水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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神通峡をたずねて  片掛かいわい11

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話3

片掛に文明が押寄せて来た頃の話      文山 秀三
  
 大正十五年十二月二十五日、大正天皇は崩御されて、前から摂政として天皇の代理をされていた今上天皇が皇位を継承され、年号は昭和と改元された。新しい年号の「昭和」は、中国の古典「書経」の「百姓昭明、万邦協和」という言葉から引用されたものである。

 改元はその事の重要さは誰でも知っていることであり、今更それについて書こうとするものではないし、国の制度上の問題に触れるつもりもない。私はここに「改元」をとりあげたのはこの改元を中心とした数年間、山村片掛に大きな文明の波がおしよせたからである。その波は村人の頭にも心にも、くらしそのものにも大きな変革をもたらし、新しい時代への幕開けだったからである。
 
 私が小学校へ入った一年生の時初めてトラクターを見た。その翌年関東大震災が発生した。

img8311.jpg「細入村史」 
 
 片掛から六㎞程南の蟹寺に、その頃としては我が国で最大級の水力発電所が建設されることになり、その建設資材のうち、特にセメントの運搬はすべて馬車によって運ばれ、馬車は連日のように長い列をつくって笹津と蟹寺の間を往復していた。その頃、車といえば人力車、荷車(二輪で人がひくもの)、馬車だけで、タイヤの車は人力車のほかにはなく、荷車も馬車も鉄の輪がはまっているものだった。このように明治の延長と思われるような山村にトラクターが出現したのだから、たいへんなことだった。
 
 発電所建設に伴って、土木・電気・建築などの専門家といわれる人たちが続々入って来たし、それまでに見たこともないドイツ人も来た。猪谷小学校へも、それら専門家といわれる人の子供たちが転校してきて、静かだった学校も日に日ににぎやかさを増していった。他府県からの子供たちはそれぞれ違った方言をつかったり、標準語らしい言葉でしゃべる者があったりで、面白かった反面、たいへんだった。私などは、その頃、どのような言葉が標準語であるか詳らかでなく、まして標準語らしい言葉と標準語の区別はつかなかった。
 
img8312.jpg「細入村史」

 トラクターは珍しかったが、運ばれてくる装置類や機械なども、その名称は、もちろんどこで設置されてどのようなことに使われるかもわからず、ただただ驚くばかりだった。この発電所の建設工事によって、平常時の山村の数十年分に当る文明が一度におしよせ、山村の大人・子供を問わず、目を覚まさせてくれた意義は大きかった。

 img8313.jpg「細入村史」

 その発電所建設工事がようやく終わろうとする頃、高山線の建設工事が始まった。高山線は富山市~高山市~岐阜市を結ぶ国鉄の中部地方横断鉄道で、当時わが国でも最も難工事を予想された鉄道だった。この高山線は、飛騨の開発が主目的で、木材・木製品・木炭などを積み出し、米やセメント、機械類などを送り込むためとして着工されたものだが、このほかに軍部からの強い要求があった。軍隊輸送に関して富山方面から東京方面へは、北陸線と信越線があり、大阪方面へは北陸線や東海道線があって大きな問題はなかった。しかし、名古屋方面と富山市を直結する鉄道がなかったので、陸軍は前から強く高山線の完成を要求し続けていた。

 img8314.jpg「細入村史」

 高山線は全線一度に完成したのではなく、先ず、富山~猪谷間の開通をめざして工事が開始された。とにかく、飛騨は日本の屋根といわれ、山は高く谷は深い。工事は掘割とトンネルと鉄橋の連続のようなもので、しかも、今のように進歩した建設機械がなく、コンクリートのピーヤ(橋けた)を作ることと、ダイナマイトで爆破することのほかトロッコの作業が多かった。トンネルでは特に庵谷峠の工事中熱湯が湧き出すなどのことがあって、工事がそのために相当遅れたと聞いている。
 
 鉄道建設工事の作業者には土地の人はあまり加わらず、土方といわれる人たちのほとんどは他府県から出かせぎのように来ていた。もちろん、専門家といわれる人たちも測量、設計など仕事にたずさわっていたことはいうまでもない。

 この工事に朝鮮人も働きにきていて、言語や習慣、食べ物など違うので村から少しはなれたところに飯場を作り、そこで寝泊りし、その飯場から作業所へ通っていた。彼等が入って来て、目に付いたのは、重いものでも平気で頭にのせて歩くことと、服装は朝鮮の服であるのは当然として、男も女も白一色であった。洗濯には日本人のように洗濯板を使ってもむということがなく、石などの上に布を置き、木の棒で叩いていた。女の人の服装で変わっていたのは、上衣が非常に短く、スカートのように見えるものが長かったことであろう。食べ物は米が主食であったほか、副食に何を食べていたかは判らない。ただ、唐辛子をふりかけのようにかけて食べていたのには驚いた。
 工事が始まってから、いろいろな物売りが多く山村にも来るようになり、食べ物にしてもそれまで山村では見られなかったようなものが入って来た。作業には土方たちはみんな地下足袋を履いていたし、洋服だった。村へ出入りする人たちにも背広を着ている人を多く見かけるようになり、当然ながら革靴を履く人も増えていった。また、飛騨街道にも自動車が通るようになり、貨物自動車(当時はトラックとはいわなかった)で物資が運ばれるように変っていった。
 
 この鉄道建設工事は、多くの人の出入りと流通事情の好転によって、村人に大きな変化を与えずにはおかなかった。農作業用の服装もモモヒキはズボンになり、上衣は帯で締めなくてもよいボタンのついたものにかわった。ワラジや足なかは時代遅れとなり、ほとんどの人は地下足袋をはくように変わっていった。男に比べて女の人の服装はその変わり方は遅かったが、アッパッパ(今のワンピースのようなもの)を着るようになったことは、特筆すべき事柄であろう。村人の中にも、村長や郵便局長でなくても、背広を着る者が現れ、それが次第に増えていった。
 
 このように、蟹寺の水力発電所建設と高山線の建設工事は、大正十四年に放送を開始したラジオと共に、改元を含む僅か数年の間であったが、過去数十年に匹敵する変革と文明を、この山間の片掛にもたらした。
(飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著




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プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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