伝えたいお話あれこれ 大正時代の頃のお話2
吊橋の思い出 山本外治
明治になって道路の話が持ち上がった時には、東側の人達は、道が出来ると色々の人達が多く通るし、悪い人も来るだろうし、狭い土地も無くなるとの理由で、莚旗を立てて反対運動を起し、西側に移してもらったのだと聞いた事があるが、本当かどうか。現在ならどう考えるかなあ。
明治九年に県道(現四十一号線)が完成したそうだが、その後「ドシマ」はなくなり、代わって馬車や荷車になり、荷物が多く動くようになると共に人も多く通るようになり賑やかになった事だろう。
昔から片掛は庵谷峠を降りた所に位置するので宿場として栄えた所で、筆者等が子供時分には既に、茶屋・宿屋・呉服屋・小間物屋・食料品・酒味噌・醤油屋・医者(近郷)・鍛冶屋(石塚)、銀行(密田)・郵便局・駐在所・瀬戸物屋・肥料屋・運送屋(文山)等なんでも揃っていて便利よく活用したものだ。
東側と云えば県道が出来て、一、二年後の明治十年か十一年頃に伏木と東猪谷に吊橋が出来たものだと思う。
伏木の橋は、現、村田秀夫さんの家と隣の坂下茶屋と云う家の間から橋道があり、少し南に向かって降りた所に橋が架かっていた。橋といっても立派なものでなかった。振り止めも粗末で人が通ると相当揺れて、女・子供は大変恐ろしかったと思う。それでも無いよりよいから絶えず通ったものだ。橋を渡り坂道を上りきった所が県道で、そこに一本木と云って、大きな欅があり、やれやれ一本木に着いてようやく片掛に来たと思った。
片掛村には何でも揃っているので、東猪谷・舟渡・小糸・伏木の人は買物によく通ったものだ。店が県道の両側に並び、まるで街のようだった。行商人は荷車で運び、東側へは天秤で肩にかけてくる人、背負ってくる人で色々だが、どういうわけか八尾付近の人がよく来た。三、四人はいたなあ。
「郷土研究大沢野町 ふるさと下夕南部」 野菊の会編