伝えたいお話あれこれ 神通川にダムができた頃のお話3
神通川第一発電所突貫工事のエピソード
コンクリート打ちが始まった冬場は、寒暖計が氷点下四度にも下がり、荒れくれ男たちは寒さに震え上がる。現場では「このままではコンクリートが凍ってしまう」と悲鳴に近い声が飛び、作業員はコンクリートにむしろをかぶせ、水蒸気で氷を解かすなど、さながら戦場を思わせる日が続いた。
作業員の一番の難業はダムと発電所をさえぎるようにそびえ立った庵谷峠。片掛にあった合宿所から発電所へ行く作業員はどうしてもこの峠を越えていなかければならない。自動車など会社に一、二台しかない〝歩け歩け〟の時代だから大変。二時間もかかる峠越えを強いられる。着いたときは汗びっしょりで、ひざがわなわなしてしばらくは仕事にも就けない疲労ぶり。そこで考え出されたのが、同峠下を貫く国鉄高山線のトンネル利用。「二時間かって峠を越すより汽車のトンネル(約千メートル)をくぐっていった方が早いぞ。時刻表で通貨時間を調べておけばあぶなくないだろう」。衆議一決、作業員らはトンネルのくぐり抜けを始めた。ところが、時刻表を入念に調べて歩き始めたのに富山方向から猛煙を立てた汽車が来るではないか。
「壁にからだをくっつけろ!」だれかが叫ぶとみな一斉にからだを壁に密着させた。ゴオーとの音とものすごい煙、あたりは真っ暗。顔・背中には油汗がにじむ。間一髪のところを真っ黒な煙を上げて蒸気機関車が走り過ぎて行く。時刻表にない列車、臨時列車の通過だったのだ。「最初のうち汽車が通ると怖くてね。トンネルの外に出るとまた大変、からだ中が真っ黒。慣れてくると汽車の恐怖もなくなってきた。トンネルを通るようになってからは二時間の峠が二十分でこえられるようになりました。現在だったらあぶなくてとてもできないですが、当時は〝ダムをつくりたい〟の一心で、今思えばぞっとすることもやれたんでしょぅね」当時ダム建設に携わった内田好人北電富山支店土木計画担当課長や土木課氷見省三さんは振り返る。
昭和五十一年五月十六日付 北陸中日新聞 「川は生きている」