はじめに 蟹寺の史跡・見学ポイントの紹介地図
P4 蟹寺城跡 飛騨との各街道、河川を押さえる要塞で、経済、軍事の交流を掌握し防衛の拠点として城があった。城郭は北西、南東の二面に堀り切られてあり、幅二十三メートル、奥行き十二メートルの平坦地で中央がやや高くなっている。城跡は、城ケ山の頂上付近にある。
「細入村史」
P5 電灯無償供与記念碑 秋葉神社からやや離れた小高い丘の上に碑がある。
大正九年( 一九二〇)、当時の寒村にとって驚天動地ともいうべき、「出力五万キロワット」の発電所建設の構想と工事の申し入れが日本電力株式会社からあった。
村としては工事に協力しながらも集落全体の利益について検討を重ね、その結果、対価と村全体で二五ワットの電灯一〇〇灯の永久無償供与と発電所の貯水槽からの水を農業用水に分水する契約を交わした証として城ケ山に記念碑が建立された。
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P6 石仏群 八月二十七日にあたる孟蘭盆会には、岩の祠に祀られている火の神、不動明王、薬師如来、弘法大師、三十三番地蔵に観音経を唱え、村の女性たちが盛大にお参りしたものである。
このうち三十三番地蔵については一番から三十三番までは、以前、庵谷凌雲寺から峠道を辿って大渕寺まで設置されていたと伝えられるが、その一つである三十三番地蔵が城ケ山にある。
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P8 城ケ山広場 ここの広場で昭和初期に電力会社の協力によって、毎年八月二十七日の孟蘭盆会に合わせて相撲大会が行われた。近郷近在はもちろんのこと、遠くは能登からも参加し大いに賑わった。
戦後も復活し、賑わった場所である。
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P9 秋葉神社 城ケ山の坂道を登り詰めた正面の建物は、火の神、風の神を祀る秋葉神社である。
以前の社は天保六年(一八三五)に棟梁治四郎が建立したものであった。現在の社は平成十一年( 一九九九) 十月十五日に蟹寺出身の佐藤信春棟梁によって建立されたものである。
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P10 城ケ山展望台 付近の山並みと二本の川、右手に宮川、左手に高原川これらが合流して神通川となっている所が展望できる。対岸は加賀藩で東街道、右手が富山藩で西街道、挟まれた中央が飛騨の国天領で「籠の渡し」で中街道である。それぞれの要所になるので関所や番所が置かれていた。このように三つの川、三つの国、三つの街道を偲びつつ眺める絶好な展望台である。
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P11 徳本僧の名号塔 城ケ山登道の曲り角にある石塔は、念仏の高僧と知られた徳本僧の名号塔である。
僧は、寛政元年(一七八九)紀伊に生まれ、文化十三年八月に飛騨小豆沢から越中に入り蟹寺五郎兵衛屋敷で休憩されたとしている。この名号塔は村内唯一のものである。
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P12 新国境橋 越中と飛騨の国境の難所として有名な籠の渡しの場所には、明治五年( 一八七二) には刎板橋が架けられていた。明治九年( 一八七六) の蟹寺村絵図には、現在の国境橋近くに、板橋が書かれていて、ここには明治の初め頃から板橋が架けられていたようだ。大正十四年( 一九二五) 撮影の写真には、蟹寺と谷間に架けられた初代国境橋が写っている。
飛騨街道の往来が激しくなり、道路の整備とともに、橋も新しくなり、昭和初期から昭和四十一年( 一九六六)までは二代目のアーチ型国境橋が架かっていた。現在の新国境橋は、昭和四十一年( 一九六六) に完成したもので、長さは九七メートルである。
「細入村史」参照



P14 石仏群 新国境橋から旧国境橋に通じる旧街道沿いに六体の石仏が並んでいる。また、宮川を渡った対岸には、灯篭が土に埋もれて上部だけが見えるのが確認できる。宮川の流れの中には旧国境橋の橋脚もあり、ここは歴史を感じさせる場所である。



P15 市川寛斎の詩碑跡 通称「橋場道」を降りた場所に、二体の浮彫り地蔵があり、そこからわずかに行った岩の台地に市河寛斎の詩碑が建っていた。この地は明治五年以降、荷馬引きの茶店や宿屋などが営まれていた。この地から上流二百メートルあまりの両岸から川にやや突き出している箇所が、かつての籠の渡し場である。
平成十六年(二〇〇四)台風二十三号によって、かってないほどに宮川が氾濫し、この「詩碑」も台地諸とも濁流に飲まれ跡形もなくなった。
しかし、平成二十二年(二〇一〇)九月、建立の場所から約三〇〇メートル下流の土砂の中から掘り出された。三分の二はしっかり形を留め、奇跡的と思えるほどである。現在、猪谷関所館に展示されている。
