はじめに 片掛の史跡・見学ポイントの紹介地図
P4 片掛銀山跡 今から四〇〇年ほど昔の天正年間に、この辺り一帯で銀山の開発が盛んに行われた。片掛・庵谷・吉野銀山で、坑口が一〇〇ほどあったという。
その鉱口の跡が、庵谷へ通ずる村道の脇に、幾つか残っている。大渕寺から峠を少し上った所には、細入観光協会の『片掛銀山跡』の道標が立っている。
「細入村史」

P5 大渕寺 曹洞宗のお寺である。山門の両脇には、勇壮な仁王像が立っている。開山は文明元年(一四六九)。船峅坂本(大沢野)に開創し、花崎村の瑞泉寺を講じて開山した。この寺は、永禄年間に、上杉勢の兵火により消失した。その後、加賀藩三代の前田利常の寄進を得た。大渕寺と寺号を改め、再興を願っていたところ、須原の森田氏の保護と寄進があり、享保十年(一七二五)、この片掛に本堂を再建した。その後、大正五年(一九一六)の火災で楼門以外は消失したが、大正十二年(一九二三)、現在の伽藍の復興をみた。
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P6 六地蔵と石仏群 大渕寺の門前に六地蔵がある。この地蔵は、片掛銀山の採掘に従事する山方衆の安全を祈願するために峠に立てられていたが、銀山の衰退と共に、長い間そのまま放置されていた。そのため、昭和五十八年(一九八三)に、大渕寺門前にお堂を建て、移設した。現在も地蔵法要を行い、お参りしている。
その横には、地蔵菩薩が四体並んでいる。この祠の裏側、山門脇にもたくさんの石仏が並んでいる。













