水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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神通峡をたずねて  片掛かいわい14

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話6

大正から昭和にかけての片掛のくらし    文山秀三


くらし(その一) 

 「おいらに米の飯(めし)ァ祭りか盆か、親の法事かお正月か」
 これは、飛騨の子供達が江戸時代から明治にかけて歌った童唄(わらべうた)の一節であると祖母から聞いた。この一節は何十頁に亘る説明よりも、稲作が少なく稗や粟などを主食にしていた飛騨の人達が、米にあこがれた心情を最もよく表したものといえよう。その飛騨に隣接しているか片掛や猪谷のあたりの大正時代の後半から、昭和の初期にかけて一般の人々(主に農民といえる人達)のくらしはどんな状態だったのだろうか。
 
 その頃の児童の服装は、男も女も着物だった。通学の履物は下駄や草履の者もいたが、ハナ緒が切れたりするのでゴム靴(短靴)をはく者が増えて行った。大人の男女も着物だった。特に大正時代は背広を着ていた人といえば学校の先生と村長ぐらいのもので、制服(だと思う)を着用していたのは巡査と郵便物の集配人で、のち昭和に入ってから高山線が猪谷まで開通してから、駅員が制服制帽であった。また、当時進学して都市で下宿していた学生も、村へ帰るときのは制服だった。その頃、大学へ行っている者といったらお寺の住職の息子ぐらいだったので、角帽を見る機会もあまりなかった。女の先生も洋装になったのは昭和に入ってからで、それまでは着物にエビ茶か紫色の袴をはいて教壇にたったものである。

 一般の大人の女性は、家では着物を着ていたことは当然として、野良着は着物に手甲(てっこう)、脚絆をつけ、カリサン(モンペと同じ様なものと思えばよい)をはいていた。一方、男性は短い着物(名称を忘れて申しわけない)に帯をし、モモヒキをはいて野良仕事に行っていた。この様な姿は相当永い間続いたものと思われるが、娘さんやお嫁にきたばかりの人達がカリサンをつけずに、赤い襦袢(か腰巻きか良くわからない)を出し、緑の間に見えがくれする様は情緒に満ちたものであったといわれている。
 
 男の子供達は肌着にランニングシャツ着ていたし、たいていパンツ(当時はサルマタといっていた)をはいていた。之は安あがりということもあるが、着物を脱いで遊ぶのに都合がよかったからで、一方、どういうわけか女の子は襦袢と腰巻きが殆どだった。昭和七年の白木屋本店(日本橋)の火災のとき、女子店員でもパンティをはいていない人が相当いたというから、大正時代の女の人は大人、子供を問わずパンティをはいていない者が多かった。
 
 男の子の遊びは、今から考えて随分乱暴と思われるようなものが多かったので、着物の破れかたもひどい。そこで、今日はどうにも荒れそうだと思われるときには、はじめから着物を脱いで遊びの仲間へ入ってくるものがいる。ところが、たまにパンツをはいてこない者がいて、まさかそのままでは遊びの仲間へ入るまいと思っていると、そこは考えたもので、締めていた帯を即席のフンドシにして、すました顔をして仲間の中へ入ってくる。
 
 子供達の着物も、その季節によって単衣(ひとえ)、あわせ、綿入れなどが着せられた。それらのほかに袖無し、ハンテン、羽織、前掛けなどを着たり掛けたりしていた。その頃の子供の着物はみんな同じようなカスリ模様が多く、背丈も似ているので、遊びが終って着物を着るときになって、他の友達のものと区別がつきにくい。そこで、自分の着物かどうかをたしかめないまま着て、何くわぬ顔をして家へ帰って行く。しかし、母親はチャンと知っていて他人の着物であることが必ず発見され、大目玉をくらうことがあった。子供達も心得たもので大して気にとめず、次の機会にとり替えて何もなかったような顔をしていたものである。
 
 その頃は衣料品と言わずに「呉服太物(ごふくたんもの)」と言っていた。だから店も主に呉服屋と呼ばれ生地を売るのが殆どで、既製品などはあまり売っていなかった。のち戦争中配給制度になって衣料品という名称になった様だ。現在の富山市五福及びその隣接の呉羽付近は、千数百年も前からわが国では第一級の織物の産地で、わが朝廷の貢物にこの地の織物が用いられたという。これは外国の記録にのっているそうだから間違いない。このような実績があったので良い織物の代名詞に「呉服」と呼ばれるようになったといわれている。現在の五福はその後縁起(えんぎ)のよい字に改めたものだと聞いた。

img9031.jpg写真集「細入百年の歩み」 
 
 話を私達の子供の頃にもどして、その頃の衣料品の原料といえば綿と絹と麻が主なもので、化学繊維製品などはまだできていなかった。安くて丈夫で長持するということで、子供の着ているものや農作業に着るものの殆どが木綿で、絹は晴れ着に麻は涼しいというので主に夏使われた。
 
 私の家でも養蚕をやっていたので、祖母はよく暇をみては屑繭(くずまゆ)で糸を紡いでいた。全く原始的と思えるやり方での糸紡ぎだが、その手さばきは堂にいっていて実にうまい。指先の感触だけで糸の太さを一定にするその所作は、馴れによる熟練とはいいながら見事で、感心して眺めていたことも多かった。また、蚕のサナギは鯉の好物だったので、池のそばへ行って投げ与えたりしたが、大きい鯉が口をパクリとあけて水面上でうまく受けとめる様子が面白かった。
 
 そのころ手織りの機械が村にあったので、祖母が紡いでくれた糸で織り、それを京都の染物屋へ出して染め上げると、普通の絹織物とはまた違った手ざわりのものができあがる。祖母が「生きている中に秀マの着物を」と私の為に着物を作ってくれたことは有難かった。その着物と帯は今でも大事にして使っている。

                      (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著




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プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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