伝えたいお話あれこれ 神通川にダムができた頃のお話1
神通川にダムができて 松下 政男 遠く飛騨の山脈を源として一路北へ流れる高原川、これが猪谷で宮川と合流して神通川となる。はるか太古の昔から流域に居住する多くの人々はこの川の恩恵を享けて生活を営んで来た。

「細入村史」
この滔々と流れる聖なる川も時代の変遷に伴い水の利用も変革し、文明の灯をともす為庵谷第一発電所の建設が明治四十一年に始まり同四十四年竣工した。取入口は、旧国境橋付近で沈床式であった。

「細入村史」
大正三年八月大水害があり各地で被害が続出した。この第一発電所の導水路も各所で決壊や山崩れで相当期間休止したのを契機に大正五年、同第二発電所の建設に着手し、八年六月完成した。(出力九千五百KW)この第二発電所の取入口は吉野と対岸の片掛地内に川倉式による自然溢水堤が設けられて取水した。
今まで、この急流の大きな河川をせき止める事など夢想もしなかったものが現実となり、その驚きと共に川の様相も一変した。古くから飛騨の山々に産する杉・檜等を富山方面へ運搬する唯一の方法として、川に丸太を流し木流し人夫がその上を渡り歩き巧みに丸太を操って川下りをしていたが、この堤の実現で一度川から引き揚げ再び下流へ流すという作業となり大変だった事と思われた。
この作業は高山線の開通又トラック等の普及から昭和の初期でその姿を消した。更に魚類にとってもこの人口障害物に阻まれ容易に上がることが出来ず付近に滞留するようになる。特に鮎の時期になれば大群をなして上がってくるので川一面が魚で真っ黒になり、浅瀬にまで押寄せるので手づかみ或いは笠、帽子等でも容易に獲ることが出来た。川べりでその様を見るだけでも壮観だった。但し、ここは禁漁区で法的には捕獲はできなかった。又上流へ魚をのぼらせるため岐阜県から監視員が常駐して見張っていた。なお、これより下流一里は良好な魚場で吉野、片掛地区には多くの漁師がいて、鱒、鮎、鮭等を獲って生計をたてていた。

「細入村史」
昭和二十九年、現在の神一ダムの完成により川倉はその使命を十分果たし永遠にその姿を再び見せる事もなく静かに湖底に眠っている。往時を偲び、感無量である。
「郷土研究大沢野町 ふるさと下夕南部」 野菊の会編