P9 三十三所観音 細入にある三十三所観音の一組は、片掛大渕寺の山門脇にある。配列の乱れはあるものの、三十三体すべてが揃っている。
この石仏は、最下に方形の台石、その上に別石による蓮花座を置いて立てる舟光背型の一石一尊仏である。台石を含めて総高約八十センチメートルである。
砂岩系の石材である上に刻みがあまり深くなく、欠損するもの、摩減のために像容や刻字が定かでないものもある。正面下方に台座による「壹番」「拾番」「丗三番」等と札所番号を縦書きに刻む。約半数は光背部に、「大姉」「居士」「信女」「童子」などの法名二人分ずつ刻む。はじめから、同寺山門脇に並べるため、同寺檀徒による寄進であろう。
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P10 馬頭観音 片掛集落から庵谷峠への上り口に馬頭観音が奉られている。お供えの花が耐えることはない。地域の人たちが今も大切にお守りしていることが伝わってくる。
昔は、人々の生活と牛や馬は深い関わりを持っていた。田畑を耕し、物を運ぶのにも牛や馬が使われた。物を運んでいた牛が死ぬと大日如来を祭り、物を運んでいた馬が死ぬと馬頭観音を祭ったとのことだ。
片掛大渕寺前の馬頭観音には明治四三年(一九一〇)と刻まれている。
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P11 小菅峠上り口 大渕寺に近い道路脇に、「旧飛騨街道」の標識が立っている。ここが、小菅峠を越えて庵谷集落へ続く旧飛騨街道の上り口である。峠までは、細くて険しい上り道が続いている。しかし、今は、ほとんど通る人もなく、雑草に覆われている。
明治十九年(一八八六)、旧飛騨街道の改修が行われ、庵谷峠を越える新道が作られた。それまで牛でしか越せなかった峠道が、荷馬車の通行ができるようになり、輸送量が飛躍的に増加した。
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P12 水戸家 明治初期に建てられた農家である。今は懐かしいくぐり戸と、長いヒサシが残る農家である。傾斜地の多い片掛は、江戸時代から養蚕が盛んであった。蚕の成育には、日光が直接当たるのがよくないので、屋根のヒサシを長くした。
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P13 円龍寺 元は真言宗の寺であったが、承元元年(一二〇七)親鸞聖人の化導を受けて浄土真宗に改宗した。その後文明年間に本願寺の蓮如上人の教化を受けた。永正四年(一五〇七)に本願寺実如上人より開祖仏ならびに円龍寺の寺号を許された。「白銀山」という寺の山号は、片掛の地で銀が盛んに掘られたことに由来する。その後本願寺が東西に別れ、東本願寺の末寺になる。明治三十四年(一九〇一)に大火にあい、本堂や鐘堂、宝物などの多くを焼失したが、大正八年(一九一九)に現在の本堂が再建された。
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P14 西念寺 浄土真宗本願寺派である。源義仲の家臣で片津権左衛門友明が逃れて下山に城を構えていた説がある。親鸞聖人に都の様子を聞きたい一念で富山に忍び上人の化導に合い髪をそり法衣「西念」を受け、庵谷に草庵を設け念仏三昧に入った。その後片掛に移り鉱山奉行所の跡を賜り現在地に堂宇を構えた。明治三十四年(一九〇一)の大火にあい、その後本堂、庫裏、経蔵、楼門、梵鐘などを再建した。
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P15 片掛公民館と金剛院跡 平成二年(一九九〇)に旧公民館を建て替える時に、現在の道脇に移転した。水力発電施設周辺地域交付金で建てられた。
この場所には、以前金剛院があった。金剛院は、永禄二年(一五五九)に富山にあった金剛院の権代僧都逢山の代に片掛村へ院号とともに転地して住職となった。
明治三年(一八七〇)十月二十七日旧富山藩の長柄町清傳寺への合寺に遭ったが、同九年(一八七六)二月二十四日元に復した。当院は、もともと山伏の寺として飛騨の角川から笹津界隈を加持祈祷の場としていた。明治三十四年(一九〇一)の大火に遭い、その後堂宇を建立したが,未完のままだった。
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P16 坂野家 片掛に設けられていた郵便局がこの坂野家にあった。片掛の郵便局は、大久保局と高山局の中間地として、人の足で配達や集配をしていた。大正十年(一九二一)から、密田銀行もこの家の一室に出張所を置き、営業していた。今も、二階の家の窓に、その当時の鉄格子が残っている。昭和五年、飛越線が開通し、猪谷駅前が賑わうようになると、郵便局は猪谷駅前に移転した。
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P17 一里塚 片掛集落の中央よりやや南の道路東脇に、直径約九十㎝の榎の大木が二本そびえている。旧飛騨街道は、この木の下を通っていて、昔の一里塚に植えられた榎と伝えられている。
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P18 秋葉社 三百年ほど前には、この地に社があったことが確認されている。現在は八坂社の末寺になっている。御神体は浮彫石神で火焔光背型台座の狐の上に立ち、右手に剣、左手に索を持ってぃる。
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P19 八坂社 創建ははっきりしないが、往時、片掛銀山の忍屋新左衛門が守護神として奉斎していた牛頭天王社があった。新左衛門の退転後、同村内の諏訪・春日・神明の各社を合祈し、八坂社と称した。現在の社殿は、昭和十一年(一九三六)九月に改造したものである。
境内には日露戦勝記念碑も設置されている。
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P20 道の駅細入 平成六年(一九九四)四月、国道四十一号線、片掛地内東野に、芝生広場、アストロゲレンデ、遊具、公衆トイレ、飛越ふれあい物産センター「林林」、などが整備された道の駅が建設された。その後、食堂も増設された。越中と飛騨の県境にあり、富山と飛騨のお土産が所狭しと並んでいる。休日や行楽シーズンには大勢の人に利用されている。
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P16 東野台地 東野台地では、今から三千年前の縄文土器が出土する。中でも爪型文様の口縁部を飾った土器や矢じりが多い。
この大地をよく見ると砂の層である。この砂の層を調べると噴火した火山灰である。今から三万年前に上流の上高地の焼岳の火山灰が流され、ここに堆積したものである。砂地の上は黒土があり、ラッキョウの生産が有名である。細入の特産品になっている。
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P22 神通川第一ダム 富山市細入地域を流れる神通川には、三つのダムがあり、最上流にあるのが神通川第一ダムである。昭和二十七年(一九五二)に建設が始まり、昭和二十九年(一九五四)に送電を開始した。長さ三百三十二メートル、高さ四十二メートルのダムである。ここから、下流の庵谷の発電所までトンネルで水が送られている。最大出力は八万キロワットである。 「細入村史」
P23 籠の渡し跡 神通峡で一番狭い吉野橋の少し上流の大岩に篭の渡しがかかっていた。古図、神通川絵図(文化十年 一八一三年)に書かれている。幅が十四間(二十五・五メートル)あった。明治十八年(一八八五)に丸木橋になる。
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P24 吉野橋 昭和二十八年(一九五三)神通第一ダム工事で丸木橋が架け替えられ、更に昭和五十八年(一九八三)に現在の橋となった。幅七メートル、長さ百二十三メートル、片路峡を望む絶景の場所である。
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P25 ダム湖横の崖にある野仏 ダム湖横の片掛から吉野へ通じる道の崖に野仏が二体ある。一体は嘉永四年(一八五一)の年号が確認できる浮彫地蔵立像である。

