水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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楡原の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに  楡原の史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4 集落北の題目塔
 
 楡原法華圏には石仏は皆無であるが、その代わりに題目塔がある。扁平な川石や割石の正面に宗祖日蓮の筆法による題目、いわゆる髭題目を刻んだものである。村人は「ホーケサマ」「ホーカイサマ」と呼んでいる。集落の南北の入り口にあってこれより法華圏であることの榜示と村の安泰を守る立石と考えられる。
 集落北の題目塔は、かつては楡原の北限にあったものと見られるが、現在は村界近くの岩稲トンネル横の国道西側崖上に建っている。
 天和三年(一六八三)の銘があり細入地域では猪谷西禅寺前の地蔵石仏二体に次ぐ古い在銘石造物である。高さ四六センチ、一辺五二センチの大きな切石を台石とし、高さ一〇九センチ、横四〇センチ、厚さ三二センチの立石は川石を若干加工したものである。上方に破風状の頭部を残し、これより下方を削って塔身面とする。額部の中央にある月輪状のくぼみの中に凡字が刻まれていたのかも知れないが風化していて読めない。塔身面の最下に法華を大きく線刻する。中央に大きな題目と「十界萬霊」を刻み、その向かって右側に「天和三年七月十六日」左側に「施主千部講中」と刻まれている。
 明治一七年(一八八四)の道路改修以前に三〇〇メートルほど南にあったものを現在地に移したと伝えられている。
 楡原では毎年二月一六日の火祭りの日に外から村に災いを持ってくるのを防ぐため道切りとして、楡原集落の自治会長が札付き締め縄を塔に巻いている。                        
「細入村史」

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P6 畠山重忠の石標   

 楡原村を南北に縦走する国道四一号線の西側に鎌倉時代の武将、畠山重忠公碑がある。明治二十七年(一八九四)に建立されたもので、これより三〇〇メートルほど西に、「館」というところがあり、そこに重忠公の眠る墳墓があるので、この石碑は、道行く人々に対しての顕彰碑というべきものであろう。毎年七月の第三日曜日の重忠祭りには幟旗を立て人々の注目を集めている。村人がいかに重忠公を慕い尊敬してきたかの表れである。
「細入村史」

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P7 営農ライスセンターと耕心碑

水田圃場整備が昭和五三年(一九七八)から進み、団体営圃場整備事業(団圃)と農村基盤総合整備事業(ミニ)の指定を受け、四四・三 haの整備により、大きな三haの田ができた。トラクター、田植え機、コンバイン、乾燥機、脱穀、籾摺り、袋詰めの処理が素早くでき、省力化が進んだ。また細入村特産のラッキョウの生産組合もでき出荷している。
農村公園に「耕心碑」がある。圃場整備事業が完成したので会長の水上富雄氏が書いた「耕心」の碑で、先祖が耕した田畑を若い人も心を込めて後々までも耕して頂きたいと、感謝と希望を込めた意味である。
「神通峡ふるさと歩行会 しおり」

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P8 楡原館跡
 
 この高台は「舘」といわれ、戦国期の永禄十二年(一五六九)に能登守護の畠山義則が楡原一帯を治める居館があった場所である。いざ戦乱となると背後の大乗悟城、南側の楡原山城にたて篭もった。
「畠山重忠の墓説明板」

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P9 畠山重忠の墳墓

 楡原地区の西段丘上、八幡宮のやや北側に畠山重忠の墓がある。墓石研究家の話では、一四~一五世紀頃のものであるという。
 基檀は台形の積石からなり、上端は南北三メートル東西二・五メートルで、その上に扁平な六〇センチほどの石が並べられている。その基盤となった石の上に小石塔や凡字のある板石塔婆・五輪塔・宝篋印塔などがならんでいる。重忠の墓であるという真偽は明らかではないが、楡原地区の江尻彦通氏所蔵の文書に、元禄九年七月一一日付け「恐れ乍ら口上書にて御尋ねにつき差上げ申候」によると、郡奉行に対し重忠の墓は、遠く真言宗であった頃からこの村では重忠の菩提所であると伝え聞き供養している旨を報告している。
 位牌は「大心院殿蓮空神祇」とあり、天保八年(一八三七)から今日に至っても上行寺住職を導師として手厚く供養している。
 近年「重忠踊り」をイベントに、盛大に行事を伝承している。                                
「細入村史」

