水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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飯田街道を歩く

第2日 その2 力石~足助                                                                         
 10時50分出発。国道153号線を力石川に沿って上って行と,30分程で西中金の町に入る。

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 名鉄三河線の線路の土手に僧侶の像が見える。なにも表示がないのでよく分からないが,街道を通る人たちの安全を願って立てられたのだろう。
 名鉄三河線の終点の西中金の駅に着く。ここからは,道路に歩道が付いていないので,白い路側帯の道を歩くことになる。前回来た時にどうしようか迷っていたら,この国道の横に,電車道と地域の人が呼んでいる道があることを知り,そこを歩いた。今日もその道を歩くことにする。
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 電車道は国道と並行していて,途中,国道と一部合流するが,追分まで4km程続いている。自動車が通ることもほとんどなく,古い家並や家の前に植えられている美しい花を見ながら,のんびり歩くことができる。春来た時は,こいのぼりが春風にたくさん泳いでいた。道にはツクシやオオイヌノフグリ,スミレなどが咲き,とても美しい景色であったことを思い出した。日差しは強烈だが,今日も車の心配をすることなく,のんびり歩き始めた。

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 家の前には小さなヒマワリの花がいっぱい咲いている。コスモスもたくさん植えられているが,まだ花は咲いていない。きっと秋には美しいだろうなあと思った。この道がなぜ電車道と呼ばれているのか,この地域のおばあさんに話を聞いたら,昭和の初めに知立から足助まで電車線を作る話が持ち上がり,そのために作ったのだが,電車は西中金まで敷かれた所で終わってしまった。足助まで延長する話もいつの間にか立消えになってしまい,今はその道だけが残っているとのことだった。それで,実際には電車は走らなかったが,地域の人は電車道と呼んでいるのだそうだ。

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 1時間程歩いて,追分に着いた。ここは岡崎へ向かう足助街道と豊田へ向かう飯田街道の分岐点にあたる。追分茶屋という名前のレストランがあるので,入って小休止をする。店は時間が12時を回ったところなので,お客でいっぱいだ。この店のトイレが2階に設置してあることがとても不思議だった。冷やしうどんを注文すると,ザルに入ったものが届いた。暑い中歩いてきたので,冷えたうどんの味はなかなか美味しかった。

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 13時10分追分を出発。ここからしばらくは国道を歩く。道の両側には古い家並が続いていて街道の雰囲気が感じられる。歩道が辛うじて設置されているが,大きなトラックが通ると風圧を感じる。車の多い国道を避け,小原橋の所で巴川を渡り,東海自然歩道を歩くことにする。スケートセンター横,そして大きな温泉旅館の前を通り

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 13時40分,香嵐渓に到着した。今日は日曜日。香嵐渓では鮎祭りが開かれていて,家族連れや釣り人で公園は人が溢れていた。巴川では鮎の友釣りをする人とすぐ横で泳ぐ子どもたちの入り交じったのどかな風景を見ることができた。それにしても,子どもがすぐ隣で泳いでいるのに,鮎が釣れていたのにはびっくりした。そのくらいたくさん鮎がいるということなのだろうか。散策道にはヒガンバナに似たキツネノカミソリが群生し,淡いオレンジ色の花を咲かせていた。

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 歩くことを終え,三州足助屋敷の前で飲んだ生ビールの味は最高でだった。

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 その夜の宿は,足助町の玉田屋旅館である。何日か前に,足助町観光協会へ電話し「宿泊できる民宿か旅館を紹介してほしい」と言ったら,玉田屋と山城屋を紹介してくれた。さっそく玉田屋に電話すると,「どうぞ」ということだった。足助町西町にその旅館はあった。江戸時代から代々続く旅館で,入口には玉田屋の名前の入った大きな堤灯が下げてある。夜には明りが入るのだろうか。

