猪谷 国道四十一号線沿いに人家が密集し、小さな町にやって来たという感じがする集落である。中心には、高山本線猪谷駅があり、駅前には、郵便局や商店街がある。

細入村史には、「イノシシが多く住んでいたことによる説と、『井の谷』すなわち水の得られやすい地という説などがある。」と紹介されている。
江戸時代の頃の猪谷の家並の多くは、山の斜面を登る桐谷道に沿って広がっていて、神通川に近い所を通る飛騨街道周辺には家が少なかったそうだ。人々は、急流の神通川沿いを避け、なだらかな山の斜面に生活の場を見つけて住んでいたようだ。今も、桐谷道周辺には、田畑がたくさん見られる。山の斜面を切り開いて、田畑を作っていった先人達の苦労が、棚田に積まれたたくさんの石垣から偲ばれる。
江戸時代には、猪谷に関所が設けられ、飛騨街道を行き交う人々を厳しく監視した。国道四十一号線の山下自動車整備工場前には、富山藩西猪谷関所跡の碑が建っている。
猪谷が大きく変貌するのは、昭和五年に開通した飛越線の猪谷駅ができてからである。神岡鉱山専用軌道が乗り入れ、鉱山物資の搬出入が始まり、駅前には三井鉱山のおびただしい施設が作られ、駅前通りには商店街がひしめくようになったという。
昭和四十一年、国鉄神岡線が開通し、三井専用軌道は、役目を終えた。昭和四十二年、生徒数の減少により、猪谷中学校は楡原中学校と統合し、廃校となった。昭和四十九年、三井鉱山アパート二棟の建設があり、二百人が入居した。
平成に入り、三井鉱山の縮小、鉱山事務所、鉱山施設の撤去、神岡鉄道の廃線などが相次ぎ、猪谷の人口が急激に少なくなった。平成十五年、猪谷小学校は、楡原小学校と統合し、廃校となった。小学校跡地には、地区センターが建てられ、住民の憩いの場となっている。