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P10 楡原八幡宮(通称裏お宮)
 
 楡原八幡宮の祭神は応神天皇・神功皇后・比咩大神である。創建は定かではないが、鎌倉時代初期畠山重忠が楡原に隠棲したとき、鎌倉武士の崇敬が厚かった鶴岡八幡宮の分霊を仰ぎ、この地に祀ったことがはじまりと伝えられている。
 その後、永禄一二年(一五六九)能登の「畠山義則」が楡原館と割山の大乗悟山城の城主であった折に、社殿を壮厳にしたが、畠山氏の滅亡と共に本社も衰えたと伝えられる。なお、婦負郡の延喜式内社七座に次ぐ神社で、いわゆる楡原保一四か村の総社であったともいわれている。この宮にハルニレの木があり、楡原の由来にもなっている。
「細入村史」

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P12 楡原中学校
 
 細入地域にある唯一の中学校である。学校の沿革史は次のようである。

昭和二二年(一九四七)組合立楡原中学校として開校。
昭和四二年(一九六七)猪谷中と統合合併、楡原中学校として開校。
昭和五六年(一九八一)新校舎・体育館が落成。
昭和六〇年(一九八五)漕艇部新設発足。
昭和六三年(一九八八)漕艇部全国大会女子総合優勝。
平成四年(一九九二)生徒指導推進モデル校区指定。
平成四年(一九九二)県教委より優良学校表彰(奉仕活動)。
平成一七年(二〇〇五)市町村合併により富山市立楡原中学校となる。
平成二二年(二〇一〇)神通碧小との併設校として新たにスタートした。
「富山市ホームページ」

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P13 神通碧小学校
 
 旧細入村では明治から幾多の通学域の変遷を重ねてきた。児童数が減り猪谷小学校で複式学級となったため、平成一五年(二〇〇三)四月楡原小学校と猪谷小学校の統合により新しく神通碧小学校となった。
 しかし、古い校舎のため、耐震校舎建設が課題となり、楡原中学校敷地内に新校舎の建設が決まった。
 平成二二年(二〇一〇)三月、新校舎が完成し、四月から小中併設校という新たなスタイルでの教育がスタートした。
 「細入村史」参照

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P14 行幸記念碑
 
 昭和天皇が昭和二二年(一九四七)一一月一日に楡原寮に行幸されたことを記念して建てられた碑である。戦後高田アルミ工場の寮に戦地からの引揚者や戦災者を四七世帯受け入れていた。  
 午前一〇時二四分にお召列車がお着きになり陛下は手に帽子をお持ちになり「お大事にね」「大変だったね。明るい気持ちで元気にくらしてください」とお言葉を繰り返し御慰問された。
「細入村史」

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P15 住吉家 丹後の局の墓
 
 楡原集落のほぼ中央で国道四一号線沿い東側に源頼朝子孫といわれている住吉家がある。これは伝説であるが、源頼朝の妾の丹後の局が本妻政子より先に子供を身ごもり、これを知った政子はその子が男の子であれば頼朝の嫡男になることを恐れ、畠山重忠に密かに亡き者にするように命じた。
 しかし畠山重忠は丹後の局を不憫に思い鎌倉から去るように伝えた。丹後の局は身分を隠し落ち延びていく途中、摂津の住吉神社の境内で、人の情けにより男の子を出産した。局はやがてその子を伴い永い年月を旅するうちに、恩ある畠山重忠が鎌倉を追放され越中の楡原に侘び住まいをしていることを耳にする。
 そこで丹後の局は重忠公に会って恩返しをしたいと一路越中に向かい、楡原にたどりついた時には、すでに重忠はこの世の人ではなかった。
 悲歎にくれた局は、楡原の地に留まり、重忠公の菩提を弔うため、髪を剃り尼となった。頼朝の血を引く子供を小治郎朝重と名づけ(幼名吉寿丸)子孫を永くこの楡原に留めることにして果てた。時に承元三年(一二〇九)五月三日であった。住吉家の初祖清光尊尼は丹後の局のことである。小治郎朝重は豊後の姫をめとり二代目を相続し、その後綿々として相継ぎ現在の当主は三八代目に当たるという。住吉家の姓は丹後の局が大坂の住吉神社の境内で出産したことにちなみ名づけられたと伝えられている。
「細入村史」

