水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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庵谷の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに 庵谷史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4 バイパス道路と庵谷町長大橋の完成

 庵谷地区には最大の難所がある。松ケ谷地内の崖崩れの心配がある場所である。大雨で心配がある時は、国道四一号線は通行止めになる。この場所は距離も長いし山腹なのでこれを避けるため、国土交通省北陸整備局は、富山高山連絡道路の建設の一つとして対岸を経由するバイパス建設に着工し、平成二二年(二〇一〇)十一月二十日にバイパスが完成した。庵谷と町長を結ぶ大橋は、全長三六九メートルで、庵谷町長大橋と命名された。
「細入村史」

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P5 旧庵谷橋

 大正十一年(一九二二)から開始された蟹寺発電所工事のために、富山方面からの資材が荷車によって運ばれることになったために、より堅牢な庵谷橋が架けられた。
 その橋詰めに料理屋があり、美しい遊女がいたため「花魁橋」と呼ばれていた。
 現在は、取り壊され、太谷川橋の横に橋の基礎部分が残っている。
「細入村史」参照

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P6 庵谷館跡  
 
 一六世紀に上杉謙信が飛騨の江馬氏、武田方の来攻に備えてとりでを築いた時にここができたようだが、今は何も残っていない。庵谷館は集落の中程に「館」の小字があり、旧飛騨街道の道の付近にあったものと思われる。
「細入村史」

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P7 神通川発電所建設で殉職された人を慰める観音像

 この観音像は、神通峡に建設された神通川第一、第二、第三発電所の工事で殉職された二十七名の霊を慰めるために、当時の北陸電力、山田昌作社長によって建立されたものである。
 ここに描かれている観音像は三十三観音のうちの一つである衆宝観音像で十徳を備えた尊い観音である。
 発電所は科学であり水であり、又生命の源泉は光であり水である。その水を配する光の慈悲門たる観音を、ここに表現し発電工事の犠牲となられた人々の霊を慰めている。
北陸電力「観音像のいわれ」より

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P8 庵谷発電所

 明治四一年(一九〇八)発電工事を開始し水の取入口を猪谷と蟹寺とし、トンネル水路で落差五〇メートル二六〇〇キロワットの発電を、明治四四年(一九一一)一月に完成させ、北陸最大の発電所ができた。
 大正三年(一九一四)の洪水で導水路が埋没したため、大正五年(一九一六)に第二発電所の工事を開始した。片掛から水を取り入れ、落差八五メートル、九五〇〇キロワットの発電所が大正八年(一九一九)六月に完成した。                
「細入村史」

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P9 神通川第一発電所 
 
 昭和二七年(一九五二)に庵谷発電所の改造計画に着手し、片掛に高さ四二・三メートル、長さ三三二メートルのダムをつくり、昭和二九年(一九五四)二月に完成した。サージタンクの水圧、フランシス型水車で八万キロワットの発電を誇り、神通川第一発電所とした。
 この工事では建設工事機器のブルドーザー、ショベルカーなど最新鋭の重機が使われ、工費一六・六億円、延べ一六〇万人の大事業であった。
「細入村史」

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P10 旧役場跡(浅野宅)

 細入村が明治二二年(一八八九)に発足し、平成元年(一九八九)四月一日に百周年を迎えた。役場が明治二二年(一八八九)から昭和一一年(一九三六)まで現在の浅野豊一宅にあったが、高山線の駅が庵谷にできなかったことから、交通の便と広い土地を考えて楡原に移転した。        
「細入村史」

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P11 庵谷小学校跡(プール付近)
 
 赤座家で寺子屋が開かれていたが、明治一一年(一八七八)に楡原小の分校となり、明治二〇年(一八八七)に簡易小学校として独立した。明治二七年(一八九四)に尋常小学校となり、明治三四年に再び楡原小の分校となり、大正一二年(一九二三)に楡原小に統合した。         
「細入村史」

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P12 フェーン現象と大火
 
 昭和二二年(一九四七)四月一日、国鉄踏切より下の家二五戸が焼失した。原因は高山線の汽車から燃焼中の石炭が転がり落ち茅葺き屋根に火がついたことによる。フェーンの南風が大谷川から吹いていて火勢を強め大火になった。国鉄から見舞金を受け、その後この辺りは新築家屋が並び建った。                  
「細入村史」参照

