建物をどう理解したらよいのだろうか。私が今回,街道歩きの参考にしている「新川みのじ会」が作った「美濃路」という本にも,この城のことは何も触れてはいなかった。ここに来て初めてこの城があることを知ったのである。誤った歴史を伝えてよいのだろうかと思った。墨俣からは犀川の堤防の上が街道になっている。その道を歩いて行くと大きな道標が立っていて,「谷汲山道」と刻まれていた。以前,垂井宿から加納宿へ向けて中山道を歩いていた時に,谷汲山の方向を知らせる道標を幾つも見たことを思い出した。この道標はその中では一番大きなものだった。

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 東結の一里塚跡の前を通る。安八町の史跡に指定されていると表示されていた。墨俣町から安八町に入ったようだ。安八町といえば以前,長良川の堤防が切れて大洪水になった時に大きな被害が出た町である。この辺りはその時に大きな被害があった所なのだろうか。

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 縁結びの結神社の横を過ぎると,揖斐川の堤防が見えてきた。堤防の上り口に水屋が残る旧い農家があった。やはり昔からこの辺りは川が氾濫し,この様な水屋を備えた農家が多かったのだろう。街道はここで行き止まりになっていた。ここが佐渡りの渡し跡とのことだ。私はここから迂回して新揖斐川橋を渡ることにした。新揖斐川橋への道が少し分からずにうろうろしていたら,放し飼いの大きな犬にまとわりつかれてしまった。噛みつかれはしなかったが,本当に冷汗をかいた。街道を歩いているとこういうハプニングもあるものだ。

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揖斐川を渡って大垣市に入った。時間は14時。スピードを速めれば垂井宿まで行けないこともないが,今日の旅の終点は大垣とした。今宿の立場跡近くで,南の方角にとてつもなく高いビルが見え出した。広い畑の中にそびえるその建物はバブルを象徴するような建物で異様な感じを受けた。会社なのかマンションなのか。車を洗っている人に「あれは何ですか」と尋ねると「大垣市の総合体育館でコンピュータ関係の学習もできる施設が入っている」と教えてくれた。この建物が都市の中にあれば別に異様さを感じないのだろうが,畑の真ん中にあったことで,そのように感じたのかもしれないと思った。しかし,市民の税金をゼネコンにつぎ込んだ建物であることには違いないと思った。

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15時大垣城に到着。大垣は水の街として有名である。大垣城への道はずっと川の横を歩いてきた。太陽が少し西に傾き出した大垣城を見ながら,この町は次回ここから垂井宿まで歩く時にもっと詳しく見学したいと思った。


[ 2012/12/27 09:07 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

美濃路(熱田宿から垂井宿を歩く) 1

第1日目 熱田宿から萩原宿(一宮)へ

11月22日・23日の連休を使って美濃路を熱田宿から垂井宿まで歩いてみることにした。美濃路は東海道の熱田宿から中山道の垂井宿を結ぶ約60kmである。2日間頑張れば何とか歩ける距離である。第1日を一宮市の萩原宿までと決めた。
 
 朝8時,熱田を出発。天気は晴れ。日曜日の朝なので国道19号線は車が少ない。しばらくはこの国道を歩くことになる。断夫山古墳の横を通る。東海地方では最大の前方後円墳だということだが,木がたくさん生い茂っていてその形はよく分からない。すぐ隣には青大悲寺がある。女性が開いたお寺で今でも多くの人がお参りにやって来ているそうだ。そこからしばらく行った所に熱田一の鳥居跡の石柱が立っていた。何の変哲もないただの石柱に見える。歩道側からは何も見えないが,車道側に回ると,はっきりと熱田神宮第一神門跡と見えた。立て札もないから知る人ぞ知るという石柱になっているのかもしれない。

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 そこから10分程行った所に佐屋街道との分岐点を知らせる道標が立っている。上部は割れてコンクリートで接着されている。太平洋戦争中に戦災の被害を受け,割れた跡であるという。歴史を語り伝える大切な道標である。しかし,今は放置自転車の中に埋もれてしまっていた。ここは金山の駅がすぐ近くにあるので,自転車を放置して行く人が多いのだろう。
 
 金山駅前を通る。大きなビルが建築されている。駅前の再開発ということで名古屋市が莫大な費用をかけて建築しているものである。下は美術館で上はホテルになるという。今年の4月に行われた市長選挙では争点の一つになったビルである。高さが50mを超えているようだが,まだ高くなるようだ。クレーンで窓枠や壁を釣り上げて,ブロックを組み立てる要領で建築している。着工からこの高さになるまでに,そんなに期間が経っていないのに,すごいスピードで高くなっていることにびっくりした。世相はバブルが弾けて,銀行や証券会社が倒産している。その最中のゼネコン開発事業である。本当に現代を象徴する建物になりそうだ。 

