水彩画で綴る  細入村の気ままな旅人 旅日記

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熊野古道を歩く 4

第2日目 その3 三越峠~近露

 雨が降り続く中、次のポイントへ進む。ここからは下り坂である。下りがあるということは次には上りがあるということが周りの様子から察知された。とにかく周りはすべて高い山並が続いている。大変な道を歩いていることがやっと分かった。パンフレットで調べても近くに人家はない。バスの通る道もここからまだ3時間近くかかる。ここでもし何か身に起こったらどうなるのか、不安な気持ちを抑えて、自然道を進む。雨が強くなってきた。

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次のポイントが見えて来た。湯川王子である。「ここは参詣道の要地で院政期には上皇や貴族が宿泊や休息をし、川でみそぎを行った」とパンフレットには載っていた。ここで宿泊するには食べ物はどうしたのだろうか。近くの村といってもかなり離れているので、その当時にしても大変なことだったのではないだろうか。

 
 雨がだんだん強くなってきた。このままだと濡れねずみになりそうである。そう思いながら歩いて行くと、向こうから二人連れの若者がやって来る。雨具を用意していないようで、すっかり濡れている。挨拶を交わし、どこから歩いて来たのか尋ねると「野中の一本杉から3時間近くかかってここまで来た」と教えてくれた。この雨の中これから本宮までも3時間はかかる。どうしよか若者たちは迷っていたが、戻るにしても3時間はかかる。若者は意を決してそのまま本宮めざして歩いて行くことにしたようだ。

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 ここから再び山道は厳しい坂になった。再び、進んでは休み、進んで休みの歩行になった。20分ほど進んだ所に地蔵様があった立て札には「おぎん地蔵」と書かれている。案内板には次のように書かれていた。「むかし、初めて京都に遊んだこの村の若者が馴染んだ女おぎんについて両親に許しを得て婚姻することになり、この吉報を聴いたおぎんは迎えを待たず一人旅を急ぎ、ようやくこの地にたどりついた夕暮れ、常に旅人を襲う悪党のために、哀れこの野辺の露と消えた。若者一家里人は彼女の死を哀れみ、篤く弔いはかりごとを以って二人組を誘い出し仇を討った」。残酷な話がこの小さな地蔵に伝わっていることを知った。今でも小さな地蔵は、この熊野古道の中の険しい峠の番人として旅人の安全を祈っているのかも知れないと思った。その先も道の険しさは変わらず休み休みの歩行が続く。30分かかってやっと岩神峠に着く。ここに次のポイントの岩神王子があった。

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  峠で一休みした後、出発。ここからは下り道だが、道は細く、右下が崖になっているので危険を感じながらの歩行になった。途中からは道が崩れ、かなり歩き難くなる。樹木が倒れているところもある。道を改修している様子だ。峠を下り終えた所で林道に出た。とそこに1台の小型トラックがやって来て止まり、二人の村人が下りてきた。挨拶を交わす。この人たちは、今年の秋の台風で木が何本も倒れ、道が崩れてしまったので古道を修理している人たちだった。今日は二組の二人連れがここを通って行き、私が三組目であること、近露までは2時間ほどかかること、これからの道はとても楽に歩けることなど教えてくれた。山の中を一人で歩いていて、人に会い、いろいろ会話をすることは本当に楽しいし、それまでの疲れがすっと抜けてしまうものだとこの時も感じたこの村人は近露の人で、近露にはいい温泉があるからぜひ泊まっていってはどうかとも勧められた。





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 親切な村人と別れ、今日三つ目の峠、草鞋峠越えに入った。この峠は坂は厳しいが距離が短いので15分ほどで上りきることができた。案内板があり、草鞋峠について説明がある。読んで行くと最後の所に「この付近の山道は、蛭降峠百八丁といわれ、山蛭に悩まされたところ」と書かれていた。蛭という言葉を見てぞっとした。以前三重県にある入道ケ岳に夏登山したことがあるが、その時、道という道に蛭がいて、蛭を振り払いながら歩いたことがあり、それ以来蛭は大の苦手になってしまった。蛭という言葉を聞いただけであの時のことが思い出されてしまうほどになってしまった。熊野は雨が多く、高温なので蛭がたくさんいても不思議ではないと納得したが、夏はとても歩ける場所ではなさそうである。やって来たのが冬でよかったと安心しながらも歩みは自然と速くなってしまった。

