片掛に残る伝説・民話 その3
片掛銀山発見の逸話 今をさかのぼる三百八十年ほど前の天正(一六世紀末)のころ、この片掛の村へ、とつぜん、くっきょうな野武士姿の主従数人が、峠を越えてやって来て、宿を求めた。 翌朝、宿を出たこの男衆は、洞谷の口でザルや長おけで、谷川の土砂をかき回しながら、すくい上げ、何事かを語りあっていた。

不思議に思った村の衆は、はなれた場所から、おそるおそるながめていると、この大男たちは大声で、「あった、あった。出た、出た。」とさけんだ。
その後、しばらくして、宿へ帰った男衆は、宿の主人に「すぐ村の衆を集めてくれ。用件は見てからだ。」と、息をはずんで、こん願した。
主人は、半信半疑で、村中に伝えたところ、あまりに急なことではあったが、そうとう陽が昇ってから、集まって来た。

親方様のいかめしい大男は、「お前たちに、いいことを教えてやるから、よく聞け。この山に金・銀が、いっぱい出る。これは、今朝とってきたその実物だ。すぐ帰って、家にある銭をみんな持って来い。村中で十貫文ほど集まったら、われわれにあずけることだ。われわれは、その銭で山をほり、あとで、そのあずかった銭を、何層倍にでもして返してやる。実は、われらは、おそれおおくも家康公の命でここへ来たのだ。ここには、金・銀が山ほどねむっているのだ。しんぱいご無用。すぐ家へ帰って持って来るのだ。」と、谷で見つけた金・銀のかたまりらしいものを見せて語った。
これを聞いた村人たちは、くめんして銭をあずけたところ、親方とともの者は、すぐ飛騨へ向かったが、うち二人はしばらく村に残って、毎日、山見を続けた。
飛騨の茂住で、また、片掛と同じやり方で、かね山を見つけ、大きな山師となった。これが、後の茂住宗貞(もずみそうてい)であった。
その後、まぎれもなく銀がほり出され、寛文(一六七〇年)のころは、下町かいわいに三百戸の家が建ちならび、かまどのけむりが、たえなかった。
【昭和二五年の正月、桑山清輝氏が猪谷中学校の社会科歴史教材を収集の際、水戸豊之助氏(当時七六歳)が、片掛銀山発見について語った内容】
伝説出典「細入村史」