水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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韓国に一番近い島 壱岐・対馬の旅 2

2 3月19日(火)博多から壱岐へ
 
 11時30分、列車は博多駅に到着した。私はいつもの大きなリュックを担いで、歩き出した。改札口を抜け、駅前の地下街を歩く。飲食店や衣料品店などが並び、たくさんの人で混んでいた。さすが100万人を超える大都市だ。
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 博多といえば博多ラーメンである。地下街の中華屋でラーメンを食べることにした。昼時を迎えどの店も混んでいた。あちこち歩き回り、やっと座れそうな店を見つけた。博多ラーメンを注文した。しばらくして、白いスープのラーメンが届いた。細麺のラーメンだった。1口食べた。残念ながら少し粉っぽい。茹で方が足りないように思った。値段は400円だったから仕方がないかと思った。美味しいラーメンはやはり行列のできている店に入らなくてはいけないようだ。

 フェリーの出航まで3時間近くある。博多の町を少し見学できそうだ。これから「壱岐・対馬」へ行くのだから、博多の町でも元寇に関する史跡を見て行くことにした。駅の案内所で、元寇に関する施設がないか尋ねると、「それなら元寇史料館へ行かれるといいですよ。ここから1つ隣の吉塚駅のすぐ近くにあります」と受付の女性が教えてくれた。再び列車に乗り、吉塚駅へ移動した。
 
 吉塚駅の正面に巨大な建物が見える。地図を見ると福岡県庁となっていた。その前が大きな公園になっていて、「元寇史料館」はその中にあるようだ。公園の中を歩いた。昼時で、芝生の上で弁当を開いて食べている人がたくさんいる。この人たちは、たぶん県の職員なのだろう。不思議に女性も男性もみなコンビニ弁当だった。手作り弁当を食べていた時代は終わってしまったようだ。

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 公園に立派な銅像が立っていた。「菅原道真」という文字が見える。「大宰府」に流された菅原道真が博多の町のシンボルになっているようだ。そこから少し歩いた所に、「日蓮聖人」の巨大な銅像があり、すぐ横の建物が「元寇史料館」だった。「元寇」と「日蓮」とは深い関わりがある。昨年のNHK大河ドラマで「立正安国論」を説く日蓮の場面を見たことを思い出した。「元寇史料館」のパンフレットには、「日蓮聖人銅像護持教会」と印刷されていた。
 
 史料館には、武具の歴史、日蓮宗の歴史などのコーナーが設置されていた。元寇当時の遺品の展示もあった。中でもモンゴル型の鎧や兜、鐙、短弓などの展示は貴重だと思った。鎌倉武士の武具に比べると元の兵士はかなり軽い身なりで戦っていたことが分かった。出口に元寇の遺跡の紹介があった。防塁を築いて敵を防いだ跡が残っているという。受付の女性に尋ねると「西新地区の防塁なら、地下鉄で30分くらいかね。藤崎駅で下車してすぐの所ですよ」と教えてくれたので、出掛けることにした。

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 「県庁口駅」から地下鉄に乗車した。途中の「中洲川端駅」で地下鉄を乗り換えた。電車は「大濠公園駅」に停車した。時間があれば下車して散策してみたい公園だ。

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「藤崎駅」で下車し、そこから10分ほど歩くと、小さな公園があり、「元寇防塁」が残されていた。崩れた石垣が土中に埋まっていた。案内板には、「高さ2m前後の石垣の壁が、渚から50m内外のラインに沿って、今津から香椎まで20kmに渡って築かれていた」と説明があったが、今は崩れてしまっていて、昔の形を想像するのは難しかった。すぐ近くに、もう1ヶ所「元寇防塁」が残されていると案内があるので、そこへも行った。濠の中に石垣の壁が残っていた。この石垣で元軍を防いだというのだが、その仕組みはよく理解できなかった。

 再び地下鉄に乗り、博多駅へ戻る。時刻は午後2時30分。そろそろフェリー乗場へ行かなくてはならない。博多駅前から「中央埠頭行」のバスに乗車した。「フェリー乗場へ行くには福岡国際センター前で下車するといいですよ」と隣の女性が親切に教えてくれた。10分ほどで「国際センター前」に到着した。ここは、大相撲九州場所が開かれる所だったような気がした。大きな建物の入口に黒いスーツを着た若者たちがたくさん行列を作っていた。よく見ると「就職説明会」という看板が入口に立てられていた。長引く不況で、若者たちの就職もなかなか決まらない。この若者たちは、来年を目指して、今から就職活動を始めているのだろうか。国際センター前の道路の桜並木が花を開き始めていた。桜の花の下を通って入学式とか入社式ならまだしも、就職説明会では、彼等には春はまだずっと先のことのようだ。

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 博多埠頭からは「壱岐・対馬行」の大型フェリーが出航しているが、もっと高速の「ジェットフォイル」も運行している。「ジェットフォイル」というのは、水をノズルから噴射し、その推進力で海上を走る仕組みの船である。時速90km近く出るという最新鋭の船だという。これから私が乗船するのは「壱岐郷ノ浦行」のジェットフォイルだ。壱岐はこの博多から76km、フェリーなら2時間15分掛かるところを何と1時間で結んでいる。対馬は149kmとはるか彼方にある。フェリーなら4時間近く掛かる所を2時間10分で結んでいるのだから、その速さが分かる。離島だから生活は不便だという認識はあるが、交通手段の発達で不便さは、かなり解消されつつあるのだろうか。    
 
 乗船手続きを終え、船着場の前のベンチで待っていると、近くの離島を結ぶ定期船がたくさんの人たちを乗せて出港して行った。自転車を引いた高校生。バイクに乗った若者。大きな荷物を持ったおじいさん。離島を結ぶ定期船の発着風景は、絵になると思った。

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 15時50分発「壱岐郷ノ浦行」ジェットフォイル「ヴィーナス」に乗船した。250人を超える人が乗船できる船である。乗船した人は50人ほどだった。定刻になり、船は出航した。出航風景はいつもと同じだった。舳綱が外され、船は岸壁をゆっくりと離れた。港から出た所で雰囲気が変わった。速度がどんどん増し始めたのだ。客室の壁のスピードメーターが、「ただ今の速度は60km」と表示していた。しばらくすると「84km」という表示になっていた。この船が、高速道路を走る速度で走っているのには驚いた。博多の町が遠くなり、玄海灘を走り出した。今日はかなり強風が吹いているようで、白波が立っているのが見える。船は時折、大きく横揺れしたが、快調に海の上を進んで行った。
 
 17時少し前、「まもなく郷ノ浦港到着です」という案内放送が入った。前方に壱岐の島が大きく見えて来たが、まだ船はスピードを落していなかった。「シートの安全ベルトを締めてください」という案内も入る。飛行機の着陸時と似た雰囲気だった。

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 郷ノ浦港は大きな港だった。ターミナルの前にはタクシーがたくさん並んで、客待ちをしていた。前方には大きな橋が見える。まだできたばかりのようだ。「莫大な税金を投入して作った橋だぞ」という声が聞こえてきそうな感じだった。港の周りには、大きなホテルや旅館が並び、賑わっているように感じた。今日の宿は、港の近くにある「壱岐マリーナホテル」を予約していた。「ここから300mほど行った所にあるよ」とタクシーの運転手が教えてくれた。車がたくさん走る港の通りを歩いて行った。モダンな歩道も付いていて、「お金をしっかり使って整備しているよ」ということが、感じられた。
 
 「壱岐マリーナホテル」は小奇麗な白い建物だった。フロントでキーを貰い、部屋へ入った。「今日はツインしか空いていません」と言われて案内された部屋は、広くてこざっぱりしていた。窓からは港を出入りする漁船や大きな橋が見え、美しい景色だった。

 明日は、定期観光バスに乗って島内を見学する予定にしていた。予約を取るつもりで電話をすることにしたのだが、トラブルが発生していた。いつも持ち歩いている携帯電話が「ウンとも、スンとも」反応しないのだ。いくら、番号を押しても表示が変わらない。「どういうこと?」と画面を眺めている内、鍵の絵が点灯していることに気が付いた。携帯電話がロックされているのだ。盗難防止のためのロックなのだろう。このロックを解除するには暗証番号があるのだろうが、それは全く記憶がなかった。携帯電話をあきらめ、部屋の電話で、バス会社に電話した。「1日コースは明日運行します。9時までに郷ノ浦本町バスターミナルへ来てください」と案内があり、予約が取れた。しかし、携帯電話が使えないとこれから不便になりそうだ。「ひょっとしたら、この島にドコモの店があるかも知れない。あれば、直してもらおう」と思い、散策を兼ねて出掛けることにした。
 
 ホテルから少し歩いた所に銀行や郵便局、商店街などが並ぶ中央通りがあった。人もたくさん歩いていて賑わっていた。壱岐には35000人の人が住んでいるという。全島は四つの町からなり、郷ノ浦町が一番人口が多く、島の商業の中心地になっているようだ。壱岐交通のバスターミナルもすぐ見つけた。明日はここから定期バスに乗ればよい。細い路地にも店が並んでいる。都会では歴史のある商店街が寂れて、困っている所が多いが、この町は、そんなことはないように思った。
 
 信号機のある交差点の所で、ドコモショップを見つけた。さっそく店に入った。「この携帯、動かなくなってしまったのだけど、直りませんか」と受付の若い女性に話掛けた。やはり、携帯がロック状態になり、番号がないと解除できないということだった。「初期化すれば直りますが、データ-が全て消えてしまいます。よろしいでしょうか」と女性は言った。携帯電話にデータ-を入れる方法もあるようだが、面倒で、データ-は1つも登録していなかった。「ええいいですよ」と答えると、あっという間に初期化作業は終了し、携帯電話が使えるようになった。「料金はいりません」と嬉しい言葉も貰い店を出た。これが私の住んでいる村だったら、絶対に修理してもらえなかった。壱岐は都会の島でよかったと思った。

  通りのベンチに座って人や車の流れを見ていた。車が引切りなしに通り、人もせわしなく歩いている。最初に抱いていた離島というイメージからはほど遠く、賑やかで活気のある町にやって来たようだ。

 居酒屋を見つけ、中へ入る。小さな店だが、2階が座敷になっているようだ。カウンターの席に「予約」と表示がある。「こちらへどうぞ」と若旦那がカウンターの隅の席を指差している。席へ付くとお上さんが、お絞りを持ってやって来た。「壱岐の海で獲れた美味い魚を食べにやって来ました」と言うと、お上さんが困った顔をした。「生憎ですが、今日は今から宴会が入っていて、コース料理を20人ほど調理するのです。コース料理は作れません。すいませんが店を替えてもらうしかありませんね」と若旦那も困った顔で言った。「えっ、お絞りを出してくれたのに、そんな殺生な」とは思ったが、あきらめるしかなかった。近くにある「三桝」という寿司屋を紹介してもらい店を後にした。

