水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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神通峡をたずねて  片掛かいわい17

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話9

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その四) 
 

 髪は、男の子はみんな坊主刈りで、女の子は三つ編みのおさげにしたり、うしろで束ねたりしていて櫛(くし)をさしていた。今の様な短い髪もウェーブも覚えていない。勿論、男の長髪などは一人もいなかった。その頃、もし長髪の男がいたらそれこそ大変で、気でも狂っているのだろうと皆から言われたに違いない。男の子のいる家ではたいていバリカンがあって、自分の家でバリカンを使って坊主刈りにしていた。ところが、バリカンはいつも手入れが行き届いていてよく切れるとは限らない。切れ味の悪いバリカンで刈られるほど辛い事はないもので、バリカンの刃の間に毛がはさまれそのままバリカンを移動させるので毛を引っぱり、とても痛かった。途中でやめるわけにいかず、その痛さをがまんして涙を流しながら頭を刈ってもらったものである。
 
 母は忙しかったので、私はよく妹の髪をすいてやったりおさげに編んでやったりした。今は頭髪もカラーが増えているようだが、その頃のご婦人達はみんな黒髪の束髪だったようで、一時的に耳かくしなどが流行したが大勢は束髪だった。その頃でも天然ウェーブの人がたまに見受けたが、むしろ伸ばそうと苦労したということを聞いている。今のようにウェーブをかけ、カラー染めにするなどはもってのほかと考えられていた。櫛は必ず髪に付けていたし、娘さん達はカンザシも挿していた。
 
 ご婦人でも年間を通してお化粧する人は稀で、一般の家では年に四・五回ぐらいではなかったかと思う。お化粧といっても今のように種類が多くなく、白粉(おしろい)とベニが主なものだったと聞いている。私の家のすぐ近くに一年中欠かさず白粉を付けている人がいて(村ではこの人だけだったと思う)、肌が黒いのでそれをかくす為に付けているのだということだった。とにかく、私は一度も白粉を付けていない顔を見たことはなかったので、その真偽の程は分らない。
 
 子供の坊主刈りは当然として、大人でも髪を伸ばしている者は、青年とか壮年と言われる人達で、それ以上の年輩になると殆ど坊主刈りにしていた。
 
 村には神社やお寺があり、遷宮や遷仏(ごせんぐう、ごせんぶつと言っていた)が行なわれることがある。どういうご利益があるからかは忘れたが、まだ小学校へ上っていない子供達が稚児(おちごさんと言っていた)行列に参加する。勿論参加を申込み、申込金も納めてのことであるが、金色に輝く冠をかぶせてもらい特別な衣裳を着せてもらって稚児の仲間へ入れてもらう。これは男も女もまじり三才ぐらいの幼い者もいるので、行列の中に親が一緒に歩くということも見受けられた。好天気の日はよいとしても、雨降りの中での稚児行列は大変で、仕立てたばかりの着物も履物もぬれたり泥をはね上げて汚れたりするので、行列が終った後の母親たちは大変だったようだ。
 
 山村だから小鳥が多い。鶯(うぐいす)は家の近くへあまり寄って来ないが、春から初夏にかけて、澄みきった鳴き声が辺りの静けさを破ってときどき聞えてくる。人家の近くへ来るのはセキレイや雀などで、セキレイは人家に巣を作ることはあまりないが、雀はどこにでも、特に屋根瓦の間の狭いところにでも巣を作りヒナを育てていた。雀は米や雑穀を食べるということで農民からきらわれ、その巣を子供達が竹竿や鉄線で引きずり落していた。どこの家にも巣を作っていたのは、益鳥で保護鳥にもなっていたツバメで、家の外でも中にでもかまわず巣を作っていた。家の中に巣を作った場合ツバメが出入する為に、戸は必ず二十㎝程開けておかなければならないので、風の強い日などには戸の開閉に苦労したことを覚えている。卵がかえり、ヒナが次第に成長するに応じて親鳥は青虫などのエサをくわえて運びこみ、必ず順番どおりに与えていた。私達はときどき虫を捕えてきて、竹竿などの先端に刺してヒナの近くへ持って行ったことがある。ヒナ達は親鳥からもらうときと同じように、自分の頭よりも大きい程の口ばしを広げてその虫を受取り食べて(呑み込んでいたのかもしれない)いた。家の中で一番困るのは、ヒナが次第に大きくなり糞を巣の外へ排出することである。人が通らないところならまだよいが、私の家のように泊り客がある場合、お客さんに迷惑をかけないかと気を使ったものである。
 
 春から夏にかけてカン高い鳴き声をはりあげ、さえずり続けるのはヒバリである。ヒバリは麦畑の中で麦の株の間によく巣を作る。ところが、空から下りてくる場合、巣の近くへ下りなくて、敵の目をあざむく為に二十m以上離れたところへ一旦降下し、そこから地上を歩いて巣へ行く賢い鳥だった。東野(ひがしの)などでヒバリの巣を発見し卵が巣の中にあったりすると、卵からヒナがかえるのを楽しみに待つ。しばらくして行ってみると麦の土寄(つちよせ)がしてあって、巣は土の下になっている。農夫は気がつかなかったのだろう。大急ぎで手で土をはらい除けてみると、まだ毛も生えていない生まれたばかりのヒヨコが折り重なるようにして死んでいた。可愛そうに、子供でも可愛そうなことぐらいは知っていて、石を拾って来てお墓をつくってやり、小さな手を合せて念仏をとなえて家へ帰ったことが幾度もあった。
 
 鳥のことを書いたついでに少し大きいものにも触れることにする。鳴き声で一番低音なのは山鳩で泣きかたも悪く、相当遠くからも聞えるので人気がなかった。鳶(とび)はその体に似合わないよい声でピーヒョロと鳴き、翼を広げたまま長時間上空で円を画いているのが魅力だった。その鳶と烏(からす)がときどき空中戦をやる。烏は体が鳶に比べて小さいので、二羽か三羽で鳶一羽に対するのだが、どちらかが死ぬというほどの激しいものでなくいつの間にかどこかへ分れて行ってしまう。
 
 秋が深くなって、稲を掛けてあったハサの木や竹だけが見られる頃になると、高い山は全て雪で真白になり渡り鳥がやって来る。雁(がん)の飛来する数は割合少なかったが鴨(かも)がよくやって来た。湖や沼のない片掛辺りでは、神通川の流れのよどんだところへ下りて翼を休め、水に浮んでいるのをよく見かけたものである。また、幾千幾万とも知れない小鳥の大群が馬道(うまみち)坂を越え庵谷峠を越えて行く様は壮観であった。この小鳥の大群も来なくなると片掛でも、雪は山頂付近から次第に麓へ下りて来て、いよいよ冬はかけ足でやって来る。そして雉(きじ)や山鳥の季節になるのである。

                        (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著
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プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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