 ガラス戸を開けて,中に入り,「名古屋から来ましたが」と声を掛けると,中からおかみさんらしい小太りの人が出て来た。「お待ちしていました。どうぞ二階へ」と部屋へ案内してくれた。部屋の広さは6畳。テレビと三面鏡,クーラーがあった。さすがに年期が入っていて,江戸時代の旅篭にやって来たという感じである。隣にも部屋があるのだが,何と襖1枚でしきりがしてあるだけで,隣にも客が来れば,どんな感じになるのだろう。「今晩は相部屋になりますが,よろしくお願いします」と,テレビで見たような光景になるのであろうか。「風呂へどうぞ」というので,1階の風呂場へ行く。ここも今では珍しい木の風呂である。香嵐渓には新しい旅館もできているが,このような古い造りの旅館がきちんと営業しているのには感心した。夕食は,山菜や鮎の塩焼,川魚のからあげ,まぜごはんと豪華とは言えないが,おいしい味付けであった。
 
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 夕食を終え,8時ごろ夜の足助の町を見物に出かけた。玉田屋の軒先に下がっていた堤灯には明りがともり,なかなか趣のある雰囲気を漂わせていた。少し歩いて,巴橋から川を見ると,遠くでバーベキューをしている火が一つ見えただけで,あの昼間の賑わいはどこかへ行ってしまい,閑散としていた。香嵐渓にあるたくさんのみやげ物屋の明りもすっかり消えていた。暗い通りを歩いて行くと,おばあさんが椅子に座っている。どうやらみやげ物屋の人らしい。まだ,飲みたりなかったので,「酒はあるか」と言うと,店の明りを付けていろいろ地の酒を紹介してくれた。地酒としては,本当にぴったりした名前の「香嵐渓」という酒を買った。宿で借りた下駄を響かせながら,足助の町を歩く気分は最高であった。
 
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 名古屋から足助までを歩き終えて,古い飯田街道は,一部を除いて,ほとんど残っていないということが分かった。飯田街道は,戦国時代に入って,武田信玄などの戦国大名の軍兵が行き来し,発展した。そして,江戸時代に入って,中部山岳地帯の信濃と太平洋岸の尾張,三河地方とを結び,塩や特産品などの物資を運ぶ道路としてさらに大きく発展した。当時の運搬はほとんどを馬に頼っていたが,この馬を扱っていた同業組合の名前を中馬と呼んでいたことからこの道は中馬街道と呼ばれるようになった。そして,中馬がいろいろな方面から集まる所に宿場が開けていった。その一つが足助宿で,当時の宿場の繁栄を示す建物が今でも町に数多く残っている。
 
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 飯田街道は,明治に入って道幅が二間半から三間に広げられ,これまで馬の背に積まれていた荷物が荷馬車に代わった。明治末には荷馬車の往来は最盛期を迎えたという。しかし,明治44年に中央線が開通し,さらに大正12年には飯田線が開通し,荷馬車の往来は衰えてしまった。やがて,トラックが登場し,この道をトラックが走るようになり,古い街道はさらに道幅が広げられ,現在に至っている。東海道や中山道では,道をトラックが走るようになった時に,道幅を広げるのではなく,バイパスを作ってトラックを通すようにした地域が多かったため,今も古い街道や宿場がそのまま残っている所が多い。この飯田街道はバイパスを作らなかったので,古い街道も古い家並もなくなってしまったと理解した。そのことから考えると,足助の人たちは,バイパスを作ったので,当時の家並が今も残っている。町並みを保存する取り組みに足助町は力を入れているが,今後も貴重な町並みや歴史的な建物・遺跡などを保存するために力を入れてほしいと思った。古い街道を歩く人が増えてきたが,名古屋から足助までを歩いてみて,この道がほとんど国道153号線であり,今も重要な幹線道路として使われている。交通事故もたいへん多いところである。その点からも,歩行者と車を完全に分離した歩道の整備にもっと国や地方自治体は力をいれてほしいと思った。
 
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 今回の旅では,西中金の電車道,日進の天白川土手,古い家並がたくさん残る足助町などもう一度歩いてみたいと思った所がいくつも見つかった。出発時に立てた目標がほぼ達成できたのでないかと自己満足をしている。







[ 2012/08/14 05:46 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)
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プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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