水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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岩稲の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに  岩稲の史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4  神通川第二ダム

 北陸電力が電源開発を昭和二七年(一九五二)から計画し、二九年(一九五四)に完成した。第二ダムは高さ三七・三メートル、長さ三一七メートルで、右岸には四万キロワットの発電所がある。工費七億円、延べ七〇万七〇〇〇人が働いた。初めて見る大型建設機械と轟音の元でダムは完成した。ダム湖に水没する集落は、川の淵から高山線沿いに移転し、新しい家並みができた。また、ダム広場や公衆トイレもでき、第二ダム周辺は、神通峡の観光休憩所になった。     
「細入村史」

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P5 北の題目塔  
 
 以前は、川の淵にあった題目塔であるが、電源開発のため現在地に引き上げられた。寛政八年(一七九六)に造られたもので、法華経の「南無妙法蓮華経」が石の表面に彫られ、魔除けや病気・災難から村を守っている。この岩稲は全戸数が法華宗で、楡原と同様に堅法華であり、集落の出入り口に題目塔を建てている。              
「細入村史」

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P6 旧飛騨街道道標

 昔の街道は神通川に沿ってついていた。丁度ダムの底の辺りに舟着場や宮内庁指定の簗場があり、鮎を獲っていた。舟が往来したので、「道標」があった。「右とやま道・左やつお道」とあり、ダム建設によって水没するため、今の藤沢宅の庭に保管されている。                          
「細入村史」

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P7 田中家宅地内にある五輪塔

 細入にある五輪塔は、一四世紀か一五世紀に建てられたものがほとんどであるが、田中家にある四基の五輪塔の中の一基は、一六世紀に入って建てられた珍しいものである。川石を用いた地輪は別石であり、上の四輪を一石で造っているのも珍しい。ダムに水没した旧街道脇にあったもので、水没する時にここに移された。               
「細入村史」

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P8 岩稲小学校跡

 公民館の西側に、明治二五年(一八九二)に楡原尋常小学校の分校ができ、明治二七年(一八九四)に岩稲尋常小学校として独立した。明治三四年(一九〇一)にまた分校になり、大正十二年(一九一二)楡原尋常小学校に統合した。             「細入村史」

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岩稲小は征清軍記念碑の後ろにある建物

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P9 岩稲公民館

 青年クラブが、北陸電力から助成を受けて、二階建ての公民館を建設した。できてから五〇年もたったので、平成十四年(二〇〇二)外壁を修理した。
「細入村史」

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P10 征清軍記念碑

 明治二七年(一八九四)に起こった日清戦争は朝鮮半島を巡る日本と清国の戦いであった。富山県出身の兵士は第三師団歩兵第七連隊第一大隊に属し、同二七年(一八九四)九月八日宇品港を出発し、十二月から戦闘に参加して同二八年(一八九五)七月十四日金沢に帰還した。この碑は、日清戦争を記念して建てられたものである。明治二七年(一八九四)の銘がある。
「細入村史」

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P11 高山本線(飛越線)

 昭和四年(一九二九)に岩稲トンネルの工事が始まり、飛越線のトンネルの土砂で岩稲側を盛土した。飛越線が、昭和五年(一九三〇)に猪谷まで完成し、その後、昭和九年(一九三四)に、富山~岐阜間が完成して高山本線になった。
「細入村史」

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P12 旧飛騨街道跡

 ブリ街道ともいわれた道は、漕艇場の北西から旧永井家の前の旧県道を通り、富田家の前へ上り、石垣に沿って一メートル幅の旧道が見られる。
本芳家の前にはその道標が立てられている。ここからお宮の後ろの山に上がり、楡原に続いていた。笹津から飛騨へ牛荷として米・魚・塩・薬、一方、飛騨からは木材・板・漆・蝋などを乗せて牛方が引いた。
「細入村史」

