水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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春間近な九州路 放浪の旅 8

2月15日(日) 諫早(長崎)~雲仙普賢岳(熊本)~天草(熊本)

 午前6時起床。洗面を終え、午前7時、宿を出る。素泊まりで4千円だった。雲仙に向って出発した。途中でコンビニを見つけ、サンドイッチを購入、干拓地が見える所で、朝食にした。朝日がようやく昇り始めた。九州の日の出は遅い。これから行く雲仙の山並みが遠くに見えている。

 諫早から有明海に突き出た島原半島に向う。半島は国定公園に指定され、その中心に雲仙岳や普賢岳がある。「小浜町という所から雲仙岳の頂上へ上り、反対側の島原へ下りるといいよ」昨夜、居酒屋の親父さんから聞いた道を走っている。早朝なのに結構車が走っている。今日は日曜日で、観光客が多いようだ。

 小高い峠を越えると、有明海とは反対側にある橘湾が見えてきた。やがて眼下に美しい浜辺が広がり始めた。素晴らしい眺めである。おあつらえにも、そこに、展望台が作られている。車を停め、しばらくその眺めに見とれていた。雲一つない青空になり、真っ青な海がキラキラ光っていた。

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 小浜町に到着した。大きな温泉旅館が建ち並び、観光バスもあちらこちらに停まっている。浴衣着の観光客の姿も見える。旅館の屋根からは、白い湯気が立ち上り、温泉街の雰囲気が漂っていた。海岸の駐車場に車を停め、辺りを散策した。堤防に釣人がいるので声を掛けた。「早朝から釣っているのだけど、まだ獲物はありません。今日はグレを狙っているのですが、釣れますかね」と中年の親父さんは、笑いながら答えた。少し離れた所にも釣人がいたが、バケツの中に魚はいなかった。きれいな海だから、魚が釣れそうに思うのだが、魚を釣るのはなかなか難しいようだ。

 堤防の所に「海の見える露天風呂」という看板が出ている。「こんな所に露天風呂があるの?」と不思議に思いながら倉庫のような建物に近づいて行った。建物の前に小さな受付所があり、帽子を被ったおじいさんが座っている。「露天風呂へ入りに来たのかい」とおじいさんは、言った。「この堤防の向こうにある建物が露天風呂さ。入るなら300円だよ。温泉巡りというチケットもあるよ。それだと、温泉旅館の風呂にも入れるけど、どうする」とおじいさんは聞いてくる。朝風呂もいいかなと、旅人は300円を払って露天風呂の建物に入って行った。 
 
 もちろん混浴の露天風呂ではない。堤防の外に作られた露天風呂だという所が面白い。堤防の側面に大きな箱が取り付けられているという感じである。粗末な天井はあるが、窓はなく、目の前は海だった。入浴客は旅人1人である。「衛生上、石鹸やシャンプーの使用は禁止しています」と大きな張り紙が出ている。風呂の水が、そのまま海の中に出て行くのだから、石鹸やシャンプーは汚染の元になるということなのだろう。5人も入れば満員になりそうな風呂の大きさである。真っ青な海を眺めながら温泉に浸かった。透明でサラッとした感じの温泉だった。羨ましい旅をしていると思われるのも無理はない。

 観光船が、走って行くのが見える。観光船に乗っている人影が見える。ということは、向こうからも旅人の姿が見えるということである。もちろん見られて困るものは旅人にはないが、女風呂も一緒だとすると、女性がこの露天風呂へ入るには、かなり勇気がいるのではないかと思った。いや、見られて困るような若い女性は絶対に入らないだろう・・・。

 露天風呂から上がり、外へ出た。「なかなかいい風呂でした」と受付のおじいさんに言うと、「昨日は、強い風が吹いて、露天風呂は波飛沫を被っていたよ」とおじいさんは笑っていた。そこへドカドカと団体客がやって来た。今から露天風呂に入ろうというのだ。今日は露天風呂も賑わいそうだ。

 小浜町から、国道57号線を雲仙の頂上を目指して上って行く。観光バスの後に着いてゆっくり走っている。急カーブの続く道だが、道幅も十分にあり、なかなか立派な道だ。温泉があちらこちらからら湧き出て、古くから湯治場とし利用されていた雲仙が、国定公園に指定されたのは、昭和に入ってすぐのことで、国立公園の制度ができ、その第1号として雲仙が指定されたとのことだった。雲仙普賢岳の噴火が、観光に大きな影響を与えているというニュースは、ずっと前に聞いたことがあるが、普賢岳の噴火も収まり、活気があるようだ。

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 20分ほど走って雲仙中腹にある雲仙温泉街に到着した。大きなホテルや旅館が建ち並んでいる。ここで長居をするつもりはない。少し街中を散策したいのだが、何と駐車場はすべて、有料である。しかも、料金は一律410円也。ケチが染み付いた旅人には、それは余りにも高い料金に思えたのだ。大きなホテルや旅館の建物を見たことで、雲仙温泉に行ったことにして、車を発車させた。後で知るのだが、この温泉街に「雲仙小地獄温泉館」という穴場の温泉館があるそうだ。入浴料が400円と格安の共同浴場で、もちろん駐車料金もいらない。江戸時代に開かれた温泉で、大正時代に作られ、現在に至っているという。行き当たりばったりの旅では、そういう穴場を見落とすこともしばしば起きるのだ。 

 雲仙岳の頂上を巡るハイウエーがある。仁田峠から普賢岳・雲仙岳を縦走するスカイラインで、仁多峠からはロープウエーが妙見岳まで通じている。登山道も整備され、普賢岳や雲仙岳の頂上にも上れる。有明海から遠く阿蘇まで見えるという。雲仙へやって来た人はほとんどが、そこを走るのだろうが、ケチな旅人には有料ということが引っ掛かり、そのまま島原へ下ることにした。

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 山道を一気に下り、深江町に到着した。後ろを振り向くと、荒々しい赤茶けた山肌が眼前に聳えていた。普賢岳だった。岩肌が剥き出しで、草木の姿は一つも見ることが出来ない。溶岩が流れた跡が幾筋もそのまま残っている。恐ろしい風景だった。大雨が降ったら、崩れてきそうな感じがする。いや、またあの頂上から噴火が起こりそうな感じがする。今でも恐ろしさを感じるのだから、噴火当時はどんなに恐ろしかっただろう。この深江町に、土石流で埋まった家屋がそのままの姿で保存されているという記念館があるというので、車を走らせた。道の駅「みずなし本陣ふかえ」の中に「土石流被災家屋保存公園」は併設されていた。

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 公園には、土石流に埋まった家屋が、災害当時そのままの形で保存されていた。大きな岩や石で、屋根近くまで埋まっている。そういう家が何軒も、ある。やって来た人たちも、「これはひどい。自然の力にはどうにもならんわ」とその被害の酷さに驚きの声を上げていた。団体客に説明している人がいるので、話に耳を傾けた。

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 「当時、私はここに埋まっている家に住んでいました。噴火が起きた時は、凄かったです。たくさんの人がその為に命を無くしたことは、皆さんもご承知のことだと思います。予想もつかないほどの大惨事になりました。そして、土石流です。私の家も埋まってしまいました」その男性は涙ながらに語っている。「一番嬉しく感じたのは、全国の皆さんからの励ましの手紙や支援物資でした。くじけそうな時にも大きな支えになりました。そして、現在のように復興できたのです。ありがとうございました」とその男性は深々と頭を下げた。

 「現在の生活はどうですか」と誰かが質問した。「大変です。深江町や島原は、見た通り大きな産業がありません。観光でしか食っていけない所です。災害にあった家屋もこのように観光に利用しています。たくさんの人に普賢岳を見に来てほしい。温かい温泉にも入りに来てほしい。そして、みやげを買って行ってほしいというのが私の本音です。今日は土産を一つでも多く買って行ってください」と話をまとめた。

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 道の駅の中に「大火砕流体験館」があるのでそこへも行った。噴火当時の映像と音響と振動で十分に自然の脅威を体験することが出来た。とにかく普賢岳噴火は凄いものだったということがよく理解できた。道の駅の正面には、荒々しい普賢岳が聳えていた。二度と被害を出さないでほしいと願い記念館を後にした。

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 旅人は、島原半島の突端、口之津港から天草へ渡るフェリーに乗船した。雲仙を全て見学した訳ではないが、普賢岳を見たことで満足したのだ。小さなフェリーの料金は1900円。長崎県口之津港と熊本県鬼池港を結んでいる。一時間に一本の便がある。ここではフェリーが島を結ぶ唯一の交通手段なのだ。