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P17 住吉遠山翁碑
   
 江戸時代末期から明治初年にかけては、細入の多くの村に寺子屋が開かれていたようである。住吉家は当地方の旧家であって、代々寺子屋を開き多くの子弟を教え、地方教化の中心であった。殊に、孫蔵は八尾町宮腰甚四郎に四書・習字を学び、号を遠山といい、楡原小学校創設の大功労者であった。           
「細入村史」

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P18 和みの家
 
 旧岩井家の家屋を保存した建物。明治三九年(一九〇六)建築で、火災に対処するため土蔵造、吾妻型になっている。概観等を保存し、内部は会議や行事などの取組みができるように改装した。
「細入村史」参照

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P18 五輪塔群集積地

 中世頃、真言宗だった法雲院が法華宗に改宗し、芦生に移り、ここに法華宗の上行寺が進出した。そのため、いらなくなった五輪塔をここに集積した。 中崎幸一の宅地に塔の部分を四〇個体と板石塔婆一三基などを組み合わせて「五輪塔」にしたものが一〇基集積してある。一五世紀頃に造られたものが多く梵字「バン」が見られる。法華宗の改宗にまつわる往時が偲ばれる。
「細入村史」参照

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P19 集落中央の題目塔

 国道の信号の西にある法界様で、二メートルの石積みの上に「南無妙法蓮華経」とあり、右横に「維時 大正五年(一九一六)丙辰一〇月一〇日建立 不怠山二七世本境院日勧」 左に広宣流布後伍百歳」とあり、昔ここが上行寺の参道口であり、村の災害や病気からまもっている。ここは門前町として栄え下寺がこの辺りに五坊あった。
 戦時中と戦後もしばらくここに「火の見櫓」があった。          
「神通峡ふるさと歩行会 しおり」

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P20 江尻家文書

 江尻家は楡原の土豪で代々彦右衛門・彦十郎と名乗り肝煎を勤めてきた。現在の当主は一四代目を数える。
 江尻文書は肝煎役に伴う支配・土地・租税・農林関係の文書記録が多く大変重要なものも多い。特に神通峡沿岸の稼牛が飛騨に塩を運び、帰路飛騨より板、美濃茶など越中富山・小杉・高岡・東岩瀬また加州金沢に運んだが途中、藩主から許可を得て名持つ運搬の馬をつなぐ設備のある富山宿・高岡宿の馬借(賃金を取って馬を貸す業者)から抜荷(江戸時代の密貿易)であることで、上前口銭を要求され争論がおきた過程を記録した「飛州交易牛方と富山宿との争論一件」元文元年(一七三六)六月一五日があり、富山藩と飛州との交易記録の一つとして貴重であるといわれる。
「細入村史」

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P22 旧北部保育所跡
 
 旧保育所のある土地は、天文元年(一五三二)に法雲院を追い出し、芦生の上行寺をここに移して建てた寺跡である。この辺りに上行寺の下寺が五坊もあった。寺は、火事を恐れ、安政三年(一八五六)今の寺山に移転した。ここに細入村の戸長役場が置かれていたが、明治二二年(一八八九)の村制度により庵谷に役場を造り、住吉家や上行寺、竹内家で寺子屋授業をしていた小学校をこの戸長役場の建物に移した。楡原小学校は昭和四五年(一九七〇)に下夕地区と統合し観光橋の縁に移転し、ここは昭和四六年(一九七一)から北部保育所になった。
「細入村史」 「神通峡ふるさと歩行会 しおり」

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P23 北陸電気工業
 
 この楡原に、昭和一四年(一九三九)東洋アルミ工業が、安い労働力を求めて進出し、一部建設されたが、電力統制で建設を中止した。
 昭和一六年(一九四一)に高田アルミ工業がここを買収し、昭和一七年(一九四二)に工場が完成した。海上飛行機のフローと、翼のフラッグを生産し、終戦まで続いた。従業員二五〇名、徴用工一〇〇〇名、女子挺身隊・動員学徒四〇〇名、合計一六五〇名も働いていた。
 戦後、興国人絹パルプ工場、昭和三三年(一九五八)からは北陸電気工業がきた。そして細入村の労働力を吸収し、昭和三四年(一九五九)には四〇〇名、昭和三五年(一九六〇)には六〇〇名になった。製品の炭素抵抗器が皮膜抵抗器に押され、昭和四九年(一九七四)に閉鎖、昭和六三年(一九八八)にセラミックの材料研究所、その後は可変抵抗器などを生産している。平成二六年(二〇一五)に太陽光パネルが設置された。  
「神通峡ふるさと歩行会 しおり」参照