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 東別院西の通りを渡った所で,街道は国道から離れて大須の街へ入って行く。道の両側に仏壇店が並んでいる。店の中には豪華な仏壇が置いてある。名古屋仏壇は1000万円以上するものもあるという。大須商店街の真ん中を美濃街道は突き抜けていた。この大須は,家電製品やコンピュータ関連の店が集中するようになって,賑わいが戻ってきた。今日も1000円で高級カメラを売りますというチラシが新聞に折り込まれていたのを思い出した。まだ朝が早く人通りが少ないが,活気のある様子が伝わって来る商店街を真っすぐに進んで行った。

 若宮大通を横断する。ここは100m道路と呼ばれる所で,道幅が広く間が緑地帯になっている。その緑地帯にホームレスの人たちがたくさん生活していた。段ボールの家でなく,廃材を使ったり,ビニルシートを使ったり,中にはテントを張っている人もいる。子どもたちの遊び場がホームレスの人たちに占有されてしまい,最近になって遊び場が撤去された場所である。ホームレスの人たちを巡って様々な問題が起きているが,最近の不況でさらにこういう人たちが増えるのでないかと私は感じている。
 
 道路を渡ると白川公園があった。北風が強く吹き,たくさんの落葉が舞っている。200人近い清掃奉仕の人たちが手にゴミ袋を持ち,落葉を掻き集めていた。

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 熱田を出発して1時間。広小路本町の交差点を渡り少し行った所が,伝馬町札の辻跡である。交差点の所に銅板に彫られた尾張名所図会の挿絵と案内板が設置されていた。ここから美濃路は左に曲がり清洲宿へと向かう。この辺りは問屋街になっている。今日は日曜日なのでどこもシャッターが下ろされ,人通りもほとんどなく閑散としている。道の両側はビルが並び,昔の街道の雰囲気は残っていなかった。

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 堀川を渡ると,道は北に曲がる。この先が四間道である。名古屋市内でも旧街道が残されている所である。江戸時代に大火を防ぐ方法として考え出された道で,道の幅を拡張して四間にしたところからその名前が付いたという。豪華な白壁の土蔵や旧家が今でも残されていて街道の雰囲気が漂っていた。

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 その道から少し横町に入った所に屋根に祭壇を設けている旧家があった。屋根神様と呼ばれるものである。屋根の上に小さな社を祭るという形態は名古屋独特のもので,これは,疫病や火災などの恐怖から身を守るために,庶民の祈りをこめて作られたという。幕末のころから作られるようになり,明治時代になってからは各町内でたくさん作られ,戦前には陸海軍軍人の入営や出征の際には屋根神様の前で壮行会を開いたり,戦勝祈願や武運長久をも祈願したものであったという。今でも毎月1日と15日には月並祭が行われている所もあるという。最近は屋根神様の数がどんどん減ってきているというが,歴史を伝えるものとしてここの屋根神様は保存されているようだった。

美濃路は,地図によると幅下小学校の北の公園の中を通り抜け,少し行った所で左に曲がり,押切町を真っすぐ西に進んで行く。歩いて行くと確かに旧い家が残っている所があり,昔,街道であったことを伝えている。店の軒先には美濃路というのれんが下がっていた。凧を売っている店がある。店の中を覗くと名古屋地方に伝わる蝉凧やおたふく凧,扇子凧など懐かしい凧が飾ってあった。この店で今も作っているようだ。子どもの頃よく上げたものばかりである。子どもの頃は一つ100円程で売っていたが,今の値段はきっと数千円もするのではないだろうか。実際に上げるのではなく装飾品として飾るものになってしまったようだ。いつか機会があったら購入したいと思った。

  名古屋市内では旧東海道筋にある有松の町並みが有名だが,東枇杷島も街道の雰囲気を今なお残している町であることを知った。白山神社前を過ぎる。名古屋十名所という石柱が立っている。ここは昔立場があったところだという。この町にはお屋根様が残されている家屋も幾つかあるという。町並みを保存するという話が進んでいるのだろうかと思った。


名鉄のガードをくぐって少し行くと庄内川にぶつかった。美濃路という石碑と常夜灯がある。江戸時代には,この先の堤防を上ったところに木橋が掛かっていて,旅人はそこを渡ったという。現在はそこより少し西の所に枇杷島橋がかかっている。その橋を渡れば向こう側は西春日井郡西枇杷島町である。名鉄電車が走るのを見ながら枇杷島橋を渡った。

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西枇杷島町の入口に道標が立っていた。東西南北それぞれの方向への案内が刻まれいて,私がこれから行く西の方角は「きよす宿 つしまてんわう」となっていた。西枇杷島指定文化財という案内板が立てられていて,それには次のようなことが書かれていた。「美濃路は江戸時代東海道と中山道とを結ぶ脇街道として発達した。当時,旅をするには一里塚や道しるべはなくてはならないものであった。この道しるべは文政10年(1827)に旧枇杷島小橋のたもとに立てられた。歴史を物語るものとして大切に保存したい。」西枇杷島町は美濃路を保存するためにいろいろ取り組んでいることが伝わってきた。