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P13 新庵谷大橋

 昭和六十年(一九八五)から国道四一号線庵谷トンネル口に、延長一七七メートルの緩いカーブを描く大橋の建設が始まった。この橋は昭和六二年(一九八七)に完成し、新庵谷大橋と命名された。この箇所は、以前はトンネルの出口で大きく急カーブしており、危険な場所であった。新庵谷大橋の完成によって、四一号線の難所が一つ解消したことになる。
「細入村史」

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P14 庵谷トンネル
 
 細入村の中央に屏風のように立つ庵谷峠は南北の交通を妨げ、生活圏も猪谷地区と楡原地区に分かれていた。そこに昭和二八年(一九五三)一〇月からトンネル工事が始まった。長さ九七一メートルの直線のトンネルで貫くもので、庵谷側は前田建設が片掛側は佐藤工業によってなされ、昭和三二年(一九五七)五月に完成した。当時の日本では長さが五番目のトンネルだった。
 付帯工事に一年を要し昭和三三年(一九五八)からは交通は一変した。四〇分の峠越えがわずか二~三分で通れるようになったのである。新トンネルの完成で、今はコンクリートで入口が塞がれ、その上に瓦礫が載って今は見ることができない。
「細入村史」

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P15  庵谷隋道完成記念碑
 
 昭和四一年(一九六六)十一月三日、庵谷トンネル建設の意義と関係者の功績を後世に伝えるべく、銅版をはめ込んだ立派な石碑をトンネルの庵谷側入口に建てた。ここには富山大学教授高瀬重雄博士の撰文がつづられている。
「細入村史」

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P16 新庵谷トンネル 
 
 国道の交通量が増したことで庵谷トンネルの幅が狭く、大型車の通行が不便なことから、昭和六三年(一九八八)一〇月より新庵谷トンネルの工事が東側で始まり、前と同じ佐藤工業と前田建設が請け負った。
 延長一〇三四メートル、幅一〇・二五メートル費用二一億円、平成元年(一九八九)九月に貫通、平成二年(一九九〇)九月に早々と完成し開通した。
「細入村史」

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P17 庵谷の棚田
 
 国道四一号線から西側に広がる田んぼはきれいな棚田になっていて、この風景を写した写真がよく富山の写真展で紹介されている。昭和五三年(一九七八)から始まった農業基盤整備事業で今のような棚田に整備された。
「細入村史」参照

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P18 日露戦勝碑 
 
 明治三七年(一九〇四)二月、日露戦争が勃発した。日清戦争の時に比べて個人からの出征者も多く、村内には日露戦争戦勝記念碑が、庵谷・片掛・猪谷の三か所に建てられ、さらに個々人の戦没慰霊碑も三基建てられている。
 戦勝記念碑の石刻によると、庵谷一二名、片掛一一名、猪谷一六名が出征している。細入村からの出征軍人は七〇~八〇人程度ではなかったかと推測される。
「細入村史」

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P19 石仏群
 
 旧道脇のこの場所に庵谷の石仏が集められている。
 

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P20 道標 
   
 県道と凌雲寺の分かれ道に「右ハやま、左ハたか山道」とあり、明治二〇年代にもう少し寺よりにあったが県道改修時に移転され、今の所になった。
「細入村史」

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P21 凌雲寺(曹洞宗)跡

 寛政元年(一七八九)、大渕寺二一世の簡易所として創設。昭和二九年(一九五四)庵から寺に昇格した。境内に「法華塔」があり、大渕寺弘道書とある。
 円空仏がこのお寺と村山家より見つかり、旧細入村での最北端での発見であった。廃寺となり、今は、法華塔と観音像が残っている。
「細入村史」参照

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P22 日枝神社

 祭神大山ひめ神・少彦名命・氏子六〇戸、天和三年(一六八三)銀山の守護神として富山の日枝神社の分霊を山王台地に祀った。  その後一〇〇年後に山口の地に遷座、以来二〇〇年を経て明治四三年(一九一〇)上野割の現在地に日枝神社を始め八幡社、粟島神社、山の神、稲荷大明神、秋葉大権現の六社を合祠した。
 庵谷に六社もあったのは銀山に派遣された人々が自分たちの氏神を祀ったことによる。境内に四角型石灯籠一対(彫刻)がある。宝暦四年(一七五四)の銘あり、貴重な石灯籠である。                         
「細入村史」

