水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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神通峡をたずねて  片掛かいわい21

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話13

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その八)
 

 そのころ住家の特徴は屋根が板屋根(又は板葺き)のものが多かったことと、柱が太かったことを覚えている。板屋根というのは木の板で屋根を葺いていたもので、腐りにくい栗の木の厚さ五㎜位の板を並べ、その上に板が風に吹き飛ばされないように石を並べておく。この板屋根はその後次第に瓦葺に替えられて行ったが、飛騨の方へ行くと今でもよく見かける屋根である。腐りにくいといっても、数年のうちには腐り始め、割れるなどのことがあって、それらを補給しながら、毎年のように屋根板の葺き替えをしたものである。私は子供のときから屋根へ上り、父や兄の葺き替えの手伝いをしながら、どういう状態になれば雨が漏るようになるかを覚えていった。

img9102.jpg  「細入村史」

 柱の太かったのは、屋根に石をのせるという前提もあるが、積雪量が多くその重量に堪える為と考えられる。片掛ではカヤで葺いた屋根の家は一戸もなかった。之は明治の大火のとき火の粉が飛んで相当離れた所にある家でも類焼したという苦い経験があったので、それ以後に建てられたものではカヤ葺の家はなくなったと聞いている。

 都市の一般住宅に比べて山村の住家は広い。これは、住家は単に「食うところに寝るところ」だけではなく、蚕(かいこ)も飼うし藁仕事もする。納屋(又は農作業をする為と農具の置場のための専用建物)のない家では家の中で脱穀やモミスリなどもしなければならない。そのほか結婚式、葬式、法事、報恩講(ホンコサマとも言って、法事は三年とか七年とかの周忌によって行われるが、報恩講は毎年一度農閑期に法要を行い、祖先の冥福を願ったもので法事と重なる年は法事の中へ含ませた)なども自宅で営まなければならない。その度毎に親類縁者が多く集まってくる。そのほかにも、お祭りやお盆などに、仏事とは違った人達が実家へ集まるのが習慣になっていた。産児制限ということがなかったその頃では、子供の数が多く、それら子供の為の部屋を確保する必要もある。このようなもろもろのことがあって、大抵の家は大きく広く作られていたと思われるが、一方、家柄によって家の中での作業にあまり関係なく広く作られていたものもあった。

img9105.jpg 「細入村史」

 家の庇(ヒサシ)は一般に長く出ていた。片掛のような積雪地では庇に積る雪のことを思うと不合理なようにも考えられるが、別な角度からいろいろ眺めた場合その理由が他にあることに気がつく。日本の家は元来木で建てられ、光を入れる為に(昔はガラスがなかったので)障子戸が家の外側にめぐらされている場合が多い。おまけに、フスマは紙が使用されていたので、風雨の場合でも雨が障子戸に直接かからないように考えられたものであろう。また、ネダ(家屋の基礎にしてある石の上に横になっている角材)を雨水の浸入による腐蝕から護る為にも庇を長くする必要があったものと考えられる。これらのほか、その長い庇を利用しての使い方もあって、農作物やその他のものを一時的に保管する置場としても、雨のかからない庇の下が活用されていた。昭和になってから、一般の家でも硝子を使うことが広がっていったけれども、それまで硝子のある家といえば商店の表戸か学校ぐらいのものであった。

img9101.jpg 「細入村史」

 この住家に板張りの広いオエ(と呼んでいた)があって、そのオエにイロリが四角く切られていた。「オエ」はどの様な意味かどんな言葉が変化した後に呼ばれるようになったのかは詳ではないが、オエには大抵の家で一部にゴザが敷いてあった。このゴザというのは、表は畳表を使ってあるが畳の三分の一程の厚みで、都会などではみられない特殊なものだった。そしてイロリのまわりにもこのゴザが敷かれていた。オエが広いのでお祭りの獅子舞などもこのオエで行われていて、少しも狭いと感じなかったほどである。
 
img9104.jpg  「細入村史」

 土間は読んで字の如く赤土などを叩いて押し固めたものだった。セメントが出回るようになって、次第にコンクリートに替えられて行ったが、それまではこのような土間がコンクリートの様に使われていた。ところが、どういう訳かこの土間を「ニワ」と呼んでいた。私達が普通に使っている庭という言葉は家の外であるのに、「ニワ」は家の中であったのも面白い。家の周囲にはいろいろな木が植えてあったり、草花なども植えてあってどこも「庭」だった。

img9103.jpg 「細入村史」

 多くの家には下家(げや)があって縁側などに使われていた。このようなところを「ガーギ」と呼んでいたが、これは造作からいっても上越地方の「ガンギ」と全然違うものである。イロリは四角いが、その四角い中にも位(くらい)があって横座(よこざ・正面で一番よいところ)とか下座(しもざ)などの名がついていて、家の主人は横座に座ることになっていた。子供の頃、うっかり横座でアグラをかいていて見つかり、叱られたことがあった。

 一般に信心が厚かった片掛では仏壇に大金をかけることを惜しまない風潮があったようで、私の家でも仏壇だけは立派だった。法事や報恩講が近づくと、学校から帰るとすぐに仏具などを磨いたもので、見違える程ビカピカにしたものである。仏壇を安置してある部屋を仏間というが、私の家では八畳間でよい部屋を仏間に当てていた。私に信仰心があったかどうかを別にして、子供の頃から仏壇の前で手をあわせ、「ナムアミダブツ」を唱えたあとで朝ご飯を食べるように習慣づけられていた。

 家にはそれぞれ家紋があったようで、子供の私には片掛にどれ程の種類があって、どの家はどの紋であったかということは残念ながら覚えていない。ただ、紋付きに羽織、袴が正装と言われていたので、紋付きには必ずその家の紋がついていた。

(飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著


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プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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