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 旧い町並みの残る街道を進むと問屋記念館が建っていた。入場は無料。なかなか立派な旧家である。中に入ると江戸時代西枇杷島美濃路の道標の青果問屋の取引きの様子が人形で再現されていた。ビデオコーナーも設置されていて,美濃路や昔の下小田井の市についての説明が放映されていた。この西枇杷島には山車が何台もあり,毎年6月の第1土曜日と日曜日に「にしび祭り」として山車祭りが開かれているというポスターも貼ってあった。西枇杷島の町の人たちの歴史を保存する熱意が伝わって来た。

10時15分問屋記念館を出発。街道の雰囲気の残る道を進んで行く。今までいろんな道を歩いてきたが,名古屋のすぐ隣りの町に昔の街道の雰囲気を残している道が残っていようとは思いもよらなかった。街道を紹介する本には全く紹介されていない。ぜひ取り上げてもらいたいものだ。

 少し行くと新川町になった。西枇杷島という町がとても小さい町であることが分かった。新川町も旧い町並みがたくさん残っていた。昔懐かしい銭湯もあり,小さな商店もほとんどが営業していた。今,名古屋では小さな商店は校外にできたスーパーのために店を閉める所が急速に増えているが,この町は少し前の時代にタイムスリップしたような感じがした。

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 新川を渡る。この川は江戸時代に庄内川の放水路として作られた。当時のお金で40万両を要した大工事だったという。新川橋を渡った所から右へ折れると津島に行く道となる。道標がここにあるというのだが見つけることができなかつた。町並みの様子は新川橋を渡ってからは,旧道の雰囲気がなくなってきた。名鉄須ヶ口駅から少しいった所に一里塚跡の道標があった。ここから清洲まではあと4kmである。

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 12時30分清洲の町に入る。この町は4月に行われた町長選挙で共産党の大長氏が町長に選ばれて話題を呼んでいる町である。美濃路はJR東海道線のガードをくぐると北に向かって行く。清洲城への案内が出ているので,少し寄り道になるが清洲城を見学して行くことにした。この城は清洲町の町制100周年記念事業の一つとして再建されたのだそうだ。本当の城は江戸時代初めに徳川家康が「清洲越し」と呼ばれる清洲の町を名古屋へ引越した時に取り壊されてしまった。前町長がその城を再建したのだが,バブルが弾けている中で莫大な税金を使ってしまった。まだ他にも莫大な税金を使ってしまい,町民の批判を浴び,共産党町長の誕生につながったようだ。入場料300円を払って天守閣に上る。階段や床には桧やケヤキが築材として使ってあり光り輝いていた。確かにすごい大金がこの城に使われていることが理解できた。しかし展示されている品はそれほど多くはなかった。現町長は清洲城にはあまり力を入れていないようだ。

13時30分,清洲駅前の喫茶店に入り,昼食をとる。ランチを注文する。出てきたランチを見て驚いた。焼きそばとサラダと海老フライがセットになっていて更にコーヒーが付いて600円であった。とても名古屋ではこんな料金では食べることができないランチであった。店は繁盛している様子だった。

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 14時喫茶店を出発。清洲町から稲沢市に入る。長光寺の前を通る。入口に道標が立っていて,「右 ぎふ並浅井道 左 京都道大垣道」と刻まれていた。この道標はここから少し先の四ッ家追分にあったものを傷みがひどいということで,ここへ移動したものだそうだ。境内に入ると本堂の前に六角形の形をした大きな屋根のお堂が建っている。尾張六地蔵の一つになっている六角堂である。今までに幾つも六角堂を見てきたが,こんなに大きな六角堂を見たのは今回が初めてである。中を覗いて見たかったが,残念なことに柵が設けてあり見ることができなかった。この辺りは地名も六角堂町となっていた。

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JR東海道線を渡り,そこから先は,旧道の面影は全くなくなり,大きな工場横の広い道を歩くことになった。長束町を過ぎて,名鉄電車の線路を渡るすぐ手前に大きな鳥居がある。近づいて見ると,国府宮一の鳥居と表示されていた。毎年旧正月13日に行われるはだか祭りは有名である。はだか祭りを知らせる大きな看板が太陽の光を浴びて光っていた。

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名鉄電車の線路を渡り,少し行った所から街道らしい建物が道の両側に見えるようになった。稲葉宿に着いたようだ。時間は15時30分。稲沢の町は宿場町の様子がよく残っていた。土塀や瓦屋根が低く迫り出した旧家が続いている。大きな看板のある酒屋もある。美濃街道をずっと歩いてきてこの道が街道の雰囲気をこんなにも残していることに本当に驚いた。もっと宣伝すれば歩く人が出て来るのではないかと思った。

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 冬の太陽は沈むのが早い。もうかなり西に傾きかけている。今日の目的地一宮の萩原宿まではあと6km。道は西に向かっている。ちょうど太陽が沈む方向に歩いている。平らな大地がずっと先まで広がっていて,その先に養老の山々が見える。今,そこに太陽が沈もうとしていた。夕焼けが美しく思わずカメラを向けてシャターを切った。