 「天草」から連想するのは、キリシタンである。江戸時代には迫害を受けた受難の地である。その歴史の跡が今も残っているのだろう。それが見たいという理由で天草へ行くのだ。博多を出発して、3日目。200キロ以上走り、ようやく熊本県に入った。

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 鬼池港に到着。港の観光案内所を覗くと天草町が発行したパンフレットが置いてあった。さっそくそれを開いてびっくり。天草は一つの町とばかり思っていた旅人の目に飛び込んで来たのは、たくさんの町からなる天草だった。しかも、島は二つあるのだ。天草上島と天草下島である。旅人がいるのは、天草下島の五和町。パンフレットには、この辺りの町については何も紹介がなく、ずっと先の天草町のことしか載っていない。天草町が発行したものだからそうなのかも知れないが、旅行者には大変不親切なパンフレットだった。とにかく、天草は大きな島だということが分かった。

 この時点で、「天草のどこを見学するの?」と聞かれたら、「天草町へ行けば何かあるのでは」と何も知識がない場合は、こう答えるのではないだろうか。旅人もそう考え、天草町へ行くことにした。

 海岸に沿った道路を1時間近く走り、天草町へ到着した。途中、苓北町物産館で天草全体の地図も手に入れ、大体の様子が分かり始めていた。天草にも温泉があちらこちらにあるようだ。天草町の入口にある下田温泉でのんびり過ごすことにした。時刻は午後4時。夕食もそこで食べて、今日は天草のどこか景色のいい所で野宿することにした。

 下田温泉は、鄙びた温泉街だった。細い川に沿って、小さな旅館や民宿が並んでいる。その中に、日帰り温泉があるというので出掛けた。駐車場は車で一杯だった。何とか車を停め、タオルを持って入口から中へ入った。小さな入口だった。その向こうには、売店も並んでいる。これなら、食事も出来そうだと思った。自動販売機で入場券を買うシステムだった。驚いたのは、その料金だった。200円。余りにも格安の料金なのに驚いた。いい温泉を見つけたものだ。脱衣場で衣服を脱ぎ、温泉へ行った。風呂は結構混んでいた。サラッとした温泉だった。体を洗おうと洗面台に行ったところで、少し驚いた。普通ならあるシャンプーや石鹸が洗面台にないのだ。「200円なら仕方がないか」とその時は思った。再び温泉に入り、体が温まったところで風呂を出た。
 
 トラブルはその後に起こった。風呂を出て、食事のできる部屋へ移動しようとした時に、受付のおばさんに呼び止められたのだ。「そこへ行くには、もう一度料金を払ってもらわなくてはだめです」とおばさんは可笑しなことを言う。「どういうことですか」と旅人はムッとした表情で聞き返した。「貴方が入ったのは、共同浴場です。食堂があるのは、白露館という温泉センターです。別料金を払ってもらわないとだめなのです」おばさんに頑固に拒否されたのだ。しぶしぶ、別の入口へ行ったが、料金は500円だった。風呂には入ってしまったし、食事をするためだけに500円を払うのはしゃくだった。旅人は、のんびりここで過ごそうという予定を急遽中止し、温泉センターを後にした。

 天草のどこかで、今晩野宿することに変わりはなかった。温泉センターの近くにスーパーがあったので、夕食を購入した。ハマチの刺身と五目寿司が今晩の夕食の献立になった。のんびり一杯やりながらの夕食が、車の中での夕食に変わったことは残念だった。 

 時刻は午後4時半、まだ太陽は高い所にある。どこか見学できそうだ。とにかく車を走らせることにした。しばらく走ったところに十三仏公園という標識が出ている。面白そうなので行ってみた。白い砂浜が続く海岸が遠くに見え、公園からの眺めは素晴らしかった。公園の隅に小さなお堂があり、十三仏堂と表示があった。お堂の中には仏さんが奉ってあった。

 地図には、この先に大江天主堂という教会が記されているので、さらに車を走らせることにした。道は細く、山陰に入ると薄暗い。車も全く走っていない。こういう時は、やはり不安な気持ちになる。美しい砂浜が見える海岸で車を停めればよかったと後悔もするが、とにかく車を走らせた。旅人は、後戻りするということが好きではないのだ。やがて民家が続くようになり、道を間違えていないのだと安心した。そしてしばらく走ると、ようやく教会らしい白い建物が見えて来た。その前に広い駐車場があるので車を停めた。トイレもある。今晩はここで野宿することも出来そうだ。

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 白い建物は教会ではなく、キリシタンの文化や資料などを展示した天草ロザリオ館という資料館だった。開館時間を過ぎ、扉は開かなかった。大江天主堂は丘の上にあるという。道標があるので、それに沿って上って行く。歩道には赤いレンガが敷き詰められている。たくさんの観光客がここを訪れるのだろう。やがて右手の丘の上に白い教会の建物が見えて来た。美しくて立派な教会だ。息を切らせて急な坂道を上り詰め、教会の前に到着した。丘の上に建つ教会の眺めは、外国に来たような錯覚を覚える。旅人は、教会を異国の建物に感じるのだ。「天草の地で宣教師として布教を続けたガルニエ神父によって昭和8年に建てられた。ロマネスク様式の建築方法で作られている」と説明がある。太陽の光を受け、屋根の上にある十字架が輝いていた。

 丘の上から、海が見えた。漁船の姿も見える。大きな漁港があるようだ。街中の駐車場で野宿するより、漁港の方がのんびりできる。今夜の寝場所は、漁港に決めた。


 日が暮れ始め、辺りはだいぶ薄暗くなってきた。時刻は午後7時。旅人は、大江漁港の埠頭に停めた車の中で、夕食を食べ始めている。漁船がたくさん停まっているが、人影は全く見えない。みんな家へ帰ってしまったのだ。近くにある家の明かりがはっきり見えるようになって来た。あの家では、テーブルを囲んでワイワイ言いながら夕食を食べているのだろうか。1人車の中で食べる夕食は、侘しいものだった。少々感傷的になった旅人だった。漁港の夜は、静かに更けていった。


[ 2013/01/30 09:07 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

春間近な九州路 放浪の旅 7

2月14日(土)呼子(佐賀)~玄界灘(佐賀)~諫早(長崎) 

 名護屋城の見学を終え、波戸岬へ車を走らせることにした。玄海灘に突き出た岬はたいへん景色がいいというのだ。岬へ向かう道で、風は一層強くなった。車が横揺れを起こすほどだ。ラジオから「九州地方で今日、春一番が吹きました」と聞こえて来た。春到来とは、嬉しいニュースである。旅先で春一番を体験したのは、今回が初めてのような気がした。

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 波戸岬に到着した。小さな駐車場の横に茶店が一〇軒ほど並んでいた。そこから岬の突端に向かって遊歩道が延び、海の中が観察できるという玄海海中展望塔も見えていた。海岸には大波が打ち寄せている。荒れる玄界灘は、迫力満点である。その波の中に人がいる。サーフィンを楽しむ若者だった。大波を待ち受け、その波に乗ろうと頑張っているのだ。旅人には無謀のように思えるのだが、サーファーにとってはこの波こそ最高なのであろう。やって来た観光客たちも呆れ顔で若者を見つめていた。

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 もっと無謀な人を見つけた。荒れる玄海灘を小さな漁船が走って行くのだ。対岸に見える島へ行こうというのだろうか。小さな漁船は大波に見え隠れしている。横波を受ければたちまち転覆してしまいそうだった。どうしてこんな荒海に船を出さなくてはいけないのだろうか。急病人でもいるのだろうか。ハラハラ、ドキドキしながら、進んで行く漁船を見つめていた。漁船の姿は、だんだん小さくなり、やがて見えなくなった。無事渡ることができたのだろうか。佐賀県に入って、驚かされることが多い。

