水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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神通峡をたずねて  片掛かいわい19

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話11

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その六)
 

 そのころ片掛では主食は米だった。当然のことを書くようだが、すぐ南の飛騨では一般に主食として行き渡ったのは、その後の戦時中米が誰にでも配給されるようになってからである。戦争で食糧難といわれた中で米が常食として食べられるようになったことは、飛騨に住む人達にとってこの上ない喜びだった。このように「主食は米だった」のはよい方で「米ではなかった」人もいたのである。

 その米であるが、当時は肉体労働が多かったせいで、今に比べて多量の米を食べていた。何しろ貧しい副食物ではカロリーが少ないので、どうしても米に頼らざるを得なかった。俗に「一升飯を食べる」という言葉があったほどで、仕事をよくやったかわりに米も沢山食べていた。私の家では家族は十人で、ほかに父母に死なれたイトコが一人加わっているという大家族で、僅かの宿泊者(それも毎日ではない)があったにせよ、十日間で一俵(六十㎏)の米を食べていた。水田は少しあったが、買わなければならない米の代金を工面するのが大変だったようだ。自作の大豆は味噌作りに殆ど使われたようだが、少しでも米を倹約する為に小豆、エンドウ、ウズラマメ、粟、麦などを主に東野(ひがしの)や下山(しもやま)の畠で作っていた。
 
 学校へは二年生のときから、毎日のように弁当を持って行った。風呂敷に包んだ弁当は登下校の途中遊んだりするのに都合のよいように、腰にしばりつけていったもので、まさに腰弁当だった。はじめは、竹や柳で編んだ行李の弁当だったが、後にアルミの弁当箱が出はじめたので、それからはアルミのものを使っていた。弁当のおかずは野菜や山菜の煮付けたもののほか、梅干や漬物などで魚といえば干物ぐらいのものだった。とにかく、塩鮭塩鱒(ショビキと言っていた)の切り身などは上等の部類だったのだから情けない。
 
 冬、教室の暖房はストーブではなく、大きな四角い火鉢に炭火を入れていた。弁当のおかずに干いわし(その頃は鰯が沢山とれたので干(ひ)いわしは一番安上りでおいしかった)を持って行き、昼食時間になると火鉢の炭火をひろげ、焼いて食べたものだ。大勢で干いわしを焼いたときなど、休憩時間がすぎてもまだいわしの臭いが教室に立ちこめていたことがよくあった。教室の暖房も高山線が富山―猪谷間部分開通によって石炭が運ばれてくるようになり、石炭ストーブを使うように変って行った。

img9081.jpg  「細入村史」
 
 私の家に馬がいた。この馬を飼っている主な目的は、春になって農繁期に入ろうとするころ富山市付近の大きな農家へ耕作用に貸し出すことにあった。一か月半程耕した代償は金銭ではなく玄米が秋に支払われることになっていたが、毎日の重労働に馬体も痩せこけて家に帰ってくる姿は痛々しかった。馬が大農家での仕事を終え、わが家まで歩いてくるのだが、家の前まで来るとなつかしいのか一声高くヒヒーンと鳴くのが常で家中の者が出迎えたものである。勿論、馬を飼っていれば堆肥ができることになり、それを肥料にしていたことも大きい。だた、子供のときから馬と遊んだ私にとって、馬は玄米をもらうことや堆肥製造の為ばかりではなかった。
 
 米代を倹約する為に雑穀類は当然だが、ジャガイモやサツマイモなどを米と一緒に入れ混ぜご飯(米の中へ米以外のものを一緒に炊き込むものを混ぜご飯といっていた)をしたものである。そういう反面、餅米をふかす赤飯(子供達はアカママといっていた)はお祭り、お盆、彼岸の中日(ちゅうにち)などに食べたし、何かおめでたい事があるときにも赤飯をふかしてくれた。そのほかお正月以外でも餅を食べた。餅は餅米だけをついたものとは限らない。私の家では毎年餅粟(粟の一種類)を作ってそれと餅草のやわらかいものを混ぜて臼でつき、粟の草餅をつくっていた。粟餅を一部で軽蔑する向きもあるが、特に草餅にした場合風味があって私はよく食べたし美味しかった。

img9082.jpg  「細入村史」

 お正月のお餅は、私の家では約四斗(六十㎏)宛毎年ついていた。二升セイロでふかした餅米を二十臼つくのだが、わが家の杵は他家のものに比べて重い杵だったので餅つきも大変だった。おまけに二升セイロだから普通以上の体力でないと、連続的に幾臼も餅をつくことはできず、私も餅つきをしてみたが(十二才の時から)、見ているよりもはるかにつらかったことを今でも覚えている。
 
 私の家では、ご飯は普通イロリで自在カギにつるした鍋で炊いていた。別に煉瓦作りのカマドがあって、大量のご飯を炊くときとか、餅米を蒸すような場合に使っていた。鍋の場合とカマドのときとは容物も違うので、フタが違うし炊き方も違っていて、簡単なようで火の番をやらされてみていろいろ心を使うべきことを覚えたものである。水加減は、米だけのときでも古米と新米とでは違うし、混ぜ物の質と量とによっても変ってくる。また、混ぜご飯のときに少量の食塩を入れるのが普通だが、その塩加減もむずかしいもののひとつだった。

                               (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著



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プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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