水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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神通峡をたずねて  片掛かいわい18

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話10

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その五)
 

 この地でとれる甘味品には吊し柿のあることは前に書いたが、このほかに蜜蜂による蜂蜜があった。これは今でも多くの土地で行われ、蜂蜜はどこにでも売っているので、詳しいことは省略するとして、甘味料ではないが重要蛋白源であった地蜂(じばち)がいた。この地蜂のサナギをアメダキのようにすると、これが実にうまかった。
 
 地蜂は字のように地中でなるべくやわらかい土質を選んで、入口は小さな穴だが中は大きく(直径六十㎝ほど)球形に掘りその中に巣を作る。巣は次第に大きくなり三十~四十㎝ぐらいの直径の笠(笠のような形をしていたので笠と呼んでいた)が三つも四つも重なるように作られる。村人達はいつ頃巣が大きくなりサナギが食べ頃かを知っていて、地蜂をとる準備にとりかかる。昼間その入口に近付くと刺されて危ないので、仕事はどうしても日が暮れてからになった。あたりが暗くなり全ての親蜂が巣に戻った頃あいを見さだめ、導火線(ダイナマイト導火用のもの)に一端に火をつけ、すばやく火を穴の中へ押し込んで入口をふさぐ。穴の中では導火線は猛烈な煙とくさい瓦斯を出し、蜂達は一時的に全身麻酔をかけられたようになり、飛ぶ元気も刺すほどの力もなくなってしまう。その間に巣を掘り起こし丁寧に大きな風呂敷に包んで家へ持ち帰るのであるが、少しの手違いで麻酔がよく効かないときには大変で、巣を掘り起こしにかかったら怒った蜂は集中的に襲いかかり、頭、顔、手足といわずいたるところ刺されて酷い目に会う。そういう痛い目に会うことを半分覚悟しながら、夜の地蜂攻撃は楽しみだった。

  片掛には小さな谷や川が多く、それらの谷川のどこへ行っても沢蟹が沢山いた。私達は単にカニと言っていたが、谷川の石と石との僅かなすきまによく見かけたもので、捕ろうと思えば十匹や二十匹はすぐ捕られることができた。この蟹を煮えたぎる醤油汁の中へ、生きているのをそのまま入れて食べたことがあり、味も一寸変っていて美味しかった。
 
 薪(ホエ)や割木(バイタ)などを燃料にしていた時代だったので「川木拾い」が行われていた。大雨が降って洪水になると、上流の谷川に落ちたり倒れたりしていた枯木などが濁流と共に流れてくる。この木のことを「川木(かわぎ)」といって良い燃料だったので、洪水があると「川木」を拾い上げようと雨の中でも村人達はミノを着けて笠をかぶりマキ(川の曲がる所などで渦巻きになっていて、流れてきたものが岩などの近くへ寄ってくる所)へ集まってくる。まず最も多く拾い上げられそうな場所へ陣取るのだが、昔から川木拾いに行って反対に川木に引きずり込まれ、命をなくした人も多いといわれるほど危険が伴う作業である。私は子供の時から父について行って川木拾いの経験をしたもので、危ない反面また男らしい作業でもあった。拾い上げた木などはその付近の安全な場所を選んで、積んで乾かすようにするのだが、沢山拾い上げた家では半年分以上の燃料を確保したというから馬鹿にならない。一般の家ではイロリで薪を燃やしていたので、現在に比べてはるかに多くの燃料を必要としていたその頃、特に山林をあまり持っていない家にとって、「川木」は貴重なものであった。
 
 トラックもなく高山線も開通していなかったその頃では、飛騨特産といわれる木材も輸送の問題が悩みの種だった。

img9071.jpg 「細入村史」
 
 馬車があって輸送に当っていたものの、長尺物ではそれを輸送するのに他に良い手段がなく、陸上での輸送は不可能視されていた。そこで考えられたのは神通川とその支流の流れを利用し、筏(いかだ)を組まずに丸木のまま富山市まで流すことであった。今のように大きなダムがなかったので、流された木材は全てに焼印をし、延々六十㎞に及ぶ距離を流れと共に北上し、遂に富山市で陸揚げされることになる。
 
img9072.jpg「細入村史」
 
 この木流し(一般にキナガシと呼んでいた)は農繁期をさけ特に冬に多く行われたのは伐採時期と農閑期を合理的に組合せたもので、神通川冬の風物詩でもあった。しかし、流された木材はそのまま無事に富山まで到着することはなく、殆どのものは岩の上に押上げられたり、浅瀬へ入り込んで止ったままになっている。これを本流の方へ押し出し、自然に流れて行くように鳶職はだしの丸太乗りなどで作業する人達がいて、木材と共に移動していた。これらの人達の殆どは東砺波郡方面の山村の人々で、私の家でも毎年のように一グループ十数人が宿泊していた。宿泊期間はそう永くはなかったが、夕飯の前はきまったように酒を飲み(砺波方面の人達は一般に酒が強かった)みんなで麦屋節を唄い、後はぐっすり眠って、翌朝はまた木を流しに川へ下りて行ったことをよく覚えている。
 
image9074.jpg 「神岡町史」

 このようなことが繰り返されて、流しはじめてから最終到着まで一か月以上もかかってようやく陸揚げされたのである。

                               (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著

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プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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