水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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神通峡をたずねて  片掛かいわい22

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話14

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その九)
 

 結婚式は、今と大きく変っていたとは言えないが、公民館などで行われることはなく必ず自分の家で行われていた。式が近づくと畳の表替えやらフスマの張替え、障子を張替えたり、すすで汚れた柱を磨いたり。梁を拭いたりして家の中は見違えるほど一新したものである。式の順序はその家によって若干の差があったと聞いているが、今と比べて特記するほどの変りようはなかったらしい。ただ、酒宴だけが延々と続いて(その頃の人達は酒の強い人が多かった)いたといわれ、泊りがけで結婚式にくる人も多かったという。
 
 新婚旅行はそのころあまり行われていなかったようで、新婚旅行のみやげ話など聞いたことはない。とにかく「家」が中心で、家柄というものが重視されていた時代だから、新郎新婦のことよりも「家」が先ず考えられた。結婚式はなるべく農閑期に行うことが多かった。之は農作業の忙しい時よりもゆっくりした心で式を挙げる方が都合がよいということで、一般農民は晩秋から冬、春先に挙式が多かった。この結婚式の時のごちそうばかりは富山市から本職の料理人を頼み、材料も豊富に運ばれ盛大であった。

 今は出産といえば産院で行われるのが常識であるが、その頃の初産は実家で出産し、第二子以後は大抵自分の家で産婆さん(助産婦というようになったのは後のこと)の手助けで行われるのが普通だった。妊婦は出産二日、三日前まで畠仕事などをしていたと聞いていたし、産後も仕事に出るのが早かった。それでいて、七人も八人もの子供を生み育てたのだから全く驚くほかはない。特に元気のよい妊婦が、山仕事に行っていて山の中で産気づき、生んだ後帰りに谷川の水でよく洗ってから、赤ん坊を抱いて家へ帰ったという話も聞いた。
 
 産所は納戸(なんど)という部屋で、明治の頃までうす暗い部屋が多かったそうだが、次第に改善され窓などもつけて明るくなって行った。赤ちゃんはすべてと言っていいほど母乳によって育てられ、育児用のミルクはあったものの高価だったので、どうしても母乳が出ない人だけで金のある家が育児に使っていたものである。母乳は育児に一番良いと思われていたし、人工乳ではいろいろ面倒なことがあったので、一般の家では母親の乳の出が悪かった場合、他家の母乳を飲ませてもたっていた(モライチチと呼んでいた)。少しでも余計にその上良質な乳が出るように、自宅で米の粉を作り団子にして味噌汁の中へ入れたり、麦粉を練って小さくちぎり味噌汁の中へ入れたり、聞いてきた良いと思われることを試み実行した。この様に母乳の出を良くする為に母親のみならず、家中の者が協力し食べるものや副食について不平を言うものはいなかった。

img9111.jpg 「細入村史」 
 
 その頃、私の村では乳児であっても家に置いて、母親が田畠や山の仕事に行くことは常識だった。赤ん坊を布団に寝かせておくか「ツブラ」の中へ入れておくかはその家によって違っていたようだ。それぞれ特徴があったのだろう。「ツブラ」は藁で編んだ直径五十㎝、高さ三十五㎝ぐらいの、おわんの様な形をした中へ、赤ん坊の身体のまわりを布切れなどで保温し、倒れないようにアグラをかいたような体位で入れるものである。首がすわらない内は布団に寝かせるので、生れたすぐからツブラに入れるのではない。今では昔語りになってしまったツブラだが、私もそのツブラで育った一人である。
 
 私に七才年下の妹がいる。夕方はどこの家でも夕食の支度などで母親は忙しい。かまってもらえないので妹は泣き出す。うるさいのとお客さんにも迷惑だというので、私は小学校の一年生頃から妹の子守りを言いつけられた。一時間程外へ出ておれといわれ、おんぶして外へ出るものの、日が暮れてくるし子守唄を唄ってやっても泣き止まない。お腹が空いているのだろうが家へ帰るわけにいかない。はじめのうち妹は家の前へ来ても自分の家ということを覚えていなかったが、だんだん知恵がついてくるとチャンとわが家を知っていて、家の前へ来ると泣き止む。泣き止んだと思う間もなく反対の方へ家から遠ざかるとまた泣き出す。泣き出したいのは子守りをしている私の方だった。帯がくい込んで肩が痛くなり妹をゆすり上げながら、ようやく一時間経つとヤレヤレと家へ帰る。妹は、それまで泣き叫んだことがウソのようにニコニコ顔になり、母に抱かれ乳房にシャブリつく。
 
 ようやく子守りから解放されたが、しばらく肩の痛みが続いているようで、身体全体がどうもおかしいと思われるほどだった。このような子守りは、今日やれば明日はやらなくてもよいというものではない。年令のわりに頑丈だったのでいつでも言いつけられた。それにしても肩が痛くなるとは、一年生くらいでいくら元気だといわれた私でも、体力の限界があり身体はまだ子供だったのである。
 
 このように兄弟のいる家では、年上の者が妹や弟の子守りをすることが一般に行なわれていたが、兄弟の少ない者や金持ちの家では子守りの女の子(ベーヤと呼んでいた)を置いて、専門に幼い子供を見てもらっていた。私は小さい頃から妹の子守りをしてオシッコをひっかけられたり、ときにはオムツを取替えたりなどしてきたが、そういう私も、兄達にこのようなお世話になったのだろうか。

                     (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著



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プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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