 17時,真っ暗になった名鉄萩原駅に到着。今日の街道歩きは終了。今日は26km程歩いたことになる。この後この近くに泊まり,再び明日ここから歩き始めようと思ったが,ここから名古屋までは1時間もあれば帰れることが分かったので,名古屋に帰ることにした。やって来た尾西線一宮行きの普通電車に乗り,一宮で名古屋本線に乗り換え6時過ぎには名古屋の自宅に着いた。



[ 2012/12/26 05:56 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

熊野古道を歩く 5

第2日目 その4 近露~田辺~名古屋

4時17分きっかりにバスがやって来た。乗客が二人乗っていた。服装を見るとリュックを持っているので、私と同じように歩きにやって来た人のようだ。バスはそのまま国道を進み、滝尻で7分間停車した。ここには熊野古道館がある。熊野古道に関する資料や本、土産品などがたくさん並べてあった。熊野古道に関する詳しい資料がやっと手に入った。熊野古道はこの滝尻から熊野本宮まで文化庁、和歌山県、町の手によって整備されとても歩き易い道になっている。ここから近露まで機会があったらぜひ挑戦してみたいと思った。

 滝尻を出発したバスが、清姫茶屋バス停を通った時に、ドヤドヤとたくさんのリュックを背負った男たちの集団が乗ってきた。この人たちも熊野古道を歩いているようだ。会話から田辺から古道を熊野本宮に向かって歩いていることが分かった。大阪から歩きにきているようで、次回はこの続きを歩く計画を話していた。最近のウオーキング熱はわれわれ中高年が支えていることがよく分かる。
 
 5時30分田辺駅に到着。田辺駅前には弁慶の像が立っていた。ここが弁慶の生まれた地ということでいろいろ見学コースもできているようだ。その夜は田辺駅前のビジネスホテルに泊まり、翌日、再び「青春18きっぷ」を使って紀伊田辺から大阪、京都を経て午後3時に名古屋に帰った。今回の熊野古道を歩く旅でいろいろな体験をしたが、これからの私の街道歩きの目的地が見つかったことが最大の収穫になった。2月に職場からどこかへ出かけようと話が出ているが、熊野古道へぜひ出かけたいと今は思っている。



[ 2012/12/25 08:10 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

熊野古道を歩く 4

第2日目 その3 三越峠~近露

 雨が降り続く中、次のポイントへ進む。ここからは下り坂である。下りがあるということは次には上りがあるということが周りの様子から察知された。とにかく周りはすべて高い山並が続いている。大変な道を歩いていることがやっと分かった。パンフレットで調べても近くに人家はない。バスの通る道もここからまだ3時間近くかかる。ここでもし何か身に起こったらどうなるのか、不安な気持ちを抑えて、自然道を進む。雨が強くなってきた。

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次のポイントが見えて来た。湯川王子である。「ここは参詣道の要地で院政期には上皇や貴族が宿泊や休息をし、川でみそぎを行った」とパンフレットには載っていた。ここで宿泊するには食べ物はどうしたのだろうか。近くの村といってもかなり離れているので、その当時にしても大変なことだったのではないだろうか。

 
 雨がだんだん強くなってきた。このままだと濡れねずみになりそうである。そう思いながら歩いて行くと、向こうから二人連れの若者がやって来る。雨具を用意していないようで、すっかり濡れている。挨拶を交わし、どこから歩いて来たのか尋ねると「野中の一本杉から3時間近くかかってここまで来た」と教えてくれた。この雨の中これから本宮までも3時間はかかる。どうしよか若者たちは迷っていたが、戻るにしても3時間はかかる。若者は意を決してそのまま本宮めざして歩いて行くことにしたようだ。

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 ここから再び山道は厳しい坂になった。再び、進んでは休み、進んで休みの歩行になった。20分ほど進んだ所に地蔵様があった立て札には「おぎん地蔵」と書かれている。案内板には次のように書かれていた。「むかし、初めて京都に遊んだこの村の若者が馴染んだ女おぎんについて両親に許しを得て婚姻することになり、この吉報を聴いたおぎんは迎えを待たず一人旅を急ぎ、ようやくこの地にたどりついた夕暮れ、常に旅人を襲う悪党のために、哀れこの野辺の露と消えた。若者一家里人は彼女の死を哀れみ、篤く弔いはかりごとを以って二人組を誘い出し仇を討った」。残酷な話がこの小さな地蔵に伝わっていることを知った。今でも小さな地蔵は、この熊野古道の中の険しい峠の番人として旅人の安全を祈っているのかも知れないと思った。その先も道の険しさは変わらず休み休みの歩行が続く。30分かかってやっと岩神峠に着く。ここに次のポイントの岩神王子があった。

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  峠で一休みした後、出発。ここからは下り道だが、道は細く、右下が崖になっているので危険を感じながらの歩行になった。途中からは道が崩れ、かなり歩き難くなる。樹木が倒れているところもある。道を改修している様子だ。峠を下り終えた所で林道に出た。とそこに1台の小型トラックがやって来て止まり、二人の村人が下りてきた。挨拶を交わす。この人たちは、今年の秋の台風で木が何本も倒れ、道が崩れてしまったので古道を修理している人たちだった。今日は二組の二人連れがここを通って行き、私が三組目であること、近露までは2時間ほどかかること、これからの道はとても楽に歩けることなど教えてくれた。山の中を一人で歩いていて、人に会い、いろいろ会話をすることは本当に楽しいし、それまでの疲れがすっと抜けてしまうものだとこの時も感じたこの村人は近露の人で、近露にはいい温泉があるからぜひ泊まっていってはどうかとも勧められた。





