伝えたいお話あれこれ 明治時代の頃のお話
片掛分教場で学んだ頃の思い出
片掛分教場 「細入村史」
細入村立猪谷尋常小学校片掛分教場の名称のとき入学し、片掛大渕寺の本堂(分教場が明治三十四年四月、火災によって焼失)において教育を約二年八ヶ月間受け、その後は現在の片掛公民館の建物である片掛分教場が新築落成(明治四十年二月頃)したので、約四ヶ月間程分教場で勉強しました。そして小学校三年を終わり翌年四年生となり、本校の猪谷小学校へ通学し、三カ年間教育を受け、義務教育の六ヵ年を卒業したのです。
当時の先生は今井千代さんで一・二・三年を担任、校長先生は四・五・六年を担任されたのです。教科書は、読本・書き方・算術・唱歌、五年生になって理科・地理・歴史・図画を習ったのです。また、一・二年のとき、大渕寺と猪谷西禅寺の境内で二つの学校の運動会もしました。 片掛 佐藤利次(明治四十年入学)
「細入村史」
乃木将軍、片掛に一泊 富山日報によると、明治三十九年六月二十一日飄然として金沢を訪れた乃木将軍は、翌日病院や兵営を巡回。その後、七尾、和倉を経て二十三日午前十時二十七分、富山に汽車で到着、しばらく時を過ごした後、同日午後三時ごろ細入村片掛に向けて八尾を発った。以下富山日報の記事は次のとおりである。
乃木将軍飛騨入 一昨々日当市を経て飛騨に入りたる乃木大将は八尾出発後佐野同警察署長と共に車を駈て山道に進みたるが寺津の淵より庵谷峠に至るまでは真に絶景にして其間車の通じ難き場所約一里余ありしかと将軍は車を棄てて徒歩し日暮れて後細入村片掛なる近郷予備二等軍医の宅に着し一泊せり同夜将軍は手づから鍋にて卵酒を作り同行の署長等にも侑めて寝に就かれ翌朝は午前七時雨を冒して同村を出発し進む事一里六丁飛越国境蟹寺橋を渡り更に進む事五里余、午前十時頃船津町に着し渡辺旅館に昼飯を取り十一時出発数里にして古川町に入り(以下略)

この記事にある近郷重孝軍医は、金沢医学専門学校を卒業、日露戦争に軍医として出生した人である。
片掛では、将軍が宿泊した離れ座敷の建物を、大正末期に青年会が譲り受けた。青年たちはその建物を現在の片掛公民館うえの資料館の地に移築し、それを乃木館と名づけた。この建物は太平洋戦争直後まで約四十年の間、片掛青年会の勉強塾となった。 「細入村史」
ウェストンも通った片掛の道 今からおよそ110年ほど昔、イギリスの宣教師ウォルター・ウエストンが、富山から飛騨の笠岳へ向かう途中、神通川を通った様子が、彼の著書「日本アルプス登山と探検」に記されているので紹介する。


明治時代の登山家、小島鳥水も神通峡を旅した 小島鳥水の著書『山水無盡蔵』に、片掛で食事をした時の様子を詳しく記しているので、紹介する。