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P16 石仏 猪谷から蟹寺への旧街道の入口、峠下の竹やぶの中に一体の石仏がある。時代の変遷とともに、現在は草木の中に埋もれ忘れ去られようとしている。
P16 旧慈眼院跡 山裾の清水が湧き出る場所で通称池田という沼地に蟹の妖怪が住みつき村人を悩ましていた。富山の海岸寺住職がこの慈眼院を訪れ、妖怪を退治したと伝承される旧慈眼院は、現在の田んぼより一メートルほど下がった場所であったとされている。 「細入村史」
P17 白山社 鳥居をくぐると、慶応三年作の狛犬、天保十年( 一八三九)、安政四年( 一八五七) 作の石灯篭がある。神殿には、石川県にある白山比咩神社を総本山とする神様が祀られている。
向って左には山の神、その後方に五重塔があり、これは太平洋戦争当時疎開していた高田鶴次郎が献上したものである。
また、右には蟹寺間兵衛、五郎兵衛のいずれかが村の生計の糧としていた養蚕の女神を寄進したものが、祀ってある。昭和四十八年、円空仏二体が、神殿の中から発見された。神社境内には「アサダ」の木があり、県内では珍しい。
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P18 庚申様と納経塔 以前は村の南端に建てられていた庚申様は、人々が西国の霊場めぐりに旅立つときの道中の無事を祈願し、無事に満願成就して帰着した時などにお参りしたと伝えられている。
また、納経塔は大渕寺二十七世の弟子の了宗尼が西国、秩父、坂東の百観音と西国八十八ヶ所巡礼を全うした証に建てられたものである。現在は、白山社脇に建てられている。
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P19 五輪塔 昭和六十三年( 一九八八) 五月、故山口昌則氏の浄財で慈眼院住職の墓地を新しく整えた。その脇に、籠の渡し場における悲
話として語継がれている悪源太義平の妻と妹の八重菊、八重牡丹姉妹の五輪塔が二基安置されている。
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P20 慈眼院と石仏群 蟹の妖怪の伝説があった旧慈眼院は西の山裾にあった。当時富山の「海岸寺」からの月庵光瑛和尚が退治したもので、慈眼院は鎌倉期から江戸期に曹洞宗の別院であったと思われる。その後片掛大渕寺の末寺になった。戸数、人口などが増加したので現在地に移築された。
慈眼院横の広場には丸彫地蔵立像、丸彫阿弥陀如来坐像、延命地蔵を含む六地蔵があり、御堂内には有名な立像円空仏や千手観音像が安置されている。
また昭和の戦前戦後、村歌舞伎が盛んだった頃は慈眼院で催され、柱や梁などが外せるようになっていた。現在は老朽に伴う改築等によって見ることは出来ない。慈眼院は、現在、地区公民館になっている。
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P22 越路トンネル 地方の主街道であった古川―猪谷線は峡谷を縫うようにして建設された道路であったため、昭和五十年代に入り国道三六〇号に昇格したものの、冬期間の県境は閉鎖され通行はまったく出来なかった。
平成七年( 一九九五) にようやくトンネルの掘削に着手し、一億二千万年前と推定される草食恐竜「イグアノドン」の足跡の化石が発掘されるなどして、平成十二年( 二〇〇〇) 八月に二千六百二十メートルのトンネルが竣工した。福井県の博物館にその化
石が保存してある。
「越路」という名称は、江戸時代初期の僧、円空が飛騨街道から越中に入った時に詠んだ歌に、「越路」の言葉が使われていたことから命名された。
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P23 大岩と稲荷の祠 高田英弘宅の前にある大岩は、約百九十二トンあると推定され、岩の角が丸くなっていることから、上流から流されてきたものと判断される。この岩にある祠は、太平洋戦争時代に高田鶴太郎大工が稲荷の神霊を分割してここに建立したものである。
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P24 五郎兵衛屋敷跡 籠の渡しで財を成し、街道筋に屋敷を構え細入の大旦那とまで言われた。五郎兵衛は脇本陣役で幕府天領の見分け役で宿屋では十人雇い西山の開田をした。本陣役の井伊間兵衛は機織りと運送業をして土蔵が七つ、二~三十人も雇っていた。
両家は、道路の建設や橋梁の建設によって籠の渡しの中街道、西街道を分岐する要路としての価値がなくなったことにより、没落していった。今は五郎兵衛屋敷跡の石垣のみがその名残を留めている。
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P25 籠の渡し跡 籠の渡し場までの道筋を辿ってみると、城ケ山の峠から蟹寺の加藤剛宅と土蔵の間の道(道路拡張前は石畳であった)を通り、高田英弘宅裏の石垣沿いに進み、蟹寺トンネルの上を横切り、清水の流れ水と関電作業道が交差する箇所の斜面をわずかに残る痕跡から川筋に下りたところが籠の渡し場であったと考えられている。今は草が生い茂り、通行することができなくなっている。
