第2日目 萩原宿から大垣宿へ 午前7時自宅を出発。7時20分金山着。特急電車で一宮へ。一宮で7時50分発の津島行き普通電車に乗り換え8時に萩原駅に到着した。
今日も天気は晴れ。昨日は風が強かったが,風もなく,とても穏やかな朝である。駅から少し西に行った所に萩原の町があった。商店街が道の両側に並んでいる。大売り出し中なのか飾りが張り巡らされているが,休みの朝なので人通りは全くない。

一宮市から尾西市に入った。街道沿いには旧家が残っている。歩いていて「カッシャンカッシャン」という音があちらこちらの家から聞こえて来る。織機を動かす音だ。尾西市は織物の町ということを子どもの頃社会の勉強で習ったことを思い出した。道で農作業をしている人がいたので,織物のことについて尋ねると親切に教えてくれた。だいたい1軒には5~6台の織機があって,今は来年の夏物を織っているということだった。最近は高速織機を入れる家が増えてきているという。しかし,後継者がいなくて,織機を持っている家がどんどん減っていて,多くの家では老人が織機を動かしているとのことだった。深刻な課題を抱えているようだった。この美濃路を私のように歩いている人はいないかも尋ねたが,そのような人を見たことはないとの返事だった。
冨田の一里塚前を通る。この一里塚は道を挟んで二つの塚が残っている。そしてその塚には見事な榎の木が生えていた。愛知県内にある一里塚で二つの塚が残っているのは,旧東海道豊明にある阿野一里塚だけである。冨田一里塚は国の史跡に指定されていた。

冨田一里塚から50mほど先に大きな道標が立っていた。「左 駒塚道」という文字が刻まれている。この先の木曽川を渡って岐阜県の駒塚まで行く道を指しているのだという。この辺りは江戸時代は低湿地帯でいろいろな所に渡し場の跡が残っていると老人が教えてくれた。現在も木曽川の渡し船が残っている所がこの近くにあるということだった。機会があったら乗ってみたいものだ。
起宿に到着。旧い町並みが残る小さな町である。尾西市の歴史民族資料館が脇本陣の旧家を使って開設されていた。残念ながら日曜日と祝日は休館ということで見ることはできなかったが,尾西市は歴史の保存に力を入れているようだ。ここから美濃路は木曽川を渡る。起宿には渡し場の跡が残されていた。

濃尾大橋を渡る。歩道がきちんと付いていて歩き易い。空を見上げるとプロペラつきのパラグライダーが飛んでいる。木曽川の緩やかな流れの上を飛ぶ気持ちはどんなだろう。見ているとパラグライダーは川原に着陸した。川原を飛行場として利用し,趣味を生かしている人がいることに感心した。それにしても,凄い趣味を持っている人がいるものである。

