水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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気ままな旅人旅日記   富山戦争法案反対の集会に参加


富山戦争法案反対の集会に参加


大沢野消防署前からバスに乗り、富山駅まで行った。集会は駅前にCICビル前の広場で開催される。
午後2時過ぎ広場に到着した。集会には参加し辛い雨になったが、100人を超える人が参加している。若者集団が呼びかけた集団で、今までとは雰囲気が少し違っていた。まず目についたのは、いつも目にする共産党やら労働組合の旗や幟がなく、参加者の多くが「戦争法案反対」とか「九条を守れ」などのプラカードを持っていた。シュプレヒコールの練習が始まったが「いかんちゃ
いかんちゃ 戦争法案」など、ドラムのリズムで唱え始めた。新鮮さのあるシュプレヒコールだった。
時間になり、雨の中パレードになったが、沿道を行く人々は全く関心のない表情で通り過ぎて行った。
パレードも短時間で終了したが、戦争法案反対のために何かをしなくてはと思っていた私には有意義な時間だった。

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[ 2015/08/31 20:54 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

気ままな旅人 旅日記    細入地域で太陽光発電!!

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気ままな旅人 旅日記

細入地域で太陽光発電‼

体力回復にウォーキングを始めて2週間ほどになり、距離も2キロとだいぶ歩けるようになって来た。体力が少しずつ回復しているようだ。
ウォーキングをしていて新しい発見があった。私が知らなかっただけの話なのだが、細入地域に太陽光パネルが設置されたのである。大きなパネルで、枚数にして100枚近くあるようだ。北陸電気工業という会社が設置したようだ。早速、メールで問い合わせしたら、返事が届いた。


このたびお問合せいただきました弊社太陽光発電事業について、以下の通りご返答申し上げます。

Q1 設置したのはいつですか。
A1 8月末に完成予定です。工事は3月-4月頃から進めていました。
Q2 設置パネル数は何枚ですか。
A2 恐縮ですが回答は控えさせていただきます。
Q3 発電能力はどのくらいですか。
A3 出力ベースで0.8MW程度です。
Q4 雪深い楡原ですが、冬場の対策はどうしていますか。
A4 冬を迎えて考えます。ドカ雪がなければノーメンテとなります。

以上、誠に簡単ではございますが回答とさせて頂きます。

枚数は教えてもらえなかったが、出力が0.8MWとは、どのくらいか調べてみた。
1MWと言う単位は1,000キロワットに相当します。 原発1基は100万キロワットの出力規模ですから1,000キロワットの1000倍に相当します。
言い換えれば1000メガソーラーは原発1基分に相当します。
こうして比較をすると、それほどメガソーラーは小さくなく、1世帯で3.3kWの電力を消費すると仮定した場合、1MWのメガソーラーは3,00世帯分の電力を供給する能力があるのです。

楡原の北陸電気は0.8MWなので、240世帯分の電力供給能力があるということである。すごい能力があることが分かった。

ウォーキングをこれからも続け、新しい発見を期待している。
[ 2015/08/30 10:52 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)

神通峡かいわいの昔ばなし  その111  岡用水  富山市小羽


岡用水


その111  岡用水  富山市小羽

岡用水は、1863年(文久三年)につくられたといわれています。
土部落を流れる土川の下流をせき止めて、北の方から南へ向かって流れています。
土川には、宮腰用水のおち水が入っているので、その水利権のあらそいが近年までありました。
大沢野町教育センター「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」

気ままな旅人 神通峡かいわいの昔ばなし    その112 火の番丁と夜回り


火の用心


その112 火の番丁と夜回り
   富山市二松

 文政年間から町屋敷といわれたように、道の両側に家が並び、市街地並に整理されていた船峅地区は、特に南風が強く、鶏の鳴かぬ日があっても、風の吹かぬ日はないと言われたくらいで、そのため、火災には特に注意をはらい、大火の発生しやすい南風の強い晩は、夜回りをかねて、火の元の用心につとめられていた。それが火の番丁である。
 いつの頃から始められたものかは不明であるが、共同で村を守ろうという精神から始められたものであると思う。
 拍子木をたたき、錫杖を鳴らし、南は役場前(現土地改良区)、北は急滝川の橋まで回り、終われば隣家に申し送り、風の止むまで、また必要がなくなったと認めた時は、各自の判断で切り上げた。
 「開村百七十周年記念 二松のあゆみ」

