水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

団塊世代の親父のブログです。
水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記 TOP  >  スポンサー広告 >  富山市 神通峡の観光スポット  片掛かいわい >  神通峡をたずねて  片掛かいわい23

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

神通峡をたずねて  片掛かいわい23

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話15

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その十)
 

 その頃の度量衡は尺貫法(しゃくかんほう)が主だった。メートル式のものは学校や機械的寸法などで行なわれていただけで、一般には尺貫法が使われていた。
 
 尺貫法では長さの基準に里(リ)、町(チョウ)、間(ケン)、丈(ジョウ)、尺(シャク)、寸(スン)、分(ブ)、厘(リン)などと呼ばれた。厘・分・寸・尺・丈までは十進法で、一寸は十分、一尺は十寸、一丈は十尺などである。メートルとの比では三尺三寸が一mに当る。一間(ケン)は六尺、一町(チョウ)は六十間(ケン)、一里は三十六町(チョウ)に決められていた。(昔中国で使われていた「里」は、ここに掲げた一里ではない)以上の長さの基本となるものはカネジャクというもので殆どに使われていたが、裁縫などには別にクジラジャクというものがあってそのことだけに使われていた。一間(ケン)即ち六尺は「五尺の身体」と言われた日本人の身長にあわせ、建築物の一方の基準として使われ今も使われている。戸や障子、フスマ(カラカミと言っていた)などは五尺八寸にきまっていたと聞いていて、今でもその寸法のものが大部分である。メートルとの比で一間は一m八十㎝ということになっている。足袋(たび)の文数(モンスウ)は江戸時代に一文銭の直径を一文といい、その長さの何倍が何文(もん)と呼ばれるようになったと聞いている。
 
 広さは平方寸、平方尺などと呼んでいたが、別に一寸四方とか三尺四方などとも使いわけられていた。家屋などの場合、一間(ケン)四方のことを一坪(ツボ)と呼び、土地の中でも山林や田畠などの場合は一歩(ブ)と言っていた。田や畠などの広さの場合、町(チョウ)、反(タン、段とも書く)、畝(セ)がそれぞれの基準として呼ばれていた。ただ、面積の場合の町(チョウ)と長さの場合の町(チョウ)が紛らわしいので、面積の場合町歩(チョウブ)と歩(ブ)を付けて区別して呼んでいた。一畝(セ)は三十歩、一反は十畝、一町歩は十反と決められていた。土地でも屋敷や工場敷地のように田畠でも山林でもないところでは、相当広くても何万坪又は何千坪などと呼ばれていた。単位を坪で表す場合には何町歩とか反の単位を使わず、広い所でもその数字に坪を付けるだけの表し方をしていた。
 
 家の中では、畳の長さが六尺、幅が三尺(実際にはシキイなどの幅が差引かれるので、これよりも小さい)を一畳(ジョウ)といい、一坪に二畳敷かれることになる。二間(ケン)に一間(ケン)半の部屋は畳六枚敷けるので六畳間(ジョウマ)といわれ、その様な言い方で二間四方の部屋は八畳間、一間半四方の部屋を四畳半と呼んで現在も通用している。また農道や農業用水路はいくら狭いものでも、正式には三尺に決められていたようだ。
 
 重さは、匁(モンメ)貫(カン)が主な単位で、匁の十分の一を分(フン)と呼んだ。一貫は千匁でその間に別な呼び方をする単位はなかった。また貫の上にも別称の単位はなく、十貫、千貫など、いくら重くても貫をつけていた。ちなみに四貫は十五㎏で、米一俵正味六十㎏は十六貫である。この重さの単位匁(モンメ)も百匁以上になると百モンメと言わず、百目(ヒャクメ)又は二百五十目、五百目などと呼ばれていた。この様に「貫」と寸法の「尺」が最も重要で多く使われたことから、基準のようになり「尺貫法」と言われたのであろう。
 
 容積は、勺(シャク又はセキ)、合(ゴウ)、升(ショウ)、斗(ト)、石(コク)などに分けられ、それぞれ十進歩法で上の呼称になる。つまり十合で一升、十升で一斗、十斗で一石になる。それぞれ一合枡(マス)、一升枡、一斗枡などがあって、液体ばかりでなく穀物なども枡で計っていた。米や麦、豆類も枡で計っていたが、米一俵(正味)四斗であっても十六貫と重さで言うのが普通であった。

 メートル法では、その基準となるものがはっきりしているし、原器も造られ保管されている。尺貫法ではその基準となるものが何であるかは、残念ながら詳らかにきいていない(わが国なりにそれに相応しい原器は造られていたと思うが)。一間(ケン)即ち六尺は人間の身長から考えられ、畳一枚は寝ている間の寝返りなどを考慮しても、普通なら幅三尺でよいといわれるので判るけれども、その元になる一尺はどうして定められたものかよく判らない。重さの一貫、又は一匁も何を基準としたものか判らない。とは言っても永い年月使われていたのだから、それなりの理由があったに違いない。ただ、尺貫法でも十進法が多く使われていて、洋の東西を問わず数の根源は両手の指十本から始まっていることを示していのが面白い。
 
 交通機関のなかった昔、人の移動や旅は全て歩いて目的地へ行ったものである。歩くのに強かった昔の人でも歩くのに疲れを覚え、小休止したくなるのが一里(リ)ぐらいであったというから、一里という単位を作った意義も達せられたように思う。

 履物では下駄(ゲタ)や足駄(アシタ)が主だったので、靴の様に種々の寸歩のものがなく、せいぜい四種類ぐらいの別け方で子供から大人まで間に合っていた。着物にしても、洋服の様に特に子供では成長が早いので一年か二年で着れなくなるということがなく、肩や腰に縫い上げ(ヌイアゲ)をして着るということがどこの家でも行なわれていた。身体が大きくなれば縫い上げを縮めるなどして身体に合せ、相当長い年月着れるように考えられていた。また呉服太物の一反(タン)は成人一人分の着物が作られる布のことで、長さが十m強、幅が約三十四㎝のものだった。別に布地二反で一匹(又は疋とも書く)というような呼び方もあった。

                       (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧)文山秀三著





コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL

[2012/09/15 20:54]
プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。