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P23 秋葉大権現 
 
 昭和二三年(一九四八)の大火で火の神である秋葉大権現を、日枝神社境内から旧社地に戻した。昭和五〇年(一九七五)に拝殿が造営された。秋葉様のお祭りは毎年四月一日に行われている。      
「細入村史」

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P24 小菅峠登り口

 集落内の県道を進んで行くと「旧飛騨街道入口」と書かれた標柱がある。この標柱から山側の右手の道跡を登って行くと、旧飛騨街道の難所であった小菅峠へ辿り着くことができる。
 以前は、一番通りやすい所を選んで道をつけ、少しずつ道幅を広げて、牛馬も楽に通れるようになっていたのだが、現在では牛馬はもちろん人もめったり通ることがなく荒れている。ここが旧飛騨街道の残存の道跡である。
「細入村史」

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P25 お不動さま
 
 飛騨街道の難所だった場所も、明治一九年(一八八六)、飛騨街道が県道として改修され、小菅峠から庵谷峠を通る道になり、荷馬車も通れるようになった。
 しかし、まだまだ危険な所が多く、馬車引きたちが交通の安全を願って、祀ったお不動さまだと云われている。八月下旬にはお不動祭りを開催している。
 このお不動さまの脇に流れる水を利用して、おいしいお茶やコーヒーを沸かすことができる。
 「村の今昔」細入歴史調査同好会

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P26 庵谷峠
 
 明治一九年(一八八六)小菅峠越えの難所を解消するため県道が新たに造られ、荷馬車が通れるようになったのが庵谷峠道である。だが、勾配を緩くするのにいくつもの谷を大きく廻ったため、カーブが多く長い道のりとなり、荷馬車で物を運搬するのにも多くの人手や牛馬が必要となった。しかし、この県道ができたことで飛騨への生魚・米・塩・木綿などが運ばれ、飛騨からは木地類・コウゾ・鉱石などが大量に運ばれるようになった。
 また、村の人たちも荷馬車の峠越えを手伝った駄賃を稼ぐことができた。この峠道も、昭和のトラック時代になると一時間もかかる峠越えや冬期間の通行止めが楡原地区と猪谷地区の生活を妨げることになっていた。
「細入村史」

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P27 庵谷峠の礫岩層
 
 峠の切り割の地層を見ると、川の礫である。しかも大きな礫が見え、礫を固めている砂や小石も同じ硬さであるため、スパッときれいに割れている。
 この礫岩層は、庵谷峠礫岩層といって、今から一億二〇〇〇万年前の中世代ジュラ紀に手取湖の底に溜まったものである。湖の底だったものが持ち上がったのである。楡原の松ケ谷の断層地と猪谷川の断層地の間が隆起したものである。
「細入村史」

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P28 庵谷峠の展望台
 
 峠の東側に展望台の上り口がある。五〇メートルぐらい行くと鉄骨の展望台に着く。この辺りは、春の若葉、夏の緑、秋の紅葉、冬の厳しさと四季を通して自然の素晴らしさを感動させてくれる場所である。
 北側は片路峡、寺津、庵谷、楡原、割山と山々、その奥に富山平野が見渡せる。また、南側は、以前は、片路峡、薄波、吉野、伏木、小糸、片掛、猪谷とその山々、その奥に飛騨の山々が見渡せたが、今は、木々が生い茂り、見えなくなった。         「細入村史」

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P29 神通峡自然環境保全地域 県指定昭和五一年(一九七六)六月一日 
 片路峡のV字峡谷と蛇行によって「ウラジロガシ」「アカシデ」の天然林の植生が見られ、庵谷峠の展望台下から長棟川口までの急崖地が特別地区に指定されている。規模の大きさや自然植生の保存状態など県内で最もよい「ウラジロガシ」の群生地である。この貴重な自然環境は細入の宝である。この宝物を大切に保存し、次の世代へ引き継いでいくことが求められている。
「細入村史」

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P30 小菅峠

旧飛騨街道の難所だった小菅峠。標高は四〇〇メートル。明治一九年(一八八六)に旧街道は荷馬車が通れるように改修工事が行われ、もう少し東にある庵谷峠を越える道になった。それ以来、人々はこの峠を越える必要がなくなった。
 今も旧街道の跡は残っているが、めったに人が通らず荒れた状態になっている。今ある小屋の辺りにその昔、茶店があったという。
「細入村史」参照