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 親切な村人と別れ、今日三つ目の峠、草鞋峠越えに入った。この峠は坂は厳しいが距離が短いので15分ほどで上りきることができた。案内板があり、草鞋峠について説明がある。読んで行くと最後の所に「この付近の山道は、蛭降峠百八丁といわれ、山蛭に悩まされたところ」と書かれていた。蛭という言葉を見てぞっとした。以前三重県にある入道ケ岳に夏登山したことがあるが、その時、道という道に蛭がいて、蛭を振り払いながら歩いたことがあり、それ以来蛭は大の苦手になってしまった。蛭という言葉を聞いただけであの時のことが思い出されてしまうほどになってしまった。熊野は雨が多く、高温なので蛭がたくさんいても不思議ではないと納得したが、夏はとても歩ける場所ではなさそうである。やって来たのが冬でよかったと安心しながらも歩みは自然と速くなってしまった。

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 しばらく進むと道は舗装道路になり、とても歩き易い。この道の下に国道が走っている。小広王子という標識が見える。この近くにバス停があるようだ。この分なら近露には3時過ぎには着けそうである。舗装された道をどんどん下って行く。雨もすっかり上がり、遠くの山並が美しい。道は自動車道なのだが、なぜか車が一台も走っていないのがとても不思議である。しばらく歩いたところにみごとな桜の木があった。秀衡桜というのだそうだ。

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 この桜には次のような話が残っている。「奥州平泉の覇者、藤原秀衡が夫婦で熊野詣でにきたとき、懐妊中の妻が産気づき、岩屋で男の子を産んだ。しかし、五身王子が夢枕にあらわれ、熊野参詣を急ぐよう告げる。熱心な熊野信者であった秀衡は、妻をせかせて、足手まといになる赤子を置き去りにして道を急ぐ。その途中、この野中の地で、桜の枝を折り、他の木に挿して『子死すべくはこの桜も枯れるべし、神妙仏陀の擁護ありて、もし命あらば桜も枯れまじ』と占った。三山の参詣をすませ、ふたたびここを通ると桜の色香は盛りのごとくであった。秀衡夫婦が驚いて岩屋にもどると、狼に守られて元気に育った赤子がいたという」春には美しい花を咲かせ、桜見の人たちが大勢訪れる場所なのであろう。

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 その桜から100mほど離れた所に継桜王子がある。立派な神社になっていて、鳥居の両側にすごい大木の杉が10本近く生えている。「野中の一方杉」と呼ばれ、一様に南向きに枝を伸ばしていることから熊野三山信仰と結び付いているという説明がある。この中で最大のものは幹周りが8mもあり樹齢800年という。あまりの太さと高さがありとてもカメラに修めることができなかった。この王子の前の崖下には日本名水百選の「野中の清水」があった。

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 この辺りは景色もよいことから観光客がたくさん訪れる場所のようで、昔風の藁葺屋根の茶屋も設置されていた。中を覗くと大掃除の真っ最中だった。

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 ここから近露まで後3kmほどになった。確実に3時過ぎには到着できそうである。近露の方向を見ると雲の間から日が差し、幾重にも重なった山並を映し出していた。朝、熊野本宮の上にある伏拝王子から眺めた景色とよく似た墨絵のような景色が目の前に広がっている。はやる気持ちを抑えて、カメラのシャッターを切った。

 3時10分近露王子到着。この町は熊野古道中辺路の中間点としてその昔は旅篭が30軒以上もあって栄えた町だそうだ。現在も旅館や民宿、ホテルなどがあり、いいお湯も出るということだ。今回の熊野古道歩きはここで終了することにした。今日は紀伊田辺に泊まり、明日名古屋へ帰ることにした。バスの時間を見ると、4時17分まで1時間近く待たなければならない。少し町の中を見学することにした。川の近くに少しおもしろい形をした建物が立っている。熊野古道なかへち美術館という案内があるので入ってみる。地元の画家の作品が展示されていた。渡瀬凌雲という人の日本画はなかなかスケールがあって素晴らしいものであった。中も大変立派であったが、見学者は私一人であった。この建物は町が作り、町が運営しているものだそうだが、ゼネコンだけが喜んだ建物のように私の目には写った。