 「三桝」は大きな店だった。カウンターにはガラスの冷蔵庫があり、魚がたくさん並んでいた。広い座敷もあり、テーブルが10ほどある。どのテーブルにも小皿や箸が並んでいた。ここも今から宴会が始まる様子だった。「ここも今から宴会が始まるのですか。美味しい魚料理が食べたいのですが」と言うと、カウンターで調理をしていた親父さんから、「いいですよ」と快い返事が返って来た。前の店で断わられた話をすると、「卒業や転勤の時期でしょう。毎日のように送別会が開かれているのです。今日もここで送別会がありますが、もちろんお客さんには美味しい魚を食べてもらいますよ」と親父さんが威勢のいい声で言った。
 
 3000円のコース料理を注文した。焼酎を頼んだ。壱岐は麦焼酎発祥の地で、美味しい焼酎がたくさん作られているという。店の棚にもいろんな種類の焼酎が並んでいた。「壱岐の華」という銘柄の焼酎が出て来た。透明の焼酎だった。日頃飲んでいる焼酎とそれほど違いがないように感じた。突出しは、「メカブのたたき」だった。醤油味が付いていた。とろとろの昆布を食べているという感じだが、酒の肴には持って来いの料理だった。続いて、「青海苔をまぶしたミズイカ」が出て来た。この辺りでは、アオリイカのことをミズイカと呼んでいるそうだ。イカだけでもコリコリして美味しいのだが、青海苔の香りが口の中に広がって春を感じさせてくれる味だった。主采の刺身が出て来た。「タイ、ヒラマサ、ミズイカ、イカの軟骨、オコゼの肝」が皿に盛られている。どれも新鮮で申し分ない。焼酎のお代りする。出て来たのは、琥珀色の焼酎だった。「これも壱岐の華です」と親父さんが言った。「壱岐の華」というのはどうやら酒蔵の名前のようだ。濃くのある美味しい焼酎だった。少し酔いが回って来たようだ。すきっ腹に飲んだので、酔いが早いようだ。続いて出て来たのが「タイのアラ煮」だった。脂がしっかりのり、ギラギラと煮汁が光っていた。
 
 豆腐とサザエの醤油煮が出て来た。変わっていたのは、豆腐だった。弾力があり、箸で押してもなかなか形が崩れない。「ここの豆腐は固いですね」と言うと「壱岐の豆腐はみんなこうですよ。豆乳が濃いですからね。美味しいでしょう」と親父さんが笑っていた。口の中へ入れても噛みごたえのある豆腐だった。焼酎をお代わりし、すっかり酔っ払ってしまった。腹も満腹になり、店を後にした。

 酔った勢いで、最初に行って断られた居酒屋で、飲み直した。酔っ払いはこれだから始末が悪い。居酒屋の宴会は終わっていた。何を頼んだのか、よく覚えていないが、カウンター席の美しい女性客の話を聞いていたような気がする。「あんたね。昨日はそうとう酔っ払って、夜遅く電話して来たね。ろれつが回っていなかったわよ。これからはそういう電話はして来ないでね!」と翌朝、上さんに電話でしっかり怒られてしまった。「旅先での恥の掻き捨て」という諺もあるが、「酒は飲むべし飲まるるな」がやはり私にはぴったりしているようだ。この日は、酒に飲まれてしまっようだ。




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[ 2013/02/21 09:54 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

韓国に一番近い島 壱岐・対馬の旅 1

1 プロローグ 

 普通列車が轟音を立てながらトンネルの中を走っている。ここは、本州と九州を結ぶ関門トンネルだ。今回の「気ままな旅」の目的地は、「壱岐・対馬」である。富山から「青春18きっぷ」使い、普通列車を乗り継いで、2日目。やっと九州に入った。普通列車の旅は、時間が掛かる。ずっと座り続けて腰も少し痛い。普通列車の旅には体力も必要なのだ。

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 実は、今回の旅は、目的地がなかなか決まらずにいた。地図を開いて眺めていたが、行きたい所が定まらない。「流氷を見に行ったばかりの北海道へ行こうか」と思ったり、「話題の熊野古道を歩きに行こうか」とも思ったり、2日も3日も、ボッと地図を眺めていた。そして、見つけたのが、「壱岐・対馬」だった。「どうして、今度は壱岐・対馬なの?」と上さんに聞かれたが、「離島へ行ってみようかなと思って地図を見ていたら、目に付いたのさ」としか答えようがなかった。
 
 出掛ける前に、図書館で「壱岐・対馬」に関する本を借りて来た。「大陸との架け橋・遣唐使の島々」と表題が付いている。「万葉の時代から中国や朝鮮との交流があり、外敵に何度も攻められ、そして今は、韓国との交流が深い国境の島である」と紹介されている。調べる内に、「壱岐・対馬」へ行きたい気持ちが至大に大きくなっていった。「富山からは遠く離れていて、たいへん辺鄙な所という印象しかないけど、韓国に一番近い島で、面白い出会いがあるかも知れないよ」と出発する時には、上さんに話ができるようになっていた。
 
 「あんまり飲み過ぎんように、気い付けて行って来られ」と上さんに送られて、旅は始まった。あと2時間で、フェリーが出航する博多に到着できそうだ。
 


[ 2013/02/20 15:27 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

春間近な九州路 放浪の旅 13

2月20日(金) 由布院(大分)~甘木(福岡)~博多(福岡) 

 午前5時半起床。まだ辺りは真っ暗である。天気はよさそうである。駐車場にはトラックがたくさん停車していた。やはりここは、幹線道路の分岐点なのだ。コンロを引きずり出し、湯を沸かし、インスタントうどんと熱いコーヒーを作った。明るくなり始めた由布院の町を眺めながら、朝食にした。

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 午前7時、博多に向けて出発した。自転車が2台、道の淵を走っていた。昨日会った青年たちだった。クラクションを鳴らして挨拶した。彼らは笑顔だった。国道210号線を日田市に向けて走る。後ろから猛スピードの乗用車が何台も旅人の車を追抜いて行く。時速100kmは出ている。無謀な運転手が多いのに驚く。これで事故はないのだろうか。
 
 午前7時半、道路脇に白装束集団の姿を見つけた。鳥インフルエンザは、大分県九重町で起きていた。由布院からは目と鼻の先の町である。その町へ通じる道路では、今日も封鎖と消毒が続くのだろう。それにしても、鳥インフルエンザを巡って、各地で過剰とも思える措置が取られているようだ。学校のニワトリを隔離してしまったとか、学校から排除したところも出ている。深刻な事態はますます深刻になっているようだ。

  午前8時、日田市に入り渋滞が始まった。歩道を小学生の集団が歩いて行く。交差点では、警察官や母親たちが子どもたちの安全を見守っていた。都会ならどこでも見かける朝の風景である。

  午前8時半、道の駅「うきは」に到着。福岡県に入った。自衛隊の集団がトラックやジープで到着した。トイレが一緒になる。メーサイ服を着た集団に囲まれながら用を足した。妙な気分になった。皆黙って用を足していた。この人たちの中にもイラクへ行く人が出るのかも。

 午前9時、ラジオから、「由布院のインターチェンジで自衛隊の車両が事故に巻き込まれ、重軽傷者が出ています。射撃演習に移動中の事故です」というニュースが流れて来た。まさか先ほどの自衛隊員の事故ではないだろうが、彼等は射撃演習に参加する予定だったのだということが分かった。

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 午前10時、甘木市に入る。筑後川を渡った。大きな川だった。広い川原に下りて散歩した。川岸に釣竿が何本も並んでいる。よく見ると竹薮に人影が見えるので行ってみた。元気なおじいさんが1人、釣をやっていた。「鯉を狙っているのだけど、なかなか釣れないさ。元気の源はのんびり釣をすることよ」と笑っていた。川原に、菜の花が黄色い花を咲かせていた。かわいい花だった。

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 午前11時、福岡市内に入る。道は大渋滞している。大都会の道はこれだから嫌だ。クラクションが鳴り響く道をゆっくり進んで行った。

 午前11時45分、博多港フェリー埠頭に到着した。長い長い九州放浪の旅は、終着点に無事到着した。
 
 フェリー埠頭に車を置き、博多の町へ出掛けることにした。出港までの長い時間は、映画を見て、それから食事をして過ごすことにした。最後の時間は豪勢に過ごそうというのだが・・・。車を停めているのは、九越フェリー埠頭である。ここから市バスが発着しているターミナルまでは、2㌔ほどある。まずは、そこまで歩かなくてはならない。

 しばらく歩くと、韓国行フェリーが発着している国際ターミナルがあった。フェリーは博多と釜山を結んでいる。1日6便あり、釜山まで約3時間、料金が往復24000円というのだから驚く。国際線ロビーは、ハングル語表示も並び、韓国語が飛び交っていた。韓国へ行ってみるのも面白そうだ。その隣に「マリンメッセ福岡」という大きなコンベンションホールがある。コンサートや企画展など、大きな催し物が開かれる建物だ。その建物の横の道に、「弁当500円」という赤い旗が揺れている。車を停めて、弁当を売っているようだ。この辺りで働く港湾労働者を当てにして、弁当を売りに来ているのだ。大都会だからこそ成り立つ商売だ。都合がよいので弁当を買った。これがまた驚くような豪華な弁当だった。献立は、豚肉の酢味噌和えと煮物と漬物と味噌汁である。しかもこれに熱い缶茶まで付いていたのだ。調理が皆手作りで、作った人の心が伝わって来た。これでは大した儲けにはならないと思った。

 そこからしばらく行った所が、中央埠頭である。高いタワーが聳え、レストランや売店、壱岐対馬や近くの島を結ぶ定期船が発着する乗り場がある。桟橋には、テーブルや椅子が並び、コーヒーを飲みながら語らう姿も見える。博多港のメインストリートである。市内へのバスもここから発着している。映画館があるという「キャナルシティ博多」へ行くバスに乗車した。市内の道路は相変わらず大渋滞している。バスは30分ほど掛かって目的地に到着した。

 「キャナルシティ博多」は、ショッピング街、レストラン街、ホテル、ゲームセンター、映画館、劇場などが合体した巨大施設だった。あまりの大きさに圧倒される。この中に映画館があるのだが、人に聞いてもなかなか分からない。見つけるのに苦労した。