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 時刻は昼時。茶店で昼食にする。茶店では、磯焼きと称して、アワビ、サザエ、イカなどを焼いている。一皿500円と手ごろな値段である。どの店も観光客で混んでいた。今日は土曜日なので、賑わっているのだ。混んでいない店を見つけ中へ入った。おばあさんが、店番をしていた。旅人はサザエの壷焼きを注文した。籠の中から、おばあさんは手ごろな大きさのサザエを取り出し、コンロの金網の上に載せた。焼けるまでには少し時間が掛かりそうだ。「賑わっていていいですね」と旅人が声を掛けると、「そうですね。春になったから、観光客も多くなって嬉しいですよ」とおばあさんは言った。「ここにはたくさん店がありますね。それだけお客さんがたくさん来るということですね」と旅人が言うと、「店がたくさんあるから、大変なのですよ。土・日の休日は何とかやっていけますが、平日は観光客が少ないから、店の半分は、休業にしているのですよ。一週間の半分は交代で休むのです。だから小遣い銭くらしか稼げないのですよ」と苦しい経営の実情を話してくれた。サザエの壷焼きが、皿に乗って出て来た。大きなサザエが五つ乗っていた。熱々のサザエは、独特の苦味があって美味しかった。酒があればもっと美味しかったのだろう。

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 岬の突端にあるという灯台を見に行った。強風で体が飛ばされそうである。遊歩道の脇にタンポポの黄色い花を見つけた。ここは春が早く来ているようだ。小さな鳥居を抜けた所に灯台があった。その脇に小さな神社があり、お供え物が供えてあった。海の安全を祈願する氏神様のようだ。社の向こうに大荒れの玄海灘が見えていた。

 玄海灘に別れを告げ、一気に佐賀県を縦断して、有明海に行くことにした。朝には、確か「呼子港」へ行こうと思っていた。それが、いろいろ寄り道する中で、最初の目的地「呼子港」はどこかへ行ってしまい、今、旅人の頭にある目的地は、有明海なのだ。「荒々しい海は見たし、次は佐賀県の反対側にある静かな有明海を見よう」という気になったのだ。誰かと一緒に旅をしていたら、「とてもじゃないがつい合いきれない」ということになるのだが、気ままな一人旅だからこそできるのだ。

 国道204号線を走って行く。鎮西町から玄海町へ入る。玄海原子力発電所という看板が立っていた。ここにも原子力発電所があるのかと思った。大きな橋を渡ると、どこかで見たような建物が見えてきた。原子力発電所だった。

 玄海町から肥前町に入った。くねくねと曲がった細い山道になり、スピードを落として走った。肥前町を抜けると伊万里市だった。共に焼き物で有名な町である。美術館を見つけて見学したらいいのだろうが、旅人は、唐津焼を見たことで満足していた。見学は、別の機会に譲ることにした。
 
 伊万里市から武雄市を抜けて鹿島市へ向かう。名前を初めて聞く町が続く。 鹿島といえば、茨城県を連想するのだが、佐賀県にも鹿島があるとは驚く。それも鹿島市である。後で分かったのだが、茨城県は鹿嶋市と書くのだそうだ。佐賀県のことについては本当に何も知らない旅人だった。

 海が見えてきた。波戸岬から2時間近く車を走らせてようやく有明海に到着した。相変わらず強い風が吹いていたが、海に波は見えなかった。それもそのはず、海岸からずっと先の方まで、海が干上がっているのだ。有明海には広大な干潟があると聞いていたが、その通りだ。左手に干潟を見ながらしばらく走ると、大きな道の駅が見えてきた。道の駅「鹿島」と表示がある。

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 堤防に座って干潟を眺めた。この干潟にはたくさんの生き物が住んでいるという、その代表がムツゴロウだ。干潟の中へ入っていけば見られるのかもしれないが、たちまち泥に埋まってしまうだろう。よく見ると干潟に太い筋のようなものが幾つも付いていた。何かが走った跡のようだ。ひょっとすると泥の中を進むのに使うソリの跡なのかも知れないと思った。

 道の駅で、バーベキューを楽しんでいるグループがいた。大きなカキをそのまま炭火の上で焼いている。豪快な料理だった。「焼きカキ お一人様1000円」という張り紙もある。有明海ではカキの養殖が盛んなようだ。道の駅には、魚介類コーナーもあり、有明海で獲れた魚が並んでいた。大きなハゼやカキは分かったが、真っ黒なカニは初めて見るものだった。グロテスクなカニだ。美味しいのだろうか。大きな魚や貝も並んでいたが、どれも初めて見るものだった。干潟には干潟特有の魚が住んでいるようだ。ムツゴロウの姿がなかったのが残念だった。

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 この近くに有明海を埋め立てて作った諫早干拓地があるというので見に行くことにした。国会でも論議されている。海を締め切るために作られた排水門は、その象徴としてよくテレビに登場していた。排水門を閉じたことで、赤潮が発生したり、魚介類の収穫量が減ったりしたことが大きな問題となり、一昨年、試験的に水門が開かれていた。
 
 有明海に沿った国道を走って行く。「焼きカキ」という幟を幾つも見かけた。カキを食べる季節なのだろう。「さっき食べればよかったかな」と後悔した。

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 長崎県に入った。諫早干拓地は長崎県にあるのだ。しばらく走ると、遠くに水門が見えるようになった。大きな塔が何本も立っている。どこかで見た建物に似ていた。長良川河口堰の水門とよく似た形をしていた。同じ頃に作られたものだから、似ているのだろうか。ひょっとしたら、設計者が同じなのかもしれないと思った。水門へ続く脇道を見つけ、しばらく進むと、巨大な水門が目の前に姿を現した。7本の巨大な塔が立っている。諫早干拓地のシンボルである。水門の両端には、堤防が続いている。諫早湾を締め切った堤防は、対岸に向かって延々と続き、その端は霞んで見えなかった。水門の内側は、広大な干拓地だった。冬枯れして褐色になった草原が広がっていた。大きな池もある。干拓地は全てが埋め立てられたのではないようだ。

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 草原を少し歩いてみた。貝殻があちらこちらに落ちている。以前、海だったことを示す証拠だった。この土の中にはここで死んだ海の生き物たちの骨も埋まっているのだろう。広大な干拓地ができ、そこには田んぼや畑ができ、食糧の増産がどんどん進んでいるというなら納得もできるが、荒地が延々と続いているのだ。一方、水門ができて海が遮断され、そのために有明海の汚染が進んでいるという。何でこんな巨大なものを作らなくてはならなかったのか、腹立たしい気持ちになった旅人だった。振り返ると、7本の巨大な水門が夕日を受けて輝いていた。干拓地のシンボルは、これからも論議を呼びながら、ここに聳え続けるのだろう。

 時刻は5時を過ぎていた。今日は、諫早で宿を見つけることにした。車の中ということも考えたが、この近くに道の駅はないようだ。諫早駅前の旅館を何軒かあたり、「食事は出せませんがいいですか」という条件で、ようやく小さな旅館を見つけることが出来た。今日は土曜日で、どこも満室だったのだ。

 風呂へ入り、さっぱりしたところで夕食に出掛けた。近くに小さな居酒屋を見つけ、中へ入ると、メガネを掛けた小太りの親父さんが店を切り盛りしていた。まだ時間が早いのか客はいない。旅人は焼酎の水割りと焼き鳥を注文した。しばらくして氷の入った焼酎が出て来た。サツマイモの味がする焼酎だった。

 「さっき干拓地の水門を見て来たのですよ」と旅人は、親父さんに話し掛けた。飲み屋では、いつも旅人から声を掛けるのが普通になっている。「仕事ですか」と親父さんは、焼き鳥を焼きながら聞いて来た。「旅行に来たのですが、水門が話題を呼んでいるので、見て来たのです」と旅人は答えた。「大きな水門だったでしょう」親父さんは自慢するような口調で言った。「あの水門のことでいろいろ問題になっているが、長崎の者は、皆埋め立てで保証金を貰ってしまったから、騒いでいないよ。騒いでいるのは、佐賀県や熊本県の人たちだね。保証金が貰えなかったから、騒いでいるのかね」親父さんは、涼しい顔で話している。せっかく飲みに来たのに、親父さんと口論するつもりは旅人にはない。話題を変えて、景色のいい所を教えてもらうことにした。

 「そうだね。この辺りで一番と言ったら、やはり雲仙だね。諫早湾の向かいに聳える山だよ。見なかったかい。とにかく温泉がいいよ。のんびり温泉に浸かって行ったらどうかね」親父さんは、親切にいろいろ教えてくれる。「雲仙を見た後は、島原まで行って普賢岳を見るといいよ。とにかく凄いから。土石流に埋まった家もそのまま残っているから、自然の恐ろしさを教えてくれるよ。その後は、フェリーで天草へも行けるし、熊本にも行けるし、明日はぜひ雲仙へ行きなさい」親父さんは、自分が旅しているような気分になっていた。何杯か焼酎をお代りし、腹も膨れ、店を出る頃にはすっかり出来上がった旅人だった。「雲仙普賢岳に会いに行こう」明日の目的地は、そういうことで決まった。気ままな一人旅は、本当に気ままな旅なのだ。



