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水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

団塊世代の親父のブログです。
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神通峡かいわいの昔ばなし  その15   尾萩野の首なし地蔵さん  富山市小糸

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その15   尾萩野の首なし地蔵さん  富山市小糸

はじめに
しょうわ 30ねんだい、 こめづくりを しやすく するために、 すいでんの こうちせいりが ありました。 おおきな きかいが はいり、 れんじつ たいへんな さぎょうが おこなわれました。 のぼとけの さとの ほとけさまたちも だいいどうして、 せいりされた ころの おはなしです。
ちょっと むかしに あった おはなしですが、 「おはぎの」と いう ところで、かいたくが はじまったころの ことです。 そのころの 「おはぎの」は、ひと ひとりが ようやく とおれる くらいの ほそい みちでした。
みちの まがりかどに じぞうさんたちが ならび、 くさが のびると じぞうさんたちを めあてに あるいた ところです。
そんな のどかな ふうけいが ひろがる 「おはぎの」だったのです。
「おはぎの」では、 よっつの むらの ひとたちが あつまり、 はたけしごとに ごぼうやら にんじんなどをつくり、 ちかくの むらへ うりにいって、 こずかいかせぎを して くらして おりました。
いちめんに くわのきが あり、 かいこさまを はる、 なつ、 あきと さんかいも かいました。
かいこさまからは まゆを とり、 その まゆから、 やわらかい きぬのいとを とりました。
そのころの こどもたちは おやつも ないので、 がっこうが おわると、 いそいで はたけへ いって、 おやつがわりに くわのみを くちのまわりが むらさきいろに そまるくらいに たべたものです。それが なによりの たのしみの ひとつでした。
そんな 「おはぎの」に だいじけんが おきました。 その くわばたけを おこし、 たんぼにして こめを つくることに なったのです。
あるひ、ブルドーザーが はいって きました。 おおきな おとで、 ガアー ガアー。 ゴロゴロ ゴロゴロ ゴロゴロゴー。
むらの ひとたちは おどろき、 いそいで おじぞうさんたちを すこし はなれた やまての ばしょへ うつしました。
それから しばらく こうじが つづき、 すこし たいらな ところが できたので、 むらの ひとたちは あたらしい たんぼを つくる しごとを していました。
すると、 くわのさきに カッチンと あたる まるい いしに、 おばさんは びっくり!
ほりおこして みて、 おばさんは にど びっくり!
「ありゃ りゃ りゃ! これはたいへん! おじぞうさんの あたまかも しれんよ!」
くさのなかに あった おじぞうさんが、 こうじのときに ブルドーザーに とばされたのかも しれません。
おばさんは、 まわりに どうたいが ないかと、 あっちこっち さがしました。 ありました! くびのない おじぞうさんが、 みつかりました。
あたりを キョロキョロ みわたすと、 いっしょに しごとを していた おじいさんが みえました。
よぶと、 おじいさんも とんできて びっくり!
「これは これは もったいない。 おじぞうさんの あたまは、 おれが つけてやろう」と おじいさんは、 たいせつに いえに もちかえりました。
きれいな みずで あらって みると、 なんとも かわいい おかおの おじぞうさまでした。  
おじいさんは ていねいに コンクリートを ねり、 あたまと どうたいを つけてあげました。
しばらくして、 もとの すがたに もどった おじぞうさまを、 きれいになった だいちに そっと かえしてあげました。
やはり、 もとの だいちが うれしいのか、 おじぞうさまは、にこやかな すがたになり、 しずかに てを あわせて いらっしゃいました。
それからのち、 ふしぎなことがおきました。
ながいあいだ あたまが いたくて おばさんは こまって おりましたが、 もとの すがたに なられた おじぞうさまの おかげで、 ずつうが すっかり なくなりました。                                  おしまい
      民話出典  「下夕南部野菊の会  紙芝居」より