濃尾大橋を渡った所に起渡船場石灯台が残されていた。とても見事な灯台である。岐阜県指定の史跡になっているという。墨俣宿へはここから8km。今は10時過ぎ。昼には到着できそうである。
不破の一里塚跡の前を通る。この一里塚跡は羽島市立正木小学校の前にある。今まで道を歩いていて学校の前に一里塚があったり,松並木があったり,道標があったりしている所が幾つもあった。歴史を子どもたちに伝える貴重な遺産があるということは,きっとその学校では教材に生かす取り組みが行われているのではないだろうか。
間の宿跡を通り,街道の両側が広い田圃になった。長良川と木曽川に挟まれたこの地域は,昔は低湿地帯で洪水に度々見舞われた所であるが,今では有数の穀倉地帯になっているようだ。
境川の堤防を上る。堤防の上が街道になっていて,土手には桜が植えられている。堤防の上から境川の緩やかな流れを見ながら歩く気分は最高である。川原が公園になっていて子どもたちがサッカーの試合をやっているのも見える。春や秋にはきっとこの道を歩く人が多いのではないだろうか。大きなイチョウの木の前に西小熊の一里塚跡があった。その横に「減量ウオーク健康街道」という表示がある。やはりこの道はたくさんの人が歩いているようだ。
長良川がすぐ近くになってきた。小熊大橋を渡り反対側の土手を歩いて長良大橋に向かうことにした。境川の土手を歩き出して思わず足が止まった。水面にたくさんの水鳥が群れているのが見える。鳥たちが羽を休める場所になっているようだ。早速カメラを取り出してシャッターを切った。周りの風景もなかなか趣がある。対岸の河原にはススキが一面に白い穂を光らせていた。ふと足元を見るとカラシナが黄色い花を開いていた。この時期にどうしてカラシナが咲いているのか,本来なら春に咲く花である。とても不思議で,思わず座り込んでシャッターを切った。道を少し変更したことが思わぬ発見につながり,気分は最高であった。結局30分近くそこでシャッターを切っていた。
長良大橋を渡る。新しくできた橋である。歩道が両サイドに作られていて,大変歩き易い。川の向こうに墨俣城が見えてきた。実に立派な城である。この城も清洲城と同じく,つい最近建てられたようだ。全体がまぶしく光り輝いていた。12時ちょうどに墨俣宿に到着した。食堂を見つけて中に入りラーメンを食べた。
12時30分食堂を出発。墨俣城を見学する。歴史的には墨俣城は一夜城として作られたもので木と石を組んだ砦のようなものであったらしい。このような立派な城でなかったことははっきりしている。墨俣城と銘打って存在しているこの建物をどう理解したらよいのだろうか。私が今回,街道歩きの参考にしている「新川みのじ会」が作った「美濃路」という本にも,この城のことは何も触れてはいなかった。ここに来て初めてこの城があることを知ったのである。誤った歴史を伝えてよいのだろうかと思った。墨俣からは犀川の堤防の上が街道になっている。その道を歩いて行くと大きな道標が立っていて,「谷汲山道」と刻まれていた。以前,垂井宿から加納宿へ向けて中山道を歩いていた時に,谷汲山の方向を知らせる道標を幾つも見たことを思い出した。この道標はその中では一番大きなものだった。

東結の一里塚跡の前を通る。安八町の史跡に指定されていると表示されていた。墨俣町から安八町に入ったようだ。安八町といえば以前,長良川の堤防が切れて大洪水になった時に大きな被害が出た町である。この辺りはその時に大きな被害があった所なのだろうか。

縁結びの結神社の横を過ぎると,揖斐川の堤防が見えてきた。堤防の上り口に水屋が残る旧い農家があった。やはり昔からこの辺りは川が氾濫し,この様な水屋を備えた農家が多かったのだろう。街道はここで行き止まりになっていた。ここが佐渡りの渡し跡とのことだ。私はここから迂回して新揖斐川橋を渡ることにした。新揖斐川橋への道が少し分からずにうろうろしていたら,放し飼いの大きな犬にまとわりつかれてしまった。噛みつかれはしなかったが,本当に冷汗をかいた。街道を歩いているとこういうハプニングもあるものだ。
揖斐川を渡って大垣市に入った。時間は14時。スピードを速めれば垂井宿まで行けないこともないが,今日の旅の終点は大垣とした。今宿の立場跡近くで,南の方角にとてつもなく高いビルが見え出した。広い畑の中にそびえるその建物はバブルを象徴するような建物で異様な感じを受けた。会社なのかマンションなのか。車を洗っている人に「あれは何ですか」と尋ねると「大垣市の総合体育館でコンピュータ関係の学習もできる施設が入っている」と教えてくれた。この建物が都市の中にあれば別に異様さを感じないのだろうが,畑の真ん中にあったことで,そのように感じたのかもしれないと思った。しかし,市民の税金をゼネコンにつぎ込んだ建物であることには違いないと思った。
15時大垣城に到着。大垣は水の街として有名である。大垣城への道はずっと川の横を歩いてきた。太陽が少し西に傾き出した大垣城を見ながら,この町は次回ここから垂井宿まで歩く時にもっと詳しく見学したいと思った。