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 しばらく進むと道は舗装道路になり、とても歩き易い。この道の下に国道が走っている。小広王子という標識が見える。この近くにバス停があるようだ。この分なら近露には3時過ぎには着けそうである。舗装された道をどんどん下って行く。雨もすっかり上がり、遠くの山並が美しい。道は自動車道なのだが、なぜか車が一台も走っていないのがとても不思議である。しばらく歩いたところにみごとな桜の木があった。秀衡桜というのだそうだ。

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 この桜には次のような話が残っている。「奥州平泉の覇者、藤原秀衡が夫婦で熊野詣でにきたとき、懐妊中の妻が産気づき、岩屋で男の子を産んだ。しかし、五身王子が夢枕にあらわれ、熊野参詣を急ぐよう告げる。熱心な熊野信者であった秀衡は、妻をせかせて、足手まといになる赤子を置き去りにして道を急ぐ。その途中、この野中の地で、桜の枝を折り、他の木に挿して『子死すべくはこの桜も枯れるべし、神妙仏陀の擁護ありて、もし命あらば桜も枯れまじ』と占った。三山の参詣をすませ、ふたたびここを通ると桜の色香は盛りのごとくであった。秀衡夫婦が驚いて岩屋にもどると、狼に守られて元気に育った赤子がいたという」春には美しい花を咲かせ、桜見の人たちが大勢訪れる場所なのであろう。

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 その桜から100mほど離れた所に継桜王子がある。立派な神社になっていて、鳥居の両側にすごい大木の杉が10本近く生えている。「野中の一方杉」と呼ばれ、一様に南向きに枝を伸ばしていることから熊野三山信仰と結び付いているという説明がある。この中で最大のものは幹周りが8mもあり樹齢800年という。あまりの太さと高さがありとてもカメラに修めることができなかった。この王子の前の崖下には日本名水百選の「野中の清水」があった。

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 この辺りは景色もよいことから観光客がたくさん訪れる場所のようで、昔風の藁葺屋根の茶屋も設置されていた。中を覗くと大掃除の真っ最中だった。

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 ここから近露まで後3kmほどになった。確実に3時過ぎには到着できそうである。近露の方向を見ると雲の間から日が差し、幾重にも重なった山並を映し出していた。朝、熊野本宮の上にある伏拝王子から眺めた景色とよく似た墨絵のような景色が目の前に広がっている。はやる気持ちを抑えて、カメラのシャッターを切った。

 3時10分近露王子到着。この町は熊野古道中辺路の中間点としてその昔は旅篭が30軒以上もあって栄えた町だそうだ。現在も旅館や民宿、ホテルなどがあり、いいお湯も出るということだ。今回の熊野古道歩きはここで終了することにした。今日は紀伊田辺に泊まり、明日名古屋へ帰ることにした。バスの時間を見ると、4時17分まで1時間近く待たなければならない。少し町の中を見学することにした。川の近くに少しおもしろい形をした建物が立っている。熊野古道なかへち美術館という案内があるので入ってみる。地元の画家の作品が展示されていた。渡瀬凌雲という人の日本画はなかなかスケールがあって素晴らしいものであった。中も大変立派であったが、見学者は私一人であった。この建物は町が作り、町が運営しているものだそうだが、ゼネコンだけが喜んだ建物のように私の目には写った。


[ 2012/12/23 08:25 ] ふらり きままに | TB(0) | CM(0)
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プロフィール

細入村の気ままな旅人

Author:細入村の気ままな旅人
富山市(旧細入村)在住。
全国あちこち旅をしながら、水彩画を描いている。
旅人の水彩画は、楡原郵便局・天湖森・猪谷駅前の森下友蜂堂・名古屋市南区「笠寺観音商店街」に常設展示している。
2008年から2012年まで、とやまシティFM「ふらり気ままに」で、旅人の旅日記を紹介した。

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