゛神通峡かいわいの昔ばなし  その14  赤池の大蛇  富山市東猪谷

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その14  赤池の大蛇  富山市東猪谷

むかし、むかし、そのまた むかし。おおかわの おくの ほうに ちいさな むらが あって、 ひとびとは かわで さかなを とったり、 やまの はたけで やさいを つくったりして なかよく へいわに くらして おりました。
むらの はずれに ごぜんやま という おおきな やまが あって、 その やまには やまを まもっている きこりの せんにんが すんでいる といわれ、 むらの 
ひとたちは やまを とても たいせつにして ちかづきませんでした。
その ごせんやまの なかほどに うつくしく すきとおった ぬまが あって、「ぬまは そこなしぬまで だいじゃが すんでいる」 といわれ、むらの ひとびとから おそれられて おりました。だけど まだ だーれも だいじゃを みた ものが おりませんでした。
その いけで きこりせんにんは いつも かおを あらったり、 たべものを あらったり していました。
ところが その いけの まんなか ぐらいの ところで、 ときどき あかーい ちの かたまりのようなものが うかんでいるのです。
「なんだろー?」 でも、 きこりせんにんは あまり きにしたことが ありませんでした。
ところが、 ある あさのこと、きこりせんにんが いつもより すこし はやく いけへ かおを あらいに いくと、 
ズルルルル・・・・ゾゾゾゾゾ・・・・ 
ズルルルル・・・・ゾゾゾゾゾ・・・・
いけの すぐ そばから、 ぶきみな おとが きこえてきます。
「なんじゃ? あれは?」
きこりせんにんは ふしぎに おもって、こかげに かくれました。
しばらくして そおーっと のぞくと、
な・な・な・な・な・・・・「なに?!」
なんと いままでに みたことも ない おおきな だいじゃが、 しかを くちに くわえ、 のみこんで しまおうと している ところでした。
「ウアア!!」きこりせんにんが びっくりした はずみに、 おもわず こえが もれました。
だいじゃは ギラリ!!と めを ひからせて、きこりせんにんの ほうに ふりむきました。かおも ぬまも ちに そまって いました。 それは、それは、みにくく、おそろしい すがたでした。すると、にわかに、 くろくもが わき、ピカ!!ピカ!!ピカ!! ゴロロロローン!! ゴンゴロロゴロゴロゴーン
とつぜん てんを やぶるような ひかりと かみなりが なり、もりも はやしも まっくらに なりました。
だいじゃは ちだらけの みにくい すがたを みられ、すがたを かくそうと、 あれくるいました。
おおあめが、 みっか みばん、 ふりつづきました。
やがて、その おおあめで、 ぬまの みずが あふれだし、あふれでた みずと いっしょに、 だいじゃは くちから ひを ふきながら、みにくい すがたを かくして、 さわだんの やまはだを えぐりながら、おおかわに むかって、 いっきに くだり はじめました。
いわを くだき、 もりや きを なぎたおし、その おとは、
ガラ ガラ ガラ ガラ ガラ ・・・・
ドドド!!ドドド!!ドドドーン!!
ガ・ガ・ガ・ガ・・・・ガガガガーン
あっちの やま、 こっちの やまと ひびきわたりました。
だいじゃは あれくるいながら、おおかわに むかったのですが、さすがの だいじゃも つかれて しまい、ゆきさきを かえて、つつみを つくり、その なかに すがたを かくしました。
に、さんにち たってから、しずまったように みえた やまはだが、ふたたび ゆれうごき、 つつみに ひそんでいた だいじゃが、ふたたび、 あらしを よんで、たにを ふかく けずりながら、すさまじい いきおいで、 いわや やまの きぎと ともに、おおかわに くだり、すがたが みえなくなりました。
やがて、 あらしが しずまり、 ひがしの そらから あかるくなり、おひさまも でて、 こぜんやまにも むらにも、もとの しずけさが もどりました とさ。


これは、赤池にまつわるお話です。現在でも「赤池の沼のふちに出る竹の子(スス竹)取りに気をとられて、一生懸命になって取っていると、底なし沼に足を取られるから、気を付けるように」と言い伝えられています。 (坂上隆市さんのお話)
民話出展「大沢野下夕南部「野菊の会」紙芝居より