なお、江戸末期に使用されたとされる籠渡しの材料が加藤剛宅から発見され、関所館に展示されている。
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P27 蟹寺発電所導水管 宮川上流の打保で取り入れられた水は、宮川沿いに連なる山中に掘られた導水路を通り、蟹寺まで運ばれる。水路の長さは、
実に一四・三五kmに及ぶ。そして貯水槽から二本の導水管を通して放水される。落差百三十四・五メートル、使用水量毎秒四百三十六立方メートルである。
この水によって二つの発電機が回され、最大出力五万キロワットの電力が作り出される。
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P27 蟹寺発電所 蟹寺発電所は、大正十四年( 一九二五)八月に一号機が運転を開始、二号機は翌年( 一九二六) 三月に運転を開始した。最大出力は五万キロワットで当時の東洋一であった。
新設の頃は五十人近い勤務員がいたが、昭和三十年代に、設備近代化によって一人制御方式( ワンマンコントロール) が採用され、さらに昭和四十五年( 一九七〇) 八月以降は、所長以下四名という寂しい形になり、ついに昭和五十年( 一九七五) 十二月、遠方制御方式が完成して現在は全くの無人運転である。
「電力史誌90年」参照
P28 旧飛騨街道の石仏 蟹寺から加賀沢への旧飛騨街道沿いに石仏が点在している。今は車では行くことができない。歩いて行かなくては見ることができないが、一見の価値あり。


蟹寺の紹介 高林 利三
その昔、菅寺のこの地にわずか七軒しかなかったころ、西の山裾の清水が湧き出る場所に慈眼院という寺があり、その寺の前の沼地に「蟹の妖怪」が住み着き村人を苦しめていた。この話を聞いた富山の海岸寺の住職がこの地を訪れ、妖怪と禅問答の末、見事この蟹を退治し、それを称え村人は慈眼院を「蟹寺」と呼ぶようになった。それがいつの間にかこの地の地名となり、以後蟹寺村と称するようになったと伝えられている。
承応四年( 一六五五) の村御印では村高は九十二石余、すべて畑地、銀納地代銀五六九匁二分七厘、慶応四年( 一八六八) の家数二八戸、一五一人すべて高持百姓であった。元禄期に円空が通り、村に仏像を残している。
時代が進むにつれ、越中と飛騨の交易が盛んとなり、これを結ぶ街道が三つあった。この三街道の内、蟹寺から分岐する中街道は重要な街道であったが、随一の難所であった宮川を「籠の渡し」で渡らなければならなかった。歌川広重の版画「籠の渡し」
で知られている。
しかし、明治に入り道路建設と宮川に板橋が架けられたことにより要路としていた「籠の渡し」は価値がなくなり、必然的に姿を消していった。
大正九年( 一九二〇) には日本経済の発展に伴い東洋一と言われるマンモス水力発電所「出力五万キロ」の建設構想が発表された。村人、ないし一般の人にとっても想像を絶するものであった。
当時村の人口は約一五〇人ほどであったが、工事の最盛期には人口三〇〇〇人に達したといわれ、一四年( 一九二五) に完成し、関西電力の建設当時の集落状況図からは、都会並みのハイカラな生活様式であったことがうかがえる。この建設には村人も協力し、その対価として発電所の貯水槽から農業用水への分水と電灯一〇〇灯の永久無償供与を契約し、その記念碑が城ケ山に建立されている。この契約によって、田が開墾され、消火栓の設置や住居前の融雪装置など電灯と共に便宜を受けることとなった。
当時の運送力、技術力の乏しい中、五年の歳月をかけて建設され、中学校の教科書に写真まで掲載された発電所も時代の変遷により昭和五〇年( 一九七五) 十二月笹津制御所からの遠隔制御運転によって無人化され、それまで従事していた村人や社員は他へ配転となり、宿舎や社宅は撤去された。発電所の社員やその家族によって活気に溢れていた村も閑散となり、当時盛んった村歌舞伎の引き幕だけが当時の面影を語っている。
昭和五〇年代に入り、五三年( 一九七八) に地区内道路拡幅工事により家屋の移転が始まり、翌年には蟹寺トンネル掘削工事に着工し、五五年( 一九八〇) に完成した。主要道路であった古川~猪谷線は国道三六〇号に昇格したものの、県境を縫うような道路であったため冬期間中は通行ができなかった。そこで、年間を通じた交通の確保を目指し改良工事が進められた。中でも現在の越路トンネルは富山県側工事区間の主要工事であった。その越路トンネルも平成十二年( 二〇〇〇) 八月竣工し、飛越を結ぶ大動脈が完成した。
現在の国道三六〇号線は、幾多の歴史を綴った街道の代わりに現代産業や経済の発展のため大量の物資や人を運んでいる。
細入村史「蟹寺」の巻頭詞には、次のように紹介されている。
蟹寺 西街道と中道の合流点
米のみのらぬ寒村の大立物は昔語り
東洋一の発電所の出現を前に
村人の団結毫もゆるがず
融和の中に水利と文明の光を得る
人は集り散じたが
広い道路と美田に村は輝き
伝説の寺をまもる心は今も
「細入村史」
江戸時代の頃の蟹寺