伝えたいお話あれこれ 片掛銀山のお話越飛に跨るかね山 わが国では十六世紀後半から十七世紀初頭にかけ、金・銀・銅山などが全国各地で開発され、幕府はもちろん、各藩も領内鉱山開発に意を注いだ。
越中のかね山で最も重要視されたのは、幕政以前の松倉・河原波・虎谷・下田・吉野と、その後の亀谷・長棟で、これらの諸山を合わせて、越中の七かね山と呼んだ。
この新川かね山のほか、下の地図に示すように、片掛・庵谷の銀山や、野積谷のたたら製鉄などがあった。
一方、越中と境をなす飛騨の高原郷には鉛・銅・銀が、白川郷には銀・金が産出するなど、早月川流域と越飛両国にまたがる神通川水系(長棟・高原の支流域を含む)と小矢部川水系に鉱床が集中していた。
これら大小のかね山のうち、神通川筋の三山はともに銀山で、村の名前を冠してそれぞれ吉金・片掛・庵谷銀山と呼んでいるが、下図のように相接しているので一山とみることができる。

「細入村史」
この三銀山は加賀・富山の二藩にまたがっているが、江戸後期、吉野銀山が退転した後は、片掛銀山を取締る役人が吉野かね山もその配下に置いていたといわれている。
片掛・庵谷両銀山坑跡の分布 現在の庵谷峠の西側、通称「さくらおぼね」を中心にして片掛の北部と庵谷南部にかけ、直線距離にして、東西二キロメートル、南北約一・五キロメートルに跨り、かつての坑口跡が多く点在している。
昭和六〇年六月、三回にわたり山中を調査し、かつての坑口跡が今も明瞭に露見している三十八坑を確かめ、次の地図に記入した。

「細入村史」
古老の話を総合すると、現在の神通川第一ダムによって湛水した下山地内に相当大きな坑跡が五、六か所もあったが、今は穴がふさがっているので、往時はおよそ100くらいはあったと想像される。
この三十八の坑口のうち、小字峠の千荷(貫)谷に、外観上やや大きな穴で、しかも入口からみても落盤形跡のない某坑の調査を試みた。
この坑道内から収集した松明・梯子の一部は、越飛歴史民俗資料庫(現在はない)に保存されていた。
からみの出る製錬場 「からみ」は俗に金糞といい、今も畑を耕していると鍬先にあたることがある。ここは、曽ての製錬所の跡であって、製錬所には敷地が広くて坑口に近いこと、そして、多量の水のあるところが選ばれた。両銀山の製錬所は幾箇所もあったと聞くが、最も確かな両銀山の製錬所は、坑跡分布図に示したとおりである。
片掛銀山 字窪 現在の下町 前坂宅の東側畑地と湛水部
庵谷銀山 字峠 現在の峠道、秋葉社の北側約100メートル西方の畑地
銀山坑道に入った話 片掛に住む人が、片掛銀山について次のように話してくれた。
「私は、冒険心が旺盛だった頃、穴に入ったことがありますが,人が一人はって進めるくらいの広さしかありませんでした。大きな人はとても進める広さはありません。
昔の人は小柄だったのでしょう。少し進むと、穴は下に向かい、穴の長さは、100メートルほどあったと思います。岩から鍾乳石が下がっている所もありました。コウモリもいました。岩肌はきれいに掘ってありましたよ。

「細入村史」
現在の国道四十一号線下の洞谷近くが、精錬の釜場であったと伝えられていますが、そういう跡は、今は何も残っていません。片掛銀山は、銀の含有率が低く、鉱脈も細いため、明治維新の頃には廃山となったそうです」