神通峡かいわいの昔ばなし  その13   小糸宗左衛門の話   富山市小糸

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その13   小糸宗左衛門の話   富山市小糸

江戸時代、神通川東岸の下夕地区十四ヶ村の人々は、毎日、粟やひえ、そして山や野にある草、木の葉などを切り刻んでむしあげ、それをまた、乾燥してくさらないようにしながら、少しずつ食べていました。
それでも春から秋にかけては、小鳥や魚、山には食用になる木の実があって助かりましたが、冬になるとわずかな食料を少しずつ食いつなぐというありさまでした。お米も作っていましたが、村の人々は、お米の味など知りませんでした。加賀藩の役人が、情けようしゃもなくとりたてる年貢米が、おどろくほどたくさんだったからです。 下夕地区十四ヶ村の人々が、汗と油を流して作ったお米は、全部、年貢米として納めなければならなかったからです。
人々は、草を食べ、木の実を食べて、死にものぐるいで、毎年、毎年、この年貢米を納めてきました。それでも、お殿様のため、ぐちひとつこぼさず働いていたのです。このあわれなお百姓さんたちは、自分でお米を作りながら、一粒だって口にしたことのないお米の俵を、舟倉や富山の磯部に運び、とっぷり暮れた夕方、我が家に帰るというありさまでした。 
それは、寛文の頃であったといわれています。小糸の村へ岐阜の大垣から一人の男が移り住んで来ました。男の名前は宗左衛門と言い、たくましく、見るからに強そうな人でした。村人たちはおそろしくて、だれも近づきませんでした。
宗左衛門は、そんなことは気にしないで、だれかれとなく、親しく話しかけ、ちょっとした仕事を見つけては、かげひなたなく汗を流して働きました。困っている人を見ると、親切に力になってやりました。それだから、村の人はいつの間にか、この宗左衛門と仲よくなりました。
宗左衛門は「私が生きているのは、まだ私の仕事が残っているということだ。正しいことはあくまでやり通し、まちがいがあれば、いっしょうけんめいつぐないをすればよいのだ」と、いつも自分に言い聞かせていました。
こんな宗左衛門でしたから、食うものも食わないでお米を運んで行く下夕の村々の人々をなんとかしてやらねばならないと、考えるようになりました。 そして、加賀のお殿様にたのんでみようと決心し、たった一人で、ぶらりと村をたちました。
ところが、なんと運のよいことでしょうか。金沢の近くまで行くと、遠乗りに出たお殿様が、はるかに家来たちをひきはなして、一人、馬を木につないで休んでおられるのに出会いました。正義のため、おそれを知らぬ宗左衛門は、顔いっぱい、真心の気持ちをあらわして、下夕の村々の人々の苦しみを、お殿様に申し上げました。
命をかけたこの宗左衛門の顔を見て、お殿様も宗左衛門の心に感動され、「分かった、早く姿をかくせ。家来が来るとめんどうじゃ」と話されるが早いか、さっと馬に乗って立ち去られました。「ははっ」と地面にひたいをこすりつけていた平伏していた宗左衛門は、ボロボロ涙をこぼしながら、草かげから草かげへ、たくみにかくれながら家来たちより遠ざかりました。
宗左衛門が小糸村に帰るのを、待っていたかのように、加賀藩から次のようなお達しがありました。
「今後、下夕の村々の上納は銀納とする。」
これからは米を納めなくてもよいというのです。そのかわり銀で収めよというのです。その頃は、銀納といって、年貢米を銀で納める場合は、米で納める場合にくらべて、おどろくほど安くすんだのでした。
村の人々はおどりあがって喜びました。そして、宗左衛門は、たちまち生き神様のようにあがめられました。しかし、そんなことを喜ぶ宗左衛門ではありません。「村人の一人として、やらねばならぬことをしただけ」と思っていたのです。
平和と喜びのいく日が過ぎました。そんなある日、紋付衿をつけた宗左衛門は、村はずれに、だれかを待っていました。
「こじきのいない国づくり」、これが加賀百万石のお殿様のめあてでした。下夕の村々から、ひどい年貢米を取り立てていた役人たちは、さんざんお殿様に叱られました。
このことを伝え聞いた宗左衛門は、役人たちが、必ずしかえしに来るだろうと思っていましたが、やはりやって来ました。
役人たちは、宗左衛門をやっつけてやろうと、プンプンおこりながら近づいて来ました。
宗左衛門は、そんな役人たちにていねいにあいさつをして、「あなた方をさしおいて、お殿様へじきじきにお願い申しあげたことは、まことに悪うございました。牢屋へでもどこへでも入れてください。私には覚悟ができております。どのようにされても、もとといえば私が悪いのですから」と言って、あやまりました。そして、「ただ、最後の思い出に、私の家で少し休んでいっていただきたい。私の家を見る最後の日ですから、よろしくお願いします。」と言って、自分の家に役人たちを案内しました。
「山の中ですから、とても口にあうものもございますまいが」と、宗左衛門はドブロクと川魚で、役人をもてなしました。役人たちは、思いがけぬごちそうに、すっかりくつろいで、じょうだんをいいながら酒を飲み始めました。
「酒だけはたんとあります。じゅうぶん飲んでいただかねば」と、宗左衛門は酒を取りに行くようなふりをして、二階へ上がって行きました。そして、わら屋根の三角窓からしのび出て、伏木村まで走りました。
それから、今、宗左衛門口と呼んでいる谷を下って、神通川ぶちまで来ると、今度は川上の舟渡村の下まで行きました。そして、ちょうで畑の中にあった牛のくらを見つけて、「しめた」とつぶやきながら、そのくらに乗り、上手に水をかきながら、川向かいの猪谷に渡ってしまいました。
宗左衛門が、二階に上がったまま下りて来ないので、役人たちはやっと、だまされたことに気がつきました。役人たちは、村人たちをおどして、宗左衛門のゆくえをさがしましたが、とっくのむかしに、川を渡っていたのです。しかし、川向かいは富山藩の領地ですから、役人たちはどうすることもできません。富山藩にかけあって、宗左衛門を召しとるには、金沢のお殿様に願い出て、富山のお殿様にかけあってもらわねばなりません。
金沢のお殿様は、宗左衛門を信用していますから、そんなことを願い出れば、こんどはしかられるどころか切腹ものです。悪い役人たちは、くやし涙を流してあきらめるしかありませんでした。
宗左衛門は、今度は、富山藩の村人のためにいろいろと働き、人々に感謝されながら、すばらしい一生を送りました。
今も、猪谷の飯村家のうらには、宗左衛門の墓が残されています。
安政六年(一八五九年)、下夕の村々の人々は、布尻村に宗左衛門のご恩に報いるために、記念の石碑を立てました。
この石碑は、今も、小糸公民館のすぐ横に立っています。
     「猪谷むかしばなし」よりの再話