神通峡かいわいの昔ばなし   その110 宮腰用水  富山市小羽

宮腰用水

その110 宮腰用水  富山市小羽

 取り入れ口は、八尾町桐谷部落の川尻というところで、九婦須川から引いています。八尾町の桐谷、宮腰を通って大沢野町根の上、土、下伏までつづいています。この用水は、1848年(嘉永のころ)に取りかかり、1863年(文化三年)に宮腰まで通しました。その後、八尾町の北谷・岩屋・かし尾・井栗谷まで引かれ、1867年(慶応三年)に分水されて大沢野下伏まで引かれました。
 根の上村の半助、土村の六平、下伏村の九左衛門、そのほか、八尾町がわの地主たちが、富山藩主の前田氏に何回もお願いして開発にあたりました。山や谷の多いところでの工事は、農民にとっては大変なふたんでした。中には、かざいどうぐを売っても、土地をはなれず開こんに力をそそいだ人もいました。そのおかげで、山の頂上まで水田になりゆたかになりました。

神通峡かいわいの昔ばなし   その109 大沢野用水 富山市大沢野   

大沢野用水


その109 大沢野用水 富山市大沢野

今から180年ほど前、大沢野は砂や石まじりの土で水も少なく、作物も実らない荒野でした。人びとは、水さえあれば、広々としたこの土地にたくさんの新田を開くことができるのになあ・・・と考えていました。すぐ近くには大きな神通川の流れがあります。しかし、川底が大沢野より低いので、遠くはなれた上流から取って、長い用水路をつくらなければになりません。
 1819年(文政二年)ここをおさめていた富山藩は、寺津村(下夕地区)から水を取り入れ、神通川の東岸の山腹を通って約8キロメートルの水路をつくり、大沢野町を開こんする計画をたてました。しかし、水路のと中に加賀藩領があり、笹津村・布尻町長など、七つの村を通ることになるので、1865年(慶応二年)に工事に入りました。と中の村々にめいわくをかけないように、水路が村を通るときはトンネルにしたり、こわれないようにふちを大きな石でかためたりするむずかしい工事でした。苦労のすえ、ようやく1868年(明治元年)に用水ができ、新しい田畑が少し開けました。工事をした人も住みつき、大沢野に初めて部落もできました。
 ところが、開こんもこれからという時に、1870年(明治三年)の大雨によって、用水がこわれてしまいました。用水をなおすにはまたたくさんの人と力とお金がかかります。それにむずかしい工事もしなければなりません。工事をしようとする人が何人かいましたが、思うように工事が進まず、と中で中止するしかありせんでした。世の中も新しくかわったこともあり、長い間用水はそのままでした。
 このようすを見て、富山市に住んでいた内野信一は、自分の財産をなげうって、1902年(明治三十五)に用水の改修工事と開こんの仕事にのりだしました。内野信一は、五十嵐政雄・田村次六・碓井又司次などといっしょに、大沢野開こん配水株式会社をつくり、開こんする人たちの家を建てたり、その人たちの心を養うために神社や寺を建てたり、開こんに必要な機械をかいいれたり、技術をたかめるための講習会を開いたりしました。努力の結果、用水もだいたい掘りかえされ、少しずつ開こんも進みましたが、用水の水の量が少ないために開こんが思うようにできませんでした。
 豊富な水を流す用水にするためには多くの費用がかかります。そこで国や県から助成金をうけ、ようやく1924年(大正十三)に、りっぱな用水に改修できました。その後開こんはどんどん進み、むかし作物も育たなかった荒野は、見わたすかぎりの田畑にかわりました。開こんに参加した人たちの喜びはどんなものだったでしょうか。高内の広場には大沢野の発展のもとをきずいた内野信一の銅像が立てられています。
 現在用水の取り入れ口は、神通第二発電所ができたため、第二ダムにうつされ、(寺津からダムまでの水路は、神通川にしずんでいます)水路は全部コンクリートになり、笹津・春日・下夕林・稲代・加納・西塩野・高内・長附・上大久保の田をうるおします。西大沢の神明宮のわきに三ッ分水があり、ここから、春日方面、稲代・加納方面、高内・長附方面、へと用水は流れています。用水の管理は大沢野土地改良区の人たちがしています。
大沢野町教育センター「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」

