水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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神通峡をたずねて 猪谷かいわい 11

伝えたいお話 あれこれ 1

汽車時代の到来の頃のお話

 昭和五年(一九三〇)十一月二十七日、富山から猪谷までの飛越線の営業が開始された。

その頃の猪谷駅のようす 

 猪谷の停車場は富山県の南端にあたり、神岡鉱山物資の中継点としても予定されていたため、その規模は高山本線の中でも屈指であった。当初から駅員は八名、駅長にも優秀な人材があてられたといわれる。
 駅舎は現在とほぼ同じであるが、機
関車が方向転換する必要上、転車台が設けられ、その他に給水タンクが一基設置され、上り線、下り線それぞれに給水できるようになっていた。機関車の車庫も一棟建てられていた。これらの施設を置くために、斜面を切って、大きな平坦地が造成された。この一角には、神岡軌道のターミナルが設けられ、この平坦地一帯には、おびただしい数の駅舎、倉庫、関連施設が終結して、山間の人々の眼をみはらせることになった。
次の絵は、昭和十年頃の猪谷駅前の写真から、停車している自動車を模写したものである。この自動車は、六人乗りで、T型フォードという当時の大衆車である。今のタクシーに相当するもので、当時は「乗合自動車」と呼ばれていた。行先は、古川、船津となっている。高山線から降りてきたお客さんが乗っていったのだろう。

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 大正末期、アメリカのフォード社が自動車を大量生産するようになり、運送手段が人力や馬車から自動車に変わっていく時代が始まっていた。日本でも自動車が輸入、生産されるようになり、都会を中心に乗合自動車や乗合バスが走るようになり、その波が猪谷にも押し寄せていたことが分かる。乗合自動車を走らせていた業者は、岐阜ナンバーから推測すると、現在の濃飛バスの前身かも知れない?

飛越線試乗記

 昭和五年十一月二十七日の富山日報に「飛越鉄道新線試乗記」と題して次の文が載っている。
「飛越国境近い猪ノ谷まで鉄道開通の朝、祝賀気分に明けたこの山間の僻地は第一列車到着と共に威勢のいい四方町あたりの魚屋にまづ鉄道開通の喜びをまざまざと味ははされた。生きのいいピチピチした鮮魚が元気よく行商さるるのだ。二十七日午前五時四十五分富山駅を発した飛越線第一号列車が、富山、八尾、笹津から二十七名の旅客を乗せて、爪さき上りに神通峡谷を猪ノ谷へ驀進する。
 神通川は笹津から上流する毎にその河身をせばめ、相迫る隔岸に或は深い崖をつくり、はげしい渓流と化し、山間を縫うて緑の流れが山々を包む紅葉と、常盤木にすばらしい美景を織り出してゐる。工事費三百二十三万余円の大部分を喰った神通川第二鉄橋と六つのトンネル―トンネルをぬける毎に変化する山峡の美景は云も云われぬ。東猪ノ谷一帯の山々はもう初雪に綿帽子をかぶってゐる。
車窓から見る楡原・片掛・猪ノ谷の人々は今日の喜びの鉄道開通に大人も子供も物珍し気に戸外へ飛出して列車に見入る。授業最中の学校でさへ全児童が窓へ群がってこの文明の媒介者に満腔の歓迎をささげるのだ。猪ノ谷では祝賀会が小学校で開かれる。活動写真だ学童の成績展覧会でと今日だけはお正月もお祭りも及ばぬ程の賑やかさだ。笹津、楡原、猪ノ谷の三駅は朝から景気よく煙花を打ち上げる。楡原駅前の素朴な杉葉のアーチをかこんで汽車見物の地方人がいつまでも立ちつくしてゐる。
 笹津を基盤とした乗合自動車がもう没落の運命にあるかと思ふと今日からは飛騨高山、古川行の乗合自動車が猪ノ谷へ本拠を移した。猪ノ谷駅で見た開通日の第一番列車の降車客は二十七名、次が招待客が主となって二百三十二名、乗車は二番列車(上り一番)五名、四列車(二番列車)で四十九名で開業匆々景気がよい。」
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プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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