神通峡かいわいの昔ばなし  その12  狐に化かされた山伏  富山市蟹寺

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その12  狐に化かされた山伏  富山市蟹寺

むかし、山伏がでかいホラ貝を持って、昼もまだ早いのに、蟹寺からとなりの加賀沢に向かって歩いて行ったと。
とちゅう、大坪谷のカケハシ(懸橋)にさしかかると、狐がひるねしとったがいやいとね。こりゃ少しおどしてやれと思うて、そっと狐の耳へ近づいてホラをプーと鳴らしたら、狐はびっくりして山へにげていったとお。
そして山伏がちょっと一休みしておったところ、おっかしいことに、まだ日中みたいがに、くらく日が暮れかけてきたとお。 こりゃ、どんながか、よさる(夜)になったし、いごけん(動けん)ようになった。どこかで泊めてもらわんならん、と思うて、切込谷ちゅうところに行ったらまっくらになったと。
そこは、村の石灰焼きする仕事場で、山伏はこりゃまあどこか泊まるところがないかと探しておったら、一軒家があったと。
「こんばんは」というと、家からおばあさんが出てきた。
「ひとつ今夜は泊めてもらいたい。もう日が暮れていごけんようになったから」
山伏が頼むと、
「泊まられてもええけど、わしのおじいさんが亡くなられて、棺(かん)に入れて座敷の仏(ほとけ)さんの前に飾ってある。わしもここでちょっととなりに用に行きたいがで、それでもよければ泊まってくだはれ」とおばあさんがいうたと。
「ええ、困っておるで泊めてくだはれ」といって山伏は家へ入ったと。
おばあさんが外へ出ていって、山伏はいろりの縁(ふち)で火をたいておったら、奥からミシッ、ミシッと音がしてくるがやと。
おかしいおかしいと思っていたら、座敷の戸がすっと開いて、棺の中のおじいさんがひとりで出てきたちゅがやちゃ。それを見て山伏は「やっ」とびっくりして、いろりの縁でひっくり返ったと。
ひっくり返って、しばらくして気がつくと、コチコチと石を割る音が聞こえてきたと。
それは石灰焼き場の人夫(にんぷ)たちが仕事する音で、辺りはまた明るくなり日がさ
してきたと。
そこで山伏も「あんまり生きものにいたずらちゃできんもんだ」と思ったがやと。
民話出典「細入村史」からの再話