神通峡かいわいの昔ばなし    その108 船倉用水  富山市船峅


舟倉用水2


その108 船倉用水  富山市船峅
 
 大むかし、神通川の下流流いきがもち上がって、船峅の台地ができました。今から180年ほど前、そこは松や雑木の林、そしていばらやくまざさのしげる荒野でした。この地には、御前山のふもとから流れ出る二つの川(虫谷川と急滝川)といくつかのため池があるだけでした。そこに住んで田や畑や少しの田をつくっていた人々は、「用水さえあればここにたくさんの新田を開くことができるのになあ」と考えていました。
 そのころ、と波で十村役(村長さんにあたる)をしていた五十嵐孫作という人が、舟倉野を開こんする計画を立て、1796年(寛政八年)に加賀藩より開こんの許しをもらったので、孫作が測量・設計・工事の責任をもつことになり、その子のあつ好が父を助けました。
 また、算数学者の石黒伸由は用水のかたむきや水量を考える仕事、十村役の金山十次郎と十左衛門が会計と事務、大工の庄蔵は水準測定の見取図をつくる仕事にあたりました。
 太田薄波(下夕地区)というところを流れる長棟川から水を取り、神通川右岸の山腹を通って十四キロメートルの水路を引くという大仕事です。たくさんの村人が、たいまつをかざして山の中腹にならび、それを対岸からみてかたむきを計算したりしました。測量と設計だけで13年かかり、1810年(文化七年)からようやく工事に入ることができました。
 山がけわしいので、岩場をほりくだき、幅5尺(1.5メートル)深さ3尺(1メートル)の石身の水路をつくる仕事はなかなかはかどりません。たがねやかなづちなど、道具はたった3種類、巨大な岩石にぶつかると、そこに草木を集め、燃やして熱し、水をかぶせていだいていくという方法をとって、工事か進められました。近くの山村から多くの人々がかり出されました。中心になった人たちは、昼も夜も睡眠を忘れるくらいなって働きました。
 7年の年月が流れました。その間にも5人の死者とたくさんの負傷者が出ました。費用もたいへんなものでした。計画の3倍以上の費用がかかったといわれています。そのため、後になって用水の計画者は加賀藩から罰せられたという話も伝わっているくらいです。
 1817年(文化十四)用水に初めて水が通り、少しばかりの田に植えつけがされました。秋になってりっぱな稲が実り、大きなお祝いの宴会が直坂で開かれました。工事に参加した人たちの喜びはどんなだったでしょう。
 旧船峅村のうち、舟倉新・横どい・直坂・中野・二松・万願寺新・大野・松林・小黒新・沢の10部落の田を、このかんがい用水がうるおします。水を分けるに当っては、分けへだてなく公平にということがまず考えられます。直坂地内の風宮不吹堂のわきに三つの分水があり、ここから寺家方面、二松・万願寺方面、横どい・大野方面へと用水が分かれて流れます。
 不吹堂は1890年(明治二十三)に風害をおさめる神をまつって建てられたものですが、後の人々がここに舟倉用水の記念碑をつくりました。その碑は、用水完成に力をつくした人々に対する、農民の永遠の感謝の気持ちを表したものです。また、工事のぎぜい者をとむらう石碑もできています。
 舟倉用水は何度か災害に会い、改良されてきました。1851年(嘉永三年)の大災害の時には椎名道三が活やくしました。
 1914年(大正三年)の大洪水には、その害を元にもどすのに、5800人の人夫と4万びょうの土だわらを使ったそうです。
 現在では、船峅土地改良区の人たちが用水を管理し、水路は全部コンクリートでかためられました。そこを流れる豊かな水は、400ヘクタールもの水田をうるおしています。
                                   「大沢野町誌 上巻」
大沢野町教育センター「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」