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P13 本芳家の文化財

 年貢割符状が文化財として保管されている。承応四年(一六五五)に、各村一斉に「年貢割符状」が出され、これを「村御印」と言っている。
 岩稲の例では、草高八四石八斗五升五合で免(税率)は、五割一厘であったので、四二石五斗一升二合三勺余を年貢として納入したことが分かる。また、村高のうち七〇石八升五合が、村勘左衛門ら五人の知行地で、十四石七斗七升が台所入地であった。
 この年貢のほかに、夫銀が定納百石につき一四〇匁宛であったことから、五九匁五分一厘余、口米が石に八升宛であったから、三四石四斗余を納入したことが分かる。             
「細入村史」

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P14 富山県漕艇場

 平成五年(一九九三)に完成した。春から秋にかけて、若者のオールを漕ぐ掛け声が、神通峡に響いている。平成六年(一九九四)八月に、高校総体が開かれた。千メートルコース六レーンで、熱戦が繰り広げられ、地元の八尾高校が活躍し、舵手付フォア、ダブルスカル、シングルスカルなどで、見事優勝した。
 平成十二年(二〇〇〇)の国体は九月九日から十二日までの四日間であった。最終日が雨により増水したため、決勝レースは中止されたが、富山県の優勝は素晴らしかった。その後、細入村は、レガッタ大会を体育の日に行うようになり、老いも若きもボート競技に参加し、この漕艇場に花を飾った。現在もレガッタ競技が開催されている。
「細入村史」

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富山県立八尾高等学校漕艇部二十年史「拓く」より


P16 岩稲地区沿革記念碑
 
 県漕艇場施設の完成にあわせて細入村に記念碑設置の要望をしてから八年後、平成十一年(一九九九)十一月三日に岩稲地区沿革の記念碑が完成し、当時の集落最高齢者有須義信さんの手によって除幕式が行われた。
 岩稲の名の由来の「岩の上に土を敷いて水田とした」というとおり、水田の造成は大変苦労なことであった。しかし、昭和四年から高山線の工事や昭和二十九年(一九五四)の電源開発によるダムの建設があり、これらによって多くの水田を失った。
 そんな中、昭和六十一年(一九八六)に田圃整備によって比較的大規模な水田を作り、機械化してきた矢先に、県漕艇場と岩稲温泉の建設に遭遇した。細入村の発展のため、岩稲集落の人々は大切な水田耕地を失ってまで協力してきたことを碑文にのせ、先祖への感謝の念を表した。記念碑は楽今日館駐車場入口に建っている。
「細入村史」

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P18 墓地にある題目塔

 岩稲集落の墓地が楽今日館前の広場の横にある。この中に「法界」を刻む題目塔が一基建っている。文政七年(一八二四)に建てられたとあり、本来は南口のものであったのかも知れない。
「題目」とは法華宗などにおいて用いられる「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」の文句のことである。題目塔は、法華宗門徒が村の平和と無事を祈って街道筋に盛んに建てたものの一つと言い伝えられている。碑面にはひげ文字で「南無妙法蓮華経」と書かれている。
「細入村史」参照

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P19 神通峡岩稲温泉「楽今日館」

 昭和六二年(一九八七)、細入村が援助して岩稲で温泉の堀削を行い、七〇〇メートルまでボーリングをした結果三五度の弱アルカリ性温泉が湧き出した。平成六年(一九九四)から、総工事費十二億一七〇〇万円をかけて温泉施設の建設が始まり、平成八年(一九九六)四月二三日に、神通峡岩稲温泉「楽今日館」として開業した。その後、平成十一年(一九九九)に宿泊棟が建設され盛況である。
 「楽今日館」という名前は、細入の名産に「ラッキョウ」があり、「今日一日楽しんでもらう湯」ということを重ねて、名付けられた。湧き出るお湯は、お肌がツルツルになるところから、女性には見逃せない「美人の湯」といわれ、ゆったりとした大浴場と露天風呂からの四季折々の神通峡の景観が味わえるということで人気がある。
「細入村史」参照