[ 2013/01/29 06:30 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

春間近な九州路 放浪の旅 6

2月14日(土)唐津(佐賀)~呼子(佐賀)

 唐津から北へ向かって車を走らせることにした。佐賀に「呼子」という港があることを思い出したのだ。壱岐・対馬へ行った時に、呼子という港からもフェリーが来ていたのだ。唐津からすぐ近くにある町なので、ただそこへ行って見ようかということなのだが・・・。

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 しばらく走ったところで思いがけない道路標識を見つけた。「名護屋城」という標識である。旅人の知っている「名古屋城」とは漢字は少し異なるが、「なごじょう」と読めるのだ。どうして佐賀県に名護屋城があるのか、不思議な気分になっていた。再び「名護屋城」という標識を見つけた。ここから近くにあるようだ。とにかく行ってみることにした。どんな結果が待ち受けているのだろうか。

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 大きな道の駅が見えてきた。「桃山天下市」という看板が立っている。安土桃山を連想する名前だ。名護屋城跡はこの道の駅のすぐ近くにあった。何と、名護屋城は、今から約400年前、朝鮮半島侵略をもくろんだ豊臣秀吉がこの地に築いた城のことだった。名古屋中村に生まれた秀吉が築いた城だから名護屋城と名付けたのだろう。江戸幕府が出来てからすぐに、廃城になり、解体されてしまったそうだ。今は、その城跡が残っているのだ。
豊臣秀吉の朝鮮侵略については、旅人が教員をしていた時には、子どもたちに教えていた。しかし、出兵した場所がこの佐賀県鎮西町からであり、そこに名護屋城という城を作って陣を張り、現在、そこが国の史跡として保存されていることを全く知らない旅人だった。乏しい知識しか持たない旅人に教えられた子どもたちは、かわいそうなことであった。

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 遠くの山の上に城跡が見える。その城の周りには諸大名の陣跡も残っているというので、見学することにした。散策コースの道標に従って歩いて行く。城の周りは冬枯れした田んぼが広がるのどかな田園であった。のんびり歩きたいのだが、あまりにも強い風が吹いていて、そんな気分にはなれない。旅人は風に逆らってあえぎながら坂道を上って行った。最初に行ったのは「前田利家陣跡」である。富山には馴染みの武将である。「何か建物でも残っているのでは」と期待していたのだが、「陣跡」という標識と、場所を示す地図があるだけで跡らしきものは何もなかった。続いて「古田織部陣跡」「木下延俊陣跡」「堀秀冶陣跡」などを見て行ったが、薄学の旅人には、ただ、田んぼと小高い丘を見ただけという感想しか残らなかった。この辺りには「福島正則」「加藤清正」「徳川家康」など戦国の諸大名たちの陣跡も残っているという。興味のある人は「すごい、すごい」と見て歩くのだろう。
陣跡を一周して、最終見学地の名護屋城跡に到着したのだが、ここで旅人を感動させることが幾つも起こるのである。

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 その一つが、名護屋城の規模だった。名護屋城はとてつもなく巨大な城だった。小高い丘の上に向かって、朽ちた石垣が幾重にも重なり、城がいかに大きかったかということを物語っていた。丘陵の途中にある見晴らしが利く所は、その昔、「三の丸」や「二の丸」があった所だという。そして丘を上り詰めた頂上が、本丸のあった所だった。天守閣はその頂きの断崖の所に建っていたという。眼下には鎮西町の町並みが広がり、その向こうには荒々しい玄海灘が見えていた。素晴らしい景色の所に天守閣が聳えていたのだ。その昔、秀吉は遥か朝鮮を睨んで、この景色を眺めていたのだろう。

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 とにかく大きな城だった。築城当時は大阪城に次ぐ大きさの城だったという。しかも、築城開始から半年あまりで作ってしまったというのである。大阪から諸大名を引き連れ、遠く離れた九州の地にやって来て、ここに巨大な城をあっという間に築かせた秀吉という人間が、いかに大きな権力と財力を持っていたか、認識を新たにした旅人だった。

 もう一つ感動する出来事があった。名護屋城跡の見学を終えた旅人が、遊歩道を下ると受付のような建物の前へ出た。その建物は、名護屋城跡観光案内所だった。「清掃協力費として100円を戴いております」という案内が出ていた。清掃協力費とはなかなかおもしろいアイデアだと旅人は思った。これだけの史跡を保存していくのには、相当の費用が掛かりそうである。そこで、観光客に清掃協力費を訴えるというアイデアはなかなか面白い。入場料や拝観料を取るというのが一般的だか、清掃協力費という発想はどこから出たのであろうか。佐賀県人のユニークな所を知った旅人だった。

 観光案内所の近くに巨大で立派な建物が建っていた。名護屋城跡に来た時からずっと気になっていた建物だ。それは佐賀県立名護屋城博物館だった。「入場料は高いだろうが、ここへ来た記念に見学していこう」と、旅人は受付へ行ったのだ。ところが、である。「入場料はいりません。どうぞ自由に見学していってください」と受付の女性が言うのだ。「えっ、無料ですか」と聞き直したのだが、女性は、にっこり笑って頷いていた。

 博物館の常設展は、4部構成で作られていた。第1部が「名護屋城以前」、第2部が「歴史の中の名護屋城」、第3部が「名護屋城以後」、第4部が「特別史跡名護屋城跡並びに陣跡」である。歴史的な資料が豊富で、見飽きない。特に目を引いたのが、屏風絵だった。肥前名護屋城図屏風には巨大な城の全景が詳しく描かれていた。本当に立派な城だったようだ。文禄の役「釜山鎮殉範図」、慶長の役「朝鮮軍陣図屏風」は、激しい戦闘の様子が描かれていた。ビデオによる案内もある。韓国からの観光客もたくさん来るのだろう。ハングル文字の表記もある。日本と朝鮮半島との友好を進めることが、博物館の大きなテーマになっているようだった。

 特別展示室では、佐賀の陶芸作家の個展も開かれていた。唐津焼のみごとな皿や壷、茶碗が並んでいる。渋い茶色の肌をした大きな壷は、作家の巧みな技で出来上がったものだった。人間国宝の中里夢庵氏の茶碗も並んでいた。どの作品も、派手な色はなく、落ち着いた色の作品だった。模様の美しさを味わうのが唐津焼だということが伝わって来た。

 博物館では、名護屋城に関わるたくさんのことを知り、唐津焼の素晴らしい作品まで見ることが出来た。「入館料は千円です」と言われても当然のような博物館だった。それが無料だったのだ。「こんな素晴らしい博物館が無料だなんて、びっくりしました」と、受付の女性に声を掛けた。「そのことに驚かれる人が多いようですが、これは佐賀県知事の考えで無料になっているのです。とにかく、皆さんに名護屋城のことを知ってほしいと知事は考えているようです」受付の女性はその理由を説明してくれた。佐賀県人のユニークな発想をここでも見たのだった。



[ 2013/01/28 08:21 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

春間近な九州路 放浪の旅 5

2月14日(土) その1 福吉(福岡)~唐津(佐賀)
 
 午前5時半過ぎ目が覚めた。まだ辺りは真っ暗である。昨夜、ピカピカ光っていた道路工事の標識はきれいに片付けられていた。作業はいつ終わったのか、ぐっすり寝込んでいた旅人に、その時刻がわかる訳はない。
遠くに駅の明かりが見える。まだ一番列車は走っていないようだった。外へ出ると、強い風が吹いていた。今日は大荒れの天気になるのだろうか。
  
 午前6時、まだ辺りは真っ暗である。駅に向かって人が歩いて行く。一番列車に乗るようだ。しばらくして駅のアナウンスが聞こえ、列車がやって来た。博多方面へ向かう列車だった。車内には数人の人影が見える。大都会の朝がようやく始まろうとしているようだ。
 
 用を足しに駅のトイレまで行った。その帰り、駐車場の端に、この辺りを紹介する案内板を見つけた。昨夜は暗くて気が付かなかったのだ。見ると、この近くに大きな漁港があるようだ。そこには公園もある。朝食はその港で食べることにした。寝袋を片付け、座席を直して、車を発車させた。