 映画「半落ち」を見た。原作をどのように脚色しているのか見るのが楽しみである。主演の寺尾聡は原作にぴったりの演技をしていた。以前「雨上がる」を見て、素晴らしい俳優になったなあと思ったが、落ち着いた演技の中に中年の円熟味を感じんた。物語は、原作通りに展開して行った。しばらくして、少し原作とは違った展開になった。鋭い追及をする新聞記者が、女性なのだ。演じたのは鶴田真由だった。原作では、男性記者だった。これは、原作の「半落ち」は、中年の男たちの物語なのだが、それでは映像としてはおもしろくない。そこで、映像の魅力を高めるに、美人の登場ということになったのだろう。鶴田真由は記者を熱演していた。吉岡秀隆は、アルツハイマーの父親を持つ若い裁判官を演じていた。主人公が犯した殺人に対して、それが本当に妥当だったのか、判事として、苦しんでいる様子がよく伝わって来た。寅さんの光男役から大きく成長しているようだった。物語のテーマである「主人公の2日間の空白」について、それが明らかなっていく過程が原作とは違っていた。鶴田真由を登場させるということで、映画は、原作とは異なる展開になったのだろう。また、権力を告発するという鋭さは、原作の方が勝っているように思えた。主人公を見送る最後の場面は、感動して涙が溢れた。映画「半落ち」も素晴らしかった。今年の日本アカデミー賞候補の一つになりそうな作品だと思った。

 映画を見終わり、余韻に浸りながら港まで歩いて帰る。那珂川土手には博多名物の屋台がずらりと並んでいた。残念ながら、時刻が早くまだどこも準備中だった。味わうのは、またの機会にした。小さな公園のベンチには、ホームレスらしい人が寝転がっていた。昼間から酔っ払って寝ているのだろうか。川原の土手には放置されて壊れた自転車がころがり、ゴミが散らかり、大都会の殺伐とした風景が見られた。そういう旅人も、街中を放浪しているのだから大きなことは言えないが・・・。
午後6時、中央埠頭に到着。時刻はまだ少し早いが、赤提灯で夕食にした。髭を生やした若者が店を切り盛りしていた。串焼きと焼酎を注文した。客は旅人1人だった。いろいろ話すうちに、若者が名古屋で働いたことがあるということが分かった。建築現場で鉄筋を打つ仕事をしていたという。ひたすら働き、夜、飲み屋でパーと遣う生活を繰り返していたという。「これでは、だめだと反省し、生まれ故郷の博多へ戻りました。その後、大きな焼き鳥屋で修行し、ようやく、今の店が出せるようになりました」と若者は話した。頑張り屋の若者だった。

 日もすっかり沈み、薄暗くなった道を歩いて行く。壱岐へ向う高速船が、出航していくが見えた。あと2時間もすれば、旅人も直江津に向けて出航するのだ。旅人は、この旅で出会った人たちや美しかった風景を思い出しながら、フェリー埠頭への道を歩いて行った。(完)



                   
[ 2013/02/14 08:24 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

春間近な九州路 放浪の旅 12

2月19日(木) 高千穂(宮崎)~臼杵(宮崎)~佐賀関(大分)~別府(大分)~湯布院(大分) 
 
 午前6時起床。まだ辺りは真っ暗である。昨夜、寝る時にはがらんとしていた駐車場だが、周りには結構、車が駐車している。やはり道の駅はドライバーの安眠の場所なのだ。空には星が輝いていた。今日もいい天気になりそうだ。九州に来て、最初の2日ほどは雨模様だったが、それ以降は天候に恵まれた旅を続けている。

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 この道の駅の近くに国見ヶ丘展望台があるというので出掛けることにした。眺望が素晴らしく、遠くは阿蘇や祖母の連山、眼下には高千穂盆地や五ヶ瀬川の渓流が望めるという。雲海に浮かぶ高千穂の山々が見られることもあるという。期待を込めながら、細い山道を上って行った。

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 大きな神社の前に出た。ここにも神々の伝説が残っているようだ。その謂れが説明してある。展望台へは、この神社の前から長い階段が続いていた。階段を上り、展望台に到着した。もちろん人影は見えない。旅人一人である。夜明け前の静寂の中に、高千穂の山々が墨絵の世界を作っていた。高千穂盆地には霧が薄っすらとかかっている。巨大なパノラマを見ているようだ。日本誕生の神話がこの地で生まれたのは、この幻想的な景色があったからではないのだろうか。雲海に浮かぶ山々は望めなかったが、神話と伝説の高千穂を十分に連想させてくれる風景だった。

 早朝の高千穂神社、高千穂峡の見学を終え、コンビニを見つけて朝食にした。ラジオから鳥インフルエンザの続報が流れて来る。大分県で見つかった鳥インフルエンザは、かなり深刻な事態になっているようだった。発生した所から30km以内の養鶏場は卵や鶏肉の出荷が停止され、発生地への車の出入りにも消毒が行われているという。ひどい事になっている。被害が広がらなければいいのだが。

 放浪の旅も、いよいよ最終段階に入った。明日の夜、博多港からフェリーに乗る。今日の行く先は、別府である。延岡から海岸線をずっと走るつもりだ。別府で野宿すれば、明日には十分に博多に到着できそうだ。延岡に向けて出発した。

 国道218号線を一気に下り、午前9時延岡に到着した。ここからは国道10号線を走ることになる。車の流れは順調である。午前10時、佐伯市に入り、道の駅「やよい」で小休止した。あと1時間も走れば、大分市に到着できそうだ。地図を見ると、大分市の近くに佐賀関町がある。関サバ、関アジで有名な所だ。寄り道することにした。

 国道10号線から別れ、海に向って走って行くと、大きな町に出た。「臼杵市」と表示がある。九州に疎い旅人には、初めて聞く名前だ。「国宝臼杵石仏」という看板も見える。街中に入ると、古い町並みが続くようになり、右手に立派な三重塔が見えて来た。安政年間に建てられたものだそうだ。さらに海岸に向って走ると、右手に大きな酒蔵と酒屋が見えて来た。小手川酒造という古い酒屋で、この建物の中に、野上弥生子文学記念館が併設されていた。99才まで執筆活動を続けた昭和を代表する作家は、この家で生まれたのだという。彼女の生家の一部が記念館として公開されていた。その近くには藩主稲葉家下屋敷も残り、臼杵城跡だという臼杵公園には、復元された立派な櫓が建っていた。街中には、寺院や武家屋敷などが残る二王座歴史の道もあるという。臼杵市は古い町並みが残る歴史の町だった。

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 臼杵港へ行った。埠頭にはフェリーが停泊していた。案内所に行くと、地方訛りの言葉が飛び交っていた。フェリーは、四国の愛媛県八幡浜行だった。ここから四国はすぐそこにあるのだ。明日のフェリー乗船がなかったら、そのまま四国に渡りたい気分だった。埠頭には釣人が並んでいる。しかし、魚を釣り上げている人は誰もいなかった。この時期、魚を釣るのはかなり難しいようだ。

 岩礁が続く海岸線を佐賀関に向けて走る。険しい岩場には、釣人の姿も見える。ここは、名高い関サバ、関アジの本場なのだ。大分と愛媛の間にある豊予海峡で、小型漁船の一本釣りで獲った魚を関ブランドというのだそうだ。特にその中でも、マアジやマサバは身が締まり、絶妙の味がするということで高級ブランド化しているとのことだ。昼食は、その関ブランドを食べたいものだ。

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 「関サバ・関アジ」という幟が目立つようになってきた。「どこで食べようか」と考えているうちに、道の駅「佐賀関」に到着した。道の駅には、こじんまりした茶店があった。さっそく中へ入ると、メニューには、「関アジの刺身」「関アジの姿作り」などが並んでいる。しかし、値段を見てびっくり、刺身が2000円、姿作りが2500円である。ケチな旅人にはとても手の出る値段ではなかった。ここまで来て、関物が味わえないとは残念!そう思いながらメニューを見ていくと、鯛のあら煮定食1000円がある。「鯛のあら煮定食をお願いします」旅人は、すまし顔で言った。やがて、注文の料理が届いた。さすがに美味しい鯛のあら煮だったが、隣では、若い男女が豪勢な刺身定食を食べていたのだ。はるばる富山からやって来て、関ブランドには違いないが、鯛のあら煮を食べている旅人は愚かである。こういう時は、ケチを返上して、豪華な料理を注文すべきである。ケチも時と場合を考えなくてはいけないのだ。

 佐賀関から大分市に入ると、車が急に増え、渋滞が始まった。さすがに大分市は大都会だ。別府はもうすぐである。海岸沿いの道路を、のろのろ走り別府に到着した。大きなホテルや旅館が建ち並ぶ大温泉街である。こういう別府にも日帰り温泉施設があるのではと思いながら、車を走らせると、「湯都ピア浜脇」という看板を見つけた。何となく日帰り温泉施設のような名前である。そこへ行ってみることにした。

 ビルの谷間の小さな公園の横に、その建物を見つけた。隣には共同浴場の「市営浜脇温泉」が併設されている。「湯都ピア浜脇」はトレーニングルームがあり、入浴料が500円だった。地下駐車場が3時間無料になるというサービスが付いていたので、「湯都ピア浜脇」を選んだ。「浜脇温泉の歴史は奈良時代に遡り、別府温泉発祥の地と云われている。浜から温泉が湧き出るということから『浜わき』の地名が生まれたと伝えられている」と入口に、浜脇温泉の由来が説明してあった。

 風呂場は広い。かぶり湯、気泡湯、噴出湯、寝湯、全身浴、うたせ湯、サウナ、運動浴・・・。これだけたくさんの風呂を見たのは初めてだ。さすがに、日本を代表する別府温泉だと思った。別府温泉のお湯は無色透明で、サラッとしていた。洗い場で、頭を洗っていると、隣に、背中に刺青をした親父さんが座った。一瞬ドキンとする。刺青を入れる若者が増えているというが、隣の親父さんは、そうではないようだ。水が掛からないように、気を付けて頭を洗った。人を見た目で判断してはいけないのだが、ドキンとしたのは、旅人1人だけだったろうか・・・。

 休憩室でしばらく休む。隣の運動ルームでは若者たちがバーベルを上げたり、自転車を漕いだり、ランニングをしていた。温泉に併設されているというのがすごい。湧出量日本一といわれる別府温泉だからできるのだろう。「ここのお湯は、42度から45度くらいです。お入りいただいたお湯も、源泉そのものです」と受付の男性が話してくれた。体も温まり、別府温泉を後にした。

 時刻は午後4時。別府から由布院への道を走っている。由布院は、別府と並ぶ大分県の代表的な温泉地であるが、「由布院」という名前の響きに、誘われた感じがする。九州最後の夜は、由布院の道の駅で野宿することにしたのだ。