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P20 岩稲地区八十刈で出土した有史以前の埋没巨木
 
 平成四年(一九九二)五月十二日、富山県漕艇場の敷地造成工事中、岩稲地内の八十刈の現場から、四本の巨木が出土した。
栃の木  直径  五五㎝  現存全長 二・九m 推定樹齢 二〇〇年
栃の木  直径  八四㎝  現存全長 四・五m 推定樹齢 三〇〇年
栃の木  直径  八八㎝  現存全長 六・六m 推定樹齢 七〇〇年
桂の木  直径 一〇〇㎝  現存全長 五・六m 推定樹齢 三〇〇年

 桂の木は、現在「楽今日館」のロビーに配置してあるテーブルに加工され使用されている。推定年齢七百年の栃の木は、根の方を二つ輪切りにして、細入公民館に保存されている。             
「細入村史」

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P22 岩稲八幡宮

 祭神は応神天皇・比咩大神・神功皇后である。文政年間(一八一八~二九)にダムで水没した対岸に舟渡しする八十刈にあったお宮を現在地に合祀した。
 鳥居は両部鳥居といって、柱に低い控え柱を入れてある。鳥居の横には、昭和二七年(一九五二)からダム工事が始まり、昭和二九年(一九五四)に、第二ダムによって集落がほとんど水没し、移転した経過や北電との契約を記した記念碑がある。ここには伝統の神迎いと神送りの子供行事がある。一〇月三一日には神を出雲大社に送るため境内に杉の小枝を集めて火をつけ、煙をもくもくと上げ、煙の様子で神が乗られたといい、十一月三十日には火をたいて神をお迎えする。
 また、境内には、「大ケヤキ」があり、村の巨木の文化財にして保護し子孫に伝えたいものである。
 平成に入り、八幡社の建物の所々に老朽化による不具合が見つかり、平成五年(一九九三)頃からは建物の傾きさえも感じられるようになり、平成十五年(二〇〇三)増改築を行った。
「細入村史」

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P24 岩稲八幡宮内の五輪塔

 岩稲八幡宮の神域に五輪塔がある。元もとの組み合わせではなく、元位置を離れて、この場に集められ、組み合わせられたものだが、けっこう眺められる。各部分はいずれも十四世紀前半に遡る製作と推定され、細入村では最古の石塔である。
 五輪塔とは、平安時代の末期ごろから作られはじめた石塔で、五輪といわれる五つの部分から成り立っている。一番下に方形の地輪、その上に球形の水輪、その上に三角形(実際は屋根形)の火輪、そして火輪の上に半球形の風輪と団形(実際は宝珠形)の空輪を積み上げた立体的な石塔である。
 密教でいう宇宙構成の要素、地・水・火・風・空の五大を図形化して、それぞれ方・円・三角・三日月・団とし、さらにそれを立体化した形といわれる。               
「細入村史」

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P25 南の法界様(題目塔)
 
 「南無妙法蓮華経」右に発起人「本田長三郎」施主人「吉田万太郎」左に明治四四年(一九一一)四月十五日とあり、昔は山本家の前の「飛騨街道」にあったものが移転したものだ。 題目塔は法華宗の村の出入り口にあり、魔除けや災害から守った「法界様」である。 
「細入村史」

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P26 神通川第二ダム建設についての記念碑

 第二ダムの建設にあたっては、細入村側では、岩稲集落の二十六戸のうち十六戸と公民館の移転が必要であった。昭和二十七年四月の北陸電力からの要請を受けて、岩稲集落では半年近い間に数十回の会合を重ね、その大要を受け入れることに決したが、その経緯は、岩稲八幡宮境内に建てられた石碑に、詳しく刻まれて残されている。
 従来の岩稲集落は、家並と神通川の間に相当の水田を有していた。ダムの湛水が完了すると、移転した新しい家並の背後に湖面がせまり、それまでとは全く違う景観が出現した。            
「細入村史」

