はじめに 割山の史跡・見学ポイントの紹介地図
P4 割山森林公園「天湖森」 平成八年(一九九六)から土田池付近は開発が始まり、「緑のふるさと健康ふれあいの里づくり事業」で森林公園が完成した。割山森林公園「天湖森」といい、星空の天ときれいな湖と緑いっぱいの森からとり、「遊びと楽しみ」を「天こ盛り」にしてもらう意味である。
「総面積十四ヘクタール、オートキャンプサイト、フリーキャンプサイトや設備の整ったコテージ、バリアフリー対応のロッグハウス、炊事棟、バーベキュー棟などが設置され、自然を満喫しながらアウトドアライフをエンジョイできる。
また、園内中央に位置する土田池では、野ガモや野鳥のバードウオッチングが楽しめるほか、ニジマス、コイ、フナ釣りもでき、水辺植物園には、ミズバショウ、ハナショウブなど、可憐な季節の花々が心を癒してくれる。
スポーツ好きの方には、十八ホールのパークゴルフ場、テニスコート、フットサルコート、フィールドアスレチックがあり、夜は天体観測棟で、満点の星空を観察できる。天湖森は、どなたにも気軽に楽しんでいただける、スポーツと大自然のレジャー施設である」「天湖森の案内パンフレット」参照








P7 楡原割山道路 平成十五年(二〇〇三)十月に開通したこの道路は、楡原地内の国道四十一号線を起点に割山地内までを結んでいる。今まで「天湖森」への道路として使われていた道は幅員が狭く、見通しも悪かった。その上JR高山線の下を通る所は、大型車両が通行できないなど、早急な改善が求められていた。この道路は、国土交通省が整備を進める地域高規格道路富山高山連絡道路のインターチェンジとの連絡道路として位置づけされ、その重要度が増したものである。道路の完成によって、オートキャンプ場やパークゴルフを持ち、天体観測などもできる割山森林公園「天湖森」への利便性が大いに図られている。 「細入村史」
P8 定床岩洞窟 割山のお宮から二百メートル東北東に、先住民が住んでいたという洞窟がある。高さ十一メートル、幅十七メートルの屏風岩に、入口は高さ四十センチ、幅三十センチの穴である。
この中に明かりをつけて入ると、水滴が落ちコウモリが飛び出る。十二メートル入ると石畳の部屋があり、真っ暗だが涼しい風がある。中から縄文時代の人頭骨が発見されたり、入口には古墳時代に緑石のグリーンタフで勾玉や管玉などの玉造りが行われていた跡があったという。今はここへ通じる道は荒れていて行くことができない。幻の洞窟になりつつある。
「越中山河覚書Ⅰ」参照

P9 八幡宮 八幡宮の祭神は、応神天皇・比咩大神・神功皇后で、天保十四年(一八四三)の銘がある。狛犬も凝灰岩で造られていたが、長年の風雪等で浸食が激しく、倒壊の危険があったため今は撤去され、隣り三十番神の祠に納められている。
三十番神の祠には、法華宗では三十日の一日ずつ一人の神が守護することで三十の神が祀ってある。
また、村の出入口に「題目塔」があり、現在「南無妙法蓮華経」碑は駐車場にある。 「細入村史」



八幡宮に白い噴火した石がある。割山は噴火した火山灰の「凝灰岩」を切り出して(割って)いた。家の土台にしたり、かまどにしたりして活用されていた。お宮の土台の敷石がそうである。古い小学校の土台にも使ってあった。「焼け倉」に石切り場があったそうだ。
「神通峡ふるさと歩行会」

P12 割山林道の上水道のパイプ 楡原の上水道のパイプをこの割山から御鷹山へ続く林道に敷設してある。林道の「吊り手岩」においしい水が多く出ているので、この水を利用するためにこの林道が造られた。
「神通峡ふるさと歩行会」
P13 吊り手岩付近の水源地 吊り手岩は、林道を少し下がった所にある。ここは昔、この水で水田を作り、稲を収穫していたことがあり、この土地を村で買い水源の保護をした。こんな高い所で水が出るのは、大昔に噴火した火山灰が粘土層になって地下水を貯めているからなのである。桐谷側に「殿様清水」が出るのもそうである。
「細入村史」
P14 御鷹山林道 御鷹山は、その昔、富山藩の前田の殿さまが鷹狩りに来た山であることから名前がついたといわれている。
この林道は楡原から御鷹山を越えて、八尾町の桐谷に通じている重要な道である。昔、中尾谷沿いに旧道があり、山田を通って御鷹山を越え桐谷を往来したそうだ。楡原の山といえば「御鷹山」というように楡原小学校の校歌にも歌われていた。
「神通峡ふるさと歩行会」
P15 大乗悟山城跡 大乗悟山には登山道がなかったが、富山山岳会や楡原の方々の奉仕活動で山道を切り開いた。山の高さは五九〇メートルで、笹津山(五三八メートル)より高く、御鷹山(六七五メートル)より低い山であるが、中世の戦国時代に畠山義則が楡原館と楡原山城とともに飛騨街道を守った大切な城があった。山には切り掘の跡が残っている。展望のきく山なので狼煙を上げて付近に知らせたのだろう。ここから笹津山へ行くことができる。
「神通峡ふるさと歩行会」

割山の紹介 今から二五〇〇万年前に岩稲集塊岩の噴火によって当時海岸線だった岩稲を中心に大噴火活動があり、この地層を「岩稲塁層」といって、西に桐谷、松瀬、大長谷、下梨、刀利、金沢兼六園、福井の東尋坊と続いている。
割山集落は、元禄年間に岩稲から枝分かれをし、山を「割り」開いたところからついた名だといわれている。
当時の軒数は二〇戸余りだった。森林を育て、清水を水田に利用し、土田の堤も造って溜め池にしていたが、江戸中期に楡原にこの「土田堤」を譲り、焼け倉の山と交換したといわれている。

背後に中世の山城「大乗悟城」がある。大乗悟山城の辺りは、清浄な土地とされ、昭和三十年前後にも、日聖光という修験者が訪れ、山中にこもって修行の傍ら村人に医薬を施し、生け花・文芸なども教えていたという。 この割山集落は、今は住む人がいなくなったが、細入地域の森林公園「天湖森」として活気を取り戻している。
「神通峡ふるさと歩行会」
江戸時代の頃の割山