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 細い街中の道を走って行くと、やがて大きな漁港へ出た。地図にあった福吉漁港というのだろう。埠頭の近くに車を停めた。まだ明けやらない薄明かりの中に、漁港全体の風景がぼんやり見える。たくさんの漁船が停泊しているようだ。海は強風が吹き荒れ、白波が立っている。この風では今日は漁に出ることはできないようだ。その時、すぐ近くに軽トラックが停まった。そして1人の親父さんが降りて来て、小さな漁船の方へ走って行った。「何をするのかな」と見ていると、船を手繰り寄せていた。強風で船が流されないように点検に来たのだ。それからしばらくの間は、軽トラックがやって来て、人が下り、船を点検して帰って行くという光景が続いた。本当に驚くような強い風が吹いていたのだ。ポットの湯を注いで、インスタント味噌汁を作り、昨日買ったお握りを食べた。簡単な朝食だった。

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 午前7時過ぎ、ようやく空が明るくなり始めた。辺りの景色がはっきりするに連れて、福吉港が大きな漁港だということが分かった。漁船の数も百隻を軽く超えているようだ。埠頭には、カニ漁の網が山のように積み上げられている。ラジオからは、「日本海側は強風が吹き、大荒れです」という天気予報が流れている。海上暴風警報も発令されていた。「これが、昨日だったら、フェリーの旅は大変なことになっていたなあ」と、天候の荒れが1日ずれたことを喜んだ。その時一隻の小さな漁船が外海に向かって進んで行くのが見えた。こんな高波の中を漁に出るなんて、死に行くようなものだと旅人は思った。漁師の中にも無謀な人がいるのだ。
 
 午前8時、出発。最初の目的地は唐津。国道202号線を走る。車の右手には美しい日本海が広がっていた。この辺りの海は玄界灘と呼ばれている所だ。海には大きな白波が立ち、大荒れである。

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 小さなサービスエリアを見つけて車を停めた。「姉子の浜」という案内が出ている。海岸には白い砂浜が続いていた。夏には海水浴客で一杯になりそうだ。「この海岸は、天然記念物に指定され、保護されています」と説明がある。「砂浜は、歩くと音がする鳴き砂でできています」というのだ。

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 さっそく、砂浜を歩いてみた。強風で聞き取り難いのだが、確かに足元でキュッキュッと音がする。不思議な現象だった。砂の粒に音を出す仕組みがあるのだろう。後で分かったのだが、この砂浜は、一度は音が失われてしまったのだが、町が砂の汚染を取り除いて復活させたものだという。強風で砂浜には美しい風紋ができていた。僅かだったが、吸殻や空き缶が転がっていたのが残念だった。
 
 車は「佐賀県」に入った。昨年ブームを作った「元気な佐賀県」である。「はなわ」というタレントが「佐賀県」という題名の歌を歌い、一躍有名になり、紅白にまで出場したのだ。佐賀県のことをぼろぼろに歌っているのだが、あの歌で佐賀県人が元気になり、佐賀県が全国区になりつつあるという話である。今まで、佐賀県を訪れたことのない旅人は、その佐賀県のことを少しは知りたいというのも旅の目的の一つに入れていた。
 
 もうすぐ唐津という辺りで、道の両側に松林が広がり出した。みごとな松林である。ずっと松林が続いている。駐車できる場所があれば、見学したいと思った。古い旅館の前に小さな駐車場があるので車を停めた。

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 「虹の松原」という案内板がある。「17世紀初め初代唐津藩主寺沢広高が、防風・防潮のため、海岸線の砂丘にクロマツを植林させたのが始まりで、長さ5kmに渡って約100万本のクロマツが群生している。天橋立、美保の松原と並んで、日本三大松原の一つに数えられている」と説明がある。佐賀にこんなすごい松林があることを、旅人は今まで全く知らなかったのだ。

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 松林の中を歩いて海岸まで行ってみた。

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 砂浜の海岸がずっと続き、その先の小高い山の上に立派なお城が白く輝いていた。唐津城のようだ。唐津といえば真っ先に唐津焼を連想した旅人だが、立派な松林やお城に出会い、早くも佐賀県にパンチを見舞われた感じがした。唐津の街中にも古い史跡がたくさん残っているのだろう。

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 唐津城の駐車場に車を停め、街中を散策する。唐津城は江戸時代に建てられたが、明治時代に入って廃城になり、1966年に再建されたものだった。天守閣を鶴の頭に、東西に広がる松原を翼に見立てたところから「舞鶴城」とも呼ばれているという。城のすぐ横を流れる松浦川に掛かる舞鶴橋を渡った。対岸から見た唐津城は猛々しい姿だった。海岸に聳える城は全国的にも珍しいのではないだろうか。おばあさんがリヤカーを引いて行く。荷台には色取り取りの花が積まれていた。町へ売りに行くのだろうか。城下町の路地を「花はいらんか」と声を掛けながら、歩く姿が目に浮かぶようだ。

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 唐津城のお堀に掛かる城内橋を渡る。古い石垣に囲まれたお堀には屋形船が浮かび、散策路には桜も植わっていた。春には花見客で一杯になるのだろう。

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 お堀の周りには旅館も並んでいる。朽ちた石垣と鄙びた旅館の建物が趣のある風景を作っていた。街中を少し歩いた。町のあちらこちらに歴史を感じさせる建物が残っていた。落ち着いた町だった。今ごろ、どこかの路地で、あのおばあさんが、リヤカーを引きながら、花を売り歩いているのだろう。時間があればゆっくり見学したい町だった。



[ 2013/01/23 08:27 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

春間近な九州路 放浪の旅 4

2月13日(金) 博多(福岡)~福吉(福岡)

 午後6時半、フェリーは定刻通り博多港へ入港した。空は曇っているが、まだ辺りは明るい。富山では6時半になればすっかり暗くなっていたのに、日本列島の西の端にある博多は、日没の時刻がかなり遅いようだ。
 
 博多港に降り立った旅人は、これからどうするのか、まったく予定を立てていなかった。「博多に着いてから、それは考えればいい」と決めていたのだ。全く気ままな旅人である。「今夜は、このフェリー埠頭で野宿するか」とも考えたが、「どこか適当な所で野宿すればいいのだから」と、とにかく車を走らせることにした。

 海岸沿いの国道3号線を西に向かって走り出した。しばらくして「唐津」という道路標識が目に入った。「唐津」は以前から行ってみたいと思っていた所だ。最初の目的地は「唐津」と決めた。気楽なものである。

 だんだん辺りは暗くなり、国道202号線に入って、道は狭くなった。通勤帰りの車で渋滞もひどくなり、思うように進めない。時刻は7時半を過ぎている。運転暦の浅い旅人は、夜道を走ることも大の苦手なのだ。「唐津」入りは明日にして、寝場所を見つけることにした。

 そう決まったら、まずは、夕食の買出しである。大きなスーパーを見つけて、弁当とビールを購入して再び出発した。しばらく走っていたら、道の横をJRの列車が走っているのに気がついた。唐津へ通じる筑前線である。駅を見つければ駐車場があるかも知れないと思った。

 やがて、駅が見えてきた。結構立派な駅である。「福吉駅」と表示がある。まだ、福岡県にいるような名前だった。予想通り駅前には駐車スペースがあった。今晩は、ここで野宿することにした。

 時刻は午後8時半を過ぎていた。寝場所を見つけるのに大分苦労した。さっそく遅い夕食を車の中で食べ始めた。しばらくすると、ホームからアナウンスの声が聞こえて来た。やがて、こうこうと光る列車が停車した。唐津へ向かう列車のようだ。車内にはたくさんの人影が見える。大都会を走る列車だから、この時間になっても通勤客で混んでいるのだ。その列車を、駅前の駐車場からから見ている人間がいる。その人間は、今晩ここで野宿するというのだから、本当に信じられない話なのだ。改札口から人が出て来た。高校生の姿が多かった。予備校の帰りなのだろうか。

 時刻は午後9時半、酔いも回り、眠気が襲って来た。寝る準備を始める。座席を倒し、寝袋を取り出し、その中に潜り込んだ。時々、駅のアナウンスの声が聞こえて来る。まだ、列車は引切り無しに走っているようだ。

 大きな音で目が覚めた。「何事が起こったのか?」あわてて、寝袋から顔を出すと、直ぐ横に黄色い光を点滅させたトラックが停車していた。その横で数人の作業員が、道路標識やコンクリートブロックやカラーコーンなどを運んでいた。道路工事が始まるようだった。「ここにいてもいいのだろうか」不安な気持ちが過ぎる。時計を見ると午後10時を少し過ぎていた。