神通峡かいわいの昔ばなし  その11 布尻の長者屋敷   富山市布尻

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その11  布尻の長者屋敷   富山市布尻

布尻(ぬのしり)の南、下夕平(したたいら)と いう所に、「ふるみやあと」と よばれる ところがある。西孫左衛門(にしまござえもん)と いう者の やしきあとで、おくまんちょうじゃで あったらしい。
しゅういに ほりを めぐらし、東の方に お宮をつくり、東ざしきの 戸を 開ければ、いながらにして朝の お日さまとともに、お宮もうでが できるしくみに なっていたという。
今の 布尻神社(ぬのしりじんじゃ)は、この長者の やしきで あったのを、安政(あんせい)年間に げんざいちに うつしたものだと いうことである。
この長者の家に、ふつうの馬と、目の色のちがった「ジョウン馬」と いう馬も 五、六頭 かってあったという。今なお、町長(まちなが)との さかいの谷を、「ジョウメン谷」といい、ほりの あったところを、「ほりの田」と いっている。
この やしきあとに ついては、こんな話も のこっている。
布尻の とうふ屋で、しかも、何代目かの あととりむすこに 文右衛門(ぶんえもん)と いうものがいた。身分のよい家の このむすこは、はたらくことが 大きらいで、朝から 酒ばかり 飲んでいた。
家の人は、「これでは どうにも ならんぬ」と こまりはて、田んぼを 見回る 仕事につかせ、ここに家をたてて、よめさんを 見つけて けっこんさせた。
しかし、文右衛門は、いっこうに はたらこうとせず、目の回るように いそがしい 五月のころにも、よめさんには おめかしをさせ、自分は 酒を飲んで、歌え おどれの 生活を 続けていた。
この文右衛門が、ある夜のこと、たいへん よっぱらって うたたねを したそうだ。その時の ゆめまくらに、ぼんやりと あらわれたのが 白衣白髪(はくいはくはつ)の老人。  
その老人が、「千杯(せんばい)のうるしと、千両(せんりょう)の小判(こばん)と、この世で 一番の 黄金(おうごん)の鳥が、朝日と夕日に かがやく所、三つ葉うつぎの 下にあるぞ。お前一人で来て さがすがよい。けっして 人には言うな」と つげた。
文右衛門は、パッと はねおきて、「これだ。長者やしきの ひほうと つたえられているのは…」とばかり、くわを つかんで 飛び出した。しかし、夜明けには、まだ 早い 寅の刻(とらのこく 今の午前四時ごろ)。あたりは まだ まっくらだった。
文右衛門は、根が おくびょう者だから、引き返して、よめさんを つれて 行くことにした。そして、このあたりだろうと 思われる所へ やって来た。
「あったぞ。三つ葉ウツギが あったぞ!」 一かぶの 三つ葉ウツギを 見つけた 文右衛門と よめさんは、くるったように 土を ほり返しては すすみ、 ほり返しては すすんだ。そして、ようやくにして ほりあてたのは、えたいの 知れないほどの 大きな 岩ばんだった。
文右衛門と よめさんは、ついに せいも こんも つきはてて、そこへ へたばって しまった。そして、空を見上げると、すっかり 晴れ上がった 東の空から、すがすがしい 太陽が のぼっていたのだった。
文右衛門は、その時に なって やっと気づいたのだ。それは、「お前一人で…」との おつげに、よめさんを つれてきた ことだった。
そして、文右衛門は、もう一つ、大事なことに 気づいたのだ。それは、「おれも、はたらけるのだ」と いうことであった。文右衛門は、「これからは しんけんに はたらこう」と けっしんし、その足で、田んぼの
あぜ道作りに 向かった。 
朝めし前に、いっしんふらんに ふり上げる くわのかるさと 心地よさ。そして、文右衛門が 生まれて はじめて あじわったのが、自分の あせの あじだった。
その時である。くわさきに ガサッと 手ごたえが あった。と、同時に、バタバタバタと 金色をした わけの わからない鳥が 神通川(じんずうがわ)をわたって、楡原(にれはら)村の 竹やぶの方へ 飛んでいった。そして、その鳥が いたあとには、いつ作られたのか 分からない古いつぼがあったそうだ。
民話出典「大沢野町誌」からの再話