 別府から由布院への道は、急カーブの続く険しい山道だった。道路標識には「制限時速20km」とあるのに、車の流れは60kmだった。ガードレールがあちこちでひん曲がっていた。しかし、ドライバーたちは、そんなことは、お構いなしに走って行く。旅人は、大型トラックに追い立てられながら、必死に車の流れについていった。
高原のような、なだらかな所へ出た。険しい道は終わった。右手には、赤茶けた高い山が聳えている。由布岳のようだった。行く手に小さな駐車場を見つけ、停車した。その先に脇道が続いている。その脇道に、驚くような光景を見つけたのだ。真っ白な防護服を身に付けた集団が、細い道路を封鎖しているのだ。しばらくして、彼等が、鳥インフルエンザの消毒隊であることが分かった。大分県で発生した鳥インフルエンザとは、この近くのことだったのだ。白装束の人たちは、脇道を通る車を消毒しているようだった。大変な時代になったのだ。鳥インフルエンザが拡大しないことを願う。由布院の町は大丈夫なのだろうか。旅人は、早々に車を発車させた。

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 しばらく走ると、眼下に、高い山に囲まれた平原の町が見えて来た。由布院の町だった。人がなぜ由布院へ行くのか、その理由がわかったような気がした。「由布院」という名前に相応しい美しい風景だった。
道の駅「ゆふいん」に到着した。とても大きな道の駅だった。200台は駐車できるスペースがある。ここは、高速道路のインターチェンジ入口がすぐ近くにあり、大分、別府、阿蘇、小郡等へ通じる国道の分岐点にもなっていた。由布院の町からは少し離れた所にあるが、野宿するには絶好の場所だった。道の駅の売店を覗くと地鶏のたまごが並んでいた。由布院町の名産はニワトリの卵のようだ。「鳥インフルエンザが、他町で発生していますが、この卵は大丈夫です」と店のおばさんが叫んでいた。「日本人は、こういうことにはすぐに反応する」という特徴を持っている。卵は、ほとんど売れ残っている様子だった。

 由布院の町に日帰り温泉があるというので出掛けた。別府は大きなホテルや旅館が並んでいたが、ここは小さな旅館や民宿が並ぶ温泉町だった。細い通りをたくさんの観光客が歩いている。日帰り温泉は、町外れの小さな川の淵にあった。「クアージュゆふいん」と大きな看板が立っている。入浴料を見て驚いた。800円である。由布院の温泉に浸かるだけが目的の旅人には、あまりにも高い料金だった。どこか格安の温泉はないものだろうか。そう思っていると、隣に「湯布院観光総合事務所」を見つけた。同じ敷地の中にあるので、聞くのも少し恥ずかしいが、思い切ってたずねてみた。

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 「料金がもっと安い温泉施設はありまんか」受付の男性に声を掛ける。「ここに、由布院温泉の入浴一覧表がありますから、どうぞ。確かに800円は高いですからね。だいだい500円くらいで入浴できる所が多いです。一番のお値打ちは、新町にある乙丸温泉館という共同浴場です。入浴料が100円ですから」男性は親切に場所を教えてくれた。

 車を駐車したまま、歩いて行くことにした。小さな旅館が並ぶ路地から、さらに奥へ入った所に乙丸温泉館の建物を見つけた。鄙びた感じの建物だった。町内会経営の共同浴場だそうた。「入浴料としては受け取っていません。薬師如来像の前の賽銭箱に100円を入れてください」と受付のおばあさんに言われた。賽銭が入浴料とは粋な感じである。手ぬぐいだけを持って風呂場へ行く。石鹸もシャンプーももちろん風呂にはない。それが共同浴場のシステムだ。コンクリートとの湯船が、緑色に染まっている。「由布院のお湯は緑色なのか」と一瞬思ったが、そうではなく、コンクリートが緑色に塗ってあったのだ。柔らかいお湯で、しばらく入っていたら肌がつるつるしてきた。なかなかいいお湯だった。「由布院のお湯がいいということで、人気を集めていますが、別府からもわざわざ入りに来る人がいます」とおばあさんは誇らしげに話していた。

 乙丸温泉館の入口でリュックを背負った2人の若者が話をしていた。すぐ横には自転車が並んでいる。自転車旅行をしているようだ。「すごいね。自転車で旅行しているのかい」と声を掛けた。2人とも真っ黒に日焼けしていた。2人は横浜から来た学生だった。「ぼくは、岡山からずっと走って九州へ来ました」と一人の若者が言った。「ぼくは、紀伊半島から四国へ渡り、四国を縦断して、九州へ来ました」ともう1人の若者が言った。2人は、ここで偶然知り合ったということだった。「私は、車で九州を放浪しています。明日で旅は終わります」と旅人は言った。「九州のどこが一番よかったですか」と聞かれ、「高千穂の景色か素晴らしかった」と旅人は答えた。2人は、明日は、阿蘇へ向けて走っていくということだった。冒険はやっぱり、青年の内にやらないといけないのだ。旅人が今やっていることは、やはり、手遅れのような気がした。

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 街中のスーパーで夕食を買い込み、道の駅へ戻った。売店の明かりも消え、車の台数がかなり少なくなっていた。夕食の献立は、幕の内弁当とアジの刺身だった。芋焼酎で九州最後の夜に乾杯した。明日は一路博多へ戻る。フェリーは、夜中の出航だが、それまで博多の町をぶらつき、「半落ち」の映画も見ようと思った。今晩もパソコンは動かなかった。帰ってから、旅日記を書くのが辛くなりそうだ。由布院の夜は、国道を走るトラックの響きの中で更けて行った。





[ 2013/02/09 06:57 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

春間近な九州路 放浪の旅 11

2月18日(木) 人吉市(熊本)~五木村(熊本)~通潤橋(熊本)~高千穂(宮崎)
 
 午前6時起床。少々頭が重い。飲み過ぎたようだ。シャワーを浴びに風呂へ行く。しかし、ここでトラブル。お湯のコックを開いても水しか出ない。しばらく待てば、お湯になるかと待っていたが、一向にお湯は出て来ない。あきらめて、水のシャワーで眠気を払った。やはり、この部屋はしばらく誰も泊っていなかったようだ。
レストランで朝食。作業服を来た人たちが食事をしている。皆、これから現場に働きに行くのだ。平日のホテルは、こういう人たちで一杯なのだ。のんびり旅をしているのは旅人だけのようだった。

 午前7時半出発。今から川辺川ダムへ行くのだ。国道221号線を走り続ける。車の流れは、時速80km。まるで高速道路のようだ。「宮崎自動車道の人吉方面は霧のため時速が50kmに制限されています」とラジオから流れて来る。この先で霧が発生しているようだ。えびの市から人吉市へ向かう所で、山道になった。ぐんぐん上っていく。やかで濃い霧の中に入った。ライトを点け、のろのろ運転が始まる。険しいカーブが続く山道で、しかも霧の中とは、どこか休憩所があったら休みたい。そう思っていたら、展望所のような所が見えてきた。霧が晴れるまで、待つことにした。

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 それは、突然やって来た。霧が薄くなったかと思うと、霧の隙間から眼下に広がる景色が見え出したのだ。雲海に囲まれた町並み、その雲海の向こうには墨絵のような山々の姿、見上げれば雲一つない青空。美しい風景だった。雲海に浮かぶ山並みは、霧島連山のようだ。小さな町並みはえびの市のようだった。いつまで見ていても、見飽きない風景だった。

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 峠を超え、山を下り、人吉市に到着。市役所へ行けば何か資料があるかも知れないと思い、車を走らせた。しばらくして、小さな川に沿うように、立派な櫓が見えてきた。昔、お城があった所のようだ。古風な橋を渡ると、市役所の建物が見えて来た。市役所は人吉城跡に建てられていた。

 「川辺川ダムへ行きたいのですが、どう行ったらいいでしょう」旅人は、パソコンを打っていた青年に声を掛けた。「えっ、川辺川ダムですか」青年は、少しめんどうだなという顔をしている。「場所が全く分からないのです。資料があれば戴きたいのですが」と言うと、「川辺川ダムについては、五木村の管轄ですから、五木村へ行って貰ってください。五木村への行き方は、これで分かりますかね。役場も移転していますから、この道を走っていけば分かると思います」と青年は、ガイドマップを開いて説明してくれた。この役場へ、人吉市とは管轄が違う川辺川ダムのことについて、尋ねてくる客は、招かざる客なのかもしれない。しかし、川辺川ダムについては、この町に関係があるのに、資料が何もないというのは、可笑しな話だと思った。

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 球磨川の支流、川辺川に沿って国道445号線を走って行く。人吉市内は細い道だったが、途中から立派な道路に変わった。ダム建設の資材を運ぶため、道路が整備されたのだろうか。次第に道は険しくなり、崖の遥か下に川の流れが見える。もうすぐ五木村という辺りで、大掛かりな工事をしている所に出た。峡谷が少し広くなった川原に、巨大なコンクリートの台地が見える。ダムの土台になる基礎部分を建設しているように思えた。どうやらここに川辺川ダムを作るようだ。基礎部分はすでに四箇所ほどが完成し、だんだん上の方に工事が進んでいるように見える。ダンプやパワーショベルなどが忙しそうに動いていた。「川辺川ダムの建設はまだ決まっていない。現在係争中である」と認識していたのだが、現実には、工事が着々と進められていたのだ。国家という巨大な力を見せ付けられたように思った。この谷間にダムができるのだろうが、川幅から想像すると巨大なダムになりそうである。本当にそういうダムが、今、この地域に必要なのだろうか。ダムの見直しが進む時代の流れに逆行しているように思えた。五木村は、加藤登紀子さんが言っていたように美しい村だった。

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 五木村役場に到着した。役場は、川からかなり上がった丘の上に引っ越していた。数寄屋造りの立派な建物だった。役場の周りには、駐在所や商店、民家も並び、皆、ピカピカの新築である。墓地のお墓も、皆黒光りしていた。ダムがいつ出来てもいいという雰囲気が漂っている。

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 玄関に入り驚いた。入口でスリッパに履き替えるのだ。今時、珍しいシステムである。総ヒノキの床張りだから、スリッパに履き替えてくださいというのだろうが、旅人には、まだ他にも考えがあってこうなったのではないかと思えた。「川辺川ダムの資料はありませんか」と受付の男性に声を掛けると、男性は、戸棚から幾つか資料を取り出して渡してくれた。「もう基礎工事が始まっているのですね」と旅人が言うと、「ええ、基礎部分だけは着工しています。本体については、ダム建設が決定されれば着工というとになります」と男性は説明した。役場は、川辺川ダム建設を前提にして、新しい村づくりを進めているということだった。ほとんどの家が谷底から移転して新築になり、移転に応じていないのは、あと4軒ほどというのには驚いた。五木村では、今更、ダム建設ストップということにはならないようだ。着々とダム建設に向かって何もかもが進んでいた。


