はじめに 加賀沢の史跡・見学ポイントの紹介地図
P4 旧飛騨街道の野仏 加賀沢集落北の旧街道沿い、鉄道線路の防壁の裏の大きな岩の下に、三体の野仏が鎮座している。その一つが、文政元年(一八一八)と銘のある浮彫聖観音立像である。 他に浮彫子安観音坐像と弘法大師坐像がある。
浮彫聖観音立像

浮彫子安観音坐像

弘法大師坐像
P5 立岩 集落から約百メートルの宮川の真ん中に大きな岩が柱のように立っている。周りの流れはゆるく淵のようになっていて鮭や鮎
の休み場になり、素潜りしてヤスで捕る漁場であった。集落ではこの岩のことを立岩と呼んていた。
猪谷駅から六キロも歩いて、職場、学校に通い疲れ果てている時、立岩を見て、「やっと帰った」と安堵する懐かしい岩なのであ
る。 「細入村史」

宮川にある「立岩」
※立岩の高さは、水底から十一・一メートル、一億七千七百五十万年前( 中生代ジュラ紀)に変成した飛騨片麻岩であることが、杉谷和男氏の調査によって明らかになった。
P6 白山社 集落の真ん中ほどに今も鳥居とお堂が残っている。このお宮さんには、興味深いエピソードが残っている。昭和四十七年( 一九七二)八月のこと、美術文化研究会宮川村調査班が、この白山社を訪れ、拝殿の奥にかかっている紫の幕を上げたところ、円空仏五体が埃にまみれて鎮座しているのを発見した。
この発見がきっかけとなり、蟹寺・猪谷・庵谷の集落で円空仏の発見が続き、細入村内で円空仏二十四体の発見につながったという。加賀沢白山社の五体の円空仏は、現在、猪谷関所館のロビー正面に展示されている。
「細入村史」
発見された円空仏
白山妙理大権現 総高(51.7㎝)

白山金剛童子 総高(26㎝)

観音像総高(11.2㎝) 虚空蔵菩薩 総高(16.2㎝) 白山不思議十万金剛童子 総高(26㎝)
P8 猪谷小学校加賀沢分校跡 小学校のあった所は、樹木が生い茂り、見つけることが困難だが、白山社の南側にあったと地図に記されている。
明治四十五年( 一九一二) 猪谷小学校加賀沢分教場として、民家の一部を借りて開校された。大正二年( 一九一三)、白山社参道南側に新校舎ができ、岐阜県東加賀沢の児童も受け入れた。大正末期に二階建に改築される。

昭和二十六年( 一九五一)、分教場より五十メートルほど南側に、新校舎が新築された。校舎一階は職員玄関と職員住宅として二間・児童玄関と体育室、裏側に台所と浴室、便所、二階は広い教室と職員室、資料室と小さいながら整っていた。その頃は、三十名ほどの児童がいた。昭和三十九年( 一九六四)、児童減少により廃校となった。
「細入村史」

P10 加賀沢の石仏群 加賀沢集落南端の道路脇に、小さなコンクリートの建物があり、その中にお地蔵さんが九体並んでいる。
明治四十五年( 一九一二) の分教場の建設時に、白山社の境内にあった地蔵堂を整理し、谷向いの地蔵様を含めて、こ
の場所にお堂を建て直し、集められたとのことだ。
どのお地蔵さんも、新調したばかりの赤い帽子と前掛けを身に着けて、仲良く鎮座している。今も欠かさずお世話をし
ている人がいるようだ。

加賀沢の石仏群
P11 加賀沢橋 飛越国境にある飛騨加賀沢と越中加賀沢は、幕政時代から、宮川を舟で往復していた。昭和の初めごろ、初めて歩道橋が架かった。これが初代の加賀沢橋で、幅一メートルの木吊橋で、風の吹くたびに大きく揺れるので、番線を張って振り止めをし、安全
を保った。しかし、昭和二十年( 一九四五) 九月の大風で墜落した。その後もかろうじて橋を架け替えて利用していた。

初代加賀沢橋
昭和四十七年( 一九七二)、関西電力株式会社が新しく橋を架け替え、電力関係や山行きの人々が利用するようになった。これが二代目の加賀沢橋である。橋の幅員一メートル、延長六十メートル余、歩道橋鋼吊橋で、振り止めの番線を張ってはあるが、宮川の激流を下に見れば、目もくらむばか11りであった。

二代目加賀沢橋
現在の加賀沢橋は、平成十二年( 二〇〇〇)、国道三六〇号線の小豆沢~蟹寺間が大きく改修された際に、加賀沢トンネル入口に、鉄筋コンクリートの立派な橋として生まれ変わった。
「宮川村誌」 「細入村史」参照