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P24 八幡社(通称表お宮)

 上行寺の釈迦堂も兼ねたお宮ですでに文化三年(一八〇六)村絵図に記載されている。
 岩本組が土砂採石のため、昭和六〇年(一九八五)一〇月改築したが、近年国道四一号バイパスの高規格道路建設工事により再び 造営し、平成一六年(二〇〇四)秋に落慶法要をした。  
「細入村史」

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P25 不怠山上行寺と三帰明王
 
 応永一六年八月(一四〇三)当国新川郡芦生村に法華宗の僧がやって来て一宇を建立し不怠山上行寺と号し、それ以来一二〇年間同所にあって教化の拡張をはかり、信徒も次第に増大の一途を辿った。
 その頃対岸の楡原村に源頼朝麾下の畠山重忠の菩提寺として元久二年(一二〇五)に建立された真言宗の法雲寺があったが、上行寺第四世日成の代に法雲寺を教化し法華宗に改宗させ、上行寺は芦生から楡原村に進出発展を計ることとなった。
 その後上行寺は更に教勢を他村に及ぼし、江戸期には現在の旧北部保育所内に位置し、五つの塔頭を有し、壇信徒は楡原・岩稲・割山・庵谷・笹津・須原・坂本・芦生に分布し二五〇戸に及んだ。中でも寺の膝元の楡原・岩稲・割山は他宗を交えないことを信条としている。いわゆる「楡原堅法華」の土地柄である。
 江戸時代末、近隣の大火を恐れ山腹を切り開き、村の中央地から現在地へ一五年の歳月をかけて移転を行った。現在の山門は、この時、明治元年(一八六八)に完成した。

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 三帰明王 

 畠山重忠が犀の角で自ら彫ったと伝えられる「三帰明王像」が寺の宝として今に伝わっている。この「三帰明王」は、毎年八月二十日過ぎに行われる盆施餓鬼法要の折に開帳されている。
「細入村史」

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P28 ほそいり保育所

 平成二一年(二〇〇九)一二月、それまであった細入北部保育所と南部保育所が統合され、耐震構造の新しい建物での保育が始まった。神通碧小学校や地域社会と連携を密に協力しながら、地域の子育て支援、育成に努めている。
「富山市ホームページ」参照

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P29 観光橋

 楡原と大沢野下夕地区を結ぶ重要な橋で、昭和四九年(一九七四)に小・中学校の統合の条件で完成したものである。
 現在の橋は三代目で少し上流にあったものが下流に移り、吊橋から鉄筋コンクリートのトラス型で全長一一六メートル、幅七・五メートル両端に七五センチの歩道がつき総工費二億五〇〇〇万円かかった。春夏秋冬周囲の山々のうつろいと神通湖の清碧に虹を添えたような橋である。
「細入村史」

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P30 旧布尻橋橋脚
 
 昭和三〇(一九五五)年に架けられた旧布尻橋の橋脚である。昭和四九年(一九七四)、下夕地区との交通の便をよくするために観光橋が新しく架橋され、その役目を終えた。
「細入村史」

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P31 旧役場跡と忠霊塔
 
 細入村役場は庵谷から昭和一一年(一九三六)一一月二四日にこの地に移り、昭和四七年(一九七二)までここにあった。今はゲートボール場「ひまわり公園」になる。
 北側に昭和一五年(一九四〇)(皇紀二六〇〇年記念事業)に計画し、日清戦争以来の戦没者を祀り、昭和一六年(一九四一)九月に完成した。日清戦役(一名)、日露戦役(十名)、満州事変(二名)、支那事変(二九名)、大東亜戦争(六二名)の計一〇四名の御芳名あり。
「神通峡ふるさと歩行会 しおり」