 役場から、谷底を覗くと、今は人が住まなくなった建物がたくさん残っていた。学校や役場も見える。谷底へ下りてみることにした。道路はダンプが激しく行き交い、解体工事が急ピッチで進んでいた。車を走らせると、小さな公園の横に1軒の茶店を見つけた。「子守茶屋」と古風な看板が掛かり、「おみやげ」の旗が風に揺れている。営業しているのだ。移転しないで頑張っている人なのだろうか。旅人は、店のガラス戸を開けて、中へ入って行った。

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 店の奥に2人の中年の女性が座っていた。「こういう中でも営業しているのですね」と旅人はメガネの女性に声を掛けた。「ええ、まだ川辺川ダムを作るとは決まっていませんから。頑張って商売を続けています。ずっと昔からここで商売をやって来たのよ」とメガネの女性はにこにこしている。「今日は、隣の子守唄公園の人形が、突然引越して行ったのよ。本当に腹が立つわ」と、もう1人の女性が言った。「この前、テレビで加藤登紀子さんが、川辺川ダムのことを話していたから、見に来たのです。でも、こんなにダム建設が進んでいるとは、全く驚きました」と旅人は言った。「そうでしょう。私たちもびっくりしているの。どこでダムを作ると決まったのかね。でも、頑張るからね」とメガネの女性が力強く言った。「ここへ来た記念に、土産物を買って行きます」と旅人は、五木名産のお茶と、平家落人が保存食として考案したという味噌豆腐と、切干大根を買った。「これからも元気に頑張ってください」と旅人は声を掛け、茶店を後にした。

 相変わらず、道路をダンプが砂塵を巻き上げながら走っていた。騒然とした中で商売を続けていくのは並大抵の神経ではやって行けないだろう。「まだダム建設は決まっていないのに」とメガネの女性が言った言葉が心に強く残った。本当にダム建設がストップできるのだろうか。

 川辺川は、人吉で球磨川本流と合流して八代まで下り、そこで海に流れ込んでいる。球磨川は日本を代表する清流の1つである。旅人は、五木村から八代まで球磨川を下って行くことにした。来る時に見た、川辺川ダムの大規模な基礎工事が見える。やはり、ダム建設を進めているとしか思えない風景だった。人吉からは、球磨川に沿うように国道219号線が続いていた。堤防道路のような道を走って行く。その風景は、紀伊半島の熊野川に似ていた。眺めのいい所で昼食にした。今日の球磨川は水か少なく、穏やかだった。この辺りが氾濫するという理由で、ダムが作られるのだ。午後2時八代に到着。球磨川は美しい川だった。

 後で知ったのだが、川辺川ダム建設については、次のような歴史があるそうだ。
昭和38年から40年にかけて、この辺りで大洪水が起こり、防災対策からダム建設の要望が高まったという。そして昭和41年、川辺川ダム建設の計画が発表された。しかし、水没する五木村の住民からダム建設反対の声が起こり、長い裁判が続くのである。そして裁判が決着し、平成12年、水没住民の代替地への移転が始まったのだという。

 これで、ダム建設が始まりそうだったが、そこに新たなダム建設反対の声が上がったのだ。それは、五木村からではなく、洪水が起きた人吉や八代からだった。「自然を破壊し、川を汚すダムは要らない。別の方法で、洪水は防げる」という考えだった。「緑のダム構想」という考え方で、山の保水力を増すように、スギ・ヒノキの針葉樹を伐採し、広葉樹を植林しようというのだ。また遊水地なども作り、総合的に洪水が起きないようにしようという理論だ。この声は、大きく広がり、全国からも賛同の声が寄せられているという。各地で、ダム建設が中止されているが、財政難だけでなく、「自然の力で洪水を防ごう」という観点からも中止になっているようだ。川辺川では、熊本県も参加して、「川辺ダムを考える住民討論集会」が何度も開かれ、建設反対に向けて運動が大きく前進しているということだった。現実には、ダムの基礎的な部分は建設がすすんでいるのだが、本体は、ひょっとすると建設されないということになるのかも知れない。結論は、かなり先まで延びそうである。

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 八代で昼食を食べながら、これからどこへ行こうかと考えた。博多には明後日に着けばよいのだ。まだ、九州のどこかで2泊出来る。地図を開いて見ていたら、高千穂の地名が目に付いた。神話の発祥地である。ここから九州
山地を横断して行けば到着できそうだ。今日はそこで野宿しようと決めた。

 午後2時、八代を出発。国道218号線を走る。広くて走りやすい道だ。この道は、宮崎県延岡まで続いている。

 午後3時、矢部町に到着した。ここには道の駅がある。国道から少し離れた所にあるようだ。標識に従って走っていくと、目の前に大きな橋が見えて来た。どこかで見たことのある橋だった。昔、子どもたちに「江戸時代に、石をアーチのように組み合わせて、作った美しい橋」と教えたような記憶がある。教科書に載っていた橋だった。駐車場には、道の駅「通潤橋」と大きな看板が出ていた。立派な道の駅で、景色もよく、どこかの別荘に来ているような感じがした。こういう場所で野宿したらいいだろうなあと思った。

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 通潤橋の下を小さな川が流れ、鯉も泳ぎ、遊歩道も整備されていた。近くに滝もあるというので、少し距離は遠いが見に行くことにした。通潤橋で有名なのは、石橋の歴史の古さもあるが、石橋の途中に大きな穴があり、そこからの放水があることだ。石橋から放水されている風景は、圧巻だという。用水なので、灌漑のために行われるのだが、最近は、観光客の要望があれば、その景色が眺められるということだった。残念ながら、今日は見ることが出来なかった。石橋を渡り、細い山道を歩いて行くと、つり橋に出た。つり橋からは「五老ケ滝」と呼ばれる、高さ50mもある壮観な滝が見えた。通潤橋全体が広い公園になっていて、国民宿舎もあり、季節のいい時期には、たくさんの観光客で賑わっているのだろう。

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 午後4時、通潤橋を出発。少し走ると道の駅「清和文楽邑」に到着した。清和村には、伝統芸能の「清和文楽」が受け継がれているという。道の駅には専用の劇場があり、文楽が演じられているというのだが、時刻が遅く、道の駅では、片付け作業が始まっていた。高千穂はまだ遠い、道を急がなくてはいけない。

 午後5時半、道の駅「高千穂」に到着した。新しい道の駅だ。ここを今夜の寝場所に決めた。すぐ近くにスーパーがあるので、夕食を買いに行った。カンパチの刺身とうどんを買った。刺身は300円と格安だった。ガスコンロで久しぶりに熱いうどんを作ることにした。その前に、近くに温泉でもあれば入りに行こうと、道の駅で尋ねた。「ここから車で15分くらいのところに天の岩戸温泉があります」というので、少し距離は遠いが行くことにした。

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 国道から別れ、細い道をしばらく走った所に「天の岩戸温泉」があった。天照大神が隠れた天岩戸の洞窟は、ここからもう少し奥へ行った「天岩戸神社」にあるということだ。小高い丘の上にある温泉の駐車場からは、美しい高千穂の山が見えていた。夕暮れ時を迎え、山は赤く染まっていた。高千穂という地名は「高い峯が千ある」というところから付けられたのではないかと思った。鋭く尖った峯が幾重にも連なって、幻想的な風景だった。神々の発祥の地に相応しい風景だった。

 天の岩戸温泉は、混んでいた。温泉はさらりとした感じのお湯だった。入浴料が300円と格安だったのには驚いた。体も温まり、すっかり日が落ちた道を駐車場へ帰る途中、別棟から、賑やかに談笑する人たちの声が聞こえて来た。富山の上さんのことが、ふと、頭に浮かんだ。旅人は携帯電話を取り出し、上さんに電話した。「今、高千穂にいるよ。今日は、夕日が美しかった。旅はもう少しで終わる。明後日には、博多から船に乗るから」と旅人が話すと、「元気ならいいわ。旅を楽しみなさい」上さんからは、そっけない返事が返って来た。相変わらず、上さんは、仕事に振り回されているようだ。

 道の駅へ戻り、熱々のうどんを作り、いつものように車の中での夕食が始まった。道の駅の売店は、明かりがすっかり消え、停車している車も少なく心細い雰囲気だ。刺身は新鮮で美味しかった。熱々のうどんもなかなかの味だった。ラジオからは「鳥インフルエンザのニワトリが大分県で見つかりました」というニューズが流れている。明日は、延岡から別府に向って走ることに決めた。いよいよ大分県に入る。大分県で鳥インフルエンザ発生とは、ひょっとしたら思いがけない場面に出くわすかも知れないなあと思った。

 酔いも回り、寝袋を引きずり出した。野宿の夜は、飲み潰れて早く寝るに限る。出発の時に意気込んでいた「旅をしながら、パソコンを使って文章を書く」という構想は、今日も出来ないまま、深い眠りに引きずり込まれた。神々が眠る高千穂の夜空に、満天の星が輝いていたことを、旅人は知る由もない。


[ 2013/02/08 06:53 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

春間近な九州路 放浪の旅 10

2月17日(火) 枕崎(鹿児島)~指宿(鹿児島)~知覧(鹿児島)~小林(宮崎)

 車の動く音で目が覚めた。寝袋から這い出すと、明かりを点けたフォークリフトが旅人のすぐ横を走っていた。鉄の籠を運んでいる。時刻は午前4時だった。荷揚げ埠頭の倉庫のような所に車を停めたのだが、まさかここで作業が始まるとは考えていなかったのだ。「おい、お前、どこへ車を停めているのだ」と叱られそうだ。旅人の慌てふためいた様子は、さぞかし滑稽だっただろう。寝ぼけ眼でエンジンをスタートさせ、アクセルをブレーキと踏み違え、大きなエンジン音を響かせて車を発車させるのだった。


 後で分かるのだが、旅人が野宿した場所は、枕崎市営漁業協同組合の荷揚げ埠頭だったのだ。雨でも作業できるようにと、屋根があり、フォークリフトやベルトコンベアーなどもきちんと整備されていたのだ。そこで野宿していたのだから、まかり間違えば、不法侵入罪に問われても文句は言えない。

 旅人がそこから立ち去ったかと言うと、そこが旅人らしく、車を荷揚げ埠頭の駐車場に停め、この後の作業を見守ることにしたのだ。この様子を読者に届けるため、記事にしようというのだ。