現在の三代目加賀沢橋
P13 国道三六〇号線バイパス道路 国道四一号線が通る神岡~数河高原~古川のコースは、高低差が大で急坂が多い。一方、国道三六〇号線は、県境付近では急坂はないが、宮川の深V字谷に沿って屈曲し、しかも道幅はきわめて狭く、車がすれ違えない所も数多くある。
このような宮川沿いの交通難所を解消するための努力は、平成元年(一九八九)から本格的に進められた。富山県側の加賀沢
~猪谷間四・五キロメートルは富山県が細入トンネル建設と道路改修を、岐阜県側の加賀沢~小豆沢間二・三キロメートルは国
が直轄事業として、改修工事を進めた。
平成十二年(二〇〇〇)八月二十八日、「国道三六〇号バイパス 細入バイパス・宮川細入道路」が完成し、開通式が行われた。
新しくできたバイパス道路は、要所をトンネルでつなぎ、橋は冬期間でも安心して通行できるシェルター構造になっている。北から越路・加賀沢・飛越と三つのトンネル、その他六つの橋が新設された。道路はほぼ直線状となった。
「細入村史」
P15 東加賀沢集落跡記念碑 加賀沢橋を渡り、加賀沢トンネル手前の道を上っていくと東加賀沢集落跡(岐阜県飛騨市宮川町)に着く。
現在、東加賀沢集落があった所には、記念碑が建てられ、小さな公園になっている。記念碑には、「ふるさとに想う」という題で、次のように刻まれている。
「先人達がいつごろからか、この人里離れた小さな斜面の土地を切り開き、家族同様に住民が寄り添い、永住の地として生活していた。しかし冬期間、交通が遮断され孤立状態となり、病院、学校その他あらゆる面で不便を痛感した。
昭和三十年から四十年代にかけて不安と動揺を感じながらも子供の将来を考え、住民それぞれが離村を決断した。
平成十二年( 二〇〇〇) に国道三百六十号 小豆澤~蟹寺間が改修され、加賀澤の地形が大きく様変わりした。このため、人々の記憶から忘れられることがないよう加賀澤住居跡地に石碑を建て後世に申し伝えることにする。 平成十二年( 二〇〇〇) 八月建立」
東加賀沢に住んでいた人たちは、「加賀沢会」を組織し、年に一度、富山市に集まり、故郷を偲んでいる。

P17 不動滝 東加賀沢、宮川右岸の渓谷にかかる垂直の瀑布のことをいい、幅五メートル、直下五十五メートル余。水は流れて直ちに宮川に
注いでいる。この滝へ続く道は、今は閉ざされてしまった。
不動滝は、西加賀沢地内水上橋から、越中西街道を蟹寺方向へ二十分ほど歩いた所から眺めることができる。
屹立した付近の山容と相まって美観を呈し、特に夏秋の眺めがよいので知られている。 高山本線の窓から対岸にその全容が眺められ、奥飛騨の旅情をそそるのもまた一興である。
明治・大正の頃、この滝の上に、建坪九坪余の拝殿があり、不動尊を安置していた。昔より、眼病の霊験著しく、また養蚕守護の神として参詣者も多かった。しかし、その後、二回の火災に見舞われ、かつ交通も不便なため、本尊は巣納谷の久昌寺へ移し、現在に至っている。
「宮川村誌」
加賀沢の歴史 猪谷から国道三六〇号線を走り、二六二〇メートルの越路トンネルを抜けて、しばらく行った所が、「加賀沢」である。現在は無人の集落ではあるが、家が一軒残っている。昔からこの地に住む持ち主の家で、夏場には、避暑に訪れているという。
「蟹寺から宮川を遡ること四キロメートル、宮川左岸のわずかな傾斜地に、国境の小村『加賀沢』がある。江戸時代から明治期にかけて九戸の村であった。『カガ』という地名は、草地に由来するという説と、崖地に由来するという説がある。
対岸の岐阜県側にも加賀沢という集落があり、細入側の西加賀沢に対して、東加賀沢と呼ばれた」
「細入村史」
岐阜県宮川村誌に、「東加賀沢」の地名の由来について記述があるので紹介しよう。
「祢宜ケ沢上(ねががそれ)・小豆沢(あずきざわ)などのように、昔のこの地は沼沢地で、一面に野生の『蘿藦(ががいも)』がよく茂ったので『蘿藦沢(ががいもさわ)』とよび、それがしだいに転訛して加賀沢となったかといわれている。
ががいもは山野に自生する宿根蔓草で、葉は対生し、夏のころ紫色五弁の小花をつける。実の長さは七、八センチでこれを採って綿に代用した。地名にはその地に生い出るものの名をもって、名付けたものが多く、たとえば、『古事記』上巻に天の蘿藦船(ががみのふね)を、『書記』には白藦皮舟(かがみのかわふね)とある。『和名抄』や『本草』に蘿藦(ががいも)は、一名藦蘭(かが)・和名加加美(かがみ)・白藦(かがみ)、夜末賀々美(やまかがみ)、徐長卿に和名比女加々美(ひめかがみ)などとある。」
「宮川村誌」
その昔、この辺り一帯は、草が生い茂る沢地であったようだ。東加賀沢は、昭和三十九年( 一九六四) に廃村化している。
「江戸期の加賀沢は、水田がなく、わずかな畑地と山や川の恵みに頼っての生活であったと思われる。細入谷の中でも、税率はとりわけ低く、街道の物資輸送に携わるほかは、平野部とほとんどかかわりのない生活が、そこに展開していたのであろう。国境といっても、このぐらい奥地になると、東加賀沢や小豆沢方面とは、日常的な往来が盛んであった。
明治初期の加賀沢は、水上谷の南、街道の山側に家が並んでいた。
明治二十年( 一八八七) 近くに飛騨街道が改修され、明治四十五年( 一九一二)に猪谷小学校加賀沢分教場ができた。これに伴い、対岸の東加賀沢からの委託児童も通学するようになったため、独立の校舎が大正二年( 一九一三) に建てられた。
これから以後、集落は様変わりし、道路の川側にも新しい家が建てられた。一時、黒鉛が掘られたこともあった。
この状態は昭和三十年代まで続いたが、昭和三十九年( 一九六四) に加賀沢分校が廃止され、このころから急激に挙家離村が進むようになる。…そして、加賀沢は村落社会としての機能を全く失ってしまった。その離村先の多くは、富山市・大沢野町方面であった。」
「細入村史」
江戸時代の頃の加賀沢
村田長保筆 「細入村史」