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P31 防空監視哨に無線中継局

  昭和一四年(一九三九)から日本全土の空襲にそなえて防空監視哨を三角型の建物で作り、空の監視をして富山へ電話報告していた。
 終戦後なくなり、今は細入地域行政無線の中継局がここに建っている。
「細入村史」

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P32 庵谷銀山

 今から四〇〇年ほど前の天正年間(戦国時代)に発見された銀山で、片掛や吉野銀山をあわせて坑口が一〇〇ほどあった。現在は四〇抗ほどが残っている。庵谷には、大舞坑、小舞坑など、また精錬所跡といわれる所はあるが、現在はっきりとした形で見ることはできない。また昭和一七年(一九四二)から一九年(一九四四)の戦時中は、銅・亜鉛を掘り始めたこともあったが、戦争が激しくなり経営困難となったため廃止された。                
「細入村史」

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庵谷の紹介
 
 庵谷は神通川とその支流の大谷川の間の段丘上に立地する集落である。集落は飛騨街道に面しており、通行の難所であった庵谷峠の北側の集落として栄えた所である。

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 地名は「ようだん」とも称したが「よりだん」とも言われ「庵谷」と書く。「庵」の文字を冠する地名は古い開発を伝えると言われ、「庵」の語の持つ民俗学上、最も古くから開けた土地とされている。近世に至るまで、飛越間の物資(米・塩・魚・木材・こうぞ等)を運ぶ流通の要所となっていた。
 また飛騨木材を流送する中継点で対岸の寺津との間に藤で編んだ大綱を数本渡し、流木を止めて数を確認して牛ケ増で筏に組んで東岩瀬に出し、ここから船積みで江戸に運んでいた。社寺は銀山の関係で多く日枝神社、八幡社、粟島社、稲荷社、山の神、秋葉社の六社があったが明治四三年(一九一〇)に合祀して日枝神社とした。
 慶応四年(一八六八)の家数は六四戸、人数は二五九人であった。
 片掛地区とともに銀山があり,元和五年(一六一九)の前田利光、利常による庵谷・片掛などに六金山宛の一五ケ条定書があるところから、それ以前の創業と考えられる。寛永一六年(一六三九)の富山藩成立の前後に衰退していたが、同一九年(一六四二)の書上には朱封銀三貫目とあることから廃絶することなくあったことがわかる。
 
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明治二二年(一八八九)の細入村成立のときから昭和一一年(一九三六)まで庵谷に役場が置かれていた。明治末期には水路式の庵谷発電所が作られ、大正に入ってその第二発電所も建設された。また高山線の敷設によって、 県道に踏切ができたなどの景観的な変化があった。この間自動車の普及によって次第に峠に近い場所の価値が低くなったとみえて、上の方の家は減り、国鉄踏切より低い方に家が増加した。家並に関しては、昭和二二年(一九四七)に集落の半分近くを焼き尽くした大火のことを忘れてはならない。

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 昭和二五年(一九五〇)、北陸電力の手によってダム式の神通川第一発電所が建設され、従来の発電所が廃され、その後新たに庵谷発電所が追加建設され、以前のように二つの発電所が存在するようになった。
 また、片掛との間に庵谷トンネルが抜かれ、それに伴う道路の路線変更で、庵谷地内の従来の街道が裏通りになってしまい、景観を一新した。新しい道路は、従来の家並を切り通しによって横断し、旧道と立体交差になっている。このことは、結果的に、集落を騒音公害や交通事故の危険から救うことになった。
 旧道には展望台が設けられており、片路峡の眺めは素晴らしい。
 水田については、圃場整備事業が実施されてその姿を大きく変えた。自動車の入る農道も合わせて作られ、機械化された稲作が行われている。
 最近の庵谷地区の大きな変化の特色をみると、一つは、四一号線の難所が解消され、整備が急速に進み、大型車や県外ナンバーの通行が一段と多くなったこと。二つめは、営農組合の発足で地区の農業の機械化が図られ、水田耕作の省力化・効率化が進んだこと。三つめは、上下水道工事が完成し、住宅環境が著しく改善されたこと。四つめは除雪車の配備や流雪溝の改良で雪対策が一層進んだことが挙げられる。
 環境や生活の著しい変化の中で、少子化・高齢化の波が押し寄せ、戸数・人口が減少している。 
「細入村史」参照

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江戸時代の頃の庵谷

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[ 2016/09/05 09:59 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)
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プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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