[ 2012/12/23 08:25 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

熊野古道を歩く 3

第2日目 その2 熊野本宮~三越峠 

 いよいよ出発。本宮への石段を上って行くと、掃除をしている婦人たちに会った。挨拶をかわす。

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 石段を上り詰めた所が本殿である。歴史を感じさせる建物である。拝殿の受付で熊野本宮に関する冊子を買う。それには「熊野本宮大社は熊野三山をはじめと全国熊野神社の首座の位置にあり、悠久の昔から熊野信仰の総本山と仰がれ今日に至っている」と書かれていた。また、「明治22年8月の大洪水で熊野川・音無川・岩田川の合流点にあった旧本殿が流され、その後この地に再建された」とも書かれていた。神社の人にここから熊野古道を歩いて近露まで行くにはどのくらいかかるか訪ねると、「私は歩いたことはありませんが、健脚な人で8時間はかかる。もし途中で歩けなくなったら国道に出て、バスを拾いなさい。手を上げれば止まってくれることになっているから。ただし、1日にそのバスは3本しかないから時間に気を付けるように」と親切に教えてくれた。今から8時間後ということは近露到着は午後4時半ごろになってしまう。今日の街道歩きは冒険旅行になりそうな雰囲気がしてきた。

  熊野古道は本殿の横を通って上り道になっていた。手元に詳しい地図がないのでこの先どうなっているのかよく分からないが、熊野古道と表示された立派な標識が500mごとに立てられているので、道には迷わないとパンフレットには書いてあった。少し行くと最初の道標が見えてきた。とてもしっかりした道標でまだ、最近作られたばかりのようである。数字が書いてある。74熊野古道とある。この数字は道標の番号であるようだ。今回は逆方向に道を辿るので74が始まりである。近露まではここから20kmはあるので道標の番号が30番台になるのを目標に歩き出した。

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最初のポイントは「祓戸王子」である。王子というのはそこに小祠があり熊野詣での祝詞をささげる場所で全行程に九十九王子があり、順々に王子を辿って行けば熊野本宮に行き着けるというものだ。祓戸王子は熊野本宮のすぐ裏手にあり、石造りの小祠がまつられていた。熊野古道を歩くにはこの王子と道標を目印に歩けばよいことが分かった。杉の大木が生い茂る中に、道が続いていて、自然歩道としてよく整備されていて大変歩き易い。緩やかな上り道を進んで行く。矢印の道標も設置されていて道を間違える心配はない。残念なことに雨が降り出した。持ってきたカッパに着替える。今日は雨の中の街道歩きになりそうである。

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 40分程で見通しのきく場所に出る。遠くの山からは雲が立ち上り、眼下には今上ってきた森の濃い緑が広がっている。朝もやにかすみ幻想的な風景である。ここで写真を撮らなくてはと、カメラのシャッターを連続して切った。

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 この地が伏拝王子と呼ばれる場所であることがその場所からすぐ側の所に設置されていた案内版を見て知った。昔、熊野詣でに来た人たちはここから本宮の社殿を伏し拝んだことからその名が付いたのだろうか。展望台も設置され、その脇には和泉式部の供養塔も設置されていた。

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 ここからは平坦な道が続き、やがて舗装道路になり、村の中に入った。雨はほとんど降っていない。上がったようだ。仕事をしている人に会い、挨拶を交わす。「どこまで行くのか」と尋ねられ「近露まで」と答えると、「それは大変だ。気を付けて行きなさい」と励まされた。

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 平坦な道では自然と足が速くなって、500m間隔に立っている道標が、すぐ見えて来る。水呑王子と刻んだ石柱がある。道で掃除をしている人たちに会う。大掃除のようである。挨拶をしながら通り抜けようとすると、一人の婦人が、「ここからしばらく行くと発心門王子があるから、そこを左に曲がり坂を下るんだよ。小広王子までは後4時間位かかるよ」と親切に教えてくれた。そこから少し行った所に、無人の売店があり、熊野詣で記念の手作りの人形やキーホルダー、ペンダント等が並べてあった。記念に私は100円の壁掛けを買った。こういう売店があるということは結構この道を歩く人が多いのだろう。

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 発心門王子に着く。立派なお堂が建っていて、すぐ横には休憩場所も設置されトイレも完備していた。ここから道は左に曲がり、急坂を下っていく。5分程で音無川が流れている所に着く。急に山が深くなったようだ。まだ、ここまでは、歩いている人には会っていない。今日は日曜日なのだが、この師走には歩く人はいないのかもしれない。川に沿って道は延びている。上流へと向かって行くようだ。少し行くと猪鼻王子へ向かう道は崖崩れで通れないとの案内が出ていた。広い道を進むと、後ろから車が来た。こんな山深い所を車が走ることにびっくりした。やがて右側は険しい崖になり、道には岩のかけらがごろごろ落ちている。岩のかけらにあたったらどしようもないなあと危険を感じながら歩く。しばらく行くと先ほど追い越して行った車が止まっていた。神社がある。そこへお参りにきた人たちであった。船玉神社という案内が出ていた。
 
 この神社を過ぎた辺りから道が険しくなってきた。三越峠という峠が今から始まるようだ。先ほどまで止んでいた雨が降り出した。道には階段が設置されているが、しばらく歩くと息が弾んできた。進んでは休み、また進んでは休み、これを何度も繰り返しながら上った。途中で親子連れに会う。道を歩いている人たちには今日最初の出会いである。挨拶を交わし、どこから来たのか聞くと、「何とか茶屋跡」と教えてくれた。一人で歩いている時に人に会うと元気が出る。

