水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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西笹津の史跡・見学ポイントガイドブック

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はじめに  西笹津の史跡・見学ポイントの紹介地図

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P4 馬道谷

 大沢野と細入の境に馬道谷がある。ここは三千万年前の火山活動によってできた岩石が出土する。宝石になる黄色い黄玉、緑の碧玉、赤い赤玉石が含まれている。
「神通峡ふるさと歩行会」

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P5 こうもり滝 

 火山噴火によってできた集塊岩により滝ができている。滝つぼ付近に昔、行者が使った岩穴にこうもりが住んでいるので、こうもり滝の名がついている。滝への道は今はなく、幻の滝になりつつある。
「神通峡ふるさと歩行会」

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P6 集落下水道排水処理場

 馬道谷の南に西笹津・岩稲集落の排水処理をするためにここに排水処理場の建設が平成八年(一九九六)から始まり、平成十年(一九九八)に、永年の地区住民の念願であった下水道処理施設が完成した。
「細入村史」

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P7 舟着き場跡と運送店跡

 笹津橋横のポケットパークのすぐ東に旧道があり、その先の石の階段を下りていくと舟着き場がある。昔は、橋がなかったので富山からの荷物は神通川を舟で運ばれた。 
 この旧道の脇に運送業の草分けとして舟坂家があり、笹津舟着き場で荷物を降ろし、人足や荷馬車で、米・塩・魚・鉱物が飛騨に運ばれた。
 舟坂家は、明治二十四年(一八九一)に片掛の平口・林、笹津の金田らと運送代理店を開き、運送によって細入村が繁盛した。運送業の記念碑は、猪谷の宮口も含めて、楡原の旧役場跡広場に現在建っている。
「神通峡ふるさと歩行会」参照

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P8 馬頭観音 
 
 笹津橋脇のポケットパークの道路側片隅にコンクリートで作られた祠堂があり、中に「馬頭観音」の石仏が祀られている。三方に顔があり、額に馬頭面が刻まれた典型的な馬頭観音である。
 馬頭観音は「西国三十三所観音」の一つであるが、石仏として単体で祭られる場合は作馬(耕作馬)や馬車馬の供養として祭られる。現代では、交通安全を祈願し、旅の安全を祈る「道祖神」のような役割をしている。
 この馬頭観音石仏は、前にこの場所に家があったN家が、昭和初期、作馬の事故や家族の病気などの災難を避けるために建立したものだそうだ。
「平井一雄  町かど・道ばたの文化財」

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P9 笹津橋 

初代笹津橋

 明治十七年(一八八四)、初代県令国重正文は飛騨街道の整備事業に着手し、一間(二メートル弱)しかなかった道路幅を三間(約五・四メートル)に広げ、富山から飛騨へ南下する最初の難所である神通川の急流には「笹津橋」を架橋したが川幅約五十間、水勢激烈の難所ゆえに材料の準備、架設工事等に年月を費やし、ようやく明治十九年(一八八六)十二月初代木造橋の完成を見ることとなった。しかし、この橋は一年有余にして破損して使用不能となってしまうのである。

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二代目笹津橋

 明治二十五年(一八九二)十二月二代目笹津橋(木造吊橋)が誕生することになる。これは佐藤助九郎が自費を投じ、地元民の公益を図ったもので、これによって急速に越中と飛騨の文化交流をみるに至った。延長五十五間(九九・九メートル)、幅員三間三尺余り(六・〇五メートル)、有料(賃取り橋)の吊橋であった。その後、日増しに激増する物資の運搬と人々の往来により、明治末期には、また老朽し使用に耐えぬ状態となった。

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三代目笹津橋

 大正元年(一九一二)県費により三代目の架橋が行われた。延長八五・〇メートル、幅員六・〇メートルの鉄製の吊橋である。この橋は老朽により、昭和六年に橋體引上げ、敷板張替等の大改修が行われたが、昭和十年(一九三五)頃にはトラックの通行も重量制限をしなければならなくなった。

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四代目笹津橋

 現在の橋は四代目で、三代目の笹津橋より約四十メートル上流に建造されることになったが、時はすでに日中戦争に入っており、軍事優先の時代の中で、新しい笹津橋も、陸軍部隊が進軍する際、戦車の通過が可能なように設計されたといわれている。メラン式鉄骨鉄筋コンクリートによる上路式固定アーチ橋として昭和十六年(一九四一)七月に竣工した新橋は、富山から細入村庵谷までの道路輸送基盤を格段に好転させ、地域の産業・文化の発展に貢献した。その後五十年余年間人々の暮らしと生業を支え続け、現在は主に、歩行者・自転車用の橋としてその役目を変え、神通峡県定公園の湖面に今も美しい姿を映し出している。
平成十二年(二〇〇〇)に文化庁より登録有形文化財に指定された。
 「ポケットパークの案内板」より

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P13 新笹津橋  
 
 車の重量が増加したことと、旧の橋は細入側で直角になっており、事故が多発していた。この直角のカーブを緩めるために、昭和五十六年(一九八一)に長さ一二五メートルの五代目新笹津橋が完成した。総工費は七億五千万円、施工は三菱重工業であった。
「細入村史」

