福原伸二さんが遺してくれた笠寺にまつわる逸話「かさでら物語」をシリーズでご紹介します。
【その4】 牛を持ち上げた男
南区の山崎・戸部・笠寺・本地・南野・荒井・牛毛は、かって星崎七ヶ村と呼ばれ塩の生産が盛んなことで知られ、ここで採れる塩は、「前浜塩」と呼ばれ、千六百年頃には、約百ヘクタールの塩濱がありました。各村で作られた塩は、村の塩蔵に集められ、富部神社あたりから、桜、新屋敷、中根を経て、信州まで運ばれました。この道を塩付街道と言いました。
昔は、どのようにして塩を作ったのかな?
◆藻塩焼き
藻塩焼きは、『万葉集』等に「藻塩焼く」などと表現されているところから、こう呼ばれています。「藻を焼き、その灰を海水で固め、灰塩を作る」「灰塩に海水を注ぎ、かん水を採る」「藻を積み重ね、上から海水を注ぎ、かん水を得て、これを煮つめる」等の諸説があります。
愛知県は、古くからの製塩地でした。三河湾に面した地域からは、古墳時代から平安時代にかけての製塩土器や遺構が、発掘されています。 土器製塩の時代には、都に税として塩を納入していました。他にも、東寺(京都府)の供物として納めていました。
◆揚げ濱式
海辺で、海水から塩を採った頃のことです。塩の造り方は、まず塩浜に潮を引き入れ、日にさらして蒸発させます。潮のたまった砂を馬牙で何度も掻きあげて、よく干したうえに、エブリで寄せます。その砂を家戸(あな)の上のコモの上に積み、上から潮をかけると、下に濃い塩水がたまります。ご飯の粒が浮かび上がるほどのこい塩水がたまったら、タゴでかついでホチ(穴)に貯めます。そして、ホチの塩水を塩釜に入れ、水を蒸発させて塩を造っていました。
◆千竈
塩竈塩を作った竈が、千も並んでいた所という意味なのか。 千竈は、江戸時代の文書・村絵図には出て来ません。明治十一年、山崎・桜・新屋敷・戸部の四村を併せて千竈村となりました。また明治二 十二年、前記四村の大字名に、それぞれ千竈が見られます。この千竈が、私たちに慣れ親しんて来た地名のようです。 現在は、国道一号線沿いに、千竈通で残っています。
星崎地方が塩田であった昔のころのお話です。
桜村に、そりゃあ、そりゃあ力の強い男がいました。その男は、塩付街道を、牛の背中に塩を乗せて、運ぶ仕事をしていました。
ある春の日、いつものように塩を牛の背に乗せ、塩付橋の真中に来たところ、突然大きな声で、「どけ、どけ、どけ」と、侍の声が聞こえました。
「お殿様のお通りだ」
殿様のお共の侍の声が聞こえます。
「どけ、どけ、お殿様のお通りだ」
武士のひとりが、この男のところへ走り寄り、言いました。
「おい、お殿様のお通りだ。無礼者、下がりおれい」
と、大声でどなりつけました。
橋が狭くて、引き返すことが出来なくて、牛飼いは困りました。
この男の名を、権助と言います。
権助はおったまげたぞ。牛は、橋の途中まで来て、引返すこともできねえだ。
「どけ、どけ、どけ、お殿様の行列だ」
お侍衆が、次、次に、橋の途中まで進んで来て、牛とにらめっこをしてしもうた。
権助は、冷や汗が たらり、たらり、たらりと出てきた。
「うー、こまった」 「こまった」
そこで、権助は
「おい牛や、ちょっとの辛抱だぞ」
と、言って、顔を真っ赤にして、
「うー、うおー、うおー」 「えいや」
と、牛を肩の上に持ち上げ、さらに、牛を自分の頭の上に差し上げました。そして、川の端によって、橋をできるだけ広くしました。
「さあ、お通りくださいませ」
お殿様は、ゆうゆう橋を通って振り返り、その男の素早い頭の機転と、たくましい力に感心しました。
お殿様は、
「牛方よ、お前の力は、たいしたものじゃ。その大力の褒美に、どんな願いごとでも聞いてやろう」
お殿様に無礼を責められるかと、権助は、びくびくしていたのに、「願いを聞いてやる」と言われて、びっくりしました。
「ありがとうございます」
「今は、塩一俵運ぶごとに、お上に、年貢を納めなければなりません。これからは、この年貢をなくしていただきませんか」
それを聞いたお殿様は、
「よし、これからは、年貢を納めんでも良いぞ」
と、年貢を納めることを許したそうです。