7 大月市から上野原町へ その3 午後3時過ぎ古い家並みの残る鶴川宿に着いた。おじいさんが歩いていた。「すいません。上野原まで後どのくらいですか」と声を掛けた。「4kmくらいかな。1時間くらいだよ」とおじいさんは答えた。「上野原には宿はありますか」と聞くと「この辺りでは1番大きな町だから、旅館もホテルあるよ」とおじいさんは親切に教えてくれた。今日は上野原で泊れそうだ。
坂道を下ると大きな川が見えて来た。上野原の町は川向いの丘の上にあるようだ。橋を渡った所で旧道は国道20号線と合流した。再び車が激しく行き交う道となった。狭い歩道を歩いて行くと賑やかな街並みが見えて来た。上野原の町に着いたようだ。旅館かホテルはないか、きょろきょろしながら歩いて行った。高いビルが見え、屋上に「ルートイン上野原」という看板が掛かっていた。「ルートイン韮崎」の姉妹店ようだ。すんなり部屋が取れるものと思っていた。
「すいません。1人ですが、今晩泊れますか」とフロントの女性に言った。「あいにくですが、今晩は満室です」と女性は言った。「えっ、平日なのに満室ですか」と聞き返した。「工事関係の人で一杯なんです。この辺りにある旅館も全部一杯で、今日の空きはないそうです。高尾か八王子まで行かれれば宿はあると思いますが…」女性は申し訳なさそうに、上野原駅までの地図を私に渡した。
宿を見つけることは本当に難しい。どっと疲れが出て来たが、高尾か八王子まで行くしかないとあきらめた。地図を見ながら、上野原駅まで歩いた。上野原駅まで2kmほどだった。暗くなり始めた道たくさんの高校生が歩いていた。みな上野原駅へ行くようだった。
やがて道は急坂になり、自然と足が前へ進む。駅はこの急坂の下にあるようだった。列車の走る音が聞こえて来た。もうすぐ駅のようだ。ひょっとして、上野原という地名は、山の上が野原のように平らになっているから付いたのだろうか。

上野原駅は高校生で一杯だった。いきなり、東京へやって来たという感じがした。八王子で宿を見つけることにした。高尾行普通列車は混んでいたが、空いている座席を見つけて座った。相模湖駅で乗車した親父さんが、私の前の座席に座った。クーラーボックスを下げていた。相模湖で釣りをやって来た様子だった。親父さんはしきりに手をこすっていた。餌のうどん粉が指にこびりついて白くなっているのが見える。魚はたくさん釣れたのだろうか。どんな魚が釣れたのだろうか。そんなことを考えていたら、魚の臭いが漂って来た。「親父さんは、大漁だったんだな」と思った。
高尾で列車を乗換え、午後6時過ぎ八王子駅に着いた。八王子駅前は大都会だった。ネオンが輝き、人が道路に溢れていた。ずっと名古屋に住んでいた私だが、名古屋の比ではなかった。東京は凄い所だと思った。
とにかく宿を見つけなくてはならない。千代田ホテルという看板を見つけた。細い路地裏に千代田ホテルはあった。「1泊6500円ですが、いいですか」とフロントの女性に言われた。「お願いします」と料金を払ってキーを受取った。
部屋は広く、きれいだった。トイレやバスはもちろん付いていた。昨夜泊った大月の最悪の旅館を思い出した。どうしてこんなに大きな開きがあるのだろうか。やはりそれは、都会と田舎の違いだろうと思った。人が溢れる都会では、サービスが何よりも優先されるのだ。サービスがよければ、客が多くなる。それに比べ、田舎では、サービスをよくしても、客が来てくれなければ話にならない。そこにしか旅館がなければ、サービスが悪くても泊らざるを得なくなる。田舎では、そこに旅館があるということの方が大事なのだ。だから、あの旅館でも営業していけるのだと思った。
ホテルにはコインランドリーが設置してあった。久しぶりに洗濯をした。洗濯が終り、食事に出た。飲み屋がずらりと並ぶ路地裏の道をうろうろした。小さな野菜スーパーがあり、店先に大きなハクサイが山積みにされていた。「大サービス、ハクサイ2個で130円」と値札が貼ってある。値段の安さに驚いた。今年、私は野菜を作り始めたが、ハクサイを育てるのは大変だった。アオムシとの根競べだった。雑草を取ったり、肥料をやったりするのも大変だった。今、ハクサイは畑で大きく育っているが、それが一つ65円とはあまりにも安すぎると思った。運送費や包装費やこの店のマージンを引いたら、幾らで出荷したのだろうか。農業では生活していけないと思った。
小さな食堂を見つけて中へ入った。焼き魚定食と焼酎を注文した。サバの塩焼きに煮物、漬物、味噌汁などが付いて来た。美味しくて、ボリュームもあった。それで、2000円だった。安い食堂だった。大都会の物価の安さに驚いた夜だった。