神通峡かいわいの昔ばなし  その10  「蟹寺 籠の渡し」伝説  富山市蟹寺

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その10  「蟹寺 籠の渡し」伝説  富山市蟹寺
 
へいあんじだいの おわり、ぶしたちが、きぞくたちに かわって、しだいに 力を もちはじめたころの お話です。
一一五九年、ぶしの 中でも 大きな 力を もっていた 「源氏(げんじ)」と「平氏(へいし)」が 大きな たたかいを しました。平治の乱(へいじのらん)といいます。このたたかいは、平氏が かち、まけた 源氏の たいしょうだった 源義朝(みなもとのよしとも)は、みのの国 青墓宿(あおはかしゅく) (げんざいの ぎふけん みのあかさか)に おちぶれて みを かくしました。しかし、いつの日か ふたたび、京(きょう)に 上り、平氏を うちやぶりたいと、かんがえていました。
その 義朝の ちょうなんが、源義平(みなもとのよしひら)です。いつもは 悪源太義平(あくげんた よしひら)と なのって いました。
悪源太義平は、飛騨の国(ひだのくに)の 白川郷(しらかわごう)から 高原郷(たかはらごう)へと  へいを あつめながら、京に せめ入るための じゅんびを すすめていました。
よしだ(かみおか)に すむ ごうぞく 左兵衛(さえもん)は、悪源太義平のいさましさに かんしんし、じぶんの かわいい 二人の むすめ、姉の 八重菊(やえぎく)と 妹の 八重牡丹(やえぼたん)を、義平の つまに してもらいました。(このじだいは、おとのさまには たくさんの おくさんが いました。)
しばらくして、父 義朝が なくなったと 聞き、悪源太義平は、いまこそ 平氏を うたなければならないと けっしんして、京へ せめいりました。義平は、平氏と いさましく たたかいましが、平清盛(たいらのきよもり)に とらえられ、ついに、六条川原(ろくじょうかわら)で うち首に なりました。年は わずかに 二十さい でした。
このことを 風のたよりに 聞いた八重菊と 八重牡丹は、悪源太義平のたましいを なぐさめようと 思い立ち、二人だけで 京へ 上ることに しました。
そして、ちょうど 通りかかったのが、飛騨(ひだ)と越中(えっちゅう)の 国ざかいにある 「蟹寺(かにでら)のかごのわたし」です。 ふつうなら、村人を よんで わたるのですが、自分たちの みぶんは 源氏で、しかも、京へ しのんで 行く たびです。
村人に たのむことも できず、二人で こっそりわたることに しました。
さきに、姉の 八重菊が わたろうと したところ、とちゅうで あやまって、せんじんのふちに おち、げきりゅうに のまれて しまいました。これを 見ていた 妹の 八重牡丹は、「自分 一人が とりのこされて、 このよに 何が うれしいことか」と なげきかなしんで 自分も みを おどらせて、このふちに とびこんで しまいました。しばらくして、二人の なきがらは、かりゅうの 薄波(うすなみ)の 近くで うきあがった ということです。
村人は、京にも 行けず、おっとの あとを おった 二人を、たいへん かなしく おもって、「よしだ八重菊・八重牡丹 名をばとどめた この谷に」と うたいました。
その後、村人たちは、どのような みのうえの かたでも、女や子どもが かごのわたしに 
さしかかった時は、りょうぎしから つなをひくように、もうしあわせた と いうことです。
細入村史

神通峡かいわいの昔ばなし その9  つきぬ菜  富山市舟渡

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その9  つきぬ菜  富山市舟渡    

弘法大師(こうぼうだいし)が、伏木(ふしき)村、小糸(こいと)村を 通って、なお けわしい道を、上流へと 足を はこんでいかれました。やがて、飛騨(ひだ)の国も まじかい 舟渡(ふなと)の 村のはずれに さしかかりました。
冬が もうすぐ やって来る ころでしたので、まわりの 山々のけしきは、いつもより さびしく、けわしく 見えました。「雪の ふらぬまに、高山まで まいらねば なるまい」 大師は、そう思っていたに ちがいありません。
いそぎ足の 大師が、ふと 足を とめて、小首を かしげられました。どこかで 子どもの なき声が したからです。
大師が、声の方へ 近づいて 行かれると、そこには うすぎたない 山の子どもが ないておりました。大師が わけを 聞かれると、子どもは、「冬のしたくの ために、 やさいを 買いに、里へ 行って来るよう 言いつけられて来たが、とちゅうで お金を おとした」と いって、また しくしく なきじゃくるのでした。
大師は あわれに 思われて「この たねを まくが よかろう。これは 年中 食べられる なの たねじゃ」と ふところから 五、六つぶの たねを とりだして 紙につつんで わたされました。
村人たちは、このたねを 大切に そだてました。それが 今では、村中に 生え広がり、「つきぬ菜」として 年中 食用に されています。
大沢野町誌

神通峡かいわいの昔ばなし  その8  「手品師の関所破り」  富山市猪谷

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その8  「手品師の関所破り」  富山市猪谷 

むかし、飛騨(ひだ)と 越中(えっちゅう)の 国ざかいに 猪谷(いのたに)の せきしょが あった。すぐそばを ながれる 神通川(じんずうがわ)には、はしが なかったので、川の むこうへ 行く時は、かごのわたしに のっていった。
ある時、飛騨から おおぜいの 人が かごのわたしを のりあって、この せきしょへ あつまって来た。その中に、おやこ 三人の 手じなしが いた。
せきしょの やくにんは、三人の ようすを じろじろ見て、「そこへ 来た おやこ 三人、おまえらは、手じなしでは ないか。こっちへ 来い。」と よんだ。
「人の目を くらまして、金を むさぼりとるような 手じなしなら、この せきしょを とおすわけには いかん。」
手じなしは、「なんという おやくにんさま、わたしらは、ほかの 手じなしの ような おきゃくさまの 目を ごまかすような、そんな ことは いたしません。ただ、ありのままの げいを いたします。」
やくにんは、「そりゃ、どんなことを するのじゃ。ひとつ 見せてもらうか。」
手じなしは、「それでは…一しょう入りほどの すずを 一本 かしてください。わたしども おやこ 三人が その すずの 中へ 入って ごらんにいれます…。」
やくにんは けらいに 木魚より 大きい すずを よういさせて、手じなを する 台までならべた。
いよいよ 手じなしは、「これから お見せする 手じなは、たいへん むずかしいもので、みなさん 十歩ほど さがって くだされ…。」と いうて、黒い 大ぶろしきを 上から かぶせて、「たねも しかけも ない。」と いう 話をして、ふろしきを すずの上に かぶせた。
そして、「まずは 子どもから。」と いって、子どもを その すずの中へ おしこみ、つぎに 母親を 入れた。つぎに、自分が すずの中へ 入って、すがたを けして しまった。
やくにんは たがいに 顔を 見あわせて、これは ふしぎな 手じなだと いっているが、どれだけ たっても、手じなしは その中から 出てきません。
やくにんは、すずの中を のぞくだけでなく、しまいには、すずの中へ 火ばしを 入れたり、すずを こわしたりするが、かげも 形もない。 
ふしぎなことも あるものと、話しあいを しておるところへ、あきんど(しょう人)が 入ってきた。役人は、「これ これ、もしかすると お前は、かくかくの 男と 母親と 子どもの 三人の すがたを 見なかったかい。」と 言うと、あきんどは、「そうそう、たしか 三人づれの 親子なら、楡原(にれはら)の村の 近くで おうたことい。」と 言った。やくにんは、「あー 手じなしに いっぱい くわされた。」と、みな あきれた話を しておった という。これが 手じなしの せきしょやぶりとして つたえられているということだ。