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P32 運送同業組合の碑
 
 大正一二年(一九二三)に猪谷の宮口久太郎によって同業組合を結成し関西電力の蟹寺発電所工事によって運送業が盛んになり、馬車引き八八頭からなっていた。
 この記念碑は庵谷に大正一四年(一九二五)に建設されたものを移転してきたものである。
「神通峡 ふるさと探訪」

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P33 藤井家東郷園

 藤井季雄宅にある駅前の「東郷園」は日露戦争に武勲をたてた「東郷平八郎」元帥と文通をしたり、懇意にしていた間がらで私財をかけて造られた。主なものに「敵艦見ゆの記念碑」「東郷元帥の顕彰碑」「八咫の鏡」「天手力男命の石像」。また秋楡の木がある。
「細入村史」

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P34 楡原駅

 飛越線が昭和二年(一九二七)に計画され、昭和五年(一九三〇)一一月、笹津~猪谷間が開通した。その時に楡原駅が誕生。その後、高山線が昭和九年(一九三四)一〇月開通し、日本海と太平洋を結ぶ重要な路線になった。
 国鉄が民営化し、JR楡原駅がペンション風建物に変わった。やがて、車社会の流れと共に、楡原駅は無人駅になった。
 平成元年(一九八九)一〇月、細入村施行百周年記念に「ふれあい広場」が完成した。
 「細入村史」

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P35 細入中核型地区センター
 
 鉄筋三階建て庁舎が昭和四七年(一九七二)に完成。工費約一億円。高齢者総合福祉センターが平成一三年(二〇〇一)八月に完成。工費約五億八〇〇〇万円。保健センターと併設して保健福祉の拠点として整備された。
 平成一七年(二〇〇五)四月細入村は富山市と合併し、この建物は細入総合行政センターになった。平成二八年(二〇一六)四月富山市の行政見直しにより細入中核型地区センターと名称を変えた。                       「細入村史」参照

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P36 布尻楡原大橋

 新しくなった国道四一号線楡原~庵谷区間は、旧道で問題となっていた雨量規制や積雪期の渋滞を解消し、より安全に通行できるようにするために整備された。
 神通川左岸を通るルートは、急勾配となる山間部だけ、田園が広がる右岸へと移り、これに伴い布尻楡原大橋が建設された。
 長さ三四一メートル、幅一〇・七メートル。平成二二年(二〇一〇)一一月、国道四一号楡原~庵谷区間(延長三キロ)の一部として開通した。同区間は、富山市と高山市を結ぶ国の地域高規格道路「富山高山連絡道路」(同八〇キロ)の最初の開通区間でもある。橋は景観に配慮し、一般的なアーチ橋に比べ、アーチ部分と橋桁の間の部材が少ないシンプルな形状。各部材の板厚をアップさせ、十分な強度を保っている。           
「北日本新聞」

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P37 雨乞の滝

 石黒谷が神通川に入る近くに雨乞の滝がある。戦前まで祈祷が行われていた。八月に上行寺本堂に「雨乞竜王画」を掲げ、滝の所では鰐口を持って読経後、紐を付けて滝壺に投げると、滝壺の竜が鰐口の金気を嫌って怒り狂いだし、天に昇り雨を降らせるという。  
「神通峡ふるさと歩行会 しおり」

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P38 シーテック細入

 平成一五年(二〇〇三)に設立されたシイタケ栽培の工場。徹底した品質管理と農薬を一切使わない栽培方法で、ハウス内は、自然の環境に近づけるために雨を降らせたり風を吹かせたり、温度も一定に保たれている。収穫は朝夜二回。一番いいタイミングを見極めて、慎重に摘み取っている。山あいの細入でつくられるしいたけは、品質・栄養ともにトップクラスを誇っている。  「シーテックホームページ」

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P39 集落南の題目塔
 
 楡原は「法華宗」の堅い集団で村境には厄除け、災難から守るために国道と大平道の別れ口に集落南の題目塔がある。嘉永元年に建てられたもので「南無妙法蓮華経」「三界万霊」と記してあり、毎年二月一六日の火祭りの日に上行寺からのお礼を掲げる。
「細入村史」

