伝えたいお話あれこれ 大正時代の頃のお話1大正期の片掛 大正期の片掛には、かなりの商店・運送店・職人が集まっていた。

この頃の片掛の戸数は八十数戸で、庵谷発電所工事時は、臨時世帯を含め一〇三戸あったという。
その中でも特に旅館業は、四軒もあった。一月下旬から二月になると、高山や古川から、信濃の製糸工場へ女工として出向く娘たちが、どの宿にも泊まった。彼女らは、斡旋業者につれられ、一時に百数十人という想像を絶する人数が富山に向かって行った。あまりにも多いときは、一般の家にも宿泊したという。その時は、お茶代として宿泊費が各家に入ったので、庵谷峠まで多数の村人が見送ったこともあったという。
古老からの聞き取りによると、細入村からも、明治末期に野麦峠を越えて信濃へ糸引きにいった例があるという。しかし、富山県から大量の製糸工女が出るようになるのは、大正二年の北陸線開通によって、富山~直江津~長野~高崎が結ばれるようになってからである。この頃になると、細入村においても、豊かな家の娘を除いて、多くの娘たちは、尋常小学校を卒業するとすぐに糸引きに出るのが、普通となった。
片掛には、銀行・郵便局・警察も置かれていた。金融・通信・治安という点でも、細入村および周辺地域の中心だったのである。

当時郵便局と銀行が併設されていた坂野家
また、片掛には、明治二十年頃から、近郷源治氏という人が医院を開業していた。この人の家に乃木将軍が宿泊した話は、有名である。明治四十一年近郷氏が富山へ転居され、しばらく医者のいない村になったが、地域や企業の支えで、大正十三年から昭和九年まで、医院が開設され、地域医療にあたった。
明治十五年の春祭りには、坂野善助宅の家と土蔵の間に仮屋を造り、富山から楽屋職人を招いて舞台を造った。舞台小屋は、近郷源治が自費で建てたが、後に部落が管理することになった。この時の「先代萩竹ノ間御殿場安達ケ原」という芝居は、近在に響き渡ったという。
大正九年、この舞台で活動写真が上映された。
また、このころ、楽隊ができていた。楽隊は日露戦争の旗行列にも参加し、また、猪谷小学校の運動会には必ず出演したという。もちろん我流でなく、富山から師匠を招いて、分教場でよく練習したという。
当時の片掛は、飛騨街道沿いでは、大久保・船津・角川・高山などと並んで、「まち」としての諸機能がほぼ完備していたところであったといえる。
このような片掛の繁栄も、昭和十年に飛越線が開通し、猪谷に駅ができるとかげりをみせ、さまざまな商業機能は、猪谷へ移っていった。 「細入村史」