水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

団塊世代の親父のブログです。
水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記 TOP  >  富山市 神通峡の観光スポット  片掛かいわい >  神通峡をたずねて  片掛かいわい25

神通峡をたずねて  片掛かいわい25

伝えたいお話あれこれ   大正時代の頃のお話17

大正から昭和にかけての片掛のくらし     文山秀三

くらし(その十二)
 

 「いつも健康でありたい」、これは古今東西、老若男女をとわず、生をこの世にうけているものの誰もが願う最大のものである。

 今では医療施設も次第に充実し健康保険も実施されて、交通機関も発達している。すぐそこに医療機関がなくても自動車はどこにもあり、急を要する場合は飛行機やヘリコプターなどによって、めざす医療機関へしかも短時間で到着することが出来る。それにひきかえ大正時代から昭和のはじめ頃にかけては、健康保険はなく病気の場合医療費は莫大なのもになった。その為、入院を必要と思われる人でも山村などでは、経費以外の理由もあるがなかなか入院出来なかった。

 完全看護とは程遠いその頃では、無理をしてまで遠路の病院へ入院しても、その付添いに家族の誰かを必要とする。付添い人の宿泊所や生活費のことまで考えると、一般の家ではそれらが叶えられることは非常に少なく、子供の多い家では不可能に近かった。私が危篤に陥ったときも家にいた。それは金銭的なこともあろうが富山市まで出て入院できない理由が沢山あったからである。家での両親や祖母の寝食を忘れるほどの看護には、全く頭が下るばかりだが、最後は私自身の体力がものをいったのだと後で医師から話された。私のこの体験を他人のそれと比較するのは筋違いかもしれないし、あんな元気で丈夫なと言われた人が死亡されたことも知っている。私の知人や友人のうちでも戦死は別として多く亡くなっているが、それらの人々の多くは体力に欠陥があり、早く死亡していることに気がつく。体力という言葉は具体的でないとお叱りを受けることを覚悟で、「いつも健康でありたい」と次に「体力をつける」ことを、ここで特に書き加えたい。
 
 病気ではその当時最も多かったのが結核性疾患だったと聞いている。そのほか肋膜炎(胸膜炎)、腹膜炎もかなりの数であったらしい。ただ、私も子供だったので村での病気の種類やその実態の本当の事は詳らかでないので、大人から聞いた事などを書くことにしよう。今最も恐れられている癌も昔からあって、特に胃癌については何度も聞いたことがある。胃以外の癌もあったのだろうが、その頃の医療技術では発見まで至らず。他の病名のまま多くの人が死んでいったと思われる。次に成人病では脳出血、脳溢血、高血圧、胃腸病などが多かったようだ。脳出血、脳溢血は聞いたのを書いたので、それが本当の病名であったかどうかわからない。その頃と今を比べて最も違うことは、一才未満の赤ちゃんの死亡率で、今とはケタ違いに多かったので平均寿命にまで影響したほどである。

 片掛は山村だったが幸いお医者さんがいてくれたので(村で基本給を出していた)その点有難かった。それでも手術を要する病人や急に入院させる必要のあるときなどは、戸板にのせて十二㎞も人手に頼って歩いて笹津まで運び、そこからやっと汽車に乗せ富山市の病院に入院させたのだから、病人も家の人達も大変だった。これも高山線の開通によってそのような心配や苦労がなくなったことは、高山線という文明の使者が、村人に与えてくれた最も大きな恩恵であったといえよう。

 結核性疾患は不治の病として最も恐れられ、家の者にも伝染するというので嫌われていた。特にその療養期間が長かったので病人も家の者も経済的、精神的の負担となやみが大きかった。ときには十年間も入院加療していて、そのあと死亡した為相当裕福だったと言われた家でもすっかり金を使い、残った者は途方に暮れたという話を幾例も知っている。

 家々には売薬の袋が置いてあり、置薬が一応揃っていたので風邪ひきや下痢などの場合はその売薬を服用し、間に合わせていた。子供達はいつもカスリ傷などをしていたので、今の子供のようにすぐ消毒薬を塗るということはしなかった。それでも化膿するようなことなく、すぐに治っていった。

 誰かが死亡すると、早速近親者や近隣の者が集まり葬儀の準備をはじめる。富山市まで行って買い求めるものもあるので、それぞれ手分して作業することになっていた。納棺はその家によって違うが、私の家では家の者がやっていて、棺は立て棺で蓋が取り外しできるように作られていた。近所のご婦人達が手伝いに来て食事の準備や後片付けなどを受持っていた。村では昔からのシキタリで大勢食事をする場合、その材料を持ち寄ることになっていて家人がその為の心配をすることはなかった。勿論、香典は村の家全部が持ってきていた(ユイという制度の様な習慣で保険の小規模なものと思えば間違いない)。

 葬式当日はその宗派によって若干異なる。家の仏壇の前で読経などが済むと、次はお寺へ行き所定の順序に従って葬儀が行なわれている。こうして棺は近親者四名で肩に担ぎ、家からお寺へ、お寺から火葬場へ運ばれる。火葬場といっても立派な設備があるわけがなく、屋根もないその場所というのは飛騨街道(旧道)から三百m程入ったところで、地蔵様が並んでいらっしゃる。そこに大きな石が数個集められ、その上に木炭三俵程と、太い薪五束ぐらいを丁寧に並べ棺をその上に置く。棺のまわりと上には藁を積み重ね、これでよいと確かめた後血族の者が火をつける。
 
 火つけを終ると近親者は家へ帰るが、火葬場の番をする人が二名来てくれて朝までいてくれるので安心である。明朝家族などが骨がめを持って骨拾いに行く。「朝(あした)に紅顔の美少年も夕(ゆうべ)には白骨に…」これはお経の一節であるが、白骨を見た瞬間、生あるものは必ず死すの言葉を思い浮かべ、人間のはかなさをしみじみ感じたものである。

 家々の墓は洞山麓の一か所に集められて、各家の石塔や墓が立ち並んでいる。毎年お盆近くになると墓掃除をしに行くことになっていて、墓のまわりを丁寧に掃除し玉石を並べかえる。雑草もきれいに抜き取って、お盆の日に死者の霊が戻ってきても、すぐわかるようにしておく。お盆には好物を供え、水をかけ、花を立て、線香、ローソクを立ててお参りする。

 とかく一人前になった人達は、一人で大きくなったような気になりやすい。このお盆の日に祖先あっての自分であることを、あらためて頭の芯から反省したい。そして、祖先に対する思い出を死者との心の対話の為に、現世に生きている私はできる限り今後も墓参りをしたい。

                         (飛騨街道「片掛の宿」昔語り まぼろしの瀧) 文山秀三著




コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL

プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

月別アーカイブ
ブロとも申請フォーム