 もう一頑張りと歩き始める。30分近くかかってやっとのことで峠に着いた。後で知ったのだが、この峠は熊野古道の中でも最大の難所になっているのだそうだ。本宮から向かう場合は特に大変なのだそうだ。時間は12時。ここで昼食にする。

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 昼食といっても、今日は予定していたおにぎりではなく、おはぎである。日頃甘いものが苦手な私も、今回は我慢して食べた。三つ食べてもう十分腹に一杯になったが、なかなかおいしいおはぎであった。疲れた体を回復させるには、甘いものが一番だが、おはぎはなかなか的を得た食べ物であることが分かった。




[ 2012/12/22 10:01 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

熊野古道を歩く 2

第2日目 その1  新宮~熊野本宮

 27日、朝4時に目が覚める。いつも早く起きているので、旅先でも早く目が覚めてしまう。天気は少し曇っているようだ。朝食は近くにコンビニがあると昨日教えてもらったので、そこでおにぎりを買うつもりでいた。5時50分ホテルを出発。

 熊野本宮へのバスは6時15分に駅前を出発する。昨日教えてもらったコンビニを探そうと、道を歩いて行くのだが、目指す店は見つからない。時間は刻々と迫ってきた。あわてて駅へ引き返す。時間は6時5分を過ぎている。駅に売店があったことを思い出し、急いで行くともう売店は営業していた。温かいうどんも売っていたが、時間がないので弁当を求めた。昼食は熊野本宮にある売店で買うことにした。店の人から、そこの自動販売機で食券を買ってからと言われ、びっくりしたが何とか弁当を買い求めることができた。

 バス停に急ぐと近鉄八木駅行きのバスが止まっていた。このバスは、途中、志古、川湯温泉、熊野本宮、十津川温泉を通り八木まで行く。乗客は8人。こんなに早いバスに乗る人はさすがに少ない。ここから熊野本宮までは1時間20分の道のりである。さあ出発である。バスは新宮市内から深い山の中へ向かって走って行く。バスダイヤを守るためかスピードはゆっくりしている。このバスに乗り遅れると次は2時間後である。途中何度も時間待ちの休憩があった。

 右手に大きな川が見えてきた。熊野川である。うっすらと明けかかった光の中に山々の濃い緑の色が分かるようになってきた。川の向こうに見える山からは雲が沸き上がり幻想的な風景が広がっている。よく見ると熊野川の水面からも霧が立ち上っているのが見える。霧はまっすぐに湯気のように幾百も立ち上っている。気温の低い時にしか見られない景色である。バスを止めて写真を撮りたい気分だ。バスであるのが本当に残念だ。しっかりこの風景を頭の中に焼き付けた。
 
 バスは請川から右手に折れ、川湯温泉、湯の峰温泉へ向かう。川湯温泉は名前の通り川の中に温泉があった。川の中からは湯煙が立ち上っている。露天風呂である。川の中州に大きなはさが作ってある。その向こうは露天風呂のようだ。何人もの人が着替えをして、今から風呂に入る姿が目に飛び込んで来た。まだ、朝が早いからそうなのか。ひょっとしたらここでは日中でも裸になった人が露天風呂に入っている姿が見られるのかもしれないと思った。バスは続いて湯の峰温泉に着いた。この湯の峰温泉は歴史が古い。小栗判官と照手姫の話がこの地に残っている。重病を患った小栗判官がこの湯の峰温泉のつぼ湯につかり病気が治ったという伝説である。湯治客が朝早い道を浴衣姿で歩いている。売店も開いていて、みやげものや食べ物を売っている。熊野の山深い温泉宿は賑わっているようだった。リュックを背負った一人の客がバスから降りて行った。この客はここから熊野古道を歩くのだろうか。

 7時50分、バスは熊野本宮に到着した。私の前に座っていた1組の夫婦もここで降りた。熊野本宮に参拝するようだ。運賃1500円を払って、バスを降りる。

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 熊野本宮は朝早いためか閑散としていた。何件かある売店もシャッターを下ろしていた。バス停の前で土地の人が朝市を開いている。並ぶ品物は野菜がほとんどだ。ここで昼食の弁当を購入する予定だったので困ってしまった。よく見るとおはぎが並べてある。今日の昼食はこのおはぎに決め買い求めた。朝市のおばあさんにここから熊野古道を歩くにはどう行ったらよいか訪ねると、熊野本宮への石段の横の道がそれだと教えてくれた。階段の下で、弁当を食べることにした。自動販売機でお

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 茶を買い、石段に腰を下ろして食べ始めた。石段から冷気が伝わってくる。道を歩いてきた土地の人が怪訝な顔で私を見ていた。





[ 2012/12/21 08:36 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

熊野古道を歩く 1

第1日目 名古屋~新宮

 年の瀬の迫った12月26日、和歌山県に出かけることにした。私の街道歩きも久しぶりである。11月に紅葉の木曽奈良井宿へ出かけてからずっと風邪が治らず、職場も忙しくて時間が取れなかったのが、年末になってやっと仕事から開放され、風邪もすっきりと治り、心を弾ませての街道歩きになった。