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P39 天然記念物「楡原の衝上断層」
 
 昭和一六年(一九四一)一〇月三日に国の天然記念物の指定を受けた「横山・楡原衝上断層」は岐阜県神岡町横山に至るまで見られる。最もよく観察できるところは楡原の松ケ谷と僧ケ谷間である。
 約一億二千万年前に堆積した手取層の猪谷互層といわれる約一メートル余りの砂岩と約三〇センチの頁岩の互層の上に、より古い船津期の花崗岩が南西から北東へ低角度で衝上し、このため猪谷互層は押し曲げられ・まくれ上がっている。そして両岩石の間に約一メートルの黒っぽい断層粘土が形成され、また花崗岩が砕かれて断層角礫となりこの付近の花崗岩は変質し圧砕花崗岩になっている。
 これは巨大地震もはるかに及ばぬ地殻の大変動によるもので、日本列島の大造山運動の一環として約六〇〇〇~七〇〇〇万年前に起こったものと考えられる。この大変動の跡が国道沿いに見られるのは日本でもこの地域だけで、地質学上貴重な証拠として指定されたものである。
 現在は発見者の今村外治先生の要望で、保護や観察できるようにするため、冬期間の雪崩や地質上の弱線にあたり落石防止のためスノーセットが造られ、その中が窓上に観察できるようにしてあり、左上部は衝上で持ち上げられた圧砕花崗岩、右側は猪谷砂岩片岩互層が右上がりの傾斜の岩石で、その間が断層粘土で黒くなっているのが見られる。観察は車の往来が多く危険である。    
「細入村史」

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P42 楡原山城
 
 四六三メートルの城ケ山の山頂にあり、典型的な中世の山城の性格を備えている。畠山義則が城主と伝えられ、楡原館、大乗悟山城、庵谷館と連絡を密にし、飛騨街道の守りや、攻めの要地に当たった。「肯構泉達録」に尾根や谷をうまく活用し、自然の山城を生かした特色と書かれている。   
「神通峡 ふるさと探訪」

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楡原の地名の由来と楡原保
 
 楡原には「ニレ」の木が多くあったことから名がついたと伝えられている。昔からの「ニレ」の木は、お宮に大きな「春楡」が残り、楡の木は平地に多く生える木であることから、楡原は平らな所を開墾してできた村であることが分かる。
 盆地状になったのば、今から二六〇〇万年頃前、ここの土地が海岸線で古神通川の川口だったので、石や砂が三角州状に溜り、風雨に侵食され易く、蛇が卵を飲んだように広がっていたので盆地状になった。
 楡原の歴史は古く、南北朝の正平五年(一三五〇)に、後村上天皇綸旨で滝口中務少輔を越中楡原保の地頭職に任じた文献がある。楡原保とは今の婦負郡の大半を治めていた頭がこの楡原にいたのでついた地名。楡原保の領域を今の小学校区で見ると、婦中町の速星校、宮野校、神保校、山田村の一部、八尾町では八尾校、樫尾校、杉原校、下笹原校、桐谷校、野積校、広畑校、仁歩校、大谷校、大沢野町の小羽校、細入村の楡原校、猪谷校をいい、一四七ヶ村が楡原保に属していた。

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 地頭職の滝口中務少輔とは、渡辺党のことで、南朝方に属して軍忠に尽くしたので報償に楡原保を与えられた。
 渡辺党の渡辺氏は、大江山の酒呑童子を退治した武将で、渡辺綱のこと。渡辺綱は四天王(坂田金時、碓井貞光、浦部季武、渡辺綱)の一人で大立者。また、「羅生門」の鬼退治でも有名である。この渡辺氏がこの楡原に住んでいた。(薄波には坂田金時、野積の布谷に住んだそうだ)                           
「神通峡 ふるさと探訪」


楡原の春季祭礼
 
 楡原の春季祭礼には、獅子舞が奉納される。婦負郡の獅子舞は、飛騨古川方面から神岡・越中へ入り、葛原と小羽へ伝えられ、ここから細入の村々へ江戸時代の終わり頃に伝わってきた。
 楡原の獅子舞は、青年団が中心になり行われている。現在は四月一五日に近い土曜日に行われる。近年若者が減少し、獅子を舞う人や笛を吹く人が不足して来ているのが心配である。    
「細入村史」参照

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江戸時代の頃の楡原

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[ 2016/09/06 09:19 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)
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プロフィール

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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