第9日目(5月24日) 斜里~羅臼 小雨が降る朝でした。昨夜、斜里にある温泉宿「湯元館」に一緒に泊ることになった親父さんと話が弾み、夜遅くまで飲んでしまいました。その親父さんは九州宮崎からやって来たライダーでした。絵画展や写真展の企画・運営が本業だということでしたが、旅をするのが楽しくて、今回は北海道を一周するのが目標だということでした。「1日500kmは走っています。大きなトラックと擦れ違うとバイクが振られて、恐いです。北海道の道路は命がけですよ」ライダーの親父さんは笑っていました。
「スケッチしながら旅をしています」私が話すと、「絵を見せてください」と言われてしまいました。「まだ、絵を描き始めて2年。やっと色が付けられるようになりました」と今回描いたスケッチを見てもらいました。「なかなか面白い絵を描いていますね。ここなんかいいですね」と錦大沼公園の絵を誉めてくれました。「どの絵もスケッチでは遠近がしっかり描けていますから、色の塗り方を勉強されるといいですね。遠くは薄く、近づくに連れて濃く着色できるようにすると、色でも遠近感が出せます。これからしっかり勉強すればいい絵が描けるようになりますよ」親父さんはプロの目で誉めてくれました。そういうことがあって、盛り上がってしまったのでした。
ライダーの親父さんは私より少し早く温泉宿を出発していきました。今日は知床半島を巡るということでした。私も知床へ行く予定です。ひょっとしたらまた、どこかで会うのかも知れません。

知床半島の入り口にある「オシンコシンの滝」へ行きました。観光バスも停まっています。知床では有名な滝のようです。滝を真正面にしてスケッチしました。観光客が私の絵を覗いていきます。下手な絵を覗かれるのは本当に恥ずかしいものです。スケッチだけして、その場を後にしました。これから努力を続ければ、その内、人ごみの中でも描けるようになるのかも知れませんが…。
知床半島の先端にあるウトロ港へ行きました。「知床の岬にハマナスの咲く頃…」と森繁久弥の歌う「知床旅情」が港に流れています。知床半島を巡る間、何度もこの歌を聞くことになるのでしょう。観光船「オーロラ号」が知床半島巡りにこの港から出航しています。桟橋に2隻のオーロラ号は停泊していました。歌はオーロラ号から流れているようでした。「オーロラ号」は、真冬は、流氷観光船として網走港から観光客をたくさん乗せて出航していました。夏は知床半島巡りの観光客がたくさんやって来るので、この時期は知床で活躍しているのです。

私は港の漁船をスケッチすることにしました。数人の男たちが魚の水揚げ作業を忙しそうにしています。あまり魚は獲れていないようでした。その横でスケッチしているのですから、胡散臭い目で睨まれてしまいました。カモメが漁船の周りを飛び交っています。おこぼれの魚を貰おうというのでしょう。しかし、今日は魚が少なく、おこぼれはないようです。
スケッチを終え、車の所へ戻りました。そこへ10人ほどの観光客が、黄色の目立つ制服を着た若者に連れられてやって来ました。「オーロラ号とは違う桟橋に何の用があるのだろうか」と見ていると、小さな船がやって来ました。それは小型の観光船でした。観光客はその船に乗り込んで出航していきました。黄色い制服の若者が戻って来たので、「小さな観光船もあるのですね」と私が声を掛けると、「ええ、オーロラ号とは違う小さな会社でやっています。よかったら乗りませんか。3000円です。オーロラ号は2700円ですが、車の駐車代が410円掛かりますから、こちらの方が割安です」若者は詳しく説明してくれました。それにしても、1時間近い乗船で3000円とは高い乗り物だと思いました。
車を見て、ビックリ。ボンネットや窓ガラスが真っ白に汚れているのです。「こりゃあ何だ!」よく見るとそれは鳥の糞でした。見上げると、車の真上に街路灯があり、そこに止まっていたカモメが糞をしたのです。車の掃除をすることなりました。お陰で汚れていた車はピカピカになりました。カモメに感謝しなければいけないのかも知れません。
知床半島の先端へ向って車を走らせました。「知床自然センター」という建物を見つけました。中には知床半島の自然を紹介したパネルやパンフレットなどが置いてありました。ハイキングコースがあるというので歩きに行くことにしました。「ヒグマが出るかもしれないと書いてありますが」受付の女性に質問しました。「この知床にはヒグマがたくさん住んでいます。どこで出会っても不思議ではありません。ヒグマの生活圏の中にわれわれ人間が入りこんでいるのですから。鈴や笛で居場所を知らせたりすれば安全ですよ、もし、ヒグマに出会っても慌てないで、目をそらせないでゆっくり後ずさりしてください」女性は丁寧に説明してくれた。「鈴を貸しましょうか」とまで言ってくれた。私の胸のポケットに小さな鈴が付いています。もちろんクマ避けのために付けているのですが、「これで大丈夫です」と小さな鈴を鳴らしてみせました。「少し音が小さいように思いますが、たぶん大丈夫でしょう」と受付の女性に笑っていました。たぶんクマは出ないのでしょう。