民話出典「細入村史」

神通峡かいわいの昔ばなし  その7 畠山重忠伝説「サイの角」  富山市楡原

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その7 畠山重忠伝説「サイの角」 富山市楡原
 
建久(けんきゅう)三年(一一九二)源頼朝(みなもとのよりとも)は、鎌倉(かまくら)にばくふをひらいて、天下のせいじをとっていました。
ある年のことです。しょうぐん頼朝(よりとも)が、母のようにしたっていた方が、びょう気になりました。 
いしゃだの、くすりだのと大さわきをしましたが、やまいは重くなるばかりでした。ほとほとこまった頼朝は、日本で名の知られた、うらないしをよんで、みてもらいました。
「サイの角(つの)があれば、すぐにもなおりますが」と、いうのが、うらないしのことばでした。しかし、あつい南の国にすむというサイが、この日本のどこにいるというのでしょう。
頼朝は、けらいをあつめて、みんなのいけんを聞くことにしました。この時、畠山重忠(はたけやましげただ)というたいしょうがすすみ出て、「越中(えっちゅう)の国に流れる神通川(じんずうがわ)をさかのぼると、サイとよばれる、ふしぎなものが、住んでいると聞いています。さっそく、これをたいじして、その角を、じさんしましょう」と、もうしました。
頼朝のゆるしをうけた重忠(しげただ)は、神通川のおく、東猪谷(ひがしいのたに)の山々ふかく分け入り、草をまくらに、けわしい山の中を、サイをさがして、くるしい毎日をすごしました。
今日もまた、つかれた足をひきずって、とある谷あいにふみこみますと、一人のろうじんがあらわれ、「この谷にすむサイは、今まで、人にがいをくわえたことはありません。このようなものをうちころすのは、しょうぐんさまのごめいれいでも、むごいことだと思います。どうか思いとどまり、いのちをたすけてやってください」と、かなしげにかたりました。
重忠は、心のうちに、「人かげもないこんな山おくに、ろうじんが一人すんでいるのは、ふしぎだ。このろうじんの正体は、サイにまちがいない」と、思いました。
重忠は、自分の心のうちを気づかれてはこまりますので、うわべだけは、うなずいてみせ、帰るふりをしながら、こっそりと、この老人のあとをつけて行きました。
ろうじんは、はっとする間もなく、このみずうみに、みをひるがえしてとびこみました。ろうじんは、みるみるサイの正体をあらわして、そこふかくしずんでいきます。重忠は、「しめた!」とよろこび、いそいできものを、ぬぎすてました。重忠は、一刀(いっとう)を口にくわえて、ザブンとばかり、サイの後をおいました。
水のそこでは、ランランと目を光らせて、サイがまちうけていました。しかし、東国一といわれたごうもの、重忠は、少しもおそれません。たちまち、すさまじいあらそいが、まきおこりました。
けれども、さすがのサイも、重忠の力にかてません。やがて、美しいみずうみをまっかにそめて、サイの大きな体が、水の上にうかびました。重忠は、サイの角を切りとると、さっそく鎌倉(かまくら)にむかい、サイの角をとどけました。
しかし、せっかくとどけられたサイの角も、さっぱりききめがあらわれず、びょうにんのやまいは、いっそうわるくなり、とうとうなくなってしまいました。
頼朝は、うたがいぶかい人でしたので、重忠がニセのものをもって来たのだと思い、サイの角を重忠につきかえしました。それでも、頼朝は、はらの虫がおさまらなかったのでしょう。きゅうに、うっ手をむけて、武蔵(むさし)の国の、二股川(ふたまたがわ)というところで、ちゅうぎな重忠を、せめころしてしまいました。
重忠の子、六郎(ろくろう)は、うちよせるてきの目をくぐって、越中(えっちゅう)の国へ、のがれて来ました。
六郎は、父のいこつを楡原(にれはら)にほおむり、父のことばをまもり、だいだいつたわるカブトと、父がサイの角にきざんだ「三帰妙王」(さんきみょうおう)というほとけさまをもって、楡原にお寺をたて、父のれいと、サイのごしょうをとむらいました。
これが法雲寺(ほううんじ)といわれ、その後、このお寺は、上行寺(じょうぎょうじ)と名前をかえました。