 午前5時、荷揚げ埠頭で動くフォークリフトが4台になる。ベルトコンベアーを移動したり、大きな鉄の籠を配置したりしている。相当大きな船が入港する雰囲気だ。

 午前6時、乗用車が3台、荷揚げ埠頭横の駐車場にやって来た。白い手ぬぐいを頭に巻いた若者が3人下りて来た。談笑している感じだ。

 午前6時15分、車が続々やって来る。台数は30台近い。通勤ラッシュの雰囲気だ。「今から作業が始まるぞ」という雰囲気が漂っている。

 午前6時30分、全員が整列し、朝会が始まった。総勢50人は超えている。監督らしい人が、今日の作業の指示をしている。朝会が終わり、車に戻る人、集まって談笑する人、作業服に着替える人など、みな様々である。とにかくまだ船は入港していない。皆、船の入港を待っている。

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 午前7時15分、大きな船が入港してきた。「PANAMA」と船体に書いてある。ブリッジに髭モジャの外国人の顔が見える。

 午前7時20分、船が埠頭に横付けした。待機していた20人くらいの男たちが、大きな木槌やデッキブラシを持ち、船に乗り込んで行く。デッキブラシは船内を掃除するために必要だが、木槌はなぜ必要なのか旅人には分からない。

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 午前7時30分、船のクレーンが動き出し、船底から大きな網が上がって来る。網の中に入っているのはカツオだろうか。ベルトコンベアーも動き出し、大きな魚がコンベアーの上を流れて行く。コンベアーの横では、巻尺を持った男たちが、魚の長さを測って選別し、大きな鉄籠に魚を投げ入れている。鉄籠の中を覗くと、カチカチに凍ったカツオが入っていた。日頃見ているカツオとは比べ物にならないほど大きかった。船に乗り込んで行った男たちが担いでいた大きな木槌は、「冷凍されたカツオを叩きはがす道具だった」ということに、その時気付いた。船からは、カツオだけでなく、巨大なマグロも上がって来た。船底の寒い冷蔵庫の中では、男たちと魚の格闘が続いているのだろう。

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 午前7時45分、作業は本格的になり、船のクレーンが何台も動いている。フォークリフトが、魚で一杯になった鉄籠を大型トラックのコンテナに積み込んでいる。大型トラックは、コンテナに鉄籠が一杯になると、走り去って行った。トラックは、魚市場へ行くのか、それともどこかの加工工場へ行くのかここでは分からない。枕崎で水揚げされたカツオやマグロが全国へ送られて行くのだ。遥か九州の枕崎から全国へ送られて行くのかと思うと、不思議な感じがする。(以上)

 午前8時過ぎ荷揚げ作業が続く埠頭から、魚市場へ行った。すぐ横に大きな食堂があるので、朝食はそこで食べることにした。食堂のテーブルは結構混んでいて、作業服を来た男たちが食事をしていた。刺身定食とか焼き魚定食とかメニューはあるが、日替わり定食が配膳台には並んでいる。それを注文した。塩サバとご飯と味噌汁が付いて400円だった。「納豆や卵、海苔、煮物がそこにありますから、好きなだけ食べてください」とおばさんが言った。湯飲み茶碗が並ぶ所に、納豆等が並んでいた。格安の朝定食だった。食堂は大忙しである。次から次にお客さんが入って来る。皆、ここで働いている人たちだ。旅人のような気楽人間はいないのだ。

 食事を終え、外へ出た。魚市場はトラックやフォークリフトが激しく出入りしていた。魚市場の床には、マグロやカツオが、ずらりと並んでいるのだろう。「仕事の邪魔をしちゃいけない」いつもとは少々違った気分になっていた旅人は、魚市場の見学を止め、開聞岳に向けて車を発車させた。

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 枕崎から海岸道路を快調に走って行く。空は晴れ渡り、雲一つない上天気である。行く手に円錐形の美しい山が見えて来た。標高924mの開聞岳である。薩摩富士とも呼ばれている通り、富士山と形がよく似ている。山頂まで徒歩で、2時間半ほどで行けるという。畑には黄色い菜の花が咲き、春真っ盛りだった。

 開聞岳から指宿温泉へ行った。この辺りを巡る観光コースだ。指宿温泉は、砂むし温泉として有名な温泉である。大きなホテルの前で停車すると、若い女性が車の所へ近づいて来た。「温泉にお入りですか」とその女性が言った。「ここには、日帰り温泉のような施設はないのですか」と旅人が言うと、「ああ、それなら、もう少し行きますと、市営の砂むし温泉がありますから、そちらへどうぞ」と女性は親切に教えてくれた。

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 市営砂むし温泉の入浴料は900円。高い入浴料である。受付で、温泉の入り方について説明を受ける。「更衣室で下着を全て脱ぎ、浴衣に着替えてください。それからタオルだけを持って海岸にある砂むし温泉へ行ってください。そこに係りの者がいますから指示に従ってください。入浴が終わりましたら、ここへ帰ってください。シャワーをしっかり浴びた後、お湯にお入りください」砂むし温泉に入るにも順序があり、それをしっかり守らなければいけないのだ。

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 浴衣に着替えて、海岸へ行くと、砂浜に囲いが作ってあるのが見える。そこが温泉のようだ。囲いの中へ入ると、人が砂の中に顔だけを出して埋まっている。まさに砂蒸しである。スコップを持った青年が、「どうぞここへ仰向けに寝てください」と、少し穴のようになった砂場を指差している。そこに寝るらしい。タオルを頭に巻いて、横になった。背中から熱が伝わって来る。「だいたい10分くらいだと思います。熱いようでしたら、言ってください。砂をどけますから」と青年は入り方を説明し、砂を掛け始めた。やがて、旅人は顔だけ出して、砂の中にすっぽり埋められた。「結構熱いですね」と青年に話し掛けた。「地面のすぐ下までお湯が来ているのです。もう少し潮が引けば、砂浜でも入ることが出来ます。砂浜を歩いていて、火傷することもあるくらいです」青年は詳しく説明してくれる。足や手の指先が脈を打っているのが分かる。砂で圧迫されているからだ。生きているという実感がした。「この温泉は体にいいということで、毎日通ってくる人もいます。そこのおじいさんもよく見えます。今年、92才でしたか。だいたい1日900人くらいですかね」青年は、楽しそうに砂をかけながら、話してくれた。

 体も温まり、砂から出て、更衣室へもどった。そこで、浴衣を脱ぎ、シャワーを浴び、砂をきれいに落としてから、風呂に入った。ここは、砂むし温泉と、普通の温泉と両方が楽しめるのだ。入浴料の900円は、浴衣の洗濯代が含まれているから高いのだと理解した。帰りに、海岸の砂浜を歩いてみた。砂浜のあちらこちらから湯気が上がっている。「火傷をすることもありますよ」と青年が言ったことは本当のようだ。指宿温泉は、自然の神秘さを感じさせる温泉だった。

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 指宿から知覧へ車を走らせる。知覧は、戦時中、特別攻撃隊が出撃した基地のあった所だ。高倉健の映画「ホタル」を見てから、行って見たいと思っていた。地図で見ると、「知覧特攻平和会館」という建物がある。そこを目指して車を走らせた。海岸線から離れ、小高い山が続く所を走って行く。知覧飛行場は山の中にあったようだ。やがて、大きな公園に到着した。飛行場があった所だという。その中に「知覧特攻平和会館」はあった。

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 平和会館へ続く遊歩道は、観光客で溢れていた。この人たちの多くが、複雑な気持ちでこの道を歩いているのだろう。つい先日、戦闘が続いているイラクへ自衛隊員が派遣されたのだ。戦争は、ずっと昔に終わったはずなのに、再び日本が戦争に参加しようとしているのだから。

 「特攻平和会館」には、戦争に命を投げ出して行った若者たちの遺書や遺影や遺品、記録等が展示されていた。館内は厳粛で、見学する人の歩みは遅い。展示されている遺書や遺品を一つ一つ見て行くからだ。旅人も同じように見て行った。驚いたのは、どの遺書も、見事な字で書かれているのだ。難しい漢字で綴られている遺書もある。死んで行った若者たちが、如何に優秀だったかを証明していた。ハンカチを手に、涙を拭きながら、立ち止まっている女性の姿もある。

 生々しいゼロ戦の残骸も展示されていた。ビデオで、出征する特攻兵の姿や、撃ち落されるゼロ戦の映像が流されている。映画「月光の夏」の主題になったピアノも飾ってあった。ここから出撃して行った1036人の若者たち一人一人の遺影は、あまりにも残酷だった。「二度と戦争を繰り返してはいけない。犠牲者は自分たちだけで十分。世界が平和でありますように」と、遺影は訴えていた。

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 会館の玄関の所に、特攻兵と母親の像が立っていた。ベンチに座って眺めていると、そこへ写真屋さんが近づいて来た。「商売は儲かりますか」と声を掛けると「この時代でしょう。写真屋の職業は難しくなりました」と、写真屋さんは、アガッタリという表情だった。「特攻兵と同じように自衛隊が戦場へ行ってしまって、大変な時代になりましたね」と旅人が言うと、「二つ目の特攻会館はいりません。特攻会館はここだけで十分です」と写真屋さんは怒っていた。「平和への祈り・・・新たに」と訴える「知覧特攻平和会館」の存在意義を認識した旅になった。

 時刻は午後1時、これからどこへ向かおうか。旅人は、また行く先を見失っていた。「知覧はいいよ」と言われて来たのだが、その先のことは考えていなかったのだ。取り合えず、鹿児島へ向けて車を走らせることにした。鹿児島には櫻島がある。フェリーで渡って見学することも出来る。その後、大隈半島へ行ってもいいかも。そんなことを考えながら、車を走らせた。鹿児島市内に近づくに連れて、車が多くなり、車線が広くなり、いやな都会の道になった。渋滞も始まり、旅人は、早くこの町を抜け出したい気持ちになっていた。「宮崎」という標識が見える。桜島へ渡ることは止め、そのまま走り続けることにした。そして、しばらくして混雑した道路から解放された。

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 右手に美しい海を見ながら走っている。美しい海は錦江湾である。その向こうには櫻島が見える。頂上は雲が掛かっている。現在も噴火しているから、雲ではなく火山の煙かも知れない。穏やかな風景だった。何年か前に、この景色を列車から見たことがある。「青春18きっぷ」で旅行した時だ。あの時は桜島へ渡り、展望台から桜島が噴煙を上げているのを見た帰りだった。美しい錦江湾と噴煙を上げる荒々しい櫻島の風景が強烈に残っている。