 とにかくしばらく様子を見ることにした。作業員たちは、忙しそうに運んだものを道路に設置している。道路を一方通行にして、作業を始めるようだが、工事現場はここから遠く離れた所のようだ。15分ほどで道路遮断の作業は終わり、1人の作業員を残して車は去って行った。残された作業員は、車に合図を送る交通誘導員だった。深夜、道路工事で働く人を尻目に、旅人は再び寝袋の中に潜り込み、深い眠りに落ちて行った。





[ 2013/01/22 16:48 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

春間近な九州路 放浪の旅 3

2月13日(金) 直江津~博多

 午前6時起床。穏やかな船旅が続いていた。冬の日本海もこういう静かな時があるのだ。おかげで昨夜は、ぐっすり眠れた。洗面を終え、食堂へ行く。食堂の営業開始は8時からだった。乗客が少なくても営業はきちんとやるようだ。朝食はここで食べることにして、部屋へ戻った。

 この船が博多に着くのは今夜の6時半。たっぷり時間がある。旅人は、持ってきた本を読むことにした。今、話題を読んでいる「半落ち」である。上さんが買ったものだが、内容が面白いらしい。映画化され、今上映されているそうだ。さっそく読み始めた。

 1人の警察官が妻を殺して出頭する場面から物語が始まった。取調べが始まったのだが、第一章は、その取調べを担当する警察官が登場した。妻殺しの被疑者には2日間の空白期間がある。しかし、その2日間のことについて被疑者は黙秘している。物語はその2日間の空白を巡って展開していくようだ。ぞくぞくしながら読んで行ける作品だった。第1章を読み終わったのは、9時だった。

 食堂へ行った。1人の男性が窓に近いテーブルで食事をしていた。この船で、初めて会った乗客だった。干物、味噌汁、納豆などが付いた和定食を食べた。まあまあの味だった。

 再び「半落ち」を読み始めた。
 第2章は検事が登場した。正義感溢れる検事が、空白の2日間について被疑者を取り調べて行く。その中で、警察が自白調書を捏造したことが明るみなり、そこを検事は鋭く追及して行った。しかし、被疑者は依然として、空白の2日間について真実をあきらかにしない。ぐんぐん物語りに吸い込まれて行くのが分かる。

 第3章は、新聞記者が登場した。警察が自白調書を捏造した事件を鋭く追求する記者が描かれていた。警察や検察庁のどろどろした内部が明るみに出されていく。

 第4章は、被疑者を弁護する弁護士が登場した。うだつの上がらない弁護士がこの事件をきっかけに一旗挙げようというのだ。しかし、空白の2日間は、依然はっきりしないままこの章は終わった。
この物語の結論は、最後の章に隠されているのだろう。もちろんその章は、最後の楽しみに取っておくつもりだ。実は、後で分かったのだが、うちの上さんは、この「半落ち」の結論を先に読んでしまったそうだ。ミステリー小説は、結論を知ってしまえば面白さが激減してしまうと旅人は思っているのだが、不思議な人がいるのだ。
時刻は一二時を過ぎていた。腹が減ったということではないが、昼ご飯の時間なので、食堂へ行った。結構人がいて、食事をしていた。家族連れの姿もある。北海道から乗船していた人たちもこの中にいるのかも知れないと思った。カレーライスを注文した。ボリュームのあるカレーだった。

 再び、「半落ち」を読み始めた。
 第5章は、被疑者を審判する裁判官が登場した。この裁判官には、身内にアルツハイマー病で苦しんでいる人がいた。アルツハイマー病で苦しんでいる妻を殺した被疑者に対して、どんな判決を下すのか。判事が判決を下すまでの苦悩が、この章では書かれていた。空白の2日間については、判決が出た後も、明らかにならなかった。

 第6章。いよいよ終章である。何と刑務所の看守が登場したのだ。すごい発想である。物語は、一気にクライマックスへと進んで行った。そして、なぜ被疑者が二日間の空白を自白しなかったのかということが明らかにされた。それは、人のためであった。人のために生きるということが作品の大きなテーマになっていた。「半落ち」は泣ける作品だった。映画も見たいと思った。九州を放浪した後、再び、博多からフェリーに乗るのだが、その最終日に博多の映画館に行こうと旅人は思った。
 
 フェリーの一日は、満ち足りた気分で過ぎて行った。


[ 2013/01/21 17:07 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

春間近な九州路 放浪の旅 2

2月12日(木) 富山~直江津 

 未だに自動車の運転が上手くない旅人にとって、富山から高速道路を飛ばして九州まで走ることは至難の業である。そこで選んだのが、直江津と博多を結んでいる九越フェリーだ。直江津港からは、毎週火、木、土に便が出ている。昨夜、フェリー会社に電話をしたら、「空いています」と快い返事を貰っていた。

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 雪がちらつく昼過ぎ、「交通事故には気を付けてね」と心配そうに手を振るおばあさんに見送られて出発した。

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旅に出る時のいつもの風景である。このところの暖かさで雪はかなり少なくなったが、それでも道の両側は、除雪された雪が壁を作っていた。黒部から親不知の険しいトンネルを抜け、新潟県に入った。新潟県もずっと雪の壁が続いていた。本当に今年は雪が多いのだ。

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 夕方、直江津港へ到着した。冷たい風が吹き、埠頭に人影は見えない。気候のいい時期には、この埠頭は釣人の姿がたくさん見られる所なのだ。フェリーの出港は午後一〇時。それまでここで待つことになる。しばらくすると、沖合いから大きな白い船が近づいて来た。フェリーだった。旅人が博多まで乗船する船のようだ。出港までまだ5時間近くあるというのに、早い到着だった。

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 さっそく乗船手続きに行った。「九越フェリーは、博多と室蘭を結んでいます。直江津は中継港です」と受付の男性が説明してくれた。帰りの乗船券も併せて手続きを取った。往復で64,490円だった。往復なので割安にはなっていたが、やはり運賃は高い。だれでも気楽に船旅という訳にはいかないのだ。受付名簿を見ると、直江津から乗船する客は僅かに6人だった。フェリー会社も深刻な経営状態のように旅人には思えた。今すぐ乗船できるのかと思ったら、「9時過ぎまで待ってください」と言われた。仕方なく車へ戻った。

 車の中で、夕食を済ませ、乗船時刻を待った。今回の旅もこの小さな車の中で宿泊することが多くなりそうだ。簡易のガスボンベや調理道具、調味料、インスタント食品などはもちろん積み込んだ。そして前回の旅で得た教訓から、小さな電源装置を購入した。この電源装置のプラグを、車の中にあるタバコのヒーターボックスに差し込むだけで、電気製品が使えるようになるのだ。それをつなげば、テレビだって見られるし、蛍光灯も点けることができる。車が近代的な家に変身するのである。これまでテレビを積んで旅をしている車に何度も出会っていたのに、「発電機を積んでいる」と旅人は思っていた。そんなに簡単な道具が仕掛け人だったとは、全く知らなかったのだ。運転暦の浅い旅人らしい話である。さっそく近くのホームセンターへ買いに行った。値段は2千円ほどだった。旅人が積み込んだ電気製品はパソコンだった。車の中で旅日記をどんどん書こうというのである。

 乗船時刻にはまだ2時間近くある。パソコンを稼動させてみることにした。エンジンをかけ、電源装置のスイッチを入れるとパソコンが使えるようになった。今回は、早々と旅日記が完成するのかも知れない。

 午後9時過ぎフェリーに乗船した。2等寝台のベッドへ案内された。大きな部屋には六つのベッドが並んでいたが、お客は旅人1人だけだった。さっそく、風呂へ行った。広い風呂には、誰もいなかった。帰りに食堂の自動販売機でビールと焼きソバを買い、部屋へ戻ったが、乗務員以外に出会った人は、いなかった。大きな船に数人のお客を乗せて走るフェリーの中は、閑古鳥が鳴いているという感じだった。

 午後10時、フェリーは直江津港を静かに出港した。窓の外には真っ暗な日本海が広がっていた。海は凪いでいた。
[ 2013/01/20 06:47 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

春間近な九州路 放浪の旅 1

はじめに

 季節は立春を過ぎたというのに、連日雪が降り続き、旅人の住む細入村はすっかり雪に覆われてしまった。毎朝の除雪作業が日課のようになっている。今年は例年にも増して、雪が多いようだ。

 年末に出掛けた「山陰の旅」の整理も終わり、またふらりと旅に出掛けたい気分なのだが、なかなか目的地が決まらない。「どこかへ出掛けたら」と上さんも言うのだが、ぐずぐずしていて、時間だけが過ぎて行く。