片掛の紹介 国道四十一号線「道の駅 細入」の周辺に広がる集落が片掛である。集落は、高山本線から山方の旧飛騨街道沿いに連なる家並みと、国道から神通川へ下る吉野道に連なる家並みがある。
「片掛」という地名は、東野と呼ばれる火山砂がたまった土地があり、神通川沿いの土地がえぐり取られたような地形になっているところから、「片方が掛けている」という説と、片津という武士が、お寺を建て、それを「片津のお掛け所」と呼んだことからの説がある。
片掛は、旧飛騨街道の峠下の宿場町として発展した集落である。また、片掛には、銀が産出する鉱山があり、室町時代から江戸時代頃まで採掘された歴史がある。銀が採掘されていた時代には、飯場や精錬場があり、三百戸ほどの家が建ち並び、吹き屋かまどの煙が絶えなかったという話が残っている。採掘された鉱山跡の記念碑が、庵谷峠へ上る旧街道沿いに立っている。
大正時代の地図を見ると、街道沿いに商店街があり、旅館三、馬車宿一、飲食店七、食料品店等五、馬車屋四、酒屋二、理髪店二、運送問屋三、人力車三、鍛冶屋三、大工四、女郎屋二、木羽板屋、下駄屋、石屋、左官、警察署、医院など賑わっている様子が記されている。この頃が、片掛の戸数・人口のピークで、昭和五年(一九三〇)、飛越線が猪谷まで開通し、猪谷駅前が賑わうようになると、商いをしている家々が猪谷へ移って行った。

昭和二十七年(一九五二)神通川の電源開発事業が始まり、片掛と吉野を結ぶ地点に神通川第一ダムを建設し、下流の庵谷に発電所を建設するという工事が始まった。工事は急ピッチで進み、第一発電所は、昭和二十九年(一九五四)に完成し、送電を開始した。工事期間中、片掛には、北陸電力の工事事務所や合宿所、大工事の本部などが置かれた。旧街道沿いには、魚店、とうふ店、飲食店、パチンコ店などができ、一時的ではあったが、昔を偲ばせる賑わいが片掛に戻った。
昭和三十年代になると、新しくできた神通湖(第一ダム湖)に、貸しボートや遊覧船が走り、湖畔には三階建ての料亭が建ち、神通峡は、富山からの日帰りハイキングの場所として、にわかに脚光を浴びるようになった。たくさんの人が、列車やバスに乗って、神通湖へやって来た。しかし、昭和四十年代に入り、観光が広域化する中で、こういう風景は、衰退していった。

細入村史「片掛」の巻頭詞には、次のように紹介されている。
片掛 富山・船津へは共に七里
峠の峻険の南にあって
飛騨からの人と荷、
足を停めるを常とする
かね山と宿場の賑わいで
町と呼ばれるも
七寺四社の勢い今はなく
古き坑道に栄華を想う
ダム工事をひと花として
静かな畑作の村に還る
「細入村史」
江戸時代の頃の片掛