 このまま国道10号線を走り続ければ、宮崎に行くのだが、目的地がはっきり定まらない。これからどこへ行くのか、少し時間を取って考えることにした。旅に残された日数はあと3日だった。今回の旅は、川辺川ダムの話を聞いたことから始まった。しかし、まだ、五木村へは行っていないのだ。気ままな旅をしているので、月日の感覚が鈍っていたのだ。今後の日程を考えると、明日は、五木村に行かなくてはいけないのだ。「明日は、五木村の川辺川ダムを見に行く」ようやく目的地が定まった旅人だった。目指すは一路、五木村である。

 鹿児島県から宮崎県都城市に入った。ここから五木村に向けて、国道221号線を走って行く。このまま走りつづければ五木村の近くまで行ける。しかし、時刻は午後4時を過ぎていた。どこかで宿を見つけなくてはいけない。下着の替えがもうなくなっていたのだ。今日は、洗濯をするために宿へ泊る。「洗濯は、宿でする」という前回の旅のパターンを繰り返すことになった。洗濯代は高くつく。

 「小林市」という道路標識がある。どこかで聞いた名前だった。しばらく考えていて思い出した。高校駅伝で強い学校の名前が「小林高校」だった。これも何かの縁と、小林市で宿を見つけことにした。「JR小林駅」という案内板を見つけた。駅前にはホテルがありそうだ。予想通り大きなホテルがみえる。シティホテルのようだ。駐車場に車を停め、フロントへ行く。「1人ですが、泊れますか」と受付の男性に言った。「今日はあいにく満室です。申し訳ありません。この裏に、プラザホテルがありますから、そちらで聞いてください」受付の男性は申し訳なさそうに言った。小さい町では、平日の方が部屋を確保するのが難しいのだ。

 教えてもらったプラザホテルへ行った。「お一人様ですか。シングルではありませんが、和室なら空いています。よろしいですか」とオールバックの髪型の女性が言った。このホテルの支配人か経営者のようだ。1泊2食付きで、1万円だった。地方にしては高い料金だと思った。案内された部屋は、広い和室だった。4人が十分に泊れそうな広さである。しかも、トイレも風呂も別棟にあるのだ。ゆったり休めそうだが、照明が半分故障していた。日頃は使わない部屋なのかも知れない。

 無事、部屋も確保でき、風呂に入り、早速洗濯をした。エアコンもあるので、明日までには乾きそうだ。午後6時半、夕食にレストランへ行く。焼酎を頼んだ。九州は焼酎の本場である。「明月」という焼酎を頼んだ。柔らかい感じの芋焼酎だった。フルコースの料理が運ばれた。刺身、煮物、焼き魚、茶碗蒸などそれなりの料理だった。

 まだ少し飲み足りない旅人だった。ホテルを出て、小林の町を歩き出した。幹線道路からそれ、閑静な住宅街を歩いて行る。賑やかな所とは反対の方角へやって来たようだ。引き返そうと角を曲がると、赤提灯がぶら下がっていた。こんな所にも飲み屋があるのだと驚いた。小さな居酒屋だった。丸椅子が十個ほど並んでいる。ママさんとおばあさんが話している。お客さんがおばあさんとは驚く。

 「隣のホテルにお泊り」とママさんが言う。「いえ、駅前のプラザホテルです。どこかに飲み屋がないかと探していて、ここを見つけたのです」と旅人は言った。「プラザホテルは高いでしょう。隣なら、半分くらいで泊れるのじゃない。仕事ですか」とママさんが聞く。「いえ、旅行です。富山からやって来ました」と旅人は話した。「富山から来たの。薬屋さんじゃないの」とおばあさんが言った。ここでも、「富山」と聞けば、「薬売り」を連想するようだ。棚に焼酎の瓶がずらりと並んでいた。美味しい焼酎を注文すると「霧島」の水割りが出て来た。少し甘味のある芋焼酎だった。

 話題は旅の話で次第に盛り上がっていった。これも旅人が仕掛けるからそうなるのだろうが、人は皆、旅に憧れているのだ。明日行く「五木村の川辺川ダム」の話をすると、ママさんは、奥から地図を持って来て、「平家の落人伝説が残る五家荘へ行くといいよ」と目をキラキラさせていた。焼酎のお代りをした。「おごりだよ」とおばあさんが、「木挽き」の水割りを勧めてくれた。これも芋焼酎だった。話は、ママさんの身の上話になった。

 3年ほど前に旦那がなくなり、小さい子どもを抱え、生きる希望を失いかけていたという。自殺を考えて線路を渡ろうとしたこともあったという。そんな時に、このおばあさんと偶然知り合い、いろいろ助けてもらったのだという。そして、生きる希望が持てるようになり、2年前、思い切って自分の家を改造し、飲み屋を開いたのだという。閑静な住宅街に不似合いな飲み屋と感じたのは、そういう経緯があったのだ。

 閑静な住宅街だから、トラブルもあったという。飲み屋ということで、周りから総スカンを食らった話は強烈だった。「1年ほどは大変でした。泣きたくなるようなこともありましたが、そんな時、おばあさんが相談のってくれて励ましてくれました。ようやく常連客もできて、何とか暮らしていけるうになりました」ママさんは見も知らぬ旅人に本音で語っている。「見も知らぬおばあさんに命を助けられ、それからもずっと心配して今日のように飲みに来てくれるのです。今では、自分のお母さんのように思っています」ママさんは目を潤ませていた。涙が出そうな話だった。「料理が下手で、料理屋らしいものが出せないよ。しっかり勉強しなさいと言っているのよ」と、おばあさんは笑っていた。旅人は、温かい人情話を土産に、ホテルへ帰って行った。


[ 2013/02/06 10:03 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

春間近な九州路 放浪の旅 9

2月16日(月)天草(熊本)~枕崎(鹿児島)

 午前4時、物音で目が覚めた。まだ辺りは真っ暗だ。寝袋から這い出し、目を凝らして見ると、人が車の近くで動いていた。おじいさんだった。軽トラの荷台から、箱を下ろしているのだ。どうやら今から漁に出るようだ。すぐ前の小さな船には明かりが点いている。よく見ると、もう一人動く人がいた。おばあさんだった。ロープを一生懸命引っ張っている。今から船に乗ろうというのだ。老夫婦で仲良く仕事をしている。やがて、2人を乗せた小さな船は港を出て行った。漁師の仕事は早いのだ。

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 午前6時過ぎ、老夫婦の船が帰って来た。短時間で漁は終わったようだ。どんな魚が獲れたのだろう。見に行くと、二人は手ぶらで下りて来たのだ。獲物らしいものは何も持っていなかった。「何も獲れなかったのですか」と声を掛けると、「獲物は向かいの漁協へ置いてきたよ」とおじいさんが教えてくれた。「魚が見たけりゃ、漁協へ行くといいよ。市は7時からだよ。しかし、大した魚はいないけどね。」とおばあさんは笑っていた。

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 午前7時過ぎ、対岸にある漁協の魚市場へ行った。たくさん魚が見られると期待していたのだが、フロアには白い箱が10箱ほどしか並んでいなかった。箱の中を覗いてさらにがっかりした。どの箱にも魚が2、3匹しか入っていないのだ。「大した魚はいないけどね」と、おばあさんが笑っていた通りだった。しかし、大きなヒラメやタイも何匹かいた。この中のどれかが、あの老夫婦の獲物なのだろう。

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 大きな水槽がある。中を覗くと、面白い形のエビがいた。アミエビというのだろうか。その他イセエビやアワビなどもいたが、数は少なかった。やがて取引が始まった。立会人は僅かに5人。寂しい魚市場だった。これでは、漁師は食っていけないなあと思った。
大江漁港から少し行った所に崎津天主堂という教会があるので見に行くことにした。海から見た教会の風景が素晴らしいという。

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 崎津の町へ入る所で素晴らしい風景に出会った。港の海面から霧が立ち上っているのだ。その霧は風に吹かれてゆっくりと流れ、港に浮かぶ漁船がその霧の中に浮いているように見えた。幻想的な風景だった。

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 小さな駐車場に車を停め、狭い路地を歩いて行った。路地の突き当たりにゴシック様式で建てられたという崎津天主堂が聳えていた。昨日見た大江天主堂は白が基調で、明るい感じのする教会だったが、崎津天主堂は、全体が灰色で、重々しい感じのする教会である。広場に遊具が並んでいる。教会の隣に幼稚園が併設されているようだ。
「自由にどうぞ」という案内が、扉に貼ってあるので、教会の中を見学させてもらうことにした。室内はひっそりしていた。礼拝は毎日行われるのだろうが、まだ時刻が早過ぎるのだ。正面に祭壇があり、その上にキリスト像が奉られている。ステンドグラスの窓からは柔らかな光が差し込んでいた。旅人は、椅子に座って案内のパンフレットに目を通した。そこには、キリシタンの歴史が紹介してあった。

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 「フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えてから17年経った1566年、ルイス・デ・アルメイダが、天草に来て布教を始めたのが、天草でのキリスト教の始まりである。江戸幕府が成立し、徳川家康はキリシタン禁止令を出した。幕府は、この地で起こった天草・島原の乱をキリシタンの政治的反乱として宣伝し、キリシタン禁制を強化し、鎖国を強行した。その後250年間、キリスト教信者は厳しい統制下に置かれることになった。」と説明があり、さらに「崎津教会は、江戸時代に、信仰弾圧の場所であった庄屋屋敷跡に建てられたもので、祭壇のところが、踏絵の置かれていた所である」と書いてあった。歴史的にも由緒ある場所に、この教会が建てられているのだった。この崎津にもたくさんの信者がいるのだろう。

 「チャペルの鐘展望公園」という見晴らしのいい場所があるというので行ってみることにした。お宮さんを通り抜けると、急な階段が、丘の上に向って延びていた。公園は丘の上にあるようだ。上っていくと、途中の階段で、一生懸命掃除をしているおじいさんに出会った。「おはようございます」と声を掛けられた。「清掃奉仕ですか。ご苦労様」と挨拶を返すと「これをやらないと気持ちがさっぱりしませんわ」とおじいさんは汗をぬぐいながら言った。階段の上にもお宮さんがあり、そこまで、掃除をしていくのだという。「ここは漁師の町だから、お宮さんには海神様が奉ってあるよ。階段は全部で520段だから、頑張って上っていきなさい」とおじいさんから励まされた旅人だった。