 気ままな旅行に出掛けられる旅人のことを、周りの人は皆口を揃えて「うらやましい生活をしているものだ。自分もあんたのように旅に出掛けられたらどんなにいいか」というのだが、旅人には、人から見れば気楽な旅もけっして楽なものではないのだ。帰ってから、旅のまとめを、旅日記という形で整理するのだが、それがかなりしんどい作業なのだ。それをやめたら、本当に楽なのだろうが、それをやめる訳にはいかない理由が旅人にはある。「やがてはこれで飯が食えるようになりたい」という目標があるのだ。それが文章なのか、絵なのか、それとも旅のアドバイザーなのか、まだ其処のところははっきりしていないのだが・・・。だから、気ままな旅も、今は一文にもならないが、旅人は仕事と位置付けて出掛けているのだ。

 「貴方が教員を辞めて、もう3年が過ぎたのよ。やはり難しいのじゃないの。そろそろあきらめたらどうなの」と上さんは、旅人にはっきり云うのだが、旅人は、「きっとその内にどれかで花開く」とあきらめていないのだ。「この間の山陰の旅日記は少し手応えがあったし、絵の方も大分上達したと思っているし、結論は60才ごろに出るのじゃないのか」とのんびり構えている。「よくも、それで暮らしていけるね」と不思議に思う人も多いが、それは上さんが働いて支えているのだ。だから、旅人は必死に頑張らなくてはいけないのだが、プレッシャーを感じるほどに頑張っているのかというと、どうもそうではないところが、上さんには歯がゆく感じられるのだろう。

 そんなある日、タモリの「笑っていいとも」に、加藤登紀子さんがゲストに出ていた。「昨日は、川辺川ダムに反対する集会に出ていたの。五木村という小さな村だけど、景色が美しいの。五木の子守唄で有名な所よ。何であんな美しい所にダムを作るのかしらね。全国でダムの見直しが始まっているのに、今からダムを作るというのよ」加藤登紀子さんは、目をキラキラ輝かせて、川辺川ダムは要らないと訴えていた。この番組が終わるころには、旅人は「九州」へ行こうという気持ちになっていた。しばらくして、旅人は乗り慣れた軽自動車に荷物を積み込み、九州へ旅立つ準備を始めた。今回は、「期間限定九州放浪の旅」ということになりそうだ。

 夕方、仕事から帰った上さんが、荷物の山を見て、「やっと出掛ける気になったようね。また、旅日記楽しみにしているから」とにこにこしていた。宿六がいなくなることがどうも嬉しいらしい。
 

[ 2013/01/19 09:03 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

「JR北海道フリーきっぷ」で行く「道東」冬の旅 8


第7日 2月20日(水) 苫小牧~札幌~名古屋
 

 午前6時過ぎ起床。洗面を終え、荷物を整理した。リュックは出発した時よりも、各地で集めた資料や本などがどんどん増え、かなり重くなっていた。。今日はこれを担いで歩かなくてはいけないのかと思うといやになる。 

 朝食の時間になったので、1階のラウンジへ行った。注文していた和食を食べた。食べ終わり、コーヒーはないかとウェイトレスに聞くと、「コーヒーは和食のメニューには入っていません。有料になりますが、よろしいでしょうか」と聞き返された。何ということかと驚きながらも、しぶしぶコーヒーを注文した。コーヒーくらいサービスできないのだろうか。「和食にはお茶が合っています。洋食にはコーヒーが合っています。和食にコーヒーは可笑しいです」というのは、だれが決めたのか。「食後のコーヒーではいけないのか」全く不合理だと思った。部屋へ帰り、「ホテルの感想をどうぞ」というメモがあったので、そのことをしっかり書いておいた。

 午前8時過ぎにホテルを出発し苫小牧駅ヘ。「みどりの窓口」でいつものように指定席券を手に入れ、9時08分苫小牧発「すずらん3号札幌行」に乗車した。この列車はほとんどが自由席で、指定席は2分の1車両だけだった。札幌に近づくに連れて雪が多くなった。9時58分列車は札幌駅に到着した。

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 駅のコインロッカーにリュックを預け、札幌市内見物に出掛けた。
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 札幌時計台の周辺はたくさんの観光客で賑わっていた。明治時代に建てられた洋風建築として有名な旧永山武四郎邸は深い雪に囲まれていた。その近くにある札幌ビール「サッポロファクトリー」は、美味しいビールを期待していたのが、あいにく休館日だった。

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 雪まつりの終わった大通り公園には、巨大な雪の山があちらこちらに残されていた。何組もの観光客がその雪山に上って記念撮影をしていた。大通り公園の外れにある札幌資料館で、「おおば比呂司記念館」を鑑賞した。ここを訪れるのは2度目だ。以前はまだ絵にあまり興味がなかった時だった。今回は、おおば比呂司氏の水彩画を見て、着色や構図などたいへん勉強になった。記念に何枚か絵葉書を買った。私もこのような絵が描けるようになりたいと思った。
 
 北海道立近代美術館にも行った。「砂田友治展」を開催していた。北海道で生まれ、北海道を描き続けた作家の生涯を紹介する作品展だった。「北海の男たち」という作品は、強烈な赤を使って海で働く男たちを描いていた。画面からほとばしる強烈なエネルギーに圧倒された。彼の晩年の作品は、色も穏やかになり、テーマも天使とか、キリストとか、宗教的なものに変わっていた。絵がその人の一生をそのまま表現しているように感じた。

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 昼食は「すすきの」のラーメン横丁で食べた。ここへは何度も来ているが、全く客のいない店と、行列のできている店があることだ。それがいつも同じ店ではなく、変化している所が不思議なところだ。私は、少し客のいる「おやじの店」で食べた。味は特別美味しいとは感じなかった。今は全国に美味しいラーメン屋でき、ここだけが特別ということでなくなったのかも知れないと思った。

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 すすきの駅から市電に乗った。札幌市内をぐるりと巡り、西4丁目まで走っている。座り心地のあまりよくない座席に座ってのんびり札幌市内を見ていた。運賃は180円だった。

 もうすぐ時刻は3時。そろそろ千歳空港へ移動しなくてはいけない。札幌駅へ戻り、リュックを背負ってホームへ出た。快速「エアーポート」新千歳空港行は超満員だった。午後4時過ぎ、千歳空港へ到着した。搭乗手続きを済ませ、土産店を歩く。土産店が並ぶ通りはたくさんの人でごった返していた。

 午後6時、予定より遅れて、私の乗ったジェット機は名古屋向けて千歳空港を飛び立った。暗くなった大地には、函館の美しい夜景が箱庭のように見えていた。「また、来年の冬もこの北海道を旅しているのだろう」北海道にはまってしまった男は、そう思った。 (完)




[ 2013/01/17 06:33 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

「JR北海道フリーきっぷ」で行く「道東」冬の旅 7

第6日 2月19日(火) 襟裳岬~苫小牧 

 午前6時起床。窓を開ける。空は曇っているが、風もなく穏やかな天気のようだ。まだ、薄暗くて、灯台の光がはっきり見えている。海岸に人の姿は見えなかった。まだ、時間が早いのだろう。洗顔を終え、荷物を整理した。午前7時になっても海岸に人の姿はなかった。今日の昆布拾いはないのだろうか。

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 食事の時刻になったので食堂へ行った。テーブルに3人分の料理が並んでいた。客は私一人だけだと思っていたのだが、まだ他にも客がいるようだった。食事を終えて部屋へ帰った。再び海岸を覗くと、軽トラックが浜辺を走って行くのが見えた。断崖になった所で、車が止まり、ウエットスーツ姿の人が1人下りた。そして、昆布拾いが始まった。さっそく、私は海岸へ見に行くことにとした。

 ホテルの横の凍てついた細い道を下ると、海岸へ出た。海岸には昆布を干す棚がたくさん作ってある。私は、棚の横を通って、ずっと先に停まっている軽トラックの所まで雪の積もった浜辺を歩いて行った。車は3台停まっていた。海岸にはたくさんの昆布が打ち上げられていて、5人の人がそれを拾っていた。そのうち2人は女性だった。昆布を拾っているところをスケッチし始めた。しばらくして昆布を拾っていたお婆さんが、私に近づいて来た。

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 「おはようございます」と挨拶をすると、お婆さんは、にこにこ笑って「いい絵が描けますか」と言った。「みなさんが、たいへんな仕事をしているので、感心しているのです。昨日は、すごい風が吹いていましたね」と私は言った。「昨日は、灯台の辺りじゃあ、25mの風が吹いていたんだよ。今日はたくさん昆布が拾えるかなあと楽しみにしていたんだよ」とお婆さんは、笑った。