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P27 新岩稲橋
 
 岩稲と楡原を結ぶ旧岩稲橋は、昭和四十一年(一九六六)十一月に完成した。二十年余り経過した橋は幅が狭い上、西側は急崖に接し、崩壊の危険もあった。連続降水量一二〇ミリメートルで交通止めとなり、国道四十一号線の弱点の一つであった。
 平成二年(一九九〇)の新庵谷トンネルの開通によって、国道四十一号線の交通量が増加し、旧岩稲橋の橋桁が危なくなったので、平成三年(一九九一)、新たに新岩稲橋を建設した。橋の中央の親柱は、村政百周年記念のシンボルマーク「飛翔する鷹」をモチーフとしている。新しい橋には歩道もでき、ボート競技も見られるようになった。西には昔の飛騨街道の一部が見られる。      「細入村史」

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P28 楽今日館源泉
 
 昔から神通川に沿った狭い段丘上の村であり、棚田が多くあった。また噴火した岩が多く、温泉の出る可能性があった。昭和六二年(一九八七)に温泉堀削のボーリングが行われ、七〇〇メートルの所で三五度の湯が湧き出た。弱アルカリ性の源泉がここにある。現在は、楽今日館に湯を送っている。                                
「細入村史」

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P29 岩陰石仏群

岩陰自体は先史時代のものであろうが、そこへ五輪塔などを置くのは、霊地として崇拝する信仰意識だろう。この地は、法華信仰以前の真言宗法雲寺時代の墓標、五輪塔、板碑などが、法雲寺の法華宗への改宗により、廃棄や集積になり、その一部が屋敷神や地鎮様として祀られているようだ。                               
「北陸石仏の会 平井一雄氏談」

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P30 夫婦岩

 岩稲集落から笹津山への中腹に二つ並んだ大きな岩がある。これが夫婦岩で、その昔、富山湾に入る船の目印になったと云われている。岩稲集落の人たちはこの岩の周りの木を刈り、この岩がいつも見えるようにしていたという話が伝わっている。 楽今日館の玄関を出た辺りから、向かいの山を見上げると鉄塔の間に見ることができる。
「細入村史」

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P31 岩稲八幡社境内の大欅の話

 楡原上行寺が現在地に移転して、新しい山門を造るために、お宮の大欅が使われた。木が太すぎて、高ばなの道からは運ぶことができない。小物坂の山上へ引き上げねば運べない。(現在の国道四十一号線の上方百メートル以上の所)檀中総がかりで大きな綱を数本掛けて、木やり音頭に笛太鼓の囃子に合わせて、にぎやかに引き上げた。
 楡原へ向った下りの所では、シラ木といって、丸太を並べて、その上へ引き上げて運ばれた。大欅は柱を始め、その他の工作材料に使われて、今日でも少しも狂わぬ立派な山門ができあがった。      
「細入村史」

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岩稲地名の由来

笹津の南に、平地に恵まれない岩稲がある。古来、幅の狭い段丘に沿う列状の村であった。「岩の上にまで土を敷いて水田とした」ことに村の名称が由来するとの説があるように、先人は、水田の造成に大変な労苦を注いだと思われる。
 江戸期の俯瞰図を見ると、集落の背後は、幅広い谷状の地形になっており、ここにみごとなモザイク状の棚田がつくられている。当時、お宮は川辺にあり、その下に簗場が作られている。また、その下流に、渡場があり、牛ケ増との間を往来していた。夫婦岩は富山湾の航標にされたとのことである。
 割山との境界付近には「風よけ」といわれる防風林があり、多くの集落と同じく、南風の被害を防ぐためのものである。
「細入村史」

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江戸時代の頃の岩稲

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[ 2016/09/08 11:05 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)
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プロフィール

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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