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 きつい階段を上り詰め、ようやく展望公園に到着した。公園には、巨大な十字架のモニュメントが建てられている。崎津天主堂というシンボルからイメージしたのだろう。コンサートができるようなステージも作られ、椅子が並んでいる。ここへ来てコンサートを聞くには、階段でだいぶ汗を流さないといけないだろうなあと思った。景色は抜群だった。眼下には青い海が広がっていた。崎津の町並みや港が小さく見え、その中に、先ほど行った天主堂の屋根が高く聳えていた。天主堂はこの町のシンボルだと思った。

 「崎津天主堂とその周辺の渚の風景は素晴らしい」とパンフレットに紹介があり、港の対岸から写した写真が載っている。対岸へ行ってみることにした。朝方見た港の霧は消え失せていた。埠頭の端の方で、おばさんが魚を網に並べている。アジの干物を作っているようだった。大江漁港ではアジの姿を一匹も見なかったのに、この崎津漁港には、アジが上がったようだ。

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 小さな公園があるので、そこに車を停めた。パンフレットに紹介のあった写真は、この公園から写したものだった。町並みの中に教会の屋根がひときわ高く聳えていた。美しい風景だった。
 この公園で、朝食を食べることにした。といっても、朝食は今から作るのだ。ガスコンロを引っ張り出し、小さな鍋に水を入れ、点火した。献立は、卵、ネギ入りインスタントラーメン。手馴れた手つきで調理した。通る人は、「ホーレスのおっさんが、食事をしている」という風景に見えただろう。

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 ラーメンを食べていると、そこへおばあさんが、リヤカーを引いて通りかかった。リヤカーには魚を積んでいる。魚を行商して歩いているようだ。物珍しさもあって旅人は覗きに行った。

 箱の中には、魚がぎっしり詰まっていた。アジが多いが、カワハギやタイもいる。「美味しそうなアジですね」と声を掛けた。「そうでしょう。今朝獲れたものだから、生きがいいよ。お兄さん買わないかい。安くしとくよ。アジ8匹で500円だよ」おばあさんは元気な声で言った。富山弁で言うと「キトキトのアジ」ということになるのだ。「昼か、夜に調理して食べればいいかな」と旅人は思った。「旅をしてるから、そんなにたくさんはいらないよ。2匹ぐらいならいいかな」と言うと「じゃあ、200円だね」と2匹を袋に入れてくれた。少し計算が合わない感じがしたが、お金を払った。

 そこへ箒を持ったおばあさんがやって来た。公園の掃除にやって来た人のようだ。「美味しそうな魚がいるかい」と、そのおばあさんも魚を覗きに来た。行商のおばあさんとは顔馴染のようだった。「アジが8匹で500円だよ」とアジを勧めている。掃除のおばあさんは、アジを8匹買った。そこへ、また別のおばあさんが通りかかり、やがて、リヤカーの周りで井戸端会議が始まった。のどかな漁師町の朝の風景だった。

 朝食を終え、食器を片付けていると、そこへ1人のおじいさんが近づいて来た。「朝食は美味しかったかい」とおじいさんが声を掛けて来た。「インスタントラーメンですから、知れてますわ」と旅人は笑っている。「車で旅行しているのかい。富山ナンバーだから、富山から来たのかい」おじいさんは旅人に興味がある様子だ。「九州を一周しようかと思っているのですが」と旅人が話す。「気ままな旅をしているのだね。うらやましい。わしも若い頃、10年近く神奈川に住んでいたことがある。休みの日はあちこち見て周ったが、今は息子夫婦とここで生活しているよ。ここはのんびりしていて、いい所だよ」とおじいさんは言った。

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 おじいさんは年齢が82才、今も現役の漁師だった。「魚が獲れなくなってねえ。港に停まっている船が多いだろう。油代も出ないから、皆、休業状態さ。隣の大江漁港は大きな定置網を持っているけど、この崎津は、海岸に漁業権がないから、定置網がないのだ。みんな一本釣りが中心さ。魚が少なくなって困っている。若者も漁師では生活できないから、どんどん離れて、都会へ行ってしまった。老人ばかりが多くなってね」おじいさんの話は深刻だった。「私の楽しみはやっぱり魚釣りさ。今日もこれから船を出そうと思っているよ。そういえば富山はブリの名産地だったね。去年、私はブリを10本ほど釣ったよ。」おじいさんは、去年釣ったブリの大きさを手で表しながら、自慢そうに言った。魚釣りが好きで堪らないおじいさんだった。おじいさんの元気は、魚たちから貰っているのだろう。

 「この先の牛深の町に温泉があるから、入って行くといい。その後、牛深港からフェリーが出ている。それに乗って長島へ渡り、一気に鹿児島まで走れば、夕方には着けるよ。枕崎から開聞岳を見て、指宿を周るコースは素晴らしい」おじいさんから、旅のアドバイスも貰い、手を振るおじいさんを後に、崎津港を出発した。いろんな人との出会いがあり、楽しい思い出になった。これだから旅はやめられないのだ。

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 牛深市温泉センターで風呂に入った。大きな風呂は旅人が独り占めだった。休憩室で市民絵画展を開催していた。牛深港にある橋がテーマになっていて、どの絵にも大きな白い橋が描かれていた。牛深港には立派な橋があるようだ。展示されていた作品は、水彩画が多く、精密に描いた作品が上位に入選していた。確かに上手な絵だった。しかし、味わいはあまり感じられない。絵画は上手だけではいけないのだ。旅人も絵を描き始めて3年が過ぎた。少し風景が描けるようになってきたが、味わいのある絵はまだまだだった。最高賞の作品は、牛深港の橋を背景にして、大きなイカが干してある作品だった。筆遣いも大胆で、ユーモアを感じさせる作品だった。やはり大賞になる作品だと思った。

 牛深港に到着。フェリーは1時間に1本はある。午後1時半発のフェリーに乗ることにした。近くのコンビニで昼食を買い、港が見えるところで食事にした。港にはたくさんの漁船が停まっていた。漁船だけでなくフェリーや観光船の出入りもあり、活気が感じられる港だった。巨大な白い橋が前方にある。大きくカーブしたラインが白く輝いている。牛深ハイヤ大橋という全長833mのアカデミックな橋だった。

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 午後1時半、フェリーに乗船した。料金は1830円。近い距離を結ぶフェリーの料金としては手ごろな値段だった。牛深港からは10台ほどの車が乗船しただけで、船内はガラガラだった。フェリーは静かな海ゆっくり進んで行った。 地図を開いて、この先のことを考えた。蔵之元港から枕崎まで距離にして100kmほどだった。九州南端、枕崎まで、おじいさんのアドバイス通り、行ってしまおうと思った。今晩は、枕崎辺りで野宿することになりそうだ。

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 蔵之元港に到着。鹿児島県に入った。夕方には枕崎に到着したいものだ。鹿児島という標識を目印に出発した。しばらく走ると、道の駅「長島」に到着した。道の駅には、巨大なザボンが置いてあった。一つ500円。鹿児島は巨大なザボンができるのだ。

 長島町を出た所で、国道3号線と合流した。北九州から鹿児島へ九州を縦断する1級国道である。さすがに車が多い。それからは大型トラックやトレーラーに挟まれて走ることになった。阿久根市、川内市、初めて名前を聞く地域を過ぎ、串木野市へ入った。峠に差しかかる所で、突然前の大型トラックが狭い道路を、右に行ったり左に行ったりして、蛇行し始めた。「居眠り運転!」と思った。やがて、トラックは次第にスピードを落とし、停車した。「何が起こったのだろう?」と思っていると、トラックの横で子犬がよちよち歩いているのだ。トラックの運転手が、国道を歩く子犬を避けようと奮闘していたのだ。子犬は、無事安全な歩道に上り、トラックは、走り出した。トラックが子犬を無視して走れば、轢殺されていただろう。運転手の優しさが伝わって来る光景だった。

 午後4時、道路標識に「鹿児島」という名前が、頻繁に見えるようになった。鹿児島市まであと20kmほどだ。枕崎へは、ここで国道3号線と別れ、国道270号線を走ることになる。ガソリンが少なくなってきたので、スタンドに寄る。「お客さんは、富山から来たのですか。富山の薬売りですか」と店員は笑いながら言った。「富山」と聞いたら「薬売り」を連想する人が多いようだ。「枕崎までは1時間半ほどですね。開聞岳や指宿へ行かれると景色がいいですよ。知覧も見られたらどうですか」と店員は観光コースを教えてくれた。

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 午後5時半過ぎ、枕崎の突端「火之神公園」に到着した。夕暮れ時を迎えていた。空は次第に青色から紫色に変わりつつある。紺碧の海と紫色の空と、海岸近くにそそり立つ巨大な黒い岩礁が素晴らしい風景を造っていた。遥かかなたの水平線には、富士山のような形をした山が薄っすらと見えている。開聞岳だった。日が沈むまで、その景色の美しさに見とれていた。枕崎は美しかった。

 今夜の野宿の場所は、枕崎港にした。最近の旅人は、港で野宿することが多いようだ。海の風景が好きなのだろう。

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 枕崎港は全国でも有数の遠洋漁業の基地である。港には大きな魚市場、魚の荷揚げ埠頭、冷蔵施設や加工工場などの施設があった。公園も幾つかある。さすがに全国有数の漁港に相応しく巨大だった。それだけたくさんのカツオやマグロが水揚げされているということだ。

 旅人の車は、荷揚げ埠頭の片隅に停車している。周りには、大きな鉄の籠やベルトコンベアー、フォークリフトなどが置いてある。屋根のある倉庫という感じの場所だ。隣に駐車場もあるが、寝場所としてはこちらの方がよい。もうすっかり日は沈み、辺りは真っ暗である。枕崎の海岸で、海の美しさに見とれていて、この時間になってしまったのだ。懐中電灯の明かりを頼りに、魚の調理を始めた。天草で仕入れたアジだ。旅に出ることはしばしばあるが、旅先で魚を料理するのは初めてだった。暗闇で包丁を取り出し、魚を切り始めたのだが、包丁が切れないのだ。この包丁は、以前、苫小牧のスーパーで、100円で買ったものだった。やっぱり100円の品物だった。それでも何とか魚を切り開いた。鍋を取り出し、醤油とみりんで味付けをし、魚を煮た。やがていい臭いが漂い始めた。アジの煮付けは完成した。

 暗闇の中での夕食が始まった。献立はアジの煮付けとコンビニ弁当。アンバランスな献立だ。ビールを飲みながら食べたアジの煮付けは、今一だった。アジのウロコがきちんと取れていなかったのだ。やはり、切れない包丁で、しかも暗闇での調理はよくないようだ。それに比べ、コンビニ弁当の美味しかったこと。片付けは明日に回し、寝床を作った。空には数え切れないほどの星が輝いていた。枕崎の夜は静かに更けていった。


[ 2013/02/01 06:44 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)
プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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