神通峡かいわいの昔ばなし     その106 大久保用水 富山市大久保  

大久保用水


その106 大久保用水 富山市大久保

大久保の土地は、ずっと大むかしは荒れはてた川原でした。今からおよそ1100年ほど前に松本武太夫の一族が住みつき、小さな村ができました。大久保の土地が開発されだしたのは、今からおよそ200年ほど前(江戸時代の中ごろ)からです。そのころ、大久保一帯は小石まじりの荒れ地で、草かり場、たきぎとり場でした。江戸時代に入り、人も住みはじめました。こうして大久保の土地に住む人々は「飲み水と、田畑をうるおす水がほしい」という願いをもつようになりました。そんな時、富山藩は、ようやく仕事にとりかかり、新田開発と用水を引くことになりました。
 用水を引くには、神通川の水を引くしかなく、笹津より水を取り入れれば、大久保に1000石の米がとれるようになるとみこまれました。しかし、すぐに工事にとりかかれませんでした。そのころ、笹津は加賀藩の土地でしたので、富山藩十村と加賀藩十村との話し合いがおこなわれ、笹津へ入ることが許されました。
 工事は、はじめに用水口をきめることから手がけました。お金はたくさんかかるが、大久保への水引はできるということが分かりました。1741年(寛保六年)よりはじめられた大久保用水の工事は、1765(明和二年)片口喜三郎が加わり、工事もさかんになりました。しかし、がけくずれが起こり水もうまく流れなかったようです。藩の努力と農民の努力によって、ようやく1777年(安永五年)田畑に水が入るようになり、任海村(新保)岡崎孫治郎が500石の新田開発願いを出しました。孫治郎は、全財産をつぎこみがんばりましたが、用水を思うようにつくることができませんでした。その上、干害、水害、強風のため、作物も実らず生活もできなかったので、大水でこわされた用水の修理もあきらめてしまいました。
 こうした悪い条件でしたが、将来のことを思い藩主前田利謙は、大久保開発を強化しました。ちょうど、そりころひだ街道を通って運ぶ塩荷が多くなり、大久保一帯に人が多く住みつき、開発田も多くなりました。そのため用水を広げる修理をしなければならなくなりました。1806年(文化三年)富山西町の商人岡田屋嘉兵衛が、東大久保の広い土地に目をつけ、大久保用水の改修に力を尽くしました。
 嘉兵衛はたくさんの財産をもっており、自分の財産を使って改修しました。この改修は取り入れ口を岩木から長走に移し、新しい用水路をつくる大工事でした。そのため働く人は4000人ほどかかるので、大久保だけでは足りないので、他の郡からも2000人ほど出すように命ぜられました。また、大工事でたくさんお金がかかるので、そのお金をつくる方法が考えられました。まず、はぜ(ろうそくの原料)の木を植えたり、ひだ街道で運ぶ塩を10000俵ふやして、その利益を用水路工事に使いました。
 工事は、じん次郎(嘉兵衛の子)が、日夜、寝食を忘れて働きました。工事は、決して楽ではなかったようです。ひだおろしの寒風、日照り、大水などの自然災害は、財力と気力をなくさせました。また、大石まじりの土地は、かんたんな道具(つるはし、もっこ、石割のみ、たがねなど)では、なかなかはかどりませんでした。また、トンネルを掘る時、ちょうちんを照らし高低を測りましたが、大変むずがしいものでした。しかし、嘉兵衛にとっては「1000石の美田にしたい」という気持ちが強く、やめるわけにはいきません。一方、寒風で働く農民たちは「苦しいめにあって、ちっとも楽にならない」と、あちこち不満の声があがりました。じん次郎の小屋、西町岡田屋へのうちこわしなどがあり、大変困難をきわめましたが、1813年(文化十年)に、幅6メートル、長さ7600メートルの大久保用水が完成しました。
 のちに、明治時代に入り、大久保用水の水は塩の発電に利用されました。大正から昭和のはじめには、ひだから切り出されたひの木や松を運ぶための流水も利用されました。
 「神通川 たえぬ流れを 引き入れて 志おのの里に 千町田」これは、岡田屋嘉兵衛(のちの三輪日顕)の孫、為敦が読んだ歌。今のきばん整備された田が広がる大久保の土地も、むかし川原であったことを思い浮かべると、このような美田にするまでの人々の苦労がしのばれます。
大沢野町教育センター「わたしたちの郷土 大沢野町細入村」

笠寺観音かいわいの歴史探訪 その41  星宮社

星宮社


その41  星宮社  南区本星崎町宮西

星宮社

創建は舒明天皇9年(637年)。「この地に星が降り、それを祀るために建てられた」といわれる(この話は「知我麻社のことだ」と言う説もある)。また、創建時の星宮社は今の笠寺小学校のあたりに建てられたが、織田信長が星崎城を築城する際、現在の地へ移されたとの説がある。

•この地は古代、松炬島(松ゴ島(「ゴ」=「女后」))と呼ばれた場所で、乎止與命の館があったという。乎止與命は上知我麻社の祭神。
•はじめ上知我麻神社と下知我麻神社の本社はこの地に鎮座したが、後に熱田神宮へ遷座された。
•8世紀、13世紀にもこの地方に「隕石が落ちた」という言い伝えがある。
•1632年(1670年とも)、星宮社の南の南野村に隕石が落ちた。1829年(文政12年)に喚続神社へ寄進され、社宝となる。1976年に国立科学博物館の村山定夫によって隕石と確認され、南野隕石と命名された。隕石を収められている木箱には表に「霊石」と書かれている。

「星宮社―Wikipedia」

笠寺観音かいわいの歴史探訪  その40   桜神明社

桜神明社

その40   桜神明社  南区呼続町四丁目

桜神明社
創建時期は不明。本殿は古墳の上に建っている。大正5年(1916年)、近在にあった熊野権現社の祭神を合祀。また、天保年間の作と伝わる馬具が伝わっており、毎年10月の例大祭の際に展示される。

桜神明社古墳の規模と構造
墳径36メートル、墳高4.5メートルの円墳状だが、前方後円墳であるとの説もある。墳丘の北側から西側にかけて、周濠の一部(幅3メートル)が残っており、市内に残る古墳の中では状態が良いとされる。かつて墳丘から須恵器が発見されており5世紀末の築造と推定されているが、正式な発掘は行われていないため内部主体は不明。

なお、古墳自体は神域となっており立入禁止だが、敷地横の住宅街の路地から境内を囲む塀越しに、墳丘と周濠を見る事ができる。
「桜神明社―Wikipedia」

プロフィール

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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