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P14 石の道標と題目塔

 金田家の横に石碑がある。これが古い道の道標で、「右 八尾道」「左たか山道」と書いてある。また、石碑には「南無妙法蓮華経三界萬霊」と題目が刻まれ、法華経の題目塔である。文化二年(一八〇五)に村の講中が建立したもので、「三界」とは俗界(過去)・色界(現在)・無色(未来)のことをいう。
細入村には法華宗が多いので題目塔を建て、村の端に魔除け・病気から村を守る法華の境界を表している。
「神通峡ふるさと歩行会」

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P15 番神様
 
 法華宗の三十番神で、ひと月三十日にわたり三十人の神様が宗徒を守護することで崇拝している。
 「細入村史」

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P16 消防屯所と公民館

 笹津は風のよく吹く地区で昔から火事や防火対策に力を入れてきた。明治十七年(一八八四)にドイツ製の腕力ポンプを導入し、大正十二年(一九二三)に細入村では初のガソリンポンプを導入した。そして屯所も完成した。大正十四年(一九二五)には纏を購入し、火の見櫓もできた。昭和の戦時にはポンプ車や櫓の鉄骨を供出した。戦後昭和二十五年(一九五〇)にガソリンポンプや火の見櫓ができ、昭和四十六年(一九七一)に消火栓を完備し、昭和五十年(一九七五)に積載車付きポンプが導入された。集落センターは昭和五十八年に地区再編農業構造改善事業により建設された。            
「細入村史」

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P17 五輪塔・板石塔婆の集積地

 地鎮岩と呼ばれる巨大な岩のある辺りに五輪塔や板石塔婆などの集積地がある。高山線敷設の時に出土したものである。
 密教でいう宇宙構成の要素で五輪とは、下には方形の地輪、その上に球形の水輪、その上に三角屋根形の火輪、その上に半球形の風輪、一番上が宝珠形の空輪の五段の組合せの石塔である。鎌倉期から室町時代に作られ、水輪にボン字が彫られている。
「神通峡ふるさと歩行会」参照

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P18  森坂家の庭にある馬頭観音 

 森坂家の庭に一体の小さな馬頭観音が祀ってある。以前ここに住んでいた人が建てた馬頭観音である。その人が飼っていた馬が、火災で焼け死んだのを弔うために建てたのだという。

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P19 日露戦争戦没者慰霊碑

 明治三十七年(一九〇四)二月、日露戦争が勃発した。日清戦争の時に比べて個人からの出征者も多く、村内には日露戦争戦勝記念碑が、庵谷、片掛、猪谷の三か所に建てられ、さらに個々人の戦没慰霊碑も三基建てられている。
 西笹津の慰霊碑は、旅順攻撃戦で戦没した立道仁之助の銘が刻まれている。立道仁之助の追悼式のための弔辞の草案が本芳文書に残されている。
「細入村史」

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P20 県定公園「神通峡」

 昭和四十二年(一九六七)に県の指定を受け、県定公園になった。笹津から県境まで十五キロのV字谷の峡谷をいう。
 特徴としては、
一、地質変化に富んでいる。特に国の天然記念物の断層、背斜,向斜の構造が他にない。
二、ダム湖水と発電所が多い。
三、交通の便がよく観光地である。
 など、風光明媚な四季をいろどる景色は格別である。
 「神通峡ふるさと歩行会」

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P21 漁獲禁止区域
 昔からアユ、サケ、マスの名産地で幕府へ恒例上納品だったので、大正元年(一九一二)、宮内省の指定になり、昭和二十三年(一九四八)廃止まで魚を献上してきた。ここを御漁場として橋から三六〇メートル、下流一〇八〇メートルが漁獲禁止区域で繁殖や保護区域だった。
「神通峡ふるさと歩行会」

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P22 南の題目塔と馬頭観音

 西笹津の南の法界様である。中央に「南無妙法蓮華経法界萬霊」長久山四九世朗(花押) 右に一天四海皆妙法、 左に天下泰平国土安穏とある。魔除け・病気から村を守る題目塔で法華宗の多い集落であることがわかる。
 題目塔の左下脇に小さな馬頭観音が祀られている。小さくて見逃しそうだが、必見の価値あり。国道をひっきりなしに走る車の交通安全を祈願しているようである。
「神通峡ふるさと歩行会」参照

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P23 笹津食品加工場跡
 
笹津婦人部が食品加工グループ「ささづ会」を昭和五十九年(一九八四)に結成し、減塩味噌、神峡漬けなどの漬物、黒米や粟などの加工品など、おいしくて健康によい食品を作っていたところである。平成六年(一九九四)に細入村の特産品加工場ができイベントなどで販売していた。平成二十六年(二〇一四)会員の高齢のため、「ささづ会」は解散し、特産品加工場は閉鎖された。  
(注:現在、建物はあるが、食品加工施設ではない)      
「細入村史」参照