自然歩道を歩いて行きました。クマザサが生い茂り、確かにクマが出ても不思議ではない風景です。しばらして視界が開け、遠くに展望台と白い燈台が見えました。展望台と燈台は断崖の上にあるようです。展望台へ行くことにしました。向こうから3人の女性が歩いて来ました。皆、手に大きなビニル袋を下げています。見ると、ビニル袋にはワラビがぎっしり詰まっていました。「ワラビがたくさん顔を出していて、少しの時間でこんなに採ってしまいました」女性が興奮しながら話してくれました。
展望台からは真っ青な海が見えました。高い断崖の途中から大きな滝が流れ出て、海に注いでいます。「フレペの滝(乙女の涙)」と表示されていました。スケッチをすることにしました。絵を描いていると、滝の真下にオーロラ号がやって来ました。「海から見た景色は凄いのだろうなあ」と思いました。スケールを感じさせるスケッチにはなりませんでした。
帰りに、自然歩道横の野原へ入ってみました。足の踏み場もないほどたくさんのワラビが顔を出しています。知床も山菜の宝庫のようです。
「→岩尾別温泉」という看板を見つけました。鄙びた温泉宿があれば、予定を変更してそこで宿泊するのも面白そうです。行ってみることにしました。舗装されてはいますが、道は車1台がやっと通れるくらい幅しかありません。鄙びた宿を期待しながら走って行きました。道の終点が岩尾別温泉でした。何と、立派なホテルが建っていました。がっかりしていますと、外国人の女性3人がホテルの玄関から出て来ました。小さなリュックを背負っています。どうやら宿泊を断られた様子でした。彼女たちはこのホテルまで、あの道を歩いて来たのでしょう。ここまで来て断られるとは、運の悪い話だなあと思いました。ホテルの近くに「無料露天風呂あり」という看板が見えます。露天風呂に入るのも面白いかもと、覗いて行くことにしました。残念ながら、露天風呂は若い二人連れが使用していました。早々に戻り、車を発車させました。知床の観光化はかなりのスピードで進んでいるようです。
狭い道を向こうから自動車が進んできます。岩尾別温泉へ行くのでしょうか。すれ違うことが難しいので、少し広くなつた所でその車を待ちました。その車の運転台に何かゴチャゴチャ立っています。商売の品物が並んでいるのだろうかと思いました。私の車の横でその車が停車しました。見ると、お婆さんが運転しています。ゴチャゴチャ立っていたのは絵筆でした。「たくさん面白いものが並んでいますね」私が声を掛けると、「いやあ、スケッチしながら旅しているから、ここへ並べているんや」お婆さんの元気な声が返って来ました。「えっ、スケッチしながら旅してるの!私と似たことをしている人がいる!」私は慌てて車を降り、お婆さんに詳しい話を聞くことにしました。
お婆さんは、静岡県三島の人でした。年齢は70才。スケッチ旅行をするのが老後の楽しみで、改造した軽自動車で旅を続けているということでした。車の中には簡易ベッドを据付け、自炊道具も全部揃っていました。私よりも遥かに上手を行く、大ベテランでした。
「今から一緒にスケッチしよう」ということになりました。スケッチを始めましたが、川の流れの向こうにある景色を描くのは難しく、途中で私は、描くのをあきらめました。それからは、お婆さんが描くのを眺めることにしました。
「絵を描き始めて20年になります。先生に付いて勉強したこともありますが、お金ばかり掛かって、しっかり教えてもらえず、それからは独学でやっています。油絵や日本画は時間が掛かるから、今は短時間でできる水彩画を楽しんでいます。個展も何度かやりましたが、お金が掛かるから、今は自分で楽しむだけです」お婆さんは私の質問に真剣に答えてくれました。「何といってもスケッチが大切ですね。あまりしっかり描き込まなくてもいいですが、物の特徴をきちんと掴むことが大切です。色は薄い所から順に付けていきます。手前の物は後の物よりも濃い色できちんと塗ると、描きたいものが浮び上がります」1時間ほどでしたが、水彩画の描き方について丁寧に教えてくれました。初めて聞くことばかりでしたが、実際に描くのを見ていたので、私には本当に勉強になりました。きっと今日も、お婆さんは、あの軽自動車でスケッチ旅行を楽しんでいるのでしょう。旅には不思議な出会いがあるものです。