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 「海は冷たいでしょうね」と聞くと、お婆さんは、昆布拾いのことについて話し始めた。「貴方が考えている程、辛い仕事じゃないよ。ほれ、こんなに服を着ているから、それほど寒くはない。ゴムのウェットスーツは温かいよ。女は浅い所で昆布を拾っているし、男だって、胸の所までしか行かんし、みんなで一緒に拾うようにしているから、波にさらわれて死んだという話は聞いたことがないよ」とお婆さんは自慢していた。「今、昆布を拾っているあの人は、本業は大工さんだよ。仕事がない時は、浜で昆布拾いさ。拾った昆布は、天候にもよるが、1週間ほど干せば売り物になる。漁協に出すと小遣い銭くらいにはなるよ。しかし、何といっても、昆布漁の季節は夏だね。あの岩の向こうには、天然昆布が一面に生えているんだ。それを船で出掛けて行って獲るのだが、船に何杯も獲れた時は嬉しくなっちまうよ」お婆さんは、クシャクシャの笑顔で話してくれた。私は、何年か前の夏に、礼文島で見た昆布漁の風景を思い出していた。
 
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 そこへ、中年のおばさんが抱えきれないほどの昆布を引き摺って、やって来た。おばさんは、にこにこ笑いながら、私たちが話している目の前を横切って行った。棚に昆布を干しに行くようだ。お婆さんといい、おばさんといい、辛い表情はどこにも見えなかった。楽しそうに仕事をしているのだった。黒いウエットスーツを来た3人の男の人も海へ入って、黙々と昆布を拾っていた。昆布拾いは、私が考えているような辛いものではなく、寒さを忘れさせてくれるほど、楽しく魅力あるものなのだろうと思った。

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 元気なお婆さんにお礼を言って海岸を後にした。行く時は、何もなかった棚に、たくさんの昆布が干してあった。厳しい自然の中で、元気に働いている人たちの臭いが昆布から伝わってきた。

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 ホテルへ帰り、部屋の窓から海岸をスケッチした。その間もずっとあの人たちは昆布拾いを続けていた。バスが来る時刻になったので、リュックを背負ってバス停へ行った。10時半を少し過ぎて、「様似行」JRバスがやって来たので乗車した。やがて、バスは緩やかな坂道を、灯台に向って上って行った。バスの窓から、昆布拾いを続けるあの人たちの姿が小さく見えていた。襟裳岬を代表する冬の風景はこれだと私は思った。

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 11時半バスは様似駅に到着した。見上げると、遠くに白い雪を被った日高の山並みが美しく見えていた。列車の発車まで40分ほどあるので、食事をすることにした。駅前の食堂へ入った。くたびれたテーブルや椅子が並んでいた。そして、老夫婦が店の切り盛りをしていた。牛丼を注文すると、頭の剥げたお爺さんが、小さな鍋で調理を始めた。調理するところが全て見えてしまうのがさらに悪かったようだ。出て来た牛丼は思っていた通りの味だった。

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 12時15分様似発「苫小牧行」普通列車に乗車した。1両編成のディーゼル列車だ。乗客は少なくボックスシートを1つ確保した。日高本線に乗って旅をするのは2度目になる。去年は苫小牧から様似まで乗ったが、その日は大荒れの天気で、堤防に打ち寄せる大波のしぶきを被りながら列車が走った所もあった。日高本線は海岸沿いを走るのでは有名な線路だ。列車は定刻通り発車した。しばらくして、広い牧場に放し飼いにされた馬たちの姿が見えるようになった。この辺りは、サラブレッドの生産地である。まだ生まれたばかりの子馬の姿も見える。やがてセリに掛けられて誰かの所有馬になり、競馬場で走るようになるのだろう。しかし、競走馬として名を残すのはほんの数頭なのだろう。世の中が不景気になり、サラブレッドを育てる世界にもその荒波が押し寄せているのだろうと思った。
 
 東静内を過ぎた辺りから列車は海岸沿いを走るようになった。今日の海は穏やかだが、列車は波打ち際をゆっくりと進んで行った。去年、列車が波を被りながら走ったのはこの辺りのようだ。
 
 15時22分、列車は終着の苫小牧に到着した。今日はこの町で1泊する予定だ。駅南口の近くにある「グリーンホテル」ですんなり宿が見つかった。1泊朝食付きで5400円。大都市のホテルは料金が安いと思った。コインランドリ-があるので、溜まっていた洗濯物を洗うことにした。一流ホテルや旅館にはこういうコインランドリ-の施設はない。長旅にはビジネスホテルが合っている。洗濯機に粉石鹸と洗濯物を入れ、料金400円を投入し後は洗い上がるの待った。洗濯が終了し、続いて乾燥機に入れた。料金は10分間で300円。強力な乾燥機で、きれいに乾いていた。風呂にも入り、気分は爽快だった。いよいよ明日で、北海道の旅は終わる。苫小牧の美味しい料理を食べに行くことにした。

 薄暗くなった苫小牧の町を歩いて行った。雪が少ないのに驚いた。北海道でも雪の降り方には大きな違いがあるようだ。飲み屋の看板がなかなか見つからない。駅の南口は飲み屋がない所のようだ。大きなドームの前に出た。「苫小牧白鳥アリーナ」という大きな文字が白く輝いていた。スケートリンクがある施設のようだ。苫小牧は「アイスホッケー」で有名な町だということを思い出した。ひょっとしたら、アイスホッケーの試合が見られるのではないか思い、中へ入って行った。
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 受付に女性が座っていた。「ここでアイスホッケーの試合が見られますか」と聞いた。「残念ですが、今晩は、試合はありません。今、小学生チームが練習をしていますから、見て行かれたらどうですか」と親切に言ってくれた。さっそくスケート場へ入って行った。中は広く、周りは観客席になっていた。リンクの中で、ヘルメットを被った子どもたちが長いスティックを持って、すごいスピードで走りまわっていた。アイスホッケーを間近に見たのはこれが初めてだった。私は、観客席に座ってしばらく練習を見ることにした。
 
 小学生といっても本格的な練習をしていた。激しく衝突したり、器用に後向きに滑ったり、体格は小さいが迫力のある練習をしていた。野球、サッカー、水泳などのスポーツ教室はよく見ていたが、さすがに苫小牧では、アイスホッケーが子どもたちの主流なのだろう。近くに何人かのお母さんが子どもたちの様子を見ていたので、少し話を聞いてみた。「これは、王子製紙アイスホッケーのジュニアチームです。ジュニアチーム同士の大会があるので、特訓中です。将来はアイスホッケーの選手を目指しているのです」と1人のお母さんが話してくれた。一流選手を目指しているという話は、少し興ざめする感じがした。もっとスポーツは楽しむことが必要ではないだろうかと思った。

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 「苫小牧白鳥アリーナ」のすぐ近くに「王子製紙アイスホッケー場」があるというので見に行くことにした。アイスホッケー場を覗くと、そこでは中学生チームが猛特訓をしていた。中学生チームの迫力はもっと凄いものがあった。苫小牧はアイスホッケーが本当に盛んな町だった。

 夜の苫小牧の町をかなり歩いて、やっと居酒屋を見つけた。入口の戸を開けて中へ入った。カウンター席が並んだ店だった。お客は若者が1人いた。中年のお上さんが料理をしていた。ビールを注文した。「魚は赤カレイの煮付けがあります」というので、それを食べることにした。少し味付けが薄いように感じた。続いてホッケの焼き物を注文した。特に美味しいとは感じなかった。味はさほどでもないのに、勘定は3300円だった。高い店だった。
 
 飲み直しに、中華料理店を見つけて中へ入る。最近開店したばかりという雰囲気がした。店の娘さんらしい人が、たどたどしい日本語で注文を聞きに来た。中国人が経営する本格的な店のようだ。四川ラーメンと老酒を注文した。老酒は甘くて少し飲んで飲めなくなった。本場の味なのだろうが、やはり飲みなれないものはやめとけばよかった。続いて出て来た四川ラーメンは、ラーメンが少々粉っぽい感じだった。これも本場の味なのだろうか。北海道最後の夕食は、不満が残る状態で終わった。明日は、札幌の町を見学し、飛行機に乗って帰る。「北海道フリーきっぷ」の旅は間もなく終了する。




[ 2013/01/16 10:25 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)
プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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