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P24 八幡宮

 今から約一七〇年前の文政年間にできた八幡宮である。祭神は応神天皇・ヒメ大神・神功皇后である。皇后は武勇にすぐれ朝鮮征伐に男のように鎧に身をかため奮闘し降伏させた。その時お腹に応神天皇がいたので、強くたくましい武勇の神として八幡宮の祭神になった。境内に、五明殿(火神)と大山祇神(山神様)が安置されている。
「神通峡ふるさと歩行会」

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P25 五明殿と山神様

 平成三年(一九九一)四月に笹津八幡宮境内の山神様「大山祇神」、五明殿「五大明王像」を風雪から守るために、保護建屋を新築した。
山神様の祭りは毎年九月三日で、御酒とお餅を供える。この日だけは山仕事を休むようにと、昔からいわれている。
また、五明殿火祭りは毎年三月十日で、明治二十四年(一八九一)三月十日の笹津で大火があった日を、火祭りの日としている。五大明王は仏法の守護神であるため、数珠を持ってお参りする。明治・大正期には火祭りにも獅子舞をした。五大明王は中央に不動、東方に隆三世、南に軍茶利、西方に大威徳、北方に金剛夜叉の明王が祀ってある。
「細入村史」

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P26 大光明地尊(石仏)

 国道の横の大きな岩の上に石仏があり、無垢地蔵で宝珠と経を持っている。
 「細入村史」

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P27 昭和天皇お手植え杉

 昭和二十二年(一九四七)十一月一日、昭和天皇が楡原の戦災者や引揚者の寮に行幸され、笹津の古坂の山に全国で初めての植林をされた場所である。お手植えの木は立山杉三本で、国道にも高山線にも近い所で実施された。今では大きく育っている。
「細入村史」

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P28 新嘗祭献穀粟斎圃跡

宮中の恒例行事に新嘗祭がある。収穫祭にあたるもので、十一月二十三日に、天皇が五穀の新穀を天神地祇に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する儀式である。 
平成十五年(二〇〇三)の新嘗祭に新粟を献上する「献穀」の大任を、西笹津森坂家の畑が預かり、その年の秋に収穫された粟が宮中に献上された。
平成二十二年(二〇一〇)にそれを記念して石碑が建てられた。

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P29 林道岩稲笹津線

 平成四年(一九九二)に完成した。この事業は民有林における林道事業として実施されたもので、この林道は、笹津地区と岩稲地区とを結ぶ連絡道になっている。また、国道四十一号線と県道砺波細入線を結ぶバイパスとしても意義がある。林野の有効利用のため、開設が望まれていた林道で、昭和六十二年(一九八七)より工事が始まり、六年の歳月をかけて完成したものである。
「細入村史」

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P30 林道須原御鷹山線

 平成九年(一九九七)九月に、総事業費四億九七七万円をかけた林道須原御鷹山線が完成した。これにより、笹津山の頂上まで作業道が通じるようになり、笹津山字土屋野平の十一・三五ヘクタールの林野の有効活用管理ができるようになった。
「細入村史」

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 西笹津の紹介
 
笹津の津は、舟着き場であり、笹(篠竹)が多くあったとか、水の音がざわめくこととかいわれる。西にあるから西笹津、東側にあるから東笹津の名がある。
奈良時代には「篠津」と書き、利波(砺波)から舟で篠津の舟着き場に来たという古い記録が残っている。
永禄八年(一五六五)の記録に東笹津と結ぶ舟渡しがあり、役銭を徴収していたことが知られる。
寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡でも石高一二二石・銀納とあり、定小物成銀は山役銀一七匁三分・蝋役銀壱匁九分五厘・漆役銀六匁八分三厘・舟役銀五匁・鮎川役銀二匁六分五厘・鱒役銀二匁・牛役銀十六匁六分五厘の記録がある。
慶応四年(一八六八)の家数二十八戸人数一三三人であった。また、舟着き場には口銭場が設けられ、富山方面から飛騨高山方面に送られる産物(干物魚類・塩魚類・金物類・合薬類・八百屋物類・呉服物類・唐津物類・仏具類・糸・木綿など)を、この笹津で牛の背に荷物を載せて運送した。細入村の往来では牛や人足として大きな賃稼ぎになった。明治期に入り、飛騨街道の改修が進み、荷馬車輸送の時代になっていった。
笹津では神通川が西に流れ、ほぼ平行に国道四十一号線と高山線が走る。民家は両線の間にかたまり、耕地は一部にあり、県道が八尾方面に分かれている。

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笹津地区の戸数は昭和六十年(一九八五)には三十三戸で人口は百三十二名であったが、平成十六年(二〇〇四)四月には戸数三十戸、人口九十一名と、ともに減少している。
平成十七年(二〇〇五)市町村合併後、集落名が「笹津」から「西笹津」となり、今日に至る。  
  

笹津
 
細入谷の北の玄関
八尾道に富山道が川を渡って合流し
笹津橋によってますます賑わう
荷物問屋に馬車宿が開かれ
細入運送業の草分けとなる
滝の水は山田を潤し
天皇お手植えの杉は風雪に耐える
乏しい耕地も
らっきょうは新しい力となる
「細入村史」

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江戸時代の頃の西笹津

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[ 2016/09/09 04:53 ] 細入地域史跡紹介 | TB(0) | CM(0)
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プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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