5 韮崎市から甲府市へ その2 竜王町に入った。家が多くなり、山の下に家並みが見えて来た。坂道を下って行くと、坂を上ってくるおばあさんに出会った。「こんにちは」と声を掛けた。「まあ、貴方が犬を連れて歩いて来たかと思って心配していたのよ。手に持っていたのはステッキだったのね」おばあさんは犬がいなくて安心した様子だった。「大きなリュックを背負って、どこまで歩くの」おばあさんが聞いてきた。「東京まで行こうと思って、下諏訪から歩いて来たのです」と答えた。「ええ、そりゃあすごい。いろんな人に会ったのでしょうね。山梨県の人はどうでしたか。みんな親切でしょう」と話が返って来た。山梨県の人と言われても、まだよく分からなかったが、「そうですね」と返事をした。「でも、北海道の人はもっと親切ですよ」と更に話が進んだ。私も北海道ではたくさんの人から助けられた思い出がある。「北海道の人は特別ですよ」と合槌を打った。「私は3年前まで北海道の浜中に住んでいたのよ。やはり北海道はいいわね」おばあさんは寂しそうな顔をした。都会に住む子どもの家へ越して来たのだろうが、長く住んだ故郷が忘れられないのだ。「頑張って東京まで行きなさい。お気を付けて」と励まされておばあさんと別れた。
坂道を下ると車が2台やっと擦れ違えるほどの道幅になった。しかし、この道はこの町の生活道路だった。人が車を避けながら歩いていた。自転車に乗っている人もいた。交通事故が多発しているのではないだろうか。私も車を気にしながら歩いて行った。
ふと、道路の横にある溝の中を見た。少しよどんだ水溜りの中に小魚がピチピチと跳ねていた。それは小ブナだった。何十匹と固まっている所もある。街中といえ、ここはやはりきれいな水が残る田舎なのだと思った。網を持ってフナを追い掛ける子どももいるのだろうが、この道ではすぐ交通事故になりそうだった。この交通事情が子どもたちからフナを守っているのかも知れない。
竜王駅前を過ぎ甲府へ向う。甲府まで4kmほどだ。狭いがしっかりした歩道が付いている。もうすぐ甲府の町だ。
立派な建物が見える。「山梨県立美術館」と看板が出ている。大きな公園の中に美術館はあった。芝生の青さとブロンズのモチーフ、紅葉した木々が調和して美しい。たくさんの家族連れが公園を散策して賑わっていた。ここには「山梨県立文学館」も併設されている。時間をたっぷり取って美術館と文学館を見学して行くことにした。
リュックを受付に預け、美術館から見学した。常設展には有名な画家の作品がずらりと展示されていた。特に目を引いたのがミレーの作品だ。「落ち穂拾い」「種を撒く人」など教科書で勉強した作品が掛かっていた。コルヴィッツという人の版画は迫力があった。
続いて、文学館に入った。高校生の頃あこがれていた芥川龍之介の「羅生門」の草稿や「或阿呆の一生」の原稿が展示してあった。芥川龍之介は几帳面で神経質な文字を書いていることが分かった。樋口一葉、太宰治の原稿や手紙なども展示してあった。道を歩いていて、美術館や文学館まで見学できラッキーな日だと思った。公園で日向ぼっこもして、12時少し前に美術館を後にした。
しばらく行くと大きな川に出た。「荒川」と表示がある。「まさか東京を流れる荒川ではないはず」と思った。もちろんこの川は富士川の支流なのだ。手前にレストランがあるので昼食にした。日曜日なので店内は家族連れで混んでいた。カツランチを注文した。30分近く掛かってやっと注文の品が届いた。ボリュームたっぷりのカツランチだった。
橋を渡り始めた。見上げると何と富士山が見える。白く雪化粧していた。嬉しくなった。山梨県をずっと旅していてやっと出会えた富士山だった。橋の下の川原は公園になっている。初めて見た富士山をスケッチして行くことにした。絵を描いていると野良犬が吠え出した。誰に吠えているのだろうと思ったら、私に向かって吠えていたのだ。風体のよくない男が芝生に座っているのだから、犬が吠えるのも仕方がない。睨みつけたら犬はすごすごと離れて行った。昨日から、犬には縁があるようだ。自分でも少し納得できる富士山のスケッチになった。美術館を見学したお陰かもしれない。