 行き先として和歌山県を選んだのは「熊野古道を歩こう」というJRの宣伝を見たことがきっかけである。熊野古道については何の知識も持ち合わせていなかったので、家にある旅行雑誌を開いて簡単な下調べをすると、和歌山県田辺市から熊野本宮へ向かう道が中辺路と呼ばれ、平安時代には熊野詣でのメインルートになっていて現在は熊野古道として、ハイキングコースに整備されているということが分かった。コースは和歌山県滝尻から熊野本宮までの全長40キロでとても1日では歩けないコースであることも分かった。その程度の知識で歩きに出かけようというのだから、無謀いとえば無謀な旅である。これも気楽な一人旅だからできるのだろう。

 時間の余裕もあったので、「青春18きっぷ」を使っての旅にした。この切符は夏休みか冬休みか春休みのある一定期間だけに発売されているもので、名前の通り若者が利用し易いようにできているのだが、使用に際して年齢制限はない。5枚綴りで11500円である。1枚で急行や特急列車以外なら1日乗り放題で大変利用価値のある切符である。

  第1日目の目的地は新宮。いよいよのんびりの旅が始まった。午前11時10分名古屋駅発「みえ5号」鳥羽行きに乗車した。列車は新しく一部が指定席になっている。連結車両が2両ということもあり車内は満員である。この列車は四日市から松坂までは第3セクターの伊勢鉄道を経由する。亀山を経由するコースと比べると時間も短く便利である。

 車内放送で「青春18きっぷ」で乗車している人は乗車券を別に購入するように案内していた。車掌が通りかかったので490円を払って乗車券を購入した。窓の外には鈴鹿山脈の山々が連なっていた。今年は暖冬のようだ。山に雪は一つも見えなかった。

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 12時17分松坂に到着。ここで新宮行きに乗り換えるため下車した。松坂駅は北風が吹き寒い。腹も減っていたので温かいものをと駅の売店でカレーうどんを注文する。インスタントのカレーをお湯で温めてうどんに載せる簡単なものであった。 13時発の新宮行き普通列車が入ってきた。オレンジ色が禿げてしまった古いディーゼル列車である。記念にと写真を撮ろうとしたら、隣にいたおばあさんが「記念撮影ですか」と声を掛けてきた。大きなリユックを背負った客はよく見たらホームには私一人であった。旅行客のほとんどは特急列車に乗ってしまうのだろうと思った。車内は結構満員になった。一日の本数が少ないためもあるのだろうか。この列車を逃すと次は16時まで待たなくてはならない。ゴトゴト音を立てながら列車はのんびりと進んで行った。

 新宮到着までの4時間は、列車が大きな駅に着くと乗客がどっと降り、そして、新しい乗客がどっと乗って来るという繰り返しで結構退屈しない車内であった。年の瀬が迫っているためか、大きな荷物を抱えた乗客やみやげ物を抱えた乗客が多かった。顔見知りの人が多く、「元気だったかね。久しぶりだね」と挨拶の言葉が交わされ、ほほえましい田舎の風景が見られた。熊野を過ぎた辺りで乗ってきた高校生のグループがいた。手に手に大きな袋を下げている。見るとみかんがぎっしり詰まっている。たまたま乗り合わせた知り合いの女子高校生たちに「働いてもらってきたもぎたてのみかんだよ」と一つの袋を渡した。さっそく女子高校生たちはその袋を開けみかんを食べ出した。甘酸っぱくておいしそうなみかんの香りが車内に立ちこめ、少し離れた私の所まで漂ってきた。暗くなりかけた海の景色を眺めながら,のんびりした列車の旅もなかなかいいものだと思った。 

 16時56分、すっかり暗くなった新宮の町に列車は到着した。さっそく今日泊まる宿を探す。駅のすぐ近くにステーションホテルの明りが見える。フロントで訪ねると部屋はあるとのこと。6500円を払って部屋に入る。少々たばこの臭いがする。以前清水の町で泊まったホテルはたばこの臭いがきつくてとても眠られなかったことがある。今日はそれほどではなかったが、窓を全開にした。列車では禁煙車が今は普通になってきている。こういうビジネスホテルでも禁煙の部屋ということがあってもよいと思うのだが、そんな話は聞いたことがない。きっと私のように思う宿泊客も大勢いるのではないだろうか。まだ、日本のホテルはそこまでいっていないようだ。

 夕食は近くの飲み屋で食べた。さすがに海の町だけあって魚が新鮮であった。カツオのさしみを二皿も食べてしまった。酒も大変うまかった。その後、近くの本屋へ出かけて熊野古道に関する本を見つけた。名古屋で書店をいくつか回ったが熊野古道に関する本は見つけることができなかった。さすがに地元にはたくさん本があるものだ。明日は長い道を歩くので、荷物が重くなるのが心配だが、二冊買うことにした。
 





[ 2012/12/20 09:06 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)
プロフィール

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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