民話出典「猪谷むかしばなし」

神通峡かいわいの昔ばなし  その6  カッパに教えられた妙薬   富山市伏木

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その6  カッパに教えられた妙薬    富山市伏木<

昔から、伏木の 山下家(屋号はアイス屋)に 伝わる お話です。千五百年も 続いた 旧家ですが、いつのころからか、アイス屋と 呼ばれるように なったそうです。

昔、アイス屋に、お爺と お婆と 一頭の馬が 住んでいました。お爺が、朝早く起き、馬の草かりに、深い山まで 出かけていきました。

一荷の草を 背おって 帰り、「どっこいしょ」と、草をおろし、いっぷくして、草をやろうと、馬小屋を のぞいてびっくりぎょうてん。カッパが 馬に つなをかけ、外に 引き出そうと しているのです。お爺 おこり、カッパを 引き出し、つなをかけ、土間の柱にしばりつけて おきました。

やがて、カッパは、だんだん弱り、ぐったりして しまいました。お婆が、ごはんの用意に、土間 下りたところ、カッパは、「キュウ キュウ」と、悲しそうな 泣き声を あげて、泣いていました。お婆が、カッパに、「お前が 悪いことをした。馬なんか 引き出そうと するからや」と、手に 持っていた ぬれたシャモジで、頭の皿を たたいたところ、皿に シャモジの水が 入ったためか、カッパは、いっぺんに 元気になり、つなを 引き切って、いちもくさんに、にげていきました。

何日か 過ぎてから、カッパは、お婆の所に 現れて、「この間は、いのちを 助けてくれて ありがとうございました」と、ペコンと おじぎをして、帰って 行きました。その後ろすがたは、山ぶしに、にていたと 伝えられています。
 
ある日、お婆が、家の仕事で くたびれて、ねむりこんでいました。その時、ゆめまくらに、「私は 飛騨から 流れてきた 仏ぞうだが、谷川に いるから、助けに来てほしい」と呼ぶ声に、ハッと われにかえり、谷川に 行ったところ、川岸に、木ぼりの 仏ぞうが、うかんでいるのに、おどろきました。お婆は、仏ぞうを ひろいあげ、「もったいない」と、大切に 家に 持ち帰り、おまもりしていました。
 
ある日のこと、山ぶしすがたの 行者が 来られ、「今夜、とめてもらいたい。どこにでも よいから 休ませてほしい」と、もうされたので、お婆は、やさしい声で「どうぞ どうぞ」と、ろばたに あんないし、ごちそうを 作って、もてなしました。行者さんは、「あなたの家に 仏ぞうが あるはず。私に おきょうを となえさせてください」と言い、おきょうを となえられました。よく朝、出発ぎわに、「一夜 とめていただいた お礼に」と言って、草木を 使っての 薬の作り方を 教え、「あなたの家が、生活に こまった時には、この薬が あなた方を 助けて くれますから」と言って、立ちさられました。

教えられた草木で 作った薬を「アイス」と言い、多くの人々に りようされました。山ぶしさんに 言われたように、家が こまった時には、「アイス」が よく 売れたそうです。

その時の 仏ぞうは、伏木の 神明社に ごうひ されています。それから、伏木ぶらくの 人たちは、きゅうれきの 五月五日になると、朝めし前に、一荷ずつ、ヨモギ、アオキ、スイカズラなど、それぞれの 薬草をせおい、アイス屋の 薬草小屋の 前に おいたものです。そのお礼に、ショウブぶろに 入れてもらいました。

アイス屋では、薬草を かげぼしにし、一年中 使用できるほど、作っていました。ぶらくの人たちは、アイスを ひつようとする時は、むりょうでもらって 使用したそうです。また、近ごう、近ざいの方も、アイスを もとめに 来られたそうです。

民話出